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スタンバイ!! ──岩戸小学校六年一組、30人31脚への挑戦  作者: 蒼原悠
3R 少しでも前へ、少しでも先へ
25/63

23 辛口叶子と初めての挫折【3】

 



「──転倒、減ったねぇ」


 十人十一脚で疾走する一組の姿を前に、朱美が独り言を垂れた。

 ゴール線上の稜也がタイムを読み上げる。三十メートル、六秒三十。こちらの仕上がりは上々だ。シャーペンの芯を出してノートに記録を書きつけつつ、叶子は隣の朱美を見上げた。満足げに足紐を取ってスタート地点へ戻る子供たちを、彼女はずいぶん浮かない顔で見つめていた。


「今さら十人十一脚なんかで転ばないですよ」


 それとなく同意してみると、「それもそうだけどね」と朱美はかぶりを振った。


「三十人ランでも転ばなくなってきたじゃん。昨日なんか初めて、転ばずに三十メートル走り切れたし」

「スピードはめちゃくちゃ遅かったですけど」

「スピードなんかそのうち上がっていくから心配してないよ。一度でも走り切れたら、あとは身体が感覚を掴んで勝手に速く走れるようになる」


 そういうものだろうか。そうだといいのだけれど。

 次の十人がスタートラインに並び、理紗先生の号令で走り出す。「1、2、3、4、5、6、7、8!」──勇ましい掛け声が朝の校庭に響き渡る。蹴り立てられた砂煙がもうもうと立ち上がる。互いに肩を組み、腰を抱き、一枚の壁となって風を切るみんなの姿は、まるで足枷を失ったみたいに軽やかだ。

 この場合の『足枷』が何を意味するのか、なんとなく叶子には分かっていた。朱美が「転倒が減った」と口にした理由も。


「悔しいね」


 また朱美がつぶやいた。


「これじゃまるで、志穂ちゃんが抜けたおかげで走れるようになったみたいだ」


 なにも朱美が悔やむことじゃないと叶子は思った。志穂が抜けた途端に転倒率が下がり、スピードが上がったのは、記録ノートからも明らかになる事実だった。そのデータは同時に、三十人ランでの右サイドの転倒原因の多くが志穂にあったことを、残酷なほど如実に物語っていた。

 事実から目を背けたって何も始まらない。転倒の原因になりたくなければ志穂自身がレベルアップを図るしかない。そのことを志穂が理解していないと叶子は思わなかった。これまでだって、サボることばかり考える一部の男子や文句ばかり言う一部の女子に比べたら、志穂の練習態度は何倍も真面目で真摯で、一生懸命だったから。

 ただ──確かにタイムは向上していない。

 お世辞にも結果が出ているとは言えない。


「私としては、あの子も含めて五十メートルを走り切ってほしいけどね。他のみんなはともかく、志穂ちゃん本人がそれを望むかどうか……」


 朱美の目は驀進(ばくしん)する十人を捉えていなかった。横一列の影がゴールラインを踏み越え、稜也が「六秒五二!」とタイムを読み上げる。走り終えた子たちが悲喜こもごもの反応を披露する。あの中に志穂がいたらどんな態度を取っていただろう、と叶子は思った。即興の脳内シミュレーションで描写された志穂は、笑うでもなく悲しむでもなく、突っ立っていた。誰からも声をかけられることのない輪の外側で。

 休憩を挟んだら全員ランをやると先生が言った。前回の練習で三十メートル走破の目標をクリアしたので、いよいよ今日からは本命の距離、五十メートルの走破が目標になる。今日のメンバーは全部で二十五人。夏休み中盤にしては悪くない人数だ。このままであってほしいものだと思いつつ、かいた汗を補うつもりで水をぐいと飲んだら、反動で急にトイレへ行きたくなった。


「ごめん、トイレ」

「行ってらっしゃーい」

「漏らすなよ」

「誰が漏らすか!」


 ニヤニヤ笑いの康介に見送られ、怒りの一発を我慢しながら、叶子は涼しい木陰を出て校舎に向かった。クリーム色の校舎は日差しを浴びて眩しく燃えている。あんまり目に痛かったものだから、校舎の傍らに見知った顔の子が立っていることに叶子は一瞬、気づかなかった。


「……()()来てたんだ」


 声をかけると、彼女はうなずいた。

 志穂だった。およそ運動に向かない普通の私服姿で、二つの校舎を繋ぐ渡り廊下の下にたたずんでいた。そこだけちょうどトンネルみたいになっているので、日なたの校庭から遠目に見ると志穂の姿は影に同化してしまい、ほとんど視認できない。


「いつ来たの」

「練習始まってから、ずっといた」

「ずっとこんなとこに? 何度も言ってるけどさ、先生のとこ行けばいいじゃん。きっと先生なら何も言わないよ」

「出ていきづらいよ。練習休んでることになってるもん、わたし」


 察しの悪さをなじるみたいに志穂は苦笑した。

 叶子は溜め息を足元へ落とした。この会話をするのも数度目だ。やり取りの流れも毎回、きっちり同じ。みんなの前に姿を現すことを、志穂は頑なに拒み続けている。

 志穂が練習を休むようになってから今日で一週間になる。その間、志穂はこうして毎日のように練習へ姿を見せていた。ほとんどのクラスメートはそのことに気づいていたと思う。一組以外に誰の姿もないはずの校庭の片隅に、私服姿の子がぽつねんと立っていれば、誰だって違和感を抱くものだ。もっとも気づいていたからといって、誰かが話しかけにゆくわけでもない。志穂は大抵、誰とも目を合わさず、練習が終わればみんなの目を逃れるようにひっそりと校庭を立ち去ってゆく。


「まぁ、市川さんの好きなようにすればいいけどさ」


 居心地が悪くなって叶子は腕を組んだ。


「一応、休憩が終わったら全員ランやるってよ。今日から五十メートルにトライするって」

「うん。聴こえたよ」


 志穂はうつむいた。日差しの届かない通路の下で、彼女はまだ苦笑したままだった。


「みんなすごいね。あっという間に三十メートル走れるようになっちゃった。わたしがいる間は十メートル走り切るのもやっとだったのにな」


 なんと言葉を返せばいいのか分からず、叶子は目を伏せた。志穂の苦笑があまりにも痛々しくて、まともに見ていることができなかった。

 じりじりと校舎が焦げてゆく匂いがする。すっかり日は高く昇って、起き出したセミの大声が鬱陶しく壁に反響している。手のひらサイズの虫にすら押し負けるほどの小さな声で、志穂は続けた。


「みんなの言うとおりだ。……わたし、やっぱり要らないね」


 両親の顔が不意に叶子の脳裏をよぎった。身をすくめた叶子を睨みつけ、彼らは相変わらず声高に喚いていた。──夏休みの宿題は進めてるのか。毎日遊び歩いてばかりじゃないか。そんなんじゃ中学の勉強についていけなくなるぞ。勉強のできない子なんか要らない。

 ()()()()

 その四文字が一際ぐわんと響いた。

 衝動的に叶子は叫び返した。


「やめなよ。要らないとか何とか、そういうこと言うの」


 志穂が目を見開いた。言った叶子自身も驚いた。彼女に向けて言ったつもりはなかったのに、その一瞬、両親に対する憤りと志穂に向き合う心の方向性が見事に一致していた。


「あんなやつらに自分の価値を勝手に決められてムカつくって思わないわけ? 見返してやればいいじゃん。頑張って頑張って、走れるようになって、市川さんのことバカにしたやつら全員に土下座させてやればいいじゃん。そしたらみんな二度と『要らない』なんて言わなくなるよ」

「それは……そうだけど」

「市川さんは黙ってばっかりいるからいけないんだよ。もっとはっきり言いたいこと言わないと、誰も聞いてくんないよ。隣の子が走りにくいっていうならメンバー変えるし、もっと練習したいっていうなら武井とか佑珂が喜んで付き合うよ。黙って遠くから練習見てないでさ、言いたいことがあったらうちらにちゃんと言ってよ」


 志穂に特別な同情を寄せたわけじゃない。ただ、自分は要らない、なんて言葉を誰かの口から聞きたくなかった。そうでなくても世界は否定の言葉であふれ返っているのに、わざわざ自分で自分を傷付けるなんて大バカだ。だいたい、あんなに練習を頑張っていた志穂が、さして練習を頑張ってもいなかった連中に卑下されること自体、叶子には最高に我慢ならない。そんな矛盾は絶対に解消されなくちゃいけない。でないといつか、叶子自身が痛い目に遭う。


「有森さん……」


 志穂はまん丸の目で叶子を見つめた。

 やがて、その瞳に潤いが差したかと思うと、すぐにそれは大粒の涙になって、次々に志穂の頬を駆け下りた。

 ごめんね、ごめんねと連呼しながら志穂は涙を拭った。ちょうどハンカチを持っていたので「使う?」と尋ね、志穂がうなずくのを待って手渡した。トイレに行くつもりだったことをそこでようやく思い出した。


「あのね」


 嗚咽の合間に志穂は訴えた。


「練習が終わったらでいいの。わたし、有森さんと話したい。いままで誰にも言えなかったこと、いまの有森さんになら話せる気がする。有森さんには迷惑かもだけど、もしも、聞いてくれるっていうなら……」



 岩戸小の敷地内には、体育館に隣接して二階建ての学童保育所が建っている。夏休みのあいだは基本的に無人なので、訪れる人の目につくこともない。

 約束通り、叶子はプールには向かわなかった。夏海たちの誘いを断り、隠れていた志穂の手を取って建物の裏手に連れ込んで「ここならいいでしょ」と尋ねた。(しお)れた面持ちのまま、彼女は「うん」と頬を緩めた。

 二人して建物の壁にもたれかかって、地面に腰を下ろした。プールの歓声や水音が途切れ途切れに聞こえてきていた。まるでこの世のすべての喧騒から耳を塞ごうとするみたいに、志穂は両膝を腕で抱え込んで、白く光る地面を見つめながら話を切り出した。

 走るのが苦手なことは最初から分かっていた。30人31脚だって本当はやりたくなかった。どう足掻いても自分がみんなの足を引っ張ってしまうことは、競技の映像を見た瞬間から予想できていた。それでも一組のみんなは圧倒的多数の賛成で参戦を決めた。ふだん親しくしている運動の苦手な子たち──雪歩や福士(ふくし)未由(みゆ)鈴木(すずき)(みお)でさえ、ふたを開けてみれば賛成に手を挙げていた。今になって思えば、この時点からわたしの孤立は始まっていたのかもしれないと、志穂はうつむきながらに話し続けた。


「試しに走った五十メートル走もぶっちぎりで遅かったし、やっぱりわたしなんてダメだって思った。でも、大迫くんのお母さんが『個々人のスピードはそこまで重要じゃない』って言ってたのを聞いて、少し、安心しちゃった。こんなわたしでもみんなの力を借りれば一緒に走れるかもしれないって、そのとき、誤解しちゃったの」


 二人の監督を迎えて本格的に練習が始動した日、五十メートルのタイムの遅さに肩を落とす佑珂を、朱美はさまざまな言葉で励ましていた。30人31脚のためにメンバーを選抜したわけじゃないし、速い子と遅い子がいるのは当たり前。それをみんなで補い合って走るのが30人31脚の本質だし、醍醐味でもあるのだと──。その言葉を偶然にも耳にした志穂は、以来、彼女の言葉だけを糧にして、自分なりに一生懸命に練習を積んだ。みんなの力を借りることは何も恥ずかしくない。もはや参戦をなかったことにはできないのだから、それならせめて精一杯の努力を重ねて、少しでも速くなって、みんなの勝利に貢献しよう。その健気な決心だけが、数か月間にわたって志穂の努力を支えていた。

 けれども現実は志穂の思うようにはならなかった。タイムが一向に向上しないばかりか、ようやく漕ぎつけた三十人ランでは足をもつれさせて何度も転んだ。あまりに志穂ばかりが転倒の原因になるので、気づけば志穂のいる右サイドは転倒や総崩れの温床になってしまった。はじめのうちは転倒のたびに励ましの言葉をかけてくれた周囲の子たちも、十回、二十回と転倒を繰り返すにつれて、次第に口を閉ざしていった。

 志穂の両隣は二名の男子、金丸知樹と飯塚(いいづか)優平(ゆうへい)で固められている。優平は駿や康介に並ぶクラス指折りの俊足だし、知樹もひょうきん者だが頭の回転は速いほうだ。おそらく志穂が転倒の原因であることにも早くから気づいていたはずだが、二人は決して志穂を糾弾しなかった。その結果、志穂以外の子たちが悪者にされた。未由、拓志、彩音、そして実行委員の稜也……。たまたま右サイドに配置されていただけで何も悪くなかったはずの子たちが、志穂の代わりに非難された。知樹に至っては万莉に難癖をつけられて左サイドへ飛ばされ、入れ替わりでクラス男子最速の駿が隣に配置された。

 クラス内トップクラスの健脚に挟まれながら、クラス最遅の女子が走る。どう考えても無謀な配置だったが、志穂は声を上げられなかった。その結果、顔面から地面に突っ込んだ。今度ばかりは誤魔化しが効かないと危機感を覚えた矢先、桜子が『マジさぁ』と声を上げた。


──『市川さんのところから転ぶの()()()?』


 志穂は絶望で前が見えなくなった。志穂のせいで転び続けていたことは、初めから桜子に露見していたのだ。考えてみれば無理もないことだったが、それは同時に、最後の隠れ蓑が失われて志穂の罪状が残らず明るみに出ることも意味していた。

 もはやみんなの同情は望むべくもない。もちろん手助けだって望めない。志穂の心は音を立てて折れた。叶子に支えられて保健室へ向かいながら、絶望にまみれて泣いた。みんなと一緒に走りたくなかった。これ以上、この不器用な足でクラスのみんなに迷惑をかけたくなかった。けれどもその思いは理紗先生にうまく伝わらず、こうして一時的に練習を休むという体にされてしまった。


「なら、なんで毎日来てたわけ?」


 叶子は尋ねずにはいられなかった。居場所をなくして30人31脚から遠ざかった過去と、性懲りもなく練習に顔を出し続けている現実が、まったく矛盾しているようにしか思えなかった。居場所のない仲間のところになど、叶子なら絶対に寄り付きたくない。大嫌いな親や妹のいる自宅のように。


「わたし、諦めきれてないのかも」


 志穂は笑った。小さな光を放った水の粒が、また一つ、頬を駆け下りて砕け散った。


「あれだけみんなに迷惑かけたのに、まだみんなと一緒に走りたい気持ち、忘れられてないのかな……。なんでか分からないけど、気づいたらここに来ちゃうんだ」

「でもさ、そもそも参戦には反対したんでしょ。30人31脚のこと嫌いじゃないの」

「嫌いじゃないよ。むしろ、かっこいいなって思った。わたしもみんなに混じって、あんな風にゴールに飛び込めたらどんなに気持ちいいだろうって思った。でも、そんなこと絶対できないって分かってたから、賛成できなかった」

「今でもまだ、絶対できないって思ってる?」

「分かんない。山懸くんも飯塚くんもすっごく速いから追いつけなかっただけで、隣の子次第では走れるかもしれない。だけど、こんなに迷惑かけ続けのわたしなんかと一緒に走ってくれる子、いまさらいるとは思えないし……」


 その返答に志穂の本心がすべて詰め込まれていると叶子は思った。志穂は走るのが嫌になったわけじゃない。才能や環境や仲間に恵まれず、足がすくんでしまっているだけだ。

 二度と「わたしなんて要らない」と言わせないために、叶子ができることは何だろう。どうすれば志穂の望むかたちで、彼女をチームに復帰させられるだろう。

 鼻をすする志穂の隣に座り込んで、一緒に空を眺めた。

 それほど悩まないうちに答えが降ってきた。


「──あのさ」


 叶子は志穂に向き直った。


「うちと並んで走ってみない?」


 志穂は目を数回しばたいて、目尻の(やに)を指先で取り去って、きょとんと叶子を見つめ返した。






「わたし、走れるんだ。ぜったい走れるんだ」


▶▶▶次回 『24 辛口叶子と初めての挫折【4】』

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