29 直向佑珂と臆病な心の壁【5】
佑珂を突き飛ばして以来、桜子は練習から姿を消した。
明日乃の口ぶりでは、塾の夏期講習にも来ていないらしい。
佑珂は約束を守ることに徹した。桜子と校舎裏で揉めたことも、つい立ち聞きしてしまった彼女の事情も、誰にも話さなかった。プールに来なかった理由を叶子に尋ねられた時は「夏休みの宿題ぜんぜん進んでなかったのを思い出した」などと嘘をついた。クラスで一番の仲良しにさえ、こうして嘘をつかなければ生きてゆけない。そりゃ土井さんに信頼されるわけもないよね──。じゅくじゅくと痛みを深める胸の奥に、腐りかけの本音を隠して蓋をした。
まる一週間が経った頃、桜子はようやく朝の校庭へ姿を現した。
「久しぶりー!」
「塾もサボって何してたのさ!」
「風邪でも引いてたわけ?」
冷やかし半分で声をかけに行った仲良しの女子たちを、桜子は冷たい一睨みで黙らせた。以前にもまして彼女はとっつきにくく、寡黙になっていた。徹底して無言を貫き続けた桜子が初めてまともに声を発したのは、トレーニングを終えて二人三脚を始める流れになったときだった。前に進み出た朱美が、全員ランの新たなフォーメーションを発表したのだ。
「復帰早々で悪いけど、今日から桜子ちゃんと明日乃ちゃんの位置、入れ替えようと思うの。つまり桜子ちゃんは夏海ちゃんの隣ね」
「なんで!? 意味わかんない! 理由を教えてください!」
説明を聞くや否や、桜子は絶叫した。夏海も白目をむいた。「その方が全体のバランスがよくなるからね」と、朱美は動じるそぶりも見せずに言い切った。
大嘘だ。明日乃と桜子は体格も速力も大差ないから、交換したところで何の意味もない。すべては朱美自身の思い付きだった。佑珂や叶子の話を聞いて、桜子と夏海の対立がチームに悪影響を与えていることを知った朱美は、練習の合間に実行委員や理紗先生を集め、フォーメーションの変更を提案したのだ。あえて問題の二人を隣同士に配置し、二人三脚から徹底的にやらせたいと彼女は言い出した。そんなことをしたら桜子までチームを抜けてしまう──。佑珂も叶子も猛反対したが、まるで聞き入れてもらえなかった。
「あの子はそこまで子供じゃないよ。本当に向き合わなきゃいけない問題に直面したときは、ちゃんと向き合う気概のある子だと思ってる。だから大丈夫、この私に任せなさい!」
そういって彼女は本当に二人をくっつけてしまった。
この荒療治が果たして吉と出るか、凶と出るか。はらはらしながら佑珂たちは成り行きを見守った。いざ二人三脚の練習が始まるや、それまでの不気味な静けさが嘘のように桜子は夏海といがみ合いを始めた。
「ほんっと有り得ない……。最悪。こんなのと一緒に走るなんて金輪際イヤ。30人31脚なんか辞めてやろうかな……」
「そんなにいうなら辞めれば? 土井が抜けてもあたしらは何も迷惑しないけど」
「言ったな? あとで本当に言いに行くから」
「よかったよかった。土井がいなくなったおかげでせいせいする。真面目に練習する気もないやつと一緒に走りたくないもんね」
「へぇ。そういう上原は当然、誰よりも真剣に練習してたんだろうね」
「舐めてんの? 少なくとも土井よりは真剣にやってたんだよこっちは。土井たちが塾だのなんだの言って練習サボってる間もね」
「はぁ? 記憶力死んでんじゃない? うち、今まで一度も塾を理由に練習サボったことないんですけど」
いわれてみれば、桜子は確かに一度も練習をサボったことはない。取り巻きの明日乃や実華たちがサボりがちだから同じ印象を引いていたのかもしれない。あんな文句まみれの少女でも、不思議と練習態度だけは真面目なのだ。ばつの悪い顔で睨み返す夏海を尻目に、私だって他人事じゃないと佑珂は唇を噛んだ。もしかするとこれまでも、いわれのない先入観で桜子はひとり傷ついていたのかもしれない。そう問いかけたところで、きっと首を縦に振ってはくれないだろうが。
歩幅を合わせろだの、ペースが速いだの、肩をしっかり組めだの、棘まみれの言葉で桜子が毒づけば、すぐさま夏海も負けじと言い返す。もはや絶交宣言は骨抜きもいいところだった。口喧嘩に疲れた桜子が「30人31脚なんか辞める」と繰り返すたび、佑珂たちも本気で肝を冷やした。お願いだからやめて、そんなこと言わないで──。何度も割って入って懇願しようとしたが、そんなことをしても桜子が聞き入れてくれないのは先日の一件で分かり切っていた。
やっぱり私は無力だ。
このチームを守り抜く力なんてない。
なんで実行委員になっちゃったんだろう。もっと強くて、説得力があって、立派な子がなってくれた方が、きっとみんなのためになったのに。
胃のひっくり返りそうな緊張と不安の狭間で、手遅れの後悔を佑珂は噛み締めた。うっすらと血の匂いのする、気分の悪くなるような味がした。それでも懸命に声を張り上げ、がむしゃらに肩を組んで、五十メートル先のゴールを目指して走った。たとえチームの役には立てなくとも、自分の鈍足でみんなの足を余計に引っ張る真似だけは御免こうむる。実行委員としての矜持、いや意地とも言ってよかった。
ここのところ理紗先生は様子がおかしい。練習終わりのミーティングが終われば、すぐさま道具を片付けて職員室へ戻ってしまう。夏休みが始まった頃の理紗先生なら、職員室に戻るのも名残惜しそうに、プールへ駆け込んでゆくみんなの背中を木陰でニコニコ見守っていた。ときにはみんなに声もかけていた。もっともプールに夢中のみんなは、ろくすっぽ先生の相手なんてしていなかったけれど。
今日も先生はミーティングの解散を告げるや、さっさと荷物をまとめてしまった。疲れたー、なんて伸びをしながら、叶子や康介は早速プールへ向かおうとしている。その背中を佑珂は追いかけなかった。
「──ねね、理紗先生」
駆け寄って名前を呼んだら、理紗先生は銃口を突き付けられたみたいに立ち止まった。
「どうしたの佑珂ちゃん。プールは?」
「行くよ。水着だってちゃんと持って来てるもん。先生は来ないの?」
練習ノートを抱える先生の隣に並んで、はにかみながら佑珂は尋ね返した。誘いの言葉をかけるのには勇気と、羞恥心を捨てるための精神力が要る。せっかく頑張って尋ねたのに、理紗先生は「先生は大丈夫だよ」と笑って、そっぽを向いてしまった。
「今日はプール監視員じゃないからね、準備もしてきてないの。今日の担当は二組の北島先生だったと思うよ」
「そっかぁ……」
「……うん。ごめんね」
「先生、最近、元気ないね」
「そう?」
「だって今日、一度も注意しなかったでしょ。練習サボってしゃべってる子のこととか、もっと休みたいーって言ってる子のこととか……」
迷惑に思われているのは分かっていたけれど、佑珂は話しかけるのをやめなかった。しつこく引っ付いて歩きながら理紗先生を見上げると、先生の表情は一目でそれと分かるほどに曇った。彼方の空に湧き上がる入道雲よりも、日差しを照り返す岩戸小の古びた校舎よりも、理紗先生の白い肌は遥かにくすんで見えた。
「……元気がないわけでは、ないかな」
先生の口元がわずかにほころんだ。佑珂の目には失笑したように見えた。
「ただ、やっぱり限界があるなって思っただけなんだ。先生はクラスの支配者じゃないし、なんでもかんでも口出しをし始めたらキリがないかなって。佑珂ちゃんたち実行委員の四人も、監督のお二人も、みんなのことをちゃんと見てくれてるし、みんなも前よりずっと練習を頑張ってくれてるし、先生が出張っていくべき場面も前よりは減ったと思うよ」
嘘だ。佑珂は先生に目線を合わせられなかった。他の項目はともかく『みんなも前よりずっと練習を頑張ってくれてる』なんて絶対に嘘だ。このところ練習の参加者は数日連続で二十人を切っている。逃げ場のない日照りが身体に響くのか、ぐったり座り込んで練習を拒否する子だって何人もいる。そんなとき、出番が回ってくるのは朱美や康介や叶子だ。あの三人が一生懸命に声を張り上げて初めて、みんなは練習に復帰してくれる。全員ランの走行距離は今日、ついに四十メートルの大台を突破した。それもこれもすべてはみんなのおかげだ。少なくとも、口を出す勇気が出せずに突っ立ってばかりの佑珂の功績じゃない。そして同時に、いやに静かな面持ちでなりゆきを見守るばかりの理紗先生の功績でもない。
「……先生、やっぱり、気にしてる?」
佑珂は地面をつま先で蹴った。これだけはいつか、どこかで尋ねなきゃいけないと思った。
「何を?」
「お祭りの日に上原さんと土井さんのケンカを止めに入って、上手くいかなかったこと」
理紗先生は急に立ち止まってしまった。
慌てて佑珂も足を止めた。見ると、先生の薄桃色の唇は強い力で閉ざされていた。不気味に濁った先生の瞳は、たぶん、佑珂の姿を映してはいなかったと思う。命の終わりを叫ぶセミの大合唱と、肌に刺さる強い日差しが、ふたりの居場所をちりちりと焦がしてゆく。
──『邪魔だよ!』
──『どっか行ってよ先生!』
──『いつもいつもニコニコ笑ってるばっかりで何の役にも立たないくせに!』
耳元に桜子の絶叫がよみがえった。
理紗先生も今、同じ声を聴いたんだ。直感的に佑珂は思った。たとえ当の桜子たちが覚えていなくとも、あの日の光景を佑珂は今も胸焼けするほど鮮明に思い出せる。きっと理紗先生も覚えているはずだ。収拾のつかないケンカを道の真ん中で始めてしまった二人、止めるどころか煽り立てる周りのみんな、どうにもできずに輪の外で立ちすくんでいた理紗先生のしなびた背中。
佑珂には分かる。
あれから先生はずっと、しなびた背中のまま生きている。
理紗先生はトラウマを背負ってしまったのだ。教え子のためを思って割って入ろうとしたのに、その教え子に渾身の力で干渉を拒絶されたうえ、役に立たないとまで放言された。桜子の事情なんて何も知らなかった理紗先生にしてみれば、彼女の叫びは心に深い傷を描くのに十分なほど鋭利で、力強くて、無慈悲な刃物だったはずだ。もちろんそれは佑珂にとっても変わらない。あの一件で佑珂の心も、理紗先生のそれと同じくらい深手を負った。そうして今も、透明な血を静かに流し続けている。
「……あのね、先生」
小さな声で佑珂は切り出した。
理紗先生は反応を見せなかった。さてはセミの断末魔にまぎれて聞こえなかったか。負けじと佑珂は声を張り上げた。
「私、先生のこと大好きだよ。先生は私の味方だって分かってるし、信じてる。何の役にも立たないなんてちっとも思ったことないよ。だって、30人31脚を始められたのも先生のおかげだし、練習の準備だってたくさん進めてくれたもん」
「…………」
「あのケンカの日、私、近くにいたのに何もできなかった。ほんとは私のせいでケンカになったのに、怖くて何も言い出せなかった。だからね、割って入って止めようとした理紗先生のこと、すっごくかっこいいなって思ったの。それなのに理紗先生は役に立たないとか邪魔だとか言われて、みんなから嫌な目で見られて……。私、すっごく悲しい。こんなに悲しいのに、弱いから先生に何もしてあげられなかった」
桜子の隠し事を知ってしまった夜、父が教えてくれた。誰かの信頼を勝ち取りたいなら、こちらが積極的に心を開いて、弱みも見せて、信頼のハードルを下げていくのが一番なのだと。心の扉を閉ざされてしまっては、自分の心を預けに行くこともできない。まずは佑珂自身が心を開いてみることだよ──。父はそういって佑珂の頭を撫でてくれた。
佑珂は理紗先生が好きだ。先生が笑っていれば嬉しいし、しょげていれば佑珂だって泣きたくなる。先生の情緒に佑珂はいつだってシンクロしている。だからこそ、理紗先生からの信頼を得たい。苦労や心労をひとりで抱え込んでほしくない。なまじ心がシンクロしてしまうからこそ、理紗先生にはいつだって笑っていてほしいのだ。
「私、諦めないよ」
佑珂は理紗先生を見つめた。
勇気を出す覚悟はできていた。
「私だって先生の味方になりたい。頑張って頑張って、みんなのこと一つにまとめて、30人31脚を成功させる。そのためなら何だってするよ。前みたいに二人がケンカしても、先生の代わりに割って入れるくらい強くなる。そしたら先生も私のこと、ううん、私たちのこと、頼ってくれる?」
「…………」
「そしたら先生も、今よりずっと、笑ってくれる……?」
畳み掛けた瞬間、先生の手が不意に動いた。おもむろに胸の前へ手を宛がった理紗先生は、唇を噛んで、それからうっすらと微笑んで、解き放った手を佑珂の頭に伸ばした。
「優しいね、佑珂ちゃんは」
さらりと撫でながら、先生は静かにつぶやいた。
理紗先生の示した反応はたったそれだけだった。
父のそれとは違う、硬く強張った手つきに、撫でられながら佑珂は首をすくめた。おかしい。勇気を振り絞って本心をぶちまけたはずなのに、こんなにも達成感がない。先生からのレスポンスは十分じゃない。
ねぇ、先生。
ちゃんと聞いててくれたよね。
私、先生の前ではいつでも心を開いてるよ。
土井さんの前では上手くいかなかったけど、きっと信頼に足る子になってみせる。
だから先生も心を開いてよ。そんな寂しそうな顔をしないでよ。頭を撫でて誤魔化すんじゃなくて、言葉に出して教えてよ。先生も私のこと信じてるよ、大好きだよって。
どうして黙ってるの?
どうして何も言ってくれないの?
どうして──私の目を見てくれないの?
理紗先生は無言のまま、佑珂から手を離した。虚無になった頭上に容赦のない日射が降り注いで、なんだか佑珂は泣きたくなった。焼き尽くされた熱気を肺が吸い込んで、胸が痛い。しくしくと透明な血を流している。どんなに佑珂が隣で苦しんでも、真空へ放り出されたような痛みに震えても、理紗先生は慰めの言葉をかけてくれなかった。
代わりに、言った。
「プール、行っておいで」
痛みをこらえて佑珂は「うん」と微笑んだ。
今、理紗先生と私、おんなじ顔で笑ってる。
その気づきがなぜか嬉しく思えなかった。
「あんなのいくらやったって楽しくねぇもん」
▶▶▶次回 『30 驀進康介とリーダーの責任【1】』




