31 驀進康介とリーダーの責任【2】
東京都と神奈川県の県境を流れる広大な一級河川・多摩川の北岸に、狛江市は小さな市域を持っている。なんでも市の面積の狭さは都内最小かつ全国でも二番目、人口密度は全国四位なのだそうだ。都市化が進んで一面の高密度な住宅街に化けた狛江の町も、ほんの二百年ほど時をたどれば、のどかな畑地の広がる農村地帯だった。戦国時代の史料にも狛江一帯の地名が登場していることから、少なくとも五百年以上にわたり、このあたりに人々が定住して村や町が形成されていたことが読み取れる。もっと時代をさかのぼれば、狛江百墳と呼ばれるほど多数の古墳が築かれた痕跡も見つかっているらしい。
狛江という地名の由来は諸説あって判然としない。飛鳥時代に移り住んできた朝鮮半島由来の渡来人によって名付けられたとか、かつて暴れ川として知られていた多摩川の流路の湾曲から名付けられたとか、いずれにしてもかなり昔に形成された地名のようだ。他にも「等々力」やら「砧」やら「飛田給」やら、この多摩川周辺には読み方さえ分からない難解な地名が多い。そしてそれはとりもなおさず、それぞれに由来となる背景や物語が根差していることをも意味する。
康介たちの住む狛江市南東の多摩川沿いは、町名でいえば「駒井町」や「猪方」に当たる地区だ。岩戸小が立地しているのも駒井町一丁目。本物の岩戸地区は水道道路を挟んだ向こう側の一帯にあるので、現状、岩戸小は「岩戸」を名乗っているのに岩戸地区に立地していない歪な状況にある。反対に岩戸地区には小学校が一校もない。かつて岩戸地区に建設された小学校が、より広い校地を求めて駒井地区へ移転し、便宜上名前をそのままにしたというのが真相のようだ。地名としての「岩戸」が史書にあらわれ始めたのは中世の頃で、その歴史は「狛江」よりも長い。あたかもその深い由緒を証明するように、市境を挟んだ隣の世田谷区喜多見には、おなじく岩戸地区に属さないにもかかわらず「岩戸」を名乗る寺院、岩戸山永劫寺が存在する。地名は地域の象徴であるとともに、無数の歴史を抱え込んだロマンの塊なのだ。
──なんて、康介はちっとも思わない。
そう書けと姉に指示されたから、書いた。
「書き終わった?」
「そろそろ書き終わった?」
「もう書き終わったでしょ」
苛立ち気味に頬杖をついたまま、姉──すみれは繰り返し康介に催促した。仕上がった大判の紙を開いてすみれに見せると、姉はぐったりと両腕に顔を埋めた。
「やっと終わったか」
「サンキュー、姉ちゃん。姉ちゃんのおかげで自由研究あっという間に終わった」
「二度と手伝ってやんない……。マジ、一日がかりでこんなもん手伝わされた私の身になれよな。こっちは昨日部活の合宿から帰ってきたばっかりなんだけど」
「なー、次は算数のワーク手伝ってよ。まだ一問も解き終わってないから全部やって」
「死にたいの?」
すみれの目が本気の殺意をはらんでいる。康介は慌てて「やっぱおれがやる」と宿題を抱え込んだ。こんなことで早死にするのは御免だ。つい昨日、すみれの外泊中に勝手にゲームの攻略を進めていたことがバレてヘッドロックをかけられ、危うく死にかけたばかりなのに。
午後一番の市立中央図書館は空いていて、読書調査室のテーブルにも資料を広げ放題だった。しんと冷えた静謐な空気を、冷房のモーター音が淡々とかき回している。地域資料のコーナーから集めてきた何冊もの本を、すみれは「こんなもん自分でやれっての」などとぶつくさ言いながらまとめて積み上げた。
「ほら、さっさと帰るよ。家まで遠いんだから」
「うん」
促されるままに康介も席を立って、書き上げたばかりの壁新聞を折り畳んだ。貼り付けた写真やふきだしが、畳んだ紙の内側でべりべりと音を立てた。本当はこんな調べ学習なんかより、遠くの山に出向いて昆虫採集でもしてみたかったけれど、残念ながら今の康介には時間がない。30人31脚の練習やプールで、平日はすべて潰れてしまうから。
すみれがいなければ自由研究はできなかった。
これでもいっぱしに感謝はしているつもりだ。
ひとりで何でもやれたら苦労はない。だけど現実には、ひとりじゃできないことの方が多い。30人31脚だってその一つだ。そもそも複数人が足を繋いで走るからこそ二人三脚なのであって、そこでは相互協力が大前提になる。互いに協力する気もない人間は、30人31脚どころか二人三脚のスタートラインにすら立てないのだ。少なくとも、理念上は。
「マジ暑い……」
図書館を一歩出るや否や、すみれが嗄れ果てた声で呻いた。逃げ場のない猛暑が全身を包んで、康介まで呻きたくなった。目の前に建つ高層の市役所が少しばかり地面に影を落としていたが、この暑さでは焼け石に水だった。
「ありえんわ、ここから家まで一・五キロも自転車こぐとか……。隣町の市役所前にしか図書館がないなんて完全に失政でしょ。図書館の方がうちに来いよ」
「それ、目の前の市役所に言いに行ったらいいじゃん」
「やだよ。面倒くさいクレーマーみたいだもん。私そんなヤバい奴になりたくないし」
今の時点でも十分ヤバい奴だと康介は思ったが、まだ死にたくないので何も言わなかった。
「ほんとさ、康介たちもよくやるよね。この炎天下で30人31脚だか何だかの練習なんて」
自転車の鍵を取り出したすみれが、ストラップを振り回しながらつぶやく。
よくやる、という言葉の意味を康介は噛み砕きそこねた。一生懸命に頑張っている、という意味か。成果を出しているという意味か。後者の意味なら、一組は成果を出せていないから当てはまらない。前者の意味だとしても、きっと多くの子は当てはまらない。惰性で練習に取り組む子、しょっちゅう練習を休む子、文句ばかり言ってサボりたがる子──。一組はいまだにそんな連中の寄せ集めだ。もちろん実行委員たる康介は頑張っている。誰にも負けないくらい走り込んでいるし、ミーティングでも積極的に発言している。だから誰にも文句を言われる筋合いはない。
──『だって楽しくなかったらやる気も出ねぇし』
──『楽しくない練習なんかやってらんない』
──『もうちょっとさ、楽しく練習できるような方法とか思いつかないの?』
仲良しの男子たちが耳元でささやく。
康介は頭を振って彼らを追い出した。楽しいってそんなに大事かよ、と叫びたかった。確かに夏海や桜子のバトルは見ていて気持ちいいものじゃない。けれども練習にきちんと集中できていれば、あんなものに心を惑わされることだってないはずだ。
康介は速くなりたい。
全員で五十メートルを走れるようになりたい。
みんなもそう願っているんじゃないのか。
「姉ちゃん」
すみれの背中を見上げたら、すみれは「何?」と声だけを返してきた。
「姉ちゃんはさ、部活で楽器やってんだろ」
「やってるけど」
「じゃあさ、楽しくない練習ってやる気なくなる?」
何言ってんだ、とばかりにすみれは勢いよく自転車へ鍵を差し込んだ。
「当たり前じゃん。練習なんて楽しいに越したことないでしょ」
「……そっか」
康介も鍵を差し込んだ。かちゃん、と切ない金属音がこだました。
すみれは吹奏楽部の中でも指折りの実力者だと聞いている。聞いている、といっても本人の口からなのだが、いずれにしても半端な気持ちで楽器と向き合っているわけじゃないことは、毎晩遅くに帰ってくる姉の姿を見ていれば察しがつく。そのすみれが、楽しくない練習は歓迎しないとほのめかした。
みんな、そうなのかな。
急に自信が消え失せて、地面を蹴る足が重くなった。
「何を思いつめたような顔してるわけ」
赤信号でブレーキをかけたすみれが、康介の顔を器用に覗き込んできた。「なんでもねーし」と康介は下手くそに言い逃れた。
「なんでもなかったらそんな顔しないんだよ康介は。姉ちゃんを舐めんな」
「うるさいな。姉ちゃんに関係ねーもん」
「へぇ、せっかく姉ちゃん様が話を聞く気になってやってんのにそういうこと言うんだ」
姉ちゃん様、などという尊大を極めたような一人称の可笑しさに、康介はちょっぴり頬の筋肉を緩めかけた。緩んだ口の隙間から、空白を埋めるように物悲しさがなだれ込んだ。30人31脚の練習を始めて以来、心から笑えたことって何度あっただろう。厳しい練習と引き換えに向上してゆくタイムを見て、みんなは、先生は、笑っていただろうか。もっと速くならなきゃ、もっと長く走れるようにならなきゃと、気を引き締めていたんじゃないか。
それが普通だと康介は思ってきた。
けれどもそれは、普通じゃないのかもしれない。
「……みんながさ、楽しくない練習なんかしたくないって言うんだよ」
誰に聞かせるつもりもなく、つぶやいた。たまたま聞きつけた姉が「ふうん」とうなった。
「でもさ、練習なんて楽しくないじゃん。楽しくなくても頑張らなきゃいけないから頑張るんじゃん。おれっておかしいのかな」
「おかしくなんてないと思うけど」
すみれは逡巡も挟まずに即答した。
「でも、少なくともおれの友達はそうじゃなかったんだよ」
「何十人もいるんだから色んな考え方の子がいて当たり前でしょ。康介みたいに真面目に練習を頑張れる子もいれば、その友達みたいに楽しくなかったら練習できない子だっているんだよ」
「だけどそれじゃ、一緒に練習なんてできっこねーじゃん」
「みんながみんな康介みたいに真面目じゃないと練習にならないって言いたいわけ?」
鋭い指摘に康介は口をつぐんだ。まぶしい日差しを鬱陶しげに手で避けながら、すみれは「そんなの無理でしょ」と畳み掛けた。
「康介だけのチームじゃないんでしょ。だったらみんなの気持ちもちゃんと聞いて、尊重しないと。バラバラの意見をまとめて、みんなが望むようなやり方を見つけるのが、康介たちみたいなリーダーの役目。チーム運営ってそういうもんだよ。別にお互いの考え方をすべて理解する必要なんてないんだから難しくないでしょ」
いまの康介には、すみれの言っていることを上手に咀嚼するのは難しかった。理解することと尊重することって何が違うのだろう。そもそも尊重するって、具体的に何をすればいいのだろう。自分の取るべき行動の具体例が少しも浮かんでこない。確かに分かったのは『康介だけのチームじゃない』という部分だけ。
そうか。
だから今までみんな、康介の訴えを真剣に受け取ってくれなかったのだ。
康介は康介の価値観に立って、康介の思う「こうすべき」を叫んできた。練習への参加率の低さを嘆いては、「ちょっとプールの前に走るだけだ」といってみんなを鼓舞した。でも、それは結局のところ、康介なりの正しさの押し付けでしかなかったわけだ。康介の側がみんなを理解しようとしなかったのに、みんなが康介の考え方を理解してくれるなんて虫が良すぎたのか。
「……じゃあ、どうしろっていうんだよ」
走り出した姉の背中を負ってペダルを漕ぎながら、康介はぼやいた。
風の向こうから「言ったじゃん」とすみれの声がした。
「みんなの意見を聞いてみなよ。楽しい練習がしたいとか、そもそもあんまり練習したくないとか、きっといろんな意見が出てくる。それを突っぱねたりしないで、みんなが納得できるような練習方法はないかって考えてみるわけ」
「ないかもしれねーじゃん」
「なかったらなかったで、みんなを一生懸命に説得するしかないんじゃない。それがリーダーの責任ってやつでしょ」
投げやりな口ぶりの割に、姉の声は硬かった。
まるで自分の胸にも聞かせるみたいに、すみれは前方だけを睨んでいた。
「覚えときなよ。実行委員を名乗ってみんなの先頭に立つなら、それ相応の覚悟が要るんだ。みんなの痛みも悩みも苦しみも何もかも、ぜんぶ受け止めて寄り添う覚悟がさ」
「九人だってバカにすんなよ。精鋭揃いなんだぞ」
▶▶▶次回 『32 驀進康介とリーダーの責任【3】』




