22 辛口叶子と初めての挫折【2】
せっかくプールで汗を流しても、校門を出る頃にはふたたび汗だくに逆戻りだ。カンカン照りの日差しは容赦なく地平を焼き尽くす。身体中の水分が飛んで、空を見上げる気力さえも蒸発する。
「そのへんで休んで行こうよ」という夏海の提案で、叶子たちはいつものように連れ立って供養塚児童公園を目指した。公園の南側には桜の木がいくつも植わっている。青々と葉をたくましく茂らせた木々が、こんなにも頼もしく思える日は他にない。我先にと木陰に飛び込み、生ぬるい息をこぼしながら身体を休めた。
「そういや市川さん、結局大丈夫だったのかなぁ」
水筒の中身を荒々しく一気飲みした山下夕那が、口の端を拭いながら何気なくこぼした。みっともないと思ったが、面倒なので叶子は指摘しなかった。
「あー。ひどい転び方だったもんね」
「それもそうだけどさ、土井たちの追い打ちもだいぶキツかったじゃん。わたしあんなこと言われたら桜子のこと殴り飛ばしてるよ」
「おっかねー。さすが男勝りの夕那」
「敵に回したくないよねー」
のんきな口ぶりで夕那を茶化した夏海たちが、「で?」と話の矛先を叶子に向けた。叶子はとっさに、後ろをついてきていた佑珂を見やった。口下手な自分よりも佑珂が説明すべきだと思った。
「んとね、あのあと理紗先生が保健室に様子を見に行ってくれたんだけど……」
小さな声で佑珂は切り出した。
「市川さん、もう走りたくない、30人31脚やめたいって言ってるんだって。先生がなだめてもちっとも落ち着かなくて、ひたすら泣きながらそればっかり繰り返してたって……。それで、どうにもならなかったから、先生が付き添って家に帰したみたい。とりあえずしばらく練習は休もうっていう話になったって聞いた」
「えー、何それ」
「叶子、マジなの?」
「嘘なわけないでしょ」
呆れ気味に叶子は応じた。いま佑珂が話したことは全部、練習終わりのミーティング中に、理紗先生が実行委員みんなの前で報告したことだ。佑珂が嘘をつく必要など何一つないのに、こういうとき、夏海たちはやたらと叶子にばかり事実確認を求める。
「やばいね。市川さん完全に病んでるじゃん」
「やっぱわたしが土井を殴ってくるしかないな」
「やめてよ、夕那はすぐにそうやって暴力で解決しようとするんだから……」
「祥子みたいに陰で『よくないよ』って言ってるだけじゃ何も解決しないんだよ」
「そうは言ってもケンカはよくないしっ」
口々に好き勝手なことを言い合う彼女たちが、果たして志穂の離脱宣言をどこまで真剣に捉えているのかは分からない。みんなは知らないはずだ。保健室から戻ってきて報告する間、いつものように微笑を浮かべる理紗先生の頬が青ざめていたことを。泣きじゃくる合間に志穂が垣間見せた、氷みたいな心の冷たさを。
一組は三十二人の学級だ。30人31脚への出走条件は、最低でも三十人のメンバーを確保すること。したがって一組の場合、三人以上が欠ければ出走条件を満たせなくなる。すでに克久が練習へ参加できなくなっている上、このまま本当に志穂がチームを抜けてゆけば、あとたったひとり抜けただけでも一組のチャレンジは自動的に失敗だ。そういう危険な瀬戸際に立たされている認識を、たぶん、大半の子は持っていない。持っているのは実行委員くらいのものだろう。
「だいたいさぁ、もっと叶子の方からガツンと言った方がいいんじゃないの。桜子みたいなのは言わせ始めたらどこまでも文句言うよ」
胸元を掴んで風を送り込みながら、夏海が口を尖らせた。夕那ほどではないにしても夏海だって十分ガサツだと叶子はいつも思う。
「そういうって実行委員とか先生とか監督の仕事だって、あたし思うけどなー」
「うちらの努力不足って言いたいの?」
「いや、実行委員が悪いとは思ってないけどさ。だってそうじゃん。叶子はともかく福島さんが何言ってもあいつら耳貸さないだろうし、かといって男子二人もそこまで発言権の強いやつらじゃないし」
「……まぁね」
康介はバカにされるだろうし、稜也は初めから相手にされない気がする。叶子は苦いつばを喉の奥へ押し込んだ。なにも桜子に限ったことじゃなく、おそらく大概の子は同じような態度を取る。端的に言えば、実行委員のメンバーには威厳が足りない。押し切る力も足りない。たまたまそこへ付け込んできたのが桜子たちだった、というだけのことだ。
「あんまり叶子が何も言わないなら、あたしらがいろいろ言っちゃうかもよ」
「ねー。そろそろムカつくもんね、あの子たちの界隈」
「バカ男子の練習サボりが目立ってるだけで、あの子たちだってけっこう適当にやってるもんね。理紗先生の目は騙せても私たちの目は騙せてないよ」
「バレてないって本気で思ってたりして」
「あはは! 有り得る!」
「告発してやろーよ。練習サボってるところスマホで撮ってさ、みんなの前で先生に見せて……」
「そしたらスマホ持ってたあたしたちも怒られるじゃん」
「それはほら、必要悪ってやつでしょ!」
「多分それ、意味が違う気がする」
「やめなよー。そんな風に覚えたての難しい言葉を使いまくってると桜子みたいに見えるよ、夕那」
「うわー! それは絶対やだ!」
心地のいい木陰に耳心地の悪い言葉が飛び交う。みんなして威勢のいいことばかり言って、どうせ誰も実行になんて着手しないのにな。叶子は嘆息して、隣の佑珂を見た。困ったように佑珂も笑い返してきた。みんなの話がヒートアップするたび、叶子も佑珂もこうして置き去りにされる。一年以上も繰り返してきた慣れっこの展開だった。
大人ぶってリーダーを気取る夏海、アホなくせに血気盛んな夕那、あっけらかんとした口ぶりで皮肉を飛ばしまくる彩音、そして穏当なことしか言わない祥子。そこに冷静なツッコミ担当の叶子を加えれば、確かにバランスの取れた五人組が完成する。逆に言えば、叶子がツッコミの役割を放棄すればするほど、叶子以外の四人は好き放題な方向へ暴走してゆくわけだ。そこでは誰だって批判の対象にされる。桜子だって、他の女子だって、男子だって、もちろん先生だって。
なんとなく輪に混じっていたくなくて、叶子は少し浮かせた尻を佑珂の方へ寄せた。晴天を泳ぐ雲の輪郭を見つめていたら、不意に、痛みに歪んだ志穂の横顔が雲の陰影に浮かんで、すぐに消えていった。
──うちらに同情されてるって知ったら、あの子、どんな顔をするだろ。
嬉しいなんて思わないかもね。
叶子は静かに冷笑した。クラスメートの批判にも飽きたのか、夏海たちが「ドッジやろうぜ!」などと言い出したので、浮かべた冷笑はそのままに「ボールはどっから持ってくるんだよ」とツッコミを入れた。ようやく自分の役回りが戻ってきたことに心が深い安堵を覚えていた。けれどもどんなにツッコんでも、笑っても、水回りの隅にこびりついた毒々しいカビみたいに、いちど感じた決定的な居心地の悪さは拭い去れなかった。
東京仁愛医科大学附属狛江病院、というのが叶子の両親の勤め先の病院らしい。市の北西のはずれに建っている病院で、物心ついて以来、叶子自身は一度も世話になったことがない。どうやらそこは医系大学の設置する大学病院というやつで、母体の大学からは毎年のように医師や看護師の卵が流れ込んできて実戦経験を積み、外の世界へ羽ばたいてゆくようだ。医療業界を目指す気など毛頭ないから、それ以上のことは知らないし興味もない。こうして最低限のことを知っているのも興味本位からではなく、両親の話を嫌というほど耳元で聞かされ続け、自然と頭に入っただけのことだった。
毎年、夏頃になると、食卓での両親の雑談は研修医や新米看護師への愚痴が過半を占めるようになる。あの新人が使えないだとか、あの新人は勉強する気がないだとか、社会人としての基礎がなってないだとか、医師としての倫理観に欠けるだとか。知ったことかと思いつつも仕方なく聴いているふりをして首を振っていると、思わぬ拍子に非難の矛先が叶子へ向けられたりする。夏休みの宿題は進めてるのか、毎日遊び歩いてばかりじゃないか、そんなんじゃ中学の勉強についていけなくなるぞ──。
「うるさいよ! どんなペースで宿題進めようがうちの勝手でしょ! なんでもかんでも偉そうに口出ししないでよ!」
あまり心の余裕がなくて、今日はついつい怒鳴り返してしまった。たちまち両親は黒目をキュッと狭めて、凄まじい声量で説教を始めた。こうなると多勢に無勢、叶子には勝ち目がない。妹の千秋はテレビに見入るばかりで議論に参加する気もない。言い返したそばから感情的に否定されることを何度も繰り返した末、とうとう叶子は空になった食器を流しに放り込んで自室へ逃げた。話の通じる相手じゃないと分かっていたのに議論を挑みかかった自分の愚かさを、心の底から恥じた。
かっかと火照っていた肋骨の奥が、抱き締めた布団に熱を吸われてクールダウンしてゆく。痛む目尻を指ですくい、戦闘態勢の終結に浸りながら、叶子は天井を見上げた。妹のことは決して怒らないくせに叶子ばかりを目の敵にする、憎たらしい両親の顔が天井に映った。彼らは『勉強のできない子なんか要らない』などと感情的に叫んでいた。叶子は指を伸ばして、両親の顔の上に思いっきり大きくバツを描いた。
大嫌い。
この分からず屋。
うちが毎日どんな思いで実行委員の仕事してるか、みんなのそばで作り笑いを浮かべてるか、想像する気もないくせに。
だいたい叶子の背負う役目はいつだって損なものばかりだ。実行委員にしろ、仲間内のツッコミ担当にしろ、結局は緩衝材としての仕事を求められている。放っておけば自分勝手に走って行ってしまうみんなを現実へ繋ぎとめるために、時には憎まれ、時にはみんなの輪の外側に立たされる。望まない緩衝材に徹し続ける叶子の立場からすれば、やつらの中身なんてどれも五十歩百歩だ。物陰で愚痴を叩いて、本人が弁明できない場所で批判して、いっときの憂さを晴らして悦に入るばかりじゃないか。そもそも夏海たちは声高に桜子を非難するが、ああやって公園の片隅で悪口を言い合う夏海たちに批判の権利があるだなんて叶子には思えない。どいつもこいつも似た者同士、どんぐりの背比べ。桜子に投げかけた非難が自分たちに跳ね返ってこないだなんて、どうして図々しく思い込めるのか。
仲良しごっこなんてクソ食らえ。
みんなみんな、大嫌いだ。
抱き締めた布団に爪を立てて、叶子は目を閉じた。暗闇に堕ちた視界を見回しては、誰かの顔が浮かぶたびに大きくバツを描いてやった。この子は信用できない。この人は性格が合わない。こいつは言動が幼くて見ていられない。
この子は──。
勢いのまま志穂の顔にもバツを描きつけようとして、手が止まった。
叶子はうっすらと目を開けた。たちまち、まぶたの隙間から現実世界の景色が流れ込んできて、叶子の断罪タイムは終わりを告げた。急にむなしくなって吐息に溺れながら、無理だ、とつぶやいてみる。
「市川さんは……」
叶子の振りかざす理屈では、志穂の顔にバツをつけられなかった。彼女は誰かを悪者にしなかった。しいて言えば、いつも非難の矛先を自分に向けていた。叶子に支えられて保健室を目指しながら、嗚咽の合間に病的なほど「わたしのせいだ」と繰り返していた。もうやめたい、わたしのせいだ、わたしがいけないんだ。まるで壊れた音響機器みたいに、そればかりを。
どうしてあんなに自分を責めるのだろう。
それこそ朱美が言い添えた通り、志穂が戦犯だと決まったわけでもないのに。
叶子とも、佑珂とも、叶子の嫌う大多数の連中とも違う。叶子の倫理観では志穂の性格をうまく説明できない。そういえば今日、一緒に保健室に行ってあげるまで、ほとんど話したことも遊んだこともなかったな。あの子は本気で30人31脚を辞めたがってるのかな。もっとじっくり話を聞けばよかったな──。バツの描かれなかった脳内の志穂に黙って語り掛けていたら、くたびれたまぶたが段々と重みを増して、促されるままに叶子は目を閉じた。シャワーを浴びてスウェットに着替えるのも億劫なほど、心も、身体も、疲れていた。
「やめなよ。要らないとか何とか、そういうこと言うの」
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