20 葛藤稜也と未来の分岐点【4】
練習への参加者が変わるたび、必要に応じてメンバーを組み替えていた二人三脚や四人五脚と違い、三十二人でのメンバーは基本的に固定されている。不参加の子がいれば無理やり隣の子同士で肩を組んで穴を埋め、足を結んで走る。もちろん、一歩目に出す足は毎度のように変わることになるが、さんざん二人三脚を繰り返してきた今、その程度の変化で足をもたつかせることはない。練習の成果は思わぬところへ表れていた。
そして同時に現れてきたのが、メンバーそのものの色んな不都合だ。
「ねー実行委員! 金丸の手つきがキモいの本当に嫌なんだけど! あたしこいつの隣で走りたくない!」
「そんなことねーじゃん、普通に掴んでるだけだって! ほら、こんな風に……」
「ギャーッ! だからその触り方がキモいって言ってんの! くすぐったい! 蹴るよ!」
「蹴れるもんなら蹴ってみろよ、お前と俺の足くっついてんだからな」
「あーもう有り得ない! 足まで密着してんの本当に最悪! 無理!」
稜也のいる右サイドでは近頃、井村実華と金丸知樹が毎度のようにケンカをしていた。一組では30人31脚を行う際、右手を隣の子の肩に、左手を隣の子の腰に回して、互いの身体を固定して走ることに決めている。知樹の右隣に配置されている実華からすると、知樹の肩の掴み方がいやらしくて気に入らないらしい。
「配置を変えて両隣をチェンジすれば解決するか?」
「肩の掴み方が嫌だって話なんだし、右側だけでも金丸と交代させればいいんじゃね」
「でも、せっかくスピードも考慮してバランスのいい並びを組んだんだし、そう簡単には変えられないよね……」
「だいたい知樹自身に悪気はなさそうなんだよなぁ。文句言ってるからってあんまり大胆に変えるのもどうなんだろ」
康介の口ぶりはどうにも切迫感を欠いている。叶子が苦々しい顔で「悪気がなくたってセクハラはセクハラなんだよ」と応じたが、実感の湧かなさは如何ともしがたいようで、とうとう康介は首をひねったままだった。結局、実行委員同士の話し合いでは結論を出せず、理紗先生のところへ相談に行った。先生も先生で、様子を見ようの一点張りだった。
それも片付かないうちに今度は別の問題が浮上した。クラス一の俊足女子、青木万莉が、男子の隣で走りたくないと言い出したのだ。
「井村と同じ理由?」
叶子が尋ねると、違う、と万莉は首を横に振った。
「なんか、怖くて。単純に男子が苦手なだけ。自分勝手だってのは分かってんだけど」
「これまでは普通に走ってたじゃん」
「30人31脚の練習をやるようになってから急に苦手になった。みんな大きい声とか出すし、身体も大きいしさ……」
明宏や康介、健児、それに為末隼など、声の大きなクラス男子の中心格は、左サイドの万莉から見てずいぶん遠い場所に配置されている。万莉の両脇を固める貴明と高彦も決して悪いやつじゃない。それでも万莉が苦手意識に駆られているのなら、実行委員として無視を決め込むわけにもいかなかった。叶子が「片側だけでも女子にするか」と申し出たら、万莉は真剣な目つきで何度もうなずいた。
あちらを叩けばこちらが出る。右サイド端に配置された末續拓志は、事あるごとに「端で走ると目立って嫌だから中に入れろ」と文句を言い始めた。隣の桜子に「足が遅い」「走り方が悪い」と罵倒され続けた敏仁は、とうとう小声で体調不良を訴え、練習を途中で抜けてしまった。相変わらず転倒発生箇所は稜也たちのいる右サイドに偏重している。男女交互配置を基礎として稜也の組んだ三十二人の暫定並び順は、誰の目にも明らかに、耐用限界を迎えつつあった。
「しかも走力のバランスも悪いんだよな……」
ガリガリとシャーペンの切っ先を立てて文字を消しながら、稜也はぶつぶつ独り言を垂れた。
言葉というのは不思議なもので、悩ましい問題も口に出して条件整理してしまえば、あっという間に妙案が浮かんで解決したりする。けれども今回ばかりはそうもいかない。なにせ、あちらを立てればこちらが立たない。あまり大胆に変えると今日までの練習で掴んだ感覚も無駄になるが、大胆に入れ替えなければみんなの要望には応えられない。
はぁ、と大きな嘆息が自習室にこだました。時計の針は午後九時を過ぎようとしていた。次の授業の予習をしようと思って居残っていたのに、気づけば30人31脚のことばかり思案している自分がいる。手つかずの予習テキストを稜也は取り上げた。夏期講習も今日で十日目、テキストの終端もすでに見え始めていた。
こんなことしてる場合じゃないのに。
何度も言い聞かせた文句を、今度もむなしく反芻する。
ペンを走らせる音が小刻みに周囲を漂っている。かなり空席は増えたものの、稜也のほかにも数人が居残って自習を続けているみたいだ。午後九時までよくやるもんだよ、と稜也は失笑した。こんな遅くまで居残ったのは初めてだ。睡眠時間の確保や食事習慣をおろそかにしたくはないから、普段はそこまで居残らず、午後七時には切り上げて帰るようにしている。
深夜までダラダラ勉強したところで生産性が上がるとは思えない。意味のない根性論は好きじゃない。俺はこいつらみたいになりたくないな──。白紙のままのテキストを適当にめくり、諦めてカバンにしまい込みつつ、膨らんだ失笑を噛み潰したそのとき。
──『そういうの忘れられるんだ。走ってる間はさ』
耳元で誰かの声がよみがえった。
あまりにも生々しかったものだから、思わず稜也は身をすくめた。ちょうど机を覗き込んできた誰かと目が合って、「うわ」と声まで出てしまった。
「なんだよ、驚かすな」
「久しぶりじゃん」
克久だった。背中にGバッグを担いでいるところを見ると、帰宅するところらしい。
「生きてたんだ」
「死にそうだよ。毎日山ほど勉強してるし」
「塾に来てたことすら気づかなかったけど」
「かもね。僕、普通の夏期講習と一緒に個別授業も取ってるからさ。夜七時までは塾の教室に缶詰めなんだ」
道理で見かけなかったはずだ。稜也が自習を終えて帰宅するのと入れ違いに、克久は個別授業から解放され、自習室に閉じこもっていたのだ。個別授業の授業料はかなり高いと聞いているが、あの母親なら躊躇なく出すかもしれない。教育ママの典型例みたいな神野家の母親の顔が脳裏をかすめて、稜也は不愉快な苦笑いを噛み砕いた。
「なに悩んでるのさ」
克久の目が机を見回した。
とっさに隠そうとしたが、遅かった。克久は一組全員の名前の書かれたルーズリーフを目にして、「それ……」と口にした。声のトーンが急に落ちていることに気づいて、稜也は泡を食った。
「……メンバーの入れ換えプランを練ってたんだよ」
見られたからには仕方がなく、白状した。本来なら理紗先生と監督の二人、そして実行委員以外には開示すべきじゃない大事な資料だ。もっともまだ、何も決まっていないのだけれど。
「お前が来ない間にさ、色々あったんだよ。文句を言うやつが何人も出てきたり、全体的に走力が左に偏ってたり」
「……そっか」
「悪い。お前に見せるつもりじゃなかった」
克久をまともに見られず、いそいそと稜也はルーズリーフをカバンへ押し込んだ。
先日の神野家訪問を通じて、克久の危惧は大袈裟でもなんでもなかったことを痛感した。母親は夏休みの間じゅう──いや、下手をすれば今後一切、克久を30人31脚の練習に参加させないつもりだ。あの様子なら、克久が夏休み練の存在をきちんと話していたところで、結果は同じだったのかもしれない。事実、あれから一度も克久は練習に姿を現していない。以前のように稜也へSOSを投げかけてくることもなくなった。克久は30人31脚を諦めてしまったのだと稜也は思った。だから、ルーズリーフからも克久の名前を外していた。なによりも勘付かれたくなかったのはルーズリーフの存在そのものではなく、そこに克久の名前がないことだった。けれども多分、克久は勘付いてしまった。
克久はしばらく黙り込んでいたが、やがて無言のままカバンを漁り始めた。
そうして、取り出した一冊のノートを稜也に突き出した。
「これ、使ってよ」
何が何だか分からず、稜也は言われるままに受け取った。たちまち、ノートの表紙に【30人31脚 練習記録】と書かれているのが目に留まった。冷房に乾かされた喉がヒュッと鳴った。
「お前、これ……」
「夏休みに入るまでは毎日つけてたんだ」
くすぐったそうに克久が言う。
絶句したまま稜也はノートをめくった。その日の天気、練習場所、実施した練習の内容、四人五脚や十人十一脚でのタイムトライアル走のタイム、課題などが、事細かに記載されていた。実行委員のつけている練習記録では見劣りがするほどの膨大な情報に、目がくらんだ。眼窩の奥が鈍い痛みを発した。
にわかには信じられない。
克久はこんなにも真剣に練習と向き合っていたのか。
やりたくなかったと不平を垂れながら、稜也が実行委員の仕事に追われている間に。
「みんなの走力もなんとなく把握してるしさ、必要なら僕も手伝うよ。三人寄れば文殊の知恵って言うじゃんか」
「そのことわざ使うには三人目が要るだろ……。だいたい、その、神野は」
「僕の名前は外してくれていいから」
克久が静かに遮った。
「いいんだ。親を説得なんて無理だって分かってた。親は僕のことを外交官か何かにさせたくて、そんで必死に勉強させようとしてる。それが僕の親の夢なんだ。せっかくここまでお金もかけてもらってるのに、今さら親のこと、裏切れないよ」
「…………」
「親のこと説得しようとしてくれたんだってね。親から聞いたよ。ありがとう。そんで、ごめん。たぶん僕、30人31脚には出させてもらえないや」
なんでお前が謝るんだ。謝るべきは親じゃないのか。張り裂けそうに叫んだ本心は声にならず、稜也は唇を噛むしかなかった。自分と克久の境遇が入れ替わってしまえばいいのにと、強く、強く思った。やりたくもなかったやつが実行委員をやらされて、あんなにやりたいと言っていたやつがやれなくなるなんて、どう考えても間違っている。間違いは正さねばならない。それなのに、稜也の力ではどうすることもできない。
──『みんなの役に立つ人になってくれ』
亡き父の前で交わした約束が、ぼうと胸の奥で燃え上がった。目の前の友達ひとりの役に立つことすらできなかった自分の影が、炎の光で揺らいで見えた。
「これからもこうやってこそこそ協力することはできると思う。不参加になりそうだってことも、いつか先生にちゃんと話すよ。だからさ、川内」
言葉を切り、克久は稜也に向き直った。視線を感じて稜也が見上げると、克久の真摯な目が静かに光った。どこまでもまっすぐな、人を疑うことを知らなさそうな目で、克久は呻くように笑った。
「僕の分まで頑張ってよ」
ずんと沈み込むような重みを伴って、克久の祈りは稜也にもたれかかる。稜也は小首を垂れるのが精一杯だった。とても安易に同意できる代物ではなかった。親友の無念を、苦悶を、誠意を、すべて背負って舞台に立てるのか。そんな資格が自分にあるのか。なにも分からないから、せめてうなずくことで稜也なりの誠意を見せるしかなかった。胸の中がいっぱいいっぱいで、ろくな励ましや慰めの言葉もかけられなかったことを、ただ、静かに悔やんだ。
「もう、走りたくないよ」
▶▶▶次回 『21 辛口叶子と初めての挫折【1】』




