03 「みんなで走れば怖くない」
二十三個の区と二十六個の市、そしていくつかの町や村からなる日本の首都・東京都において、康介たちの暮らす狛江市はいちばん小さな市らしい。枝豆みたいな形をした狭い市域に、八万人もの人が身を寄せ合って住んでいる。だから広い公園も畑も少ないし、道路だって狭い。四人で並んで歩こうとすると、ただでさえ狭苦しい校門前の通学路がいっそう狭くなる。
「こっから五十メートルってどのくらいだろ」
右隣を歩く女子──有森叶子が、長い黒髪をなびかせながらつぶやいた。
「次の次のT字路くらいまでだろ」
左隣の男子──川内稜也が言葉少なに応じた。
「うっそ、あんなに短い? 走ったらあっという間じゃん」
「そりゃそうだろ。紹介動画でも十秒くらいって言ってた」
「ふーん。よく見てんね、細かいとこ」
「そのくらい見とけよ……」
ぼそっと稜也がぼやく。たちまち叶子は「は?」と怖い顔で稜也を睨んだ。
朝の会で漢字テキストを解いていたのが稜也で、転校生の佑珂と親しげに話していたのが叶子だ。叶子の隣には今も佑珂の姿がある。けれども今、こうして隣り合って歩いているのは、叶子と佑珂が仲良しだからだけではない。
「でもなんか、まだ信じられないよ。まさか私たちが実行委員になるなんて」
うきうき顔のまま佑珂がアスファルトの小石を蹴った。
まったくだ。康介も真似をして、何も転がっていないアスファルトを蹴ってみる。
30人31脚大会への参戦が決まり、エントリーも済ませたからには、具体的な練習体制のことも考えなければいけない。理紗先生だけでは三十二人のクラス全体に目が行き渡らないというので、実行委員を決めようという話になった。クラスみんなの意見をまとめたり、先生の考えをみんなに伝えたりする、いわば橋渡し役を担うわけだ。かくして急遽くじが用意され、厳正なる抽選の結果、ここにいる四人が選ばれた。
クラスの悪ガキ男子軍団の一員、康介。
いつも独りで勉強している稜也。
先生が大好きな佑珂。
その佑珂と仲良しな叶子。
神様は何を思ってこんな人選にしたんだろうと、康介は内心、かなり首を傾げた。なぜって叶子も、稜也も、やるやらないを投票で決めた時に「やりたくない」の方に手を挙げた子だからだ。
「信じられないっていうか、なんでうちなの? って思うよね」
案の定、叶子はうんざりした顔で空を振り仰いだ。佑珂が複雑な顔をした。
「私は叶子ちゃんが一緒になって嬉しいよ?」
「佑珂はそうかもだけどさぁ。他のメンバーだって佑珂はともかく、バカの武井やらガリ勉の川内やら……」
「おれだってなんでお前が? って思ってるし」
「じゃあお互い様だな。せいぜい仲良くやろうね」
「仲良くなろうとしてる感ゼロじゃねーかよ」
そうは言い返したものの、康介自身、叶子と上手くやってゆける自信を持ち合わせてはいなかった。だいたい叶子とはまともに遊んだ記憶もない。お互いのことを話した記憶もない。自分とは違うコミュニティで暮らしている別世界の人間と思って、これまであまり関わり合いを持たなかった子だ。いちいち言動もおっかない。友好的な態度を見せない子との距離の縮め方など、康介には分からない。もっともそれは叶子だけじゃなく、佑珂や、左隣を歩く稜也に関しても同じことだった。
「てかお前、歩きながらそんなもん読むなよなー」
なにか話のきっかけが欲しくて、社会科の参考書に目を落としている稜也の背中を思いっきり叩いた。稜也は数発むせ、恨めしげに康介を見た。
「なに読んだって自由だろ。前はちゃんと見てるし、話もちゃんと聞いてるよ」
「もっと楽しそうな本読めよ。真面目かよ」
「どうせ俺は人間スパコンだよ」
稜也は冷たい目でそっぽを向く。勉強家の自分が陰で「人間スパコン」呼ばわりされていることを、稜也はきちんと自覚しているようだった。ちなみに桜子が「人間辞書」で、日直の貴明が「人間電卓」だ。辞書や電卓に比べるとスーパーコンピューター呼ばわりはずいぶん人の温もりを欠いているように感じるのは、きっと康介だけじゃないはず。
「川内くんって中学受験するんだよね。30人31脚の実行委員、ほんとに引き受けちゃって大丈夫だったの?」
おずおずと佑珂が切り出す。稜也はそっぽを向いたまま、低い声で「大丈夫じゃない」と答えた。
「けど、くじで選ばれたんだから仕方ないし。だから断らなかった」
「じゃあ、やりたくない気持ちは変わってないんだね」
「まぁ……。正直あんまりやりたくない」
「選ばれたからには本気でやろう、とか思わねーの?」
いささかむっとして、康介は鋭い口を挟んだ。まるで、前向きな気持ちで参戦に賛成し、実行委員に選ばれた自分が、稜也の「仕方ない」の一言でバカにされたみたいに聞こえたから。
「じゃあ武井は『今すぐ模試で一位を取れ』って命令されたらやる気になるわけ?」
叶子が鼻で笑った。痛いところを突かれて「そんなことねぇけど……」と尻込みしたら、また叶子に鼻で笑われた。
「そんなもんでしょ。やる気のないやつに何言ったってやる気なんか出さないよ。責任感あるなら最低限のことはするだろうけど」
「そういうお前はどうなんだよ」
「うちだってやる気ないし。佑珂のことが心配だから実行委員を断らなかっただけ」
「え、私のことが?」
「三十二人をまとめる役目ってぜったいそんな簡単じゃないっしょ。佑珂は優しすぎるから、誰も手伝わなかったら潰れちゃいそうだなって思って」
「別に優しくはないと思うけど……」
褒められたのが嬉しいのか嬉しくないのか、佑珂はくねくねと身体の前で両腕を絡ませた。叶子の目は笑っていなかった。
この場合の「優しい」がどんな意味を持つのか、なんとなく康介には分かる。
言いたいことを強く言えない、という意味だ。
一組の三十二人の中で唯一、五年生の時によそから転入してきた転校生の佑珂は、初めのうちは当時の担任にべったり懐くばかりで、はっきり言ってクラスに馴染めていなかった。今でも親友の叶子たちの手で保護されているようなところがあって、それ以外のクラスメートとは普段ほとんど遊ぶこともなければ話すことも少ない。にへっと笑う顔は愛らしいのに、その笑顔を大半の子たちは少し白けた目で見ている、気がする。康介自身もそういう目で見てきた過去がある。
「本当にあんな決め方してよかったのかな。どうせみんな、かっこいいビデオに釣られた勢いで参戦する方に手を挙げたんだろうしさ」
空を渡ってゆくカラスの群れに叶子は目を細めた。
「あの先生が急に30人31脚なんて提案してきた理由も謎だしな」
「どうせ思いつきじゃない?」
「その思いつきに振り回されるこっちの身にもなってほしいよ」
「そんなこと言わないであげてよ。理紗先生だってきっと、私たちと仲良くなりたくて提案したんだろうし……。私だってこれで理紗先生がみんなと仲良くなれたらいいなって思うし」
「佑珂が先生のこと大好きなのは分かってるけどさ、あんまりお人好しが過ぎるのもどうかなって思うよ、うち」
親友の苦言にたじろいだのか、佑珂は「お人好しなんかじゃ……」などと口ごもってしまった。続くフォローの言葉もないまま、四人でとぼとぼと通学路を歩いた。稜也の示した校門から五十メートルの地点など、とうの昔に通り過ぎていた。
見上げた夕空を紫色の雲が彩っている。
昨日の空には雲ひとつ見当たらなかった。
あの雲の彼方にワクワクするような明日が待っているようには、今の康介には思われない。もちろん昨日の時点では思えていた。実行委員の人選は不意打ちとしか言いようがなかった。
ダメだこいつら、揃いも揃って。
康介は無言で口腔のもやもやを噛み砕いた。実行委員の役目とはつまり、三十二人もいる六年一組のリーダーになるということ。そのリーダー候補ともあろう連中がこんなにも頼りなく、やる気がないようでは、30人31脚の挑戦など絶対に失敗する。電子黒板の画面に映っていた十数年前の子供たちのように、晴れやかな舞台を全力で駆け抜けることなんてできやしない。
真のリーダーシップを発揮できるのは、神様の選んだ四人の中で康介ただ一人きりだ。頼りない担任になんて任せていられない。康介が他の三人を引っ張らねばならない。ひいてはクラスみんなの尻を叩き、先頭に立って鼓舞しなければならない。岩戸小学校六年一組の運命は、すべて康介の肩に乗っているといっても過言じゃない。
「……うまくいくかな、30人31脚」
ランドセルの持ち手を握り締めた佑珂が、消え入りそうな声でつぶやいた。黄昏色の空を映した佑珂の瞳は、まるで空模様に康介と同じ懸念を見出だしているみたいだった。
「きっと簡単じゃないよね。転んだらすっごい痛そうだし、そもそも誰もやったことないし……」
「ていうか、全員で足を結んで走るなんてどう考えても無謀でしょ。ちょっと考えれば分かることなのにさ」
「協調性なさそうだしな、うちのクラス」
叶子も、稜也も、佑珂の懸念を上塗りするような暗いことばかり口にする。黙っていられなくなって康介は「あのなぁ」と割り込んだ。真のリーダーを全うする最初の一歩として、まずは目の前の三人の意識を改めることから始めなければと思った。
「やったこともないのに不安ばっかり並べても仕方ねーだろ。そういうのを食わず嫌いって言うんだぞ」
「給食でナスが出るたびに残してるあんたに食わず嫌いがどうのこうの言われたくないよね」
「なっ……それとこれとは関係ねーし!」
「関係ないもんか。武井がナス残すのは、苦手な味だってことが初めから分かってるからだろ。30人31脚だって同じだよ。やるまでもなく危ないって、無謀だって分かってるから、やりたくないって話をしてるんだ」
「危なくなんてねーよ。二人三脚ならともかく三十二人でやるんだろ。足がたくさんあるんだから、いざという時だってお互いに支えあれば転ばずにすむじゃんか。なんのために肩を組むと思ってんだ」
むっと稜也が痛い顔をした。理屈っぽい思考回路を装備しているぶん、理屈っぽく言い返されることに稜也は弱い。ダメ押しのつもりで康介は胸を張った。
「『五十メートル、みんなで走れば怖くない』って言うだろ」
もちろんそんな諺はない。たった今、康介が即興で編み出した言葉だ。佑珂が天才を見るような目で康介を見つめた。隣の叶子が「それを言うなら赤信号……」と嘆息した。
30人31脚。
ひとりで走れば七、八秒で到達できる、岩戸小の小さな校庭にやっと確保できるくらいの短い距離を、三十二人の心と身体をひとつにして駆け抜ける。
それがどれだけ困難な挑戦であるかを康介は知らない。きっと先生も、実行委員の仲間たちも、クラスの誰もが知らないはずだ。けれども今は知らなくていい。今はまだ、途切れてしまった夢の続きを、がむしゃらな走りの先に見ていたいから。
新緑の季節も終わりに近づいた五月下旬。
狛江市立岩戸小学校六年一組の、ひと夏を懸けた巨大な挑戦が、雲の切れ間から幕を開けようとしていた。
『04 驀進康介の頑張る理由【1】』に続きます。