21 辛口叶子と初めての挫折【1】
子供の定義って何だろう。
そう問われたら、叶子は「自分のことだけ大事にするやつ」と答えることに決めている。
連中は清々(すがすが)しいほど自己中心的だ。気に入らなければ文句を言うし、気に入る結果になるように改変を加えようとする。叶子を取り囲む人間たちはいつだってそうだった。思い通りにならない長女を両親は叱りつけ、性格の合わない姉の前で妹はろくに口を利かず、クラスの連中は何かにつけて不平を垂れては叶子たちを振り回す。
30人31脚の新たな並び順を稜也が発表したときなど、ガキどもの集合体──否、六年一組の反応は非難轟々もいいところだった。
「おい、ほんとに俺を遠くに飛ばす気かよ!」
「男子苦手って言ったのに隣に男子いるし!」
「確かに端は嫌だって言ったけどさぁ」
「よりによってクラス一番の人が隣なんて……」
「まぁまぁ、とりあえずこれでやってみようぜ。走ってみなきゃ相性だって分かんねーよ」
当事者たちの嘆きを康介がなだめる横で、稜也は浮かない顔で突っ立つばかりだった。今回の組み換え案は稜也と克久が編み出したものだと聞いている。そして、共同提案者の克久が今後、30人31脚の夏休み練に顔を出すことはない。あの稜也もこんな顔をすることがあるのかと、隣へ立ちながら叶子は驚きを禁じ得ないでいた。
克久の件についても、理紗先生の口から説明された。すでに事情を知らされていた実行委員と違って、みんなの反応は様々だった。少なくとも「可哀想」といって眉をひそめている子の姿はなかったと思う。練習をサボれて羨ましいとでも考えているのだろう。鉄壁の仮面の裏で叶子は冷笑を噛み締めた。そして同時に、自分はそんな奴らの同類じゃない、という意識を拳に込めて握り固めた。
これまでろくに話したこともなかったが、いま思えば叶子と克久は実に境遇が似ている。ただ、選んだ道が違った。叶子は面倒な親を突っぱね続け、克久は親の軍門に下った。30人31脚というみんなの目標よりも、親の前で自分の身を守ることの方を大事にしたわけだ。それが悪いことだなんて叶子は言わない。ただ、弱いな、と思うだけだ。
うちはみんなとは違う。
いつまでもガキのままでなんていたくない。
自己防衛にばかり終始しない、ちゃんとした大人になってやる。
実行委員として30人31脚の練習に勤しむ間、その決意を忘れたことは一度もない。与えられた役目も立派に果たし続けているはずだ。練習内容に文句を言う子がいればなだめに回ったし、タイム計測の手伝いを頼まれれば従ったし、練習終わりのミーティングでも積極的に改善提案を畳み掛けた。自分の力不足のせいで練習が上手くいかない、成果が出ないなんて、誰にも言わせたくなかった。
「へへ、ありがとう叶子ちゃん」
「叶子ちゃんすごい!」
「私も負けないように頑張らなくちゃ」
叶子がクラスに貢献するたび、佑珂は満面の笑顔で叶子に感謝する。その眩しすぎる笑顔が糧になって、次も頑張ろうと思える。たとえ30人31脚への挑戦が成功しなくても、佑珂が笑っていてくれるのならそれでいい。叶子の秘めた決意と願いは、実行委員を引き受けると決めてから数ヶ月が経った今も、少しも色あせてはいなかった。
「ピリ────ッ!」
ホイッスルの絶叫が校庭にこだました。
またか──。はずみで転ばないよう慎重に減速を試みつつ、視界の右端でバタバタと崩れ落ちてゆく人影を叶子は見た。一日に数度しか試みることのない三十人でのランは、今度も稜也のいる右サイドから転倒を起こした。
「おいおい何度目だよ、右側から崩れるの」
「通算十七回目」
「すげー、よく数えてたな。さすが人間電卓」
「こんなことで褒められても嬉しくないね」
漏れ聞こえてくる金丸知樹や澤野貴明の口ぶりはまるっきり他人事だ。実行委員たるもの、彼らのように他人事ではいられない。止まるや否や足紐を外し、転倒したメンバーのもとへ叶子は急いだ。一足先に駆け付けた理紗先生や監督の朱美が、折り重なってもがく子供たちを起こしにかかっていた。
「ひっ……っく……う……ぅ」
すすり泣きながら立ち上がった子の顔は血だらけだった。クラス一の鈍足女子、市川志穂だ。
「どうしたの市川さん!」
「顔、打った?」
「鼻血めっちゃ出てるじゃん」
口々に周りから声をかけられても、志穂は応答すら示さない。転倒の瞬間を叶子は思い返した。あのとき、真っ先に足をもつれさせて倒れ込んだのが志穂だった。腕をつく間もなく地面に叩きつけられた彼女の体育着は、ものの見事に泥の色と同化している。
「と、とりあえず顔拭いて、保健室に……」
おろおろと佑珂が呼びかけた途端、志穂は肩を跳ね上げた。佑珂の背後に立っていた桜子が、髪を掻きむしりながら「はぁーあ」と大袈裟な溜め息を吐き散らかしたのだ。
「マジさ、市川さんのところから転ぶの何度目? うちら毎回のように市川さんのせいで体育着を汚されてるんだけど」
彼女の服も確かに泥まみれだった。「ちょっと……!」と佑珂が声を上げかけたが、桜子は小柄な佑珂など眼中にも入れなかった。ついでに貴明が小声で「十七回目」と答えたのも無視した。
「頼むからもうちょっと真面目に走ってくれない? 服を汚されるだけならまだしも、市川さんのせいで怪我とかしたくないんだよね。特に突き指とかまっぴらごめんだし」
「ほんとだよ。もっとさ、周りのこと考えて走ってよ」
仲間の明日乃が続く。志穂の顔はいよいよ真っ青になった。土気色の涙と血にまみれながら立ち尽くす志穂をかばうように、「あのねぇ」と声を荒げながら朱美が割り込んできた。
「そういうのやめなよ! 私たちはあら捜しをするために全員ランをやってるわけじゃないんだよ。だいたい志穂ちゃんが原因って決まってるわけでもないし、桜子ちゃんが転倒の原因になることだってあるんだからね」
「……すみませんでした」
朱美の形相を伺った桜子は、やや不満げに身を引いた。
嘘だ。本気で「すみませんでした」なんて言っているわけがない。彼女はただ、空気を読んで長いものに巻かれただけ。そしてそれはクラスのみんなも同じだと叶子は思う。たとえ桜子のように口には出さなくとも、誰もが志穂を曇った目で見ている。そうは言ったってこいつが戦犯だよな──と、目の前の小さなスケープゴートの糾弾を望む空気が蔓延している。
「ほら、ぼさっと立ってないでスタートに戻ろう! もう一本やるよー」
朱美の力強い掛け声に従い、みんなは志穂の包囲を解いてスタートラインを振り返る。たまたま志穂の近くに立っていた叶子は、動こうとしたところを朱美に呼び止められた。
「ちょっと頼まれてほしいんだけど。この子のこと、保健室まで連れて行ってもらってもいいかな。脳震盪とか起こしてたら怖いからさ」
「いいですよ」
「気にしないでも大丈夫だからね、志穂ちゃん。志穂ちゃんが頑張ってることは私らも知ってる。あんな声に負けちゃダメだよ」
朱美の優しい声に頭を撫でられても、志穂はぐずぐず泣くばかりで首すら振らない。やりにくいなと顔をしかめつつ、彼女の骨ばった背中を押して、叶子は校舎を見上げた。焼けるような日差しが二人分の濃い影を地面に描く。叶子の腕に支えられ、よろめきそうな格好で志穂は歩き出した。
倒れた恐怖や痛みで泣く子を見たのもこれが初めてじゃない。手足を縛られた状態で顔から地面に突っ込むのだから、誰だって怖くて痛いに決まっている。だから志穂が特別ダメな子とも思わないし、弱っちい子だとも思わない。それでもこんな風に心の弱い子は、すぐに桜子みたいな連中のターゲットにされる。志穂のような目に遭いたくなければ強者を装うしかないのだ。たとえば、自分みたいに。
「痛くない?」
痛々しい沈黙が嫌になって、尋ねた。純粋な心配の割合は半分くらいだった。志穂は肩を震わせ、ひっく、としゃっくりをした。
「痛い」
「どこが痛むの」
「胸、とか」
「顔じゃないんだ?」
「顔も痛いけど、胸……ずきずき痛んで苦しいよ」
たった十メートルも走破していないのに、胸が痛むなんて奇妙だ。おまけに胸を強打したわけでもない。眉をひそめた叶子は、ふと、ほとんど声にならないほどの音量で志穂が何かを口走ったのを、彼女の背中越しに感じ取った。
「何?」
問い返したら、志穂は首を横へ振り回した。
「気になるじゃん。もう一回言ってよ」
「……ない」
「えっ?」
「……もう……たくない」
砂煙のなかで志穂は呻いていた。
「もう、走りたくないよ」
聞き取れたのはそこまでだった。嗚咽に声を絡め取られ、ふたたび志穂は泣き始めた。隊列を組みつつあった一組の子たちが何人も振り向き、不審げな目つきで叶子を見た。疑いをかけられた叶子はたまったものではなかった。やめてよ、うちは何もしてない。勝手にこの子が泣き出しただけで──。必死に志穂の背中を押して校舎まで連れ込みつつ、背中の熱さに驚かされながら、たったいま志穂の口走ったことを慎重に思い返した。
聞き間違いなんかじゃなかった。
もう走りたくない。
志穂は確かに、そう言った。
「陰で『よくないよ』って言ってるだけじゃ何も解決しないんだよ」
▶▶▶次回 『22 辛口叶子と初めての挫折【2】』




