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スタンバイ!! ──岩戸小学校六年一組、30人31脚への挑戦  作者: 蒼原悠
3R 少しでも前へ、少しでも先へ
30/63

28 直向佑珂と臆病な心の壁【4】

 



 ものを捨てるという行為が佑珂は苦手だ。捨てたら最後、くれた人との思い出もまとめて忘れてしまいそうだから。たくさんの誰かと出会い、たくさんのものをもらって、どうにか十二歳になるまで生きてきた自分の過去が、ものを捨てることで根こそぎ失われそうで怖いから。──なんて理由、後付けだ。本当は片付けるのが純粋に苦手なだけ。

 五年生のあいだに受け取ったプリントやテストの紙は、まとめてクリアファイルに入れて棚の片隅に保管してあった。くたびれて何の気力も湧かず、ぼんやりベッドに寝転んで無為な時間を過ごしていると、ふと、ほこりをかぶりかけているファイルの束に焦点が合った。もぞもぞと起き出した佑珂はファイルを取って、取り出した中身をベッドの上に散らかした。つたない字で書かれた大量の答案と、その上に丁寧な字で連ねられた先生からのコメントが、狭い視界をいっぱいに埋め尽くした。

 前任の小原先生はたくさんコメントを書く人だった。解き方を間違えれば解法を、凡ミスをすれば励ましの文句を、ノートの隅に落書きをすれば褒め言葉を、時にはページの裏側にまで達するほど書いてくれた。こんなにもサービス精神旺盛な先生を佑珂は他に知らない。前の学校の先生はもちろん、理紗先生だってここまで丁寧に接してくれたことはない。こんなにコメントを書いてくれるのは、きっと先生が私を大事にしてくれてるからだ。先生は私のことが好きなんだ。鼻高々になって叶子の答案を見せてもらい、そこにも大量のコメントを見つけてショックを受けたのが、今となっては懐かしい。

 それでもやっぱり、嬉しかったな。

 あの頃は信じられていられたから。

 先生は私のこと、誰よりも見てくれているって。私のことをちゃんと分かって、私のためを思ってたくさんの言葉を贈ってくれたんだって。

 ふと広げた一枚のプリントに、ひときわ大量に書き込まれた小原先生のコメントを見つけた。記憶が正しければ、去年の一学期の道徳の授業中に配られたプリントだった。あなたの理想の人物像を考えてみましょう──といって手渡されたプリントに、佑珂は【みんなみたいになりたい】とだけ書いて提出した。転校したばかりで友達もおらず、都会の生活にも慣れていなかった佑珂は、みんなのようになりたかった。みんなに混じって朗らかに笑い合って、手を取って一緒に遊び回りたかった。すると小原先生は普段通りの長文コメントで、こんなことを返してきた。


【みんなはみんな、佑珂ちゃんは佑珂ちゃん。お互い違う人間なのだから、無理して真似しようとすると疲れちゃいます。佑珂ちゃんは佑珂ちゃんのままでいいんです。先生は佑珂ちゃんが自分らしくいてくれた方が好きですよ】


 はじめはその言葉を信じられなかった。今の自分が嫌だから「みんなみたいになりたい」と書いたのに、先生のコメントは佑珂の意思を丸ごと踏みにじっているみたいだった。(くすぶ)る不信感を拭えないまま、後日、先生の取り計らいで運動会のチアリーダーを任された。任せられたからには仕方なく、苦手なダンスにも必死に取り組んだ。目立つ舞台に立つのはもっと苦手だったが、なけなしの勇気を振り絞ってみんなの前に立った。義務感だけが原動力だった。そうしているうちに、友達ができた。自分なりの努力をやり遂げた佑珂の姿を、ともに校庭に立った叶子や祥子は手放しで褒めてくれた。小原先生の言葉は嘘じゃなかったのだと、信じてよかったのだと、そのとき初めて思えたのだ。

 臆病で引っ込み思案な私でも、この先生なら信じられる。佑珂は小原先生にぞっこんになった。長文コメントを読むのが楽しみで、少しでも多くのコメントがほしくなって、たくさんのことをノートや連絡帳に書いた。好きなこと、苦手なこと、将来の夢、何もかも先生の前にさらけ出した。コメントの末尾にニコニコの笑顔なんか描かれた日には、嬉しくて何度もベッドにダイブしたっけ。六年生になっても、中学に進学しても、この先生の下で勉強していたいとさえ願った。

 半年後、その願いは意外な形で反故にされた。

 小原先生は突然、学校に来なくなった。

 重い病気になったのだと他の先生から聞いた。

 いや、厳密には()()()のではなかった。小原先生は以前から持病を抱えていて、これまで何度も短期的な入退院を繰り返していたらしい。もちろん佑珂たちは持病のことなど何も知らされていなかった。倒れて救急搬送された小原先生が遠くの病院で闘病生活を送っていることも、面会謝絶であることも、おそらく二度と復職できないことも、すべて後になって聞かされた。

 小原先生は佑珂ひとりを特別していたわけじゃない。一組所属の三十二人はひとり残らず全員、あの丹念な長文コメントに心を躍らせ、先生の愛情を本心から受け入れていたと思う。小原先生が姿を消した途端、クラスの仲は一気に悪化した。そこかしこでケンカが絶えなくなり、テストの平均点は一組だけガタ落ちした。みんながみんな、出どころの分からない猜疑心に駆られているみたいだった。小原先生という大黒柱を失った、岩戸小五年一組の偽らざる本当の姿を、そのときはじめて佑珂は目の当たりにした。

 きっと、もともと仲なんて良くなかったのだ。

 みんな小原先生が好きだったから、ひとつにまとまっていただけ。

 その先生がいなくなって、みんなは前みたいにバラバラになった。途方に暮れ、先生のことを信じられなくなった。裏切られたとさえ思っている子もいたかもしれない。そこまでの恨みを抱くことはなくとも、見放されたような心境に陥って絶望したのは佑珂だって同じだった。何のコメントもない、ただ〇と×が重ねられただけの答案を返されるたび、悲しくて涙がこぼれた。あふれ返る悲嘆に抗いきれず、トイレに閉じこもって泣いたこともあった。

 今はもう、涙は出ない。

 底知れない絶望も湧いてはこない。

 代わりに佑珂は問いたくなる。

 あの頃、私は先生を信じてよかったんだよね。

 くれた言葉は嘘じゃなかったんだよね──って。


「……先生」


 プリントを握りしめて、佑珂はつぶやいた。


「私、分かんないよ」


 佑珂は佑珂のままでいいなんてやっぱり噓っぱちだ。だって、いくら声を大にして真心を伝えても、練習で転ぶたびにみんなはお互いを責めるし、ケンカをやめてくれないし、桜子は佑珂を頼ってくれない。ありのままの自分が弱くて、ちっぽけで、頼りない子に過ぎないことを、あれから嫌というほど思い知らされた。実行委員を務める者として、このままでいてはいけない。危機感はいつだって胸の奥で冷気を放っている。それでもなお、小原先生はあの柔和な顔で、佑珂に「そのままでいい」と言うのだろうか。

 耳を澄ませても、息を止めても、先生の声は聞こえない。くぐもったヒグラシの声が遠くで響くばかりだ。窓の外に広がる夕暮れの空を見上げ、蒸し暑いベッドの上でぼんやりと悲しみに沈んでいると、不意に、誰かの足音がドアのそばへ近づいてきた。


「佑珂?」


 ドアを開けたのは父の(まこと)だった。

 佑珂は飛び上がってプリントの束を隠した。バクバク叫ぶ心臓を懸命に落ち着かせながら「どうしたの」と訊いたら、父は頭を掻いた。仕事から帰ったばかりのようで、ノーネクタイのワイシャツに少し汗が染みていた。


「すまん、急でびっくりしたか。さっき母さんから佑珂の元気がないって聞いたもんで、ちょっと心配になってな。ずっと部屋にこもってしょんぼりしてるっていうから……」


 お節介きわまりない母だ。ベッドの上で佑珂はむくれた。しょんぼりしていたかはともかく、プールにも入らずに帰ってきて部屋にこもっていたのは事実だった。突き飛ばされて転んだ拍子に、遊ぶ気力も元気も落としてしまった。


「元気がないのはほんとだけど……」

「例の30人31脚で何かあったのかい?」


 佑珂たちが30人31脚に挑戦していることは、もちろん両親には話してある。「ううん」と首を振りつつ、佑珂は隠していたプリントの束を強引にクリアファイルへ突っ込んだ。


「クラスの子が悩んでるみたいだったから、相談に乗ろうとしたの。でも、上手くいかなくて」

「それでしょげてたのか」

「私って頼りない子なんだなって、なんか、改めて思ったんだ。いまさら何なのって話だよね。お父さんも私のこと、頼りないって思うでしょ」

「そいつは難しい質問だな」


 ドアの傍らにもたれかかったまま、父は本当に腕を組んで考え始めた。考えてるふりなんかしなくていいのに、と佑珂は思った。血の通う家族にさえ疑いをかけずにはいられない自分の弱さが、こういうときはほとほと嫌になる。乱雑に横たわっているタオルケットを手繰り寄せて抱きしめたら、ようやく父が閉ざしていた口を開いた。


「頼り甲斐があるかどうかっていうのと、相談しやすいかどうかっていうのは、ちょっと別のことだと父さんは思う」

「なんで?」

「佑珂は誰かに相談を持ち掛けるとき、解決策がほしいって思うかい?」

「解決策っていうか……話だけ聞いてくれたらいいかなーって思うけど」

「そうだろう。つまり、悩みを解決してくれるような頼り甲斐のある子が必要なわけじゃない。むしろ相談するとしたら、日頃から信頼できて、安心して接することのできるような子を選ぶんじゃないかと思うけども」


 佑珂は目から鱗が剥がれ落ちるのを覚えた。言われてみればその通りだ。叶子や祥子に相談を持ち掛けるとき、佑珂は「頼りになるから」という理由で二人を選んでいるわけじゃない。二人のことを信頼できて、安心できるからだ。頼りになることと信頼を置けることは、字面は似ていてもイコールじゃない。


「佑珂がそういう存在になってあげればいいんだよ。その子に信頼される、安心できるような子になったらいい。そうすれば相談にも乗ってもらえるようになるさ」


 腕を組んだまま、父は微笑した。

 見ていられなくなって佑珂はうつむいた。父の笑顔が小原先生の笑顔に不思議と重なって見えたせいかもしれない。全幅の信頼を置いているような、無責任なほど穏やかな笑みから、佑珂はときどき逃げ出したくなる。小原先生が担任でなくなって以来、その傾向はいっそう強まった気もする。誰を信じて、誰を信じなければいいのか、その区別すら今の佑珂にはつけられない。誰かを信じられないのに、誰かに信じてもらえるわけがない。


「どうやってなったらいいのか分かんないよ」


 うつむいた口から弱音がこぼれ落ちた。


「いちばん簡単な方法を教えてあげようか」


 ヒグラシの歌にまぎれて、父がまた、笑った。






「そしたら先生も、今よりずっと、笑ってくれる……?」


▶▶▶次回 『29 直向佑珂と臆病な心の壁【5】』

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