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スタンバイ!! ──岩戸小学校六年一組、30人31脚への挑戦  作者: 蒼原悠
3R 少しでも前へ、少しでも先へ
21/63

19 葛藤稜也と未来の分岐点【3】

 



 こんなこと稜也にしか頼めない──なんて言われても、とうてい稜也ひとりで抱え込める問題じゃない。かといって相手が親ともなれば、実行委員の仲間では歯が立つ見込みもない。必然的に稜也は教師を頼らざるを得なかった。

 翌日の練習終わりに、後片付けをしている理紗先生を捕まえた。事情を話すとたちまち先生も眉を曇らせた。それが苦悩の眉なのか、不安の眉なのか、困惑の眉なのか、一目では区別がつかなかった。「ともかく会って話をしてみようか」という理紗先生の発案に従い、二人で克久の家を訪れることに決めた。

 克久の父親は海外に単身赴任しているそうだ。狛江の街に残った母親の方も仕事をしていて、平日の日中はほとんど家を留守にしているという。いきおい、実行日は休みの日に限定された。夏期講習に振り回されない貴重な休日が消え失せるのは稜也にとってもいささか惜しかったが、そんなものを惜しむほど他に取り組みたい事柄があるわけでもなかった。受験生たるもの、休みの日だって勉強漬けだ。仕事に休暇はあっても勉学に休日はない。

 なんだよ、俺らしくもない。

 人生に寄り道の暇なんてないんじゃなかったのか。

 胸の奥で自分が冷笑するたび、違う、と言い聞かせた。これは単なる寄り道じゃない。ろくに親しい子もいなかった一組の中で、あるいは塾の中で、まともに意思疎通を図ることのできた唯一の相手が克久だ。克久の信頼に応えることだって長い目で見れば大事かもしれない。そう──将来投資というやつだ。母の言葉の通り、いつかどこかで役に立つ可能性があるから、投げ出さない。投げ出せない。それって30人31脚の実行委員も同じことかもしれないなと、いっこうに姿を見せない克久のことを律儀に探しながら思った。



「──それで?」


 稜也たちを居間に通した克久の母親は、第一声から盛大に脅しをかけてきた。


「何をしにいらしたんですか。私、今日も午後から会議があって忙しいのですけど」


 神野(かみの)美沙子(みさこ)、公務員。なにやら国連系の機関に勤務していると聞いた。外国語を思わせるような流暢な口ぶりに稜也も理紗先生も気圧(けお)され、乾いた喉から息を発するのもやっとだった。


「お子さんの、克久くんのことで相談がありまして」


 深呼吸を入れた理紗先生が隣で改まった。心なしか、釣り上がった母親の目尻の角度が、きゅっと傾斜を深めた。


「六年一組が今年度、30人31脚東京大会への出場を目指して日々練習に打ち込んでいることは、以前から色々な形で周知させていただいていると思います。当然、克久くんも大事なメンバーのひとりです。その克久くん本人から先日、夏休みの練習への参加を許してもらえない、との話があったと伺いました」

「誰にですか」

「ここにいる川内稜也くんにです」

「ふーん。うちの克久がね……」


 探りを入れるみたいに母親は稜也の全身を眺め回す。彼女が何を続けようとしたのか、稜也には見当がつかなかった。恐れない覚悟で彼女と目を合わせたら、ふっと母親は目の力を抜いた。


「あなたのことはたまに克久から聞いているの。人付き合いの苦手なうちの子なんかと付き合ってもらってありがとうね。感謝してるわ」


 俺だって人付き合いは苦手だよ、と稜也は毒づきたくなった。あるいは稜也のことも一緒くたにして見下しているのかもしれない。しょせんあなただって不器用な子なんでしょう、とでも嘲笑いたげに、母親は優雅な手つきで紅茶を啜った。上品というより、すみずみまでマナーを満たす満点の動き方をこころざしているように稜也には思われた。


「そういえば克久くんの姿が見えないようですが……」


 おずおずと理紗先生が切り出す。こともなげに母親は「塾です」と応答した。


「講習がないなら自習室を使いなさいといって送り出しました。あの子、私の目が少しでも届かなくなると、すぐに手を抜いて勉強しなくなるから。四六時中あの子を見張っているわけにもいかないし、せめて周りの目のある環境で勉強させた方が身になると思いまして」

「お休みの日にも、ですか」

「当然です。受験だって遠くないのに、遊んでいられる時間なんてあると思いますか?」


 稜也は唇を固く結んだ。今度こそ、この母親に自分の現状を見透かされた気がした。


「高橋先生には以前ご相談させていただいたはずですが、うちの子の第一志望は閏井中学高等学校です。都内トップの受験難易度を誇る進学校です。半端な学力では入試を突破できない。あの子も、私たちも、そのことをよく分かっています。ですから余計なことをしている暇なんてないんですよ。学校行事に振り回されることのない夏休み中くらい、一心不乱に勉強してもらわないと」


 いま、彼女は明確に、30人31脚を()()()()の枠から外した。


「30人31脚の練習に克久くんが参加することをお認めにならないというのも、本当なんですか」


 理紗先生の声が小さくなった。母親は逡巡の間も置かず、首を縦に振った。


「お子さんの受験を成功させたいという気持ちは重々承知しています。夏休みが大事な時期であることも理解しています。ただ、克久くんが自分の意思で30人31脚に挑戦しようとしていることも、お母様はご存知だったのではないですか。なぜ急に練習への参加をお認めにならないように……」


 逆鱗に触れないよう慎重に言葉を選んでいるのが、隣の稜也にも薄らに理解できた。ここで一歩でも言葉選びを間違えれば、母親は本当に練習への参加を認めなくなってしまう。握り込んだ掌に汗がにじんで、緩んで、気味の悪さに稜也は顔をしかめた。逃げ場のない緊張が稜也は苦手だ。父親の入院先で医師に呼ばれるたび、同じ思いを何度もしてきたから。


「お遊びを勉強よりも優先させろとおっしゃるんですか?」


 母親は理紗先生の訴えを鼻息で吹き飛ばした。


「お遊びなんてそんな……!」

「30人31脚をやることが息子の今後に好影響をもたらすとでも? ただクラス全員で足を結んで走るだけでしょう。それで連帯感がどうとかこうとか、まったくの噴飯物です。世界に目を向ければ息子の何十倍、いや何百倍も苦労している子供たちがたくさんいます。あんなお遊びに興じていられるのは一部の先進国くらいのものですよ。おまけに怪我のリスクだって高い。息子がどうしてもやりたいというから仕方なく認めていただけで、私は初めから30人31脚には反対でした」

「…………」

「ただでさえ愚かしい挑戦だと思っていたのに、貴重な夏休みを犠牲にしてまで練習? 冗談じゃない、言語道断です。私には親として、息子を立派な人物に育て上げる義務があります。息子はまだ幼いから、自分のためになるものを自分で取捨選択できない。だから私が代わりに取捨選択をしただけのことです。十二歳なんて江戸時代なら元服して大人の仲間入りをする歳ですよ。やりたいことを好き放題にやっていればいい年齢じゃない。そうでしょう?」


 ろくな反論もできないまま、理紗先生が沈黙した。涼しい顔で母親は紅茶を啜る。気まずい空気の中で身を縮めながら、稜也は母親の放った言葉の重みをひとつひとつ噛み締めた。

 初めから30人31脚には反対だった。

 ただクラス全員で足を結んで走るだけ。

 やりたいことを好き放題にやっていればいい年齢じゃない。

 むき出しの合理主義を振りかざす克久の母親の背後に、いつか30人31脚への参戦に反対の手を挙げた自分の面影が重なった。同族嫌悪というやつなのだろうか。この母親も、稜也も、きっと根っこの価値観は同じなのに、この人とは相容(あいい)れる気がしない。この人の話を聞いていると息が詰まる。自分の嫌な部分をぜんぶ見せられている気持ちになる。


「──あなたもそうなんじゃないの?」


 不意に母親が稜也を問いただした。察しの悪いふりをしてやり過ごそうとしたのに、母親は絡みつくような棘だらけの視線で稜也を捕まえた。


「息子が言ってたけど。あなた、本当はやりたくなかったのに実行委員なんかやってるのよね」

「……そんなことも話してたんですか」

「あなたの話をするときだけ、克久はやけに饒舌になるのよ。嫌でも印象に残るわ」


 面食らった稜也は上手く言葉を継げなかった。いつか都立立国の文化祭へ連れ立って参加した日、クレープを頬張りながら克久が浮かべていた寂しげな眼差しを思い出した。あの日、稜也は克久の前で、30人31脚への参加に否定的だった過去を明言している。


「あなたも受験生なんでしょう。うちの息子と違ってあなたは聡明そうだし、将来に備える大事な時期だってことも理解しているはずよ。だったら30人31脚になんて精を出さずに、もっと大事なことに時間を使うべきじゃないの? 無理に実行委員を頑張る必要なんてないでしょう?」


 母親の投げかけた問いはあまりにも鋭くて、殺傷力の高さに稜也は怯んだ。いちばん触れたくない核心を突かれてしまった。そんなもの、答えはとっくに出ている。本気で将来を見据えるなら30人31脚なんかやらない方がいいに決まっている。そんなことは分かり切った上で、それでもなお稜也は実行委員との並立を選んだのだ。理由なんて説明できない。うまく言葉にもならない。ただ、言葉にならない胸の奥深くで、合理性の徹底的な追求を何かが許さなかった。この数か月間、稜也の内心はいつだって説明できない矛盾に(あえ)ぎ続けている。

 理紗先生が「ちょっと!」と割って入ってきた。


「神野さん、困ります! せっかく頑張っている子のやる気を削ぐような……!」

「頑張る意義そのものを認めていないと申し上げてるんですが、話を聞いていらしたんですか?」

「そうであったとしても、稜也くんは神野さんのご家庭とは無関係ですよ! 神野さんが口出しされるべきではないです!」

「家族でなければ忠告も許されないというなら、高橋先生こそ彼に対して口を出すべきではないですね。だって保護者じゃないんですから」


 意地悪な言い方で理紗先生を斬り捨てた母親は、返す刃で稜也に向き直る。さあ、お前の考え方を聞かせてみろ、とでも言わんばかりの気迫を前にして、稜也は浅い息を繰り返すことしかできない。どう答えようとも、この母親は克久を練習には復帰させないつもりだ。なぜならそれこそが正義だと、彼女自身が絶対的に確信しているから。


「……俺は」


 理紗先生よりも小さな声で、稜也はつぶやいた。


「頑張りたいのか、頑張りたくないのか、自分でも分かりません」


 もはや語り掛ける相手は母親ではなかった。戸惑い続ける自分の心へ真摯に問いかけるつもりで訴えた。練習を楽しいと思う自分も、勉強をしなければならないと焦る自分も、どっちも本物だ。本物だからこそ厄介で、折り合いがつかないのだ。

 無言の余韻に耐えながら、稜也はテーブルの一点だけを必死に睨みつけた。理紗先生がどんな顔をしているのか見たくなかった。長い沈黙の末、もう話し合うことはない、とばかりに母親から退去を切り出されるまで、理紗先生はとうとう一言も発することなく稜也の隣に座り続けていた。






「僕の分まで頑張ってよ」


▶▶▶次回 『20 葛藤稜也と未来の分岐点【4】』

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