表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
スタンバイ!! ──岩戸小学校六年一組、30人31脚への挑戦  作者: 蒼原悠
3R 少しでも前へ、少しでも先へ
26/63

24 辛口叶子と初めての挫折【4】

 



 先日のメンバー入れ換えで、男子が苦手だという万莉は叶子の二つ隣に移動してきた。彼女の左隣は雪歩、右隣は男子の藤原穣で固められている。穣は中性的な少年だ。一人称は「ぼく」だし、腕相撲は弱いし、デザイナーをしている親の影響とかでいつもカラフルな服を着ている。はじめは隣を男子にされて文句を言うばかりだった万莉も、穣の前ではそれほど性別を意識しなくて済むのか、じきに以前のような自然体を取り戻して全力で走るようになった。近頃は調子に乗って「お前ほんと身体細いなー」「髪サラサラしてる!」などと女の子相手みたいなノリでいじり回すようになったので、むしろ穣の方がいくらかむず(かゆ)そうに見える。

 万莉はともかく、穣の走力はそこまで高くはない。叶子自身も本気を出せば速く走れるが、セーブしようと思えばいくらでも可能だ。穣と叶子の間に志穂を挟んで走れば、今の位置で走るよりもいくらかマシになるはず──というのが叶子の公算だった。

 翌日、練習終わりのミーティングの場で、この話を持ち出した。志穂の救済策を真っ先に打ち立てたのが叶子であったことに、他の三人や理紗先生は少なからぬ驚きを見せた。


「市川みたいなタイプ、苦手なんだと思ってた」

「実行委員やってんのに苦手とか言ってらんないでしょ。そんなこと言ったら武井だってうちのこと本当は苦手だろ」

「おっかねー暴力女とは今でも思ってるけど」

「そう。あとで覚えときなよ」

「ちょっとやめてよ、暴力はよくないよぅ」


 おろおろ割り込んできた佑珂の純真無垢さに調子を狂わされ、不覚にも叶子は失笑してしまった。やっぱり佑珂はさすがだと思った。笑われた佑珂は「なんで笑うの」とますます眉を傾ける。それがますます笑いを誘う。

 しょうもないことで笑い合っている間に、稜也と理紗先生はさっそく記録ノートを開き、メンバー入れ換えの算段を練り始めた。


「市川が本当に有森の隣に行くってなると、山懸と飯塚が隣同士になってバランスが悪くなっちゃうんだよな。直近の練習では問題なく走れてたけど……」

「優平くんには明日乃ちゃんの隣に移動してもらったらどうだろう。そうしたらほら、二人の間に敏仁くんと澪ちゃんが入るでしょ」

「いいですね。設楽は男子の中じゃ一番遅いし、鈴木さんを含めた三人でカバーできるかも」


 メンバー再入れ換えのプランはすみやかに立案された。これで志穂は叶子の望み通り、叶子の隣で走ることになる。あとは穣を捕まえて事情を話し、まかり間違っても志穂を精神的に追い詰めないよう指導を施すだけだった。もっとも穣は性根が柔らかい──悪く言えばナヨっとしているので、余計な仕込みなど要らないかもしれない。たとえ志穂のせいで地面に叩きつけられても、声高に志穂を非難するような真似はしないはずだ。

 かくして、お膳立ての準備は全面的に整った。


「本当、お前がここまでやる気になるなんて珍しいよな」


 康介は最後の最後まで「珍しい」と連呼し続けた。しつこさに密かな苛立ちを深めながら、それでも叶子は何も言わなかった。いちいち動機の全貌を康介たちに説明してやるのも面倒だった。仲良しごっこを嫌う叶子にしては珍しい行動だというのは自認している。けれどもそれは決して気まぐれじゃないし、叶子の価値観が変容したわけでもないし、単なる同情でさえない。

 志穂に後悔してほしくなかったから。

 心の底で(くすぶ)り続ける情熱の残り火を、叶子の手で絶やしてしまいたくなかったから。

 見てなよ市川さん。うちらの手であんたのこと、このチームに復帰させてやる。口が裂けても「わたしなんか要らない」なんて言わせないようにしてやる。

 決心ごと握った拳に、爪先が食い込んで痛みを発した。初めて味わう武者震いの痛みに、快感に、叶子の魂はかつてないほど燃え盛ろうとしていた。



 十日ぶりに体育着に袖を通して現れた志穂を、クラスの連中は歓迎の眼差しで受け入れなかった。桜子など露骨に「まだやるの?」とでも言いたげな目で腕を組み、練習が始まってもいないうちから志穂を震え上がらせた。二人三脚のトレーニングに移行するや、叶子は率先して志穂のそばへ赴き、縮んだ彼女の肩を強引に組んで足を結んだ。


「有森さん……」

「あんなのに怯む必要ないから。いつも通りに練習やるよ」


 志穂は唇を真一文字に結んだ。体熱に変わった強い決心が、触れた肌越しに叶子の手のひらへ伝わる。スターターを務める佑珂の号令で、一気に地面を蹴った。志穂の足取りは確かに鈍かったが、そのぶん懸命に叶子へ合わせようとしているのが紐の引っ張られ具合から伝わってきた。

 これならいける。

 少しずつ人数を増やして、おおぜいで走る感覚を志穂に掴んでもらおう。

 じきに四人五脚の練習時間が回ってきたので、すかさず穣たちのペアを取っ捕まえた。穣と叶子の間へ志穂を入れて走る練習を、少しでも多く積んでおきたかった。


「ぼくらは極力、市川さんのペースに合わせればいいわけでしょ。やってみるよ」


 穣は取り決め通り、志穂の歩幅や回転数に合わせて巧みに減速した。叶子も真似をして減速を試みた。足の長さや普段の走行感覚に無理やり逆らっているわけで、当然、叶子は走りにくくなる。しかし以前ほど志穂の足取りの重さを実感することもなくなった。志穂自身も走りやすさを自覚したのか、足元に視線を落とすことなく、あごを引いて前方を見据えながら走れるようになった。

 六人七脚、十人十一脚と、段階的に人数を増やしながら練習は続けられた。志穂はとうとう一度も転倒しなかった。代償にみんなは大きな減速を強いられていたが、朱美の言った通り、ここではまず走り切れることの方が先決だ。不自由な環境で走ることに身体が慣れてしまえば、スピードなど後から勝手に上がってゆく。


「いけそう?」


 尋ねたら、隣で志穂がうなずいた。相変わらず真一文字に結ばれたままの唇が、返事をする余裕のなさを端的に表している。けれども彼女が確かに手応えを得ていることは、走り方を見ていれば一目瞭然だった。回転数も、歩幅も、少しずつ伸びてきている。まるで志穂みずから叶子たちに合わせようとしているみたいに。


「よーし!」


 朱美が手を叩いた。


「今日の全員ラン、やってみようか」


 お盆に差し掛かって実家に帰る家庭が増えたのか、集まっている人数は二十人と少ない。たとえ三十人が無理でも、あるいは──。ささやかな願いとともに志穂の背中を押して横一列に並び、スタート線の上で足紐を結んだ。短パンから覗いた志穂の太ももが、汗もろともぴったり叶子の足に密着する。その表面は()けるように熱かった。


「……わたし」


 志穂が小声でつぶやいた。


「走れるかな」

「走れたじゃん」

「そうだね。走れた。わたし、走れるんだ。ぜったい走れるんだ」


 喘ぐように唱えながら、志穂が叶子の腰を掴む。


「ぜったい大丈夫なんだからっ……」


 その細い足に、手に、電撃のような痺れが走ったのを、叶子は敏感に感じ取った。志穂の息は着実に上がっていた。それが何を意味するのか考察を深める間もなく、スタートラインに立った理紗先生が「位置について」と叫んだ。


「用意、ドン!」


 揃えた足の束が地面を蹴りつけた。ざっと大きな音を立てて、叶子たちは一歩目を踏み出した。弾けた砂ぼこりが粒を飛ばしながら舞い上がる。ゴールラインに立つ春菜の姿が、蜃気楼の向こうでぐらりと揺らいだ。


「1! 2! 3! 4!」


 絶叫にも等しい大声で志穂が歩数を刻む。

 そのカウントが十七歩目の「1」で途切れた。

 上半身のバランスが崩れて傾き、支えきれなくなった後ろ足が激しい音を跳ねさせながら滑った。どこから崩れたのかも、なぜ崩れたのかも分からないまま、叶子は理紗先生の吹鳴するホイッスルの音を耳にした。今日、この場でだけは絶対に聴きたくなかった無情な悪魔の悲鳴に、たちまち叶子は多くを悟った。

 もつれた足が重心をはずれ、地面が迫る。


「うわわっ──!」


 恐ろしさのあまり目を閉じて叫んだ直後、擦過音とともに激しい痛みが脳天を襲った。土の苦味が口いっぱいに広がった。必死に手をついて起き上がり、覚悟を決めてまぶたを開いた叶子は、隣へ倒れ伏した志穂が静かに肩を震わせているのを認めた。

 叶子を含め、左サイドの七、八人ほどが転倒に巻き込まれていた。いち早く足の拘束を解いて起き上がった佑珂たちが、慌ただしく叶子のもとへ駆けつけてきた。


「大丈夫!?」

「うちは大丈夫だけど、その……」


 叶子は志穂から目を離せなかった。

 みんな、唇を噛んで立ち尽くしている。志穂を手助けにいく子は誰もいなかった。肩の震えが収まるのを待って、おもむろに彼女が起き上がるのを、叶子は無我夢中で見守った。彼女の顔を見るのが嫌だったけれど、志穂はためらいもなく叶子を振り返って、砂と血に彩られた顔を叶子の瞳にこれでもかと焼き付けた。


「ごめん」


 志穂は泣いていなかった。不気味なほど爽やかで、寂しげで、捉えどころのない面持ちのまま、彼女は叶子をまっすぐ見つめていた。


「ごめんね、有森さん」

「何……?」

「わたし、やっぱり走れなかった」


 ずんと逃れがたい重みを持って、志穂の言葉は叶子を叩きのめした。あまりにショックだったものだから、そこから先、志穂が何を語ったのかは何ひとつ記憶していられなかった。佑珂の手で促されて立ち上がり、いつものように砂を払い、スタートラインへ戻ったことは覚えている。よろめきながら志穂がみんなの輪を抜け出したことも、それから先、志穂の肩を掴んだ記憶がないことも覚えている。やけくそで飛び込んだプールの水が氷みたいに冷たくて、泣きそうな顔で蹴散らしながら泳いだことも覚えている。

 何もかも思い出したくなかった。

 思い出したら最後、飲み込んだ汗も涙も残らず嘔吐しそうだった。

 行き場のない敗北感で胸がいっぱいだった。夕方遅くまで無意味に時間を潰して、家に帰り着くなり家族の反応も無視して部屋に閉じこもった。カバンも着替えも身体も何もかもベッドに投げ出して、ぐったり身を横たえたら、不意に、聞き覚えのないはずの志穂の台詞が頭蓋骨を揺らした。


──『転ぶのが急に怖くなって、足が動かなくなったの。さっきみたいに全然走れなかった。走ってる間ずっと、どこかで誰かがわたしを怒ってるみたいな声が聴こえた』

──『有森さんは何も悪くもないの。わたしが悪いの。ごめんね。こんな結果になっちゃって、ごめんね』

──『わたし、やっぱり30人31脚、走るのやめる』


 あふれ返った記憶の底で叶子は目を閉じた。覚えていなかったふりしてすべて覚えていたことにはあまり驚かなかった。驚くべきところは、他にいくらでもあった。

 そっか。

 だからずっと、大声で歩数を数えてたんだ。

 だからスタートする前、身体が震えてたんだ。

 だから、うちが隣にいたのに駄目だったんだ。


「そっか……」


 今は、それだけの言葉で失意を表現するのが精一杯だった。志穂の口から切り出されるまで、何一つとして自分で気づくことができなかった。このやりきれない敗北感をどう発散すればいいのか、皆目見当がつかない。

 思えば志穂は(さと)い少女だった。みんなの挑戦の迷惑になることを潔く認め、みずから進んで挑戦の座を降りていった。自分の気持ちを犠牲にしてでも、みんなの挑戦の成功を望んだ志穂は、ほかの連中のように自己中心的な子供(ガキ)じゃなかった。道理で彼女の顔にバツをつけられなかったはずだ。本当はとっても大人で、優しくて、燃えるような魂を秘めている子だったのに、こんな結末を迎えさせてしまった。わずかに残っていた一握りの藁さえも引きちぎって、最後の居場所を彼女から奪ってしまった。きっと明日からは、志穂は練習にも来てくれない。そこに再挑戦の可能性が少しも残っていないことを、身をもって思い知らされたから。

 額に貼りっぱなしの絆創膏を叶子は思いきり剥がした。悔しくて、切なくて、ぐしゃぐしゃに丸めた絆創膏の残骸をゴミ箱へ投げ入れた。今すぐ志穂のもとへ行って「ごめん」と謝りたい気分だった。両親のくだらない説教に屈して発する「ごめんなさい」なんかよりも、その三文字は遥かに冷たく、暗い意味を伴って、いつまでも叶子の胃の底で燃え続けた。






「私のこと何だと思ってたの!」


▶▶▶次回 『25 直向佑珂と臆病な心の壁【1】』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ