25 直向佑珂と臆病な心の壁【1】
生まれ育った八丈島を離れ、ここ狛江の街で暮らし始めて一年と少し。
佑珂にはまだ、この街に馴染めた感覚がない。
街の外に何があるのかも知らない。隣接している自治体のことさえよく知らない。両親の買い物に付き従い、小田急線に乗って新宿副都心の街へ出たことなら何度かある。目のくらむような超高層ビルの林立する新宿は、閑静な住宅地の広がる狛江と比べれば完全に別世界だった。そればかりか都庁の展望台から眺めた東京の街は、その新宿すら跡形もなく飲み込んで埋め尽くすほど広く、賑やかで、地理感のない佑珂には全容を掴むことさえ叶わなかった。華々しいネオンサインの照らす夕方の駅前を、無数の車にクラクションを鳴らされながら歩いた。足元に寄り添う小柄な自分の影は、都会の光に圧倒されて縮んでいた。
あれから少し、東京という大都会を知るのが恐ろしくなった気がする。この世界は手の届かない未知の物事や人々であふれ返っていて、それらがいつも佑珂に優しくしてくれるとは限らない。それは狛江の街、佑珂の通う岩戸小、ひいては六年一組のクラスメートたちでさえ同じことだ。島暮らしの間は良くも悪くも触れられる世界の広さが限られていて、同じ部屋で過ごすクラスメートたちの間にも一種の共通理解みたいなものがあった。遊び場といえば近所の公民館、公園、海水浴場と相場が決まっていた。不器用で人付き合いの上手くない佑珂でも、どうにか息切れしないで生きてゆくことができた。それがどうだろう。岩戸小に来れば遊ぶ仲間、場所、手段、どれをとっても選択肢が無数に転がっている。ここでは何をしたって自由なんだよ──。東京の街はそういって佑珂に微笑みかける。何べん絶望しても足りないほど山盛りの不幸を、その大きな背中にひっそりと隠しながら。
優しくしてくれる人がいないわけじゃない。
心を預ける相手だっていないわけじゃない。
右も左も分からなかった佑珂を導いてくれた小原先生、友達になってくれた叶子や祥子、一緒に仕事をしてくれる康介や稜也。この一年を通じて、たくさんの人に巡り会った。東京は冷たい人ばかりの街じゃなかった。せっかくだから整骨院の鎧坂もリストに入れてあげようと思う。それから無論、とびきり大好きな現担任の理紗先生のことも。
その上で、それでもやっぱり、佑珂は思うのだ。
私はみんなをどれだけ知っているんだろう。
私はみんなにとっての何になれるんだろう。
私は私のままでいいのかな──って。
「──ねね、先生って夏休みの間は何してるの?」
練習終わりのミーティング後に、職員室へ戻ろうとする理紗先生を捕まえて尋ねてみた。不意を突かれてノートを落としかけながら、先生は「突然どうしたの?」と尋ね返してきた。
「授業もないし、やることないならどうしてるのかなって思って」
「授業準備とか事務処理とかだよ。たまにプールの監視もやってるでしょ。みんながお休みの間も先生はお休みできないの」
「そんなのパッと終わらせて遊びに行けないの?」
「行けないよ。先生はまだ新米だし、お仕事が手間取っちゃってどうしても時間かかるから。いつも帰るのは夕方くらいだよ」
「夕方からは遊べるんだ?」
佑珂は声を弾ませた。
夕方以降の時間を確保できるならちょうどいい。折しも今日、最寄り駅の商店街で夏祭りが開かれることを、叶子や祥子たちから聞いた。夜遅くまでやっているというから、仕事終わりの理紗先生にも同行してもらうことができそうだ。
「遊ぶって何? イベントでもあるの?」
とぼけた顔で理紗先生が尋ねてきた。すぐに隣の叶子を見やると、叶子は「マジで誘いやがった」とでも言わんばかりにしかめ面をしたまま、事の次第の説明を始めた。近頃の叶子はずっとこんな調子だった。楽しいことがあっても浮かない面持ちを崩さず、いつも何かに思い悩んでいる。今日のお祭りが叶子の景気づけになってくれたらいいな、と佑珂は思う。それからついでに、先生とみんなの仲が少しでも深まる契機になればいい。
理紗先生とは午後六時に駅前で合流することになった。「仕事で遅れたらごめんね」と、先生は念入りに念を押した。
和泉多摩川サマーマーケット・WAO。
商店街の振興を目的として数年前から開催が始まった、まだ歴史の浅い狛江の名物イベントだ。
舞台になるのは、岩戸小の学区からみて最寄り駅に当たる、小田急線和泉多摩川駅の東口商店街。この商店街からたくさんの「和」や「輪」を生み出したい──というのが、ちょっぴり風変わりなイベント名の由来なのだという。全長二〇〇メートル弱の商店街には所狭しと出店や手作りアートが並び、特設ステージも設置され、商店街が歩行者天国となる十六時から十九時の時間帯を中心にして多くの人出を呼び込んでいる。
「去年とか来たことなかったの?」
エリア入口の顔嵌めパネルで遊んでいると、ふと、祥子に尋ねられた。スマートフォンを構えた夏海たちが祥子を見てゲラゲラ笑っている。多分、祥子がイケイケのポーズを決めたおじさんのキャラクターに顔を嵌めているからだ。
「来たことなかったよ。というか知らなかったもん。たぶん、家でぼーっとしてた」
「そっか。去年の今頃ってまだ、わたしたち今みたいに親しくなかったよね」
「運動会の前からだよね。私が祥子ちゃんと叶子ちゃんと友達になれたのって」
「懐かしいなぁ。あのときあんなに小さかった佑ちゃんが、いまや30人31脚で実行委員なんかやるようになっちゃって……」
「そんな小さくなかったよ! 私のこと何だと思ってたの!」
憤慨したら祥子もケラケラ無邪気に笑った。
本当は「何だと思ってたの」じゃなくて「何だと思ってるの」と訊いてみたい。けれどもそれは今、この場で訊くべきことじゃない。またひとつ膨らみかけた衝動を噛み潰して、佑珂も一緒になって笑った。こうやっていつまでも尋ねるべきタイミングを逃し続けるのも、それはそれで悪くないのかもしれない。だって、それっていつまでも、佑珂と祥子が友達でいられているということだから。
「あっち行ってみようぜっ」という夏海の音頭で、みんなでぞろぞろと移動を始めた。商店街は見たことがないほどごった返していた。佑珂たちの住む狛江市の南側一帯は、土地が狭いせいか、大きなスーパーやショッピングモールが一つもない。かといって普段から商店街が活気に満ち溢れているわけでもない。それでもこうしてイベントが開かれれば、人々は賑やかしを求めて集まってくる。新宿の喧騒には敵わないにしても、この街だってちゃんと元気だ。それを自分の足で確かめられただけでも、なんだか佑珂は嬉しかった。これが郷土愛というやつの萌芽なのかと思った。
床屋さんと宝石店の隙間には小さな遊休地があって、今日はそこにステージが設けられている。舞台の上ではちょうど、お洒落なジャケット姿の男性と恰幅のいい女性タレントがトークを繰り広げていた。見れば最後列の席が六つほど空いている。佑珂たちの一行も、ちょうど六人いる。
「六時からHIBARIが出演だって! それ聴いていきたいなー」
「HIBARIって誰?」
「知らないの? 隣の調布出身のアイドルだよ! うちらと数歳しか違わないのに、歌めっちゃ上手くてかっこいいんだから」
「六時って二十分後じゃん。私、それまでにどっかで飲みもの買いたいなー」
「わたしはかき氷が食べたいぞ」
「誰かに席取り任せてさ、急いで買ってこようよ。ねー叶子、何かいる?」
「向こうで売ってたソフトクリーム買ってきてくれるなら荷物番するよ」
「さっすが叶子!」
「話が早い!」
「うわわ、ちょっと待ってよ。六時って先生との待ち合わせ時刻……」
引き留める間もなく、夏海たちは叶子にカバンを託して歩き出してしまった。「どうしよう」と叶子を振り返ると、叶子は静かに苦笑して「行ってきなよ」と一行の背中を指差した。
「遅れるかもって先生も言ってたし、そんな身構えなくても大丈夫だって。頃合いを見計らって待ち合わせ場所に探しに行けばいいよ」
「そうだね……。それでいっか」
「そんなに先生のこと誘いたかったんだ?」
わずかに持ち上げられた語尾が、叶子の本音を垣間見せている。ちょっぴりバツが悪くなって、佑珂は肩を縮めた。
「やっぱ、みんなは歓迎じゃないよね」
「別にいいよ。少なくともうちは分かってるからさ。佑珂が先生のこと、どうしても誘いたかった理由」
ほら、と背中を押されて、佑珂は人混みに躍り出た。数歩ばかり進んで、おずおずと振り向くと、叶子は早々に佑珂への興味を失ったのか、手元のスマートフォンをぼんやり眺めていた。なんだか突き放されたような心持ちがする。また少し、もやの深まった心を抱えて、佑珂は商店街の人混みに向き合った。
「うちらは今、うちらの問題を自力で片付けてる最中なんだよ!」
▶▶▶次回 『26 直向佑珂と臆病な心の壁【2】』




