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スタンバイ!! ──岩戸小学校六年一組、30人31脚への挑戦  作者: 蒼原悠
3R 少しでも前へ、少しでも先へ
29/63

27 直向佑珂と臆病な心の壁【3】

 



「──そんで絶交したってのかよ。上原(あいつ)土井(あいつ)


 康介がぼやくと、「そういうことらしい」と隣の叶子もぼやいた。


「ま、うちは詳しいこと知らないけどさ。場所取りと荷物番してて現場にいなかったし。誰も戻ってこないから独りでアイドルが歌ってるの見てた」

「ほんとごめんね、叶子ちゃん……」

「ほんとだよ。延々三十分以上も待たされた上にアイス食べ損ねたうちの気持ちにもなってよね」


 ぴん、と音が弾けるほどの勢いで叶子がデコピンを打つ。あまりの痛みに額を押さえてよろけながら、今のが叶子なりの許し方だったんだろうと佑珂は思った。それにしても手加減くらいはしてほしかったものだが。

 30人31脚の練習は七時半から始まる。みんなに範を示すべき実行委員は、大抵その十分前に集合して、三々五々集まってくるクラスメートを眺めながら軽い打ち合わせをするのが習慣になっていた。もっとも打ち合わせといったって、こうして日常的な情報共有をしているに過ぎない。理紗先生は直前にならないと職員室から出てこないし、朱美や春菜は息子の健児や文李と一緒になって集合時間間際に駆け込んでくるのが常だ。


「まー、もともと仲良くなかったもんな。いまさら絶交したからってあんまり関係ねーか」


 頬杖をついた康介が、まばらに人影の見当たる校庭を眺める。すぐさま「関係ありだろ」と稜也が苦々しく口を挟んだ。


「あの二人が絶交したってことは、あの二人のグループが絶交したってことだろ。並び順を見てみろよ。上原と田中が隣り合ってる部分なんか見るからに危ない」


 田中というのは明日乃の苗字だ。さらに言えば、その二人隣には桜子の姿もある。この三人が配置されているのは、三十人いる隊列のど真ん中だ。右サイドや左サイドの端で揉めるだけならまだしも、センターサイドで堂々と対立されたら周囲にどんな影響が及ぶかも分からない。


「かといって、あの二人を近づけられるような妙案は浮かばないっしょ……」


 諦め顔で叶子がつぶやくと、「おれも」と康介も力なく続いた。視線の先では早速、桜子と夏海が十メートル以上も離れた場所からガンを飛ばし合っていた。両グループに無関係の数少ない女子たちは怖がって近寄ろうともしないし、残り半数を占める男子たちも落ち着かない様子で遠巻きにするばかりだ。間違いなく今、一組の空気は過去最高に悪い。満足に練習へ打ち込める雰囲気ではない。

 不意に、乱暴に自転車を止める音が遠くで聴こえた。のっぴきならないこの状況を打破してくれそうな足音が二つ、校舎の渡り廊下をくぐって佑珂たちのもとへ駆け込んできた。


「おーっす」

「みんなおはよう! 今日も元気そうだね!」


 朱美と健児の大迫親子だった。殺伐とした空気にも物怖じせず、朱美は夏海や桜子の待つ校庭に入ってゆく。まるっきり誇張のない口ぶりで「すげぇ」と叶子がこぼした。傍若無人と紙一重な朱美の勇敢さは、当事者の佑珂や叶子にはとうてい真似できない。


「どうしたの、その傷。猫にでも引っ掻かれた?」

「まぁ……そんなとこです。メスの()です」

「可哀想にねぇ。というか上原さん家、猫なんて飼ってたっけ?」

「いやー、ちょっと野良猫で遊んでたら、その……」


 首元の引っかき傷を発見された夏海が、困り顔で朱美の質問をのらくらと(かわ)している。桜子は話しかけられまいと存在感を消している。お願いだから監督、そっとしておいてください。その二人は今でも一触即発なんだから──。必死に念を送ったのが幸いしたか、朱美はちょうど校庭へ出てきた理紗先生の方に「あら!」と意識を移した。肩ごと身体を揺らす勢いで嘆息した夏海が、ぺたんと校庭に座り込んだ。


「おはようございます先生」

「いつもありがとうございます、こんな朝早くから……」

「いえいえ、私のところなんて家も近所だし。そんなこと言ったら先生こそはるばる三鷹(みたか)から来てるんだから、ねぇ?」


 見慣れたウインドブレーカー姿の理紗先生も、心なしか、くたびれて見えた。乱暴に束ねられたポニーテールから枝毛がいくつも飛び出して、朝の陽ざしを浴びて白髪みたいに光っている。昨日のことを思えば無理もない。佑珂は体育座りを解いて、ほかの三人と一緒に理紗先生のもとへ向かった。よたよたと影を踏んで走る二本の足に、桜子に拒絶されて立ちすくんだ理紗先生の弱々しい、頼りなかった背中を思い出した。



 絶交宣言の通り、練習中も夏海と桜子は口を利かなかった。三十人ランの時など、明日乃を交えた三人で氷のような冷気を発しながら三人が沈黙しているので、あいだに挟まれた健児の姿は見るも哀れだった。休憩時間になるや否や健児は康介のもとへすっ飛んできて「あいつら怖ぇ」「足がすくんで走れねーって」「オレのこと別の場所に移動させてよ」と懇願する始末だった。無情にも康介や稜也は彼の申し出を拒んだ。あの場所に配置できるような男子はお前しかいないと口を揃えられ、健児は失望の眼差しもあらわに実行委員のもとを立ち去っていった。

 桜子は不気味なほどに静かだった。対立相手の夏海のみならず、身内のはずの明日乃や万莉の前でも沈黙していた。そればかりか、練習開始から三十分近くが経ち、朝八時前になって大慌てで校庭に駆け込んできた雪歩が「遅刻してごめんなさい」と頭を下げても、彼女はわずかに目を配っただけで無言を貫いた。切れ味抜群の皮肉や中傷が鳴りを潜めていることに驚かされたのは、きっと佑珂だけではなかったはずだ。拍子抜けしている雪歩を佑珂は練習に引き入れた。思いがけず非難を免れた雪歩がどれほど深い安堵に包まれていたのか、一緒に走って横顔を見ていれば一目瞭然だった。

 クラスの秩序が乱れるだけで、こんなにも練習環境が変わってしまう。

 これから先、みんなの輪が今よりもっと乱れる日が来たら、一組の30人31脚はどうなるのだろう。

 歯の間へ菜っ葉が挟まって抜けないみたいに、実体のない不安が佑珂の背中を脅かす。余計な考え事に気を取られていたせいか、三十メートルを超えたあたりで急に足がもつれた。一緒に唱和しているはずの掛け声がずれていることに気づいた時には、甲高いホイッスルの警告とともに上体が崩れていた。立て直す間もなく、身体ごと地面に突っ込んだ。深い青空に土煙が立ち上った。


「痛ったたっ……!」

「くそ、思いっきり額打った……」


 引きずられて転んだ周りの子たちが、呻きながら足紐を外しにかかる。嫌というほど転倒の経験を積んだおかげで、足紐を外すテクニックだけは磨かれたのが情けないところだ。両隣の高彦や明宏に「ごめんね」と頭を下げたら、二人は反応しづらそうに目を逸らした。あるいはくたびれきっていて反応する余裕がなかったのかもしれない。


「うーん、調子悪いねぇ」


 駆け寄ってきた朱美の面持ちは複雑だった。


「さっきから毎回、三十メートルを超えたあたりで急に失速してバランス崩してるんだよね。集中力がそのあたりでぷっつり切れちゃってる」

「今日はもう練習を切り上げてもいいんじゃない?」


 座り込んだ佑珂たちの顔色を順に伺いながら、春菜が申し出た。彼女の腕時計は八時四十分を指していた。定刻通りなら、あと二十分でプール開放が始まる。


「なんかね、このまま続けたら怪我をするような気がしたのよ。毎日の練習で疲れも出てきてるだろうし、それだけじゃなくて何かこう……よくない空気を感じる」


 思い当たる節のある女子が一斉に固まった。もちろん佑珂も固まった。昨日の出来事は当事者と実行委員、理紗先生、現場に居合わせた数人の大人、そしてたまたま居合わせたパトロール中のお巡りさんの間でしか情報共有されていない。好きこのんで表沙汰にできるような話じゃないし、表沙汰になんてしたくもない。大人の嗅覚を舐めたものではない、ということか。

 結局、練習はその場で打ち切りになった。地獄のような空気から解き放たれた一組のみんなは飛ぶようにプール脇の更衣室へ駆け込んでいった。「危ないから走らないで!」──などという理紗先生の訴えは、当然のごとく一顧だにされなかった。



 ぱちゃぱちゃと跳ねる水に陽が差し込んで、宝石みたいに無数の光を散らしてゆく。大きく喉を鳴らして空を見上げたら、嗄れた喉に水分が染みてゆくのを感じた。さんさんと陽の当たる校舎脇の水飲み場には、佑珂の他には誰もいない。心ゆくまで水を飲んでもなお、身体も心も重たいままで、しばらく佑珂は水を出しっぱなしのまま案山子(かかし)みたいに佇んでいた。

 はぁ、と漏らした溜め息が、水と一緒に渦を巻いて排水溝へ流れ込む。


「こんなカンカン照りの日に限って水筒忘れるんだもんな、私……」


 昨日の今日だ。練習に行くのがちょっぴり怖くて、集合時間ぎりぎりまで自分の部屋にこもっていた。おかげで大急ぎで登校する羽目になり、水筒を忘れた。校庭に水飲み場があるのは知っていたし、忘れたからといって誰に迷惑がかかるわけでもないのだけれど、ただ、なんとなく自分に失望した。こういう気分のとき、いつも佑珂はみずから進んで自分に失望する材料を探してしまう。

 水筒を忘れるのだって、クラスメートの諍いを鎮静化させられないのだって、根っこの問題は同じだ。佑珂が不甲斐ないから、頼りないから、こういうことになる。分かっていても一朝一夕で自分は変えられない。つい昨日までも、頼れる実行委員であろうと精一杯の頑張りを続けてきたはずだった。

 情けないな、私。

 もっとしっかりしなきゃいけないのに。

 来年には中学生になってるのに──。

 それをいうなら水の無駄遣いから改めなければいけない。誰かに見咎められた気がして、いそいそと佑珂は蛇口の栓をひねった。きゅっと可愛げのある音を立てて水が止まった。穏やかな波を立てながら排水溝へ吸い込まれてゆく水の表面に、情けない顔をした小さな女の子が映った。両頬を手のひらで打って、しっかりしろ私、と気合いを入れた、そのとき。

 どこからか聞き覚えのある声が流れてきた。

 セミの大合唱に押し潰されつつも、校舎の角の向こうから途切れ途切れに聞こえている。

 あの声は、桜子だ。いやというほど聞いたから間違いない。佑珂は水飲み場を離れて、抜き足差し足、校舎のへりに歩み寄った。忍者よろしく身を隠していると、話し声の中身が壁越しにはっきりと伝わってきた。もはや、それが桜子の声であることは疑いようがなかった。


「──うるさいよ、そんな言わなくたって分かってるし……。プールに誘われてるから、行くのはそっち終わってから。塾には休むって連絡するから心配しないでよ」


 壁の向こうで桜子は電話をかけていた。時おり、気まぐれに吹き抜けた風に乗って、彼女の声がいやに鮮明になった。いつもの桜子らしくもない、覇気のない口ぶりに、佑珂は少し緊張を深めた。聞いてはいけないものに聞き耳を立ててしまった気がした。いや、聞き耳はそもそも立ててはいけないのだけれど。


「──うん。お土産は持って行かない。昨日の分のプリンがあるんでしょ。それでいいよ」

「──いいよ、そんなの。話すだけなら前にたくさん話せたもん。今さらそんなことでショック受けたりしないし」

「──わかんない。いっぺん帰って着替えていくかも。昨日汚されたやつ、もう乾いてるでしょ? そしたらそれ着てく」


 どっと心臓が跳ねた。いま桜子が口走ったのは、もしかしなくとも昨日、佑珂とぶつかって転んだ時に汚れてしまったカットソーのことか。

 壁の裏で汚した本人が聞き耳を立てているとも知らず、桜子は「分かってるってば!」と語気を強めた。


「──これが最後これが最後ってうるさく言わないでよ! うちはとっくの昔に覚悟なんか決めてる! 余命のこと聞かされてから、もうず────っと! 泣いてばっかのママと一緒にしないでよ!」


 耳慣れない『余命』の語が響いた瞬間、たちどころに佑珂は電話の内容を理解してしまった。壁に寄りかかったまま、佑珂はその場へ崩れるように座り込んだ。やっぱり聞き耳なんか立てるんじゃなかった、聞いてはいけないことを聞いちゃった──。暑さと水分不足にやられた頭がぐるぐる回り始めた。

 彼女は今、大事な人を亡くそうとしている。それが誰かは分からないし、誰なのかは重要じゃない。重要なのは、大事にしていた服を洗って早々に着込み、めいっぱいのお洒落をして会いに行きたいと思わせるほど、桜子にとって大事な人だということ。こころのところ桜子が苛立ち気味だったのも、練習中に黙り込んでいたのも、もしかするとすべての発端はそこにあったのかもしれない。

 土井さん、ずっと悩んでたんだ。

 大事な人のところへ会いに行きたくて。

 だったら一言くらい言ってくれてもよかったのに。練習なんか休んだってよかったのに。大事な服を汚しちゃったこと、もっともっと心を込めて謝ったのに──。

 ぐるぐる回る頭で懸命に考え事をしていたせいか、電話を終えた桜子が角を曲がって出てきたことに佑珂は気づかなかった。しまったとほぞを噛んだ時には、桜子は立ち止まっていた。飛び跳ねるように起立した佑珂の全身を、桜子はこれ以上ないほど冷たい眼差しで眺め回した。髪の毛一本から爪先の泥汚れに至るまで、ぬかりなく。


「……いたんだ」

「はい」

「まさかとは思うけど聞いてないよね」

「……聞こえて、ました」


 素直に佑珂は白状した。見え透いた嘘をついて桜子を怒らせたくなかった。

 全身の息が抜けたかと思うほどに、桜子は大きな息をついた。話を聞かれたこと、詮索されること、言い触らされること、それらすべてをいっぺんに割り切って諦めるための溜め息なのだと佑珂は思った。


「忘れて」


 桜子は静かに言い渡した。


「今の話、このクラスの誰にも話してないから」


 言われるまでもない。こんなことで桜子の不興を買いたくない。首が痛くなるほどうなずいてみせると、もう一度、際限のない失望を目力に込めて佑珂を睨んでから、桜子は無言で歩き出した。うつむいた佑珂の視界を足音が通り過ぎて、一歩、また一歩と遠くなってゆく。

 しかめ面でもない、小ばかにするような笑顔もない、不気味なほど落ち着いた桜子の眼差しが網膜に焼き付いた。なにかに似ている表情だと佑珂は思った。固く閉ざされた唇の奥で、噛み締められた感情が暴れるのをこらえている。そう、まるで──泣くのを我慢しているみたいに。


「──待って!」


 立ち止まった桜子が「何?」と背中から声を発した。そのさまはこの上なく恐ろしかったが、佑珂は勇気を振り絞った。桜子に言われるまま夏海の手を離し、ケンカを止められずに立ちすくんでいた理紗先生の幻影が、その一瞬、じんと網膜の真ん中に強く滲んだ。


「私、言わないよ。いま聞いたこと、他の子には絶対に漏らさないって約束する。話もほんのちょっとしか聞いてないし、聞いたことはみんな忘れるように頑張る。絶対ぜったい、約束する」

「……ありがと」


 無感情な声で桜子は応答する。淡白な対応で流されるのも想定済みだ。「だからね」と佑珂は一歩、身を乗り出した。


「その、土井さんも私に話してよ。つらいこととか、苦しいこととか、誰にも話せないようなことがあるなら……。私でよかったらたくさん聞くもん」


 振り向いた桜子の眉根には無数のしわが寄っていた。申し出の意味を理解しなかったのか、彼女は短く「は?」と訊き返した。佑珂も佑珂で必死だった。


「ここのところの土井さん、すっごく調子が悪そうに見えてたの。いつもより機嫌もよくなかったし、今日なんか誰とも話そうとしないし……。てっきり私、それって昨日の私のせいだと思ってたけど、それだけじゃなかったんだね。もっともっと苦しい思いをしてたんだね。いまさら知ったところで何かの役に立てるかは分からないけど、私、土井さんの力になりたい。支えになりたいよ。苦しい思いなんかしてほしくないよ」


 身近な人を喪うことの恐ろしさは、今の佑珂にはまだ分からない。桜子だってそれは同じはずだ。その想像もつかない恐ろしい運命を、桜子は今、たったひとりで抱え込もうとしている。だったらせめて、何か相談に乗るだけでも役に立てたら、ほんの気晴らしにでもなれたら──と思った。ほんのわずかな贖罪の意識さえ除けば、よこしまな思いなど一切なかった。


「は……?」


 ふたたび同じ一文字を繰り返しながら、桜子は汗に濡れた髪を搔きむしった。


「意味わかんない。仮にうちが落ち込んでたとして、なんで福島にそれを話さなくちゃいけないわけ。それで何かが解決するって本気で思ってるわけ?」


 どうも曲解された気がする。「そうじゃなくて……」と佑珂は訂正を試みかけたが、桜子は佑珂の話になど耳を傾けずにまくし立てた。


「だいたいさ、あんたみたいなのにつらそうだったとかなんとか同情かけられんの、すっげぇ上から目線でムカつくんだけど。てゆーか勝手に決めつけないでよ。昨日のことは昨日で解決済みだし、うちと上原は二度と話さないし、それで万事OKなんだっての! 勝手な妄想と立ち聞きで話を広げないでもらえる?」

「だ、だから、立ち聞きしたのは悪かったの。ごめんね。ちゃんと忘れるから──」

「そんなもん信用できるわけないじゃん! 昨日だって結局、ただ謝るだけで済ませたくせにっ!」


 佑珂は言い返せなかった。そもそも返す言葉がなかった。夏海や理紗先生の介入で結果的に難を逃れただけで、昨日、佑珂は眼前の問題を何ひとつ片付けられずに終わったのだ。唇を噛んでいると、近寄ってきた桜子が「何、その顔」と至近距離でうなった。いよいよ佑珂は浮かべるべき表情さえ分からなくなった。


「その可哀想なものを見るような目をやめろって言ってんの!」


 桜子は佑珂を力いっぱい突き飛ばした。衝撃に備える間もなく、佑珂は背中からコンクリートの地べたに叩きつけられた。激しい痛みとめまいが視界をおおった。「痛っ──」と叫ぶことさえ苦痛だった。

 きびすを返して駆けてゆく桜子の背中が、陽炎の向こうに遠くなる。

 痛くて、痛くて、息もできない。

 よろめきながら佑珂は身体を起こした。痛みのあまりこぼれた涙が、ぼろぼろと目尻に膨らんで弾けていった。

 ダメだよ、私。こんなことで泣いちゃダメだ。昨日、私のせいで転んだ土井さんだって、きっと泣きたかったんだ。だけど土井さんは我慢したんだ──。何べん言い聞かせても痛みはとどまるところを知らない。涙ごと顔を洗い流してしまおうと、水飲み場へ戻って栓をふたたび開いた。伝えきれなかった願いも、思いも、じゃぶじゃぶ音を立てる水にまみれて排水溝の彼方へ流されていった。






「私は先生を信じてよかったんだよね」


▶▶▶次回 『28 直向佑珂と臆病な心の壁【4】』

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