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スタンバイ!! ──岩戸小学校六年一組、30人31脚への挑戦  作者: 蒼原悠
3R 少しでも前へ、少しでも先へ
20/63

18 葛藤稜也と未来の分岐点【2】

 



 塾で手渡された模試の結果を見せると、母は「あら」と声を小さくした。


「都立立国の合格率、30%~50%って出てるね。前よりちょっと低くなったのかな」

「……その数字の意味、いまいちよく分かんないけど」


 十回受験したら三回か五回は合格できる程度の学力を意味する指標なのか。稜也はそれほど算数が得意な方ではないから、数字が大きくなるほど自分の学力が相対的に向上している、程度の意味だと思うようにしている。だから数値の伸びは単純に喜ばしいし、伸び悩めば不安に襲われる。前回の一斉模試では合格率50%~70%という結果だった。無論それは、30人31脚の練習が始まる前の話だ。

 この成績変化を安易に30人31脚と結びつけるほど、母が愚かな人だと稜也は思わない。それでも否応なしに申し訳なさが募った。せっかく高い月謝を払って通塾させてもらい、模試の受験料だって出してもらったのに。


「ごめん、母さん。成績伸ばせなかった」

「謝ることじゃないよ。勝負は時の運って言うでしょ。たまたま本調子じゃなかっただけかもしれないし」

「でも……」

「心配なんてしてないよ。稜ちゃんが頑張ってること、お母さんはちゃんと分かってる」


 そうはいうものの、成績表を見つめる母の瞳には暗い色の雲が覆いかぶさっている。マイナスの感情を態度から読み取るのは、プラスの感情を読み取るよりずっと簡単なことだ。稜也は母を見ないようにして、一心不乱にカーペットの模様を数えた。似たような模様が頭の中でこんぐらがって、いくつまで数えたのかも分からなくなった頃、ようやく母は成績表を折り畳んでファイルの中へしまった。


「そうだ。体操服、洗濯して干しておいたよ。稜ちゃんの部屋に置いておいたから、自分で袋に入れなさいね」

「……ありがとう」

「それと水着は要らないの?」


 言われるままに自室へ急ぎかけて、稜也は足を止めた。「水着?」と訊き返すと、母は何を問われたのか分からないみたいに目をしばたいた。


「30人31脚の練習のあと、ちょうどプール開放があるんでしょ。稜ちゃんも行ってくればいいのに」


 ああ、と稜也はカラスみたいにうなった。練習が終わるや否や「プールだ!」と叫んでプールへ飛んでゆく、一組の元気な男子たちの姿が脳裏に浮かんだ。ここのところ日照りが続いている。校庭の隅に鎮座する屋外プールは、30人31脚の練習が終わるころには下級生たちの元気な騒ぎ声であふれ返っている。


「俺はいいよ。夏期講習だってあるから」

「講習が始まるのは午後からじゃない」

「予習しときたいんだよ。二度とそんな成績を取らないように」

()()()っていうほど悪い成績じゃないけどね……」

「なんでもいいだろ。だいたい30人31脚の練習の時点でクタクタなのに、プールで追加の運動なんかしたら塾の授業で起きてられないよ」


 熱心に畳み掛けながら、これだって()()だな、と思う。練習前に康介の発した檄と同じだ。誰かを断罪こそすれ、喜ばせることはできない。案の定、母は面白くなさげに肩を丸めた。


「あのね、稜ちゃん。お母さんはあなたに四六時中ずっと勉強を頑張ってほしいなんて思ってないよ。友達と遊びに行くことだって大事な経験のうちでしょう。あなたが頑張り屋さんなことは認めるけど、あなたにはもっと今のことも大事にしてほしい」

「……父さんが生きてたら、そんなこと言わなかったんじゃない」

「どうだろうね。お父さんも仕事の人だったのは確かだね」


 山のように法律書の積み上がった自室に埋もれ、休みの日も小難しい書類を読んでばかりだった父の面影が、夜空を映した庭向きの窓にうっすらと染みを描く。もう日暮れだ、窓を閉めなきゃ。逃げ道を見つけかけた稜也を牽制するように、一足早く立ち上がった母が窓を開け、雨戸を下ろしてしまった。長い指をふたたびガラス戸にかけながら「でもね」と母は続けた。


「お母さんの大学時代の専攻の話、したことあるでしょう?」

「考古学……だったっけ」

「表面上は実用性のかけらもない、それこそ趣味みたいな学問だよ。法学なんかに比べたらね。結果的に今は多少、市役所のお仕事で役に立つ場面もあるんだけど」


 母の声は少し寂しげだった。


「知り合ったばかりの頃、お父さんはお母さんのやってる学問にすごく興味を持ってくれた。法学の世界も実用一辺倒じゃないってことを教えてくれた。とっても奥深くて、知れば知るほど面白い世界なのに、誰も理解してくれないって嘆いていたな。お父さんも本当はきっと、仕事ばかりの人生を望んでいる人ではなかったと思うの。取り巻く現実がそれを許してくれなかっただけで」

「…………」

「実用か趣味かで完全に切り分けてしまえる物事って、本当はそんなに多くない。何気ない気持ちで手を付けたものが、いつか自分の未来や夢を支えてくれることだってある。お父さんが好きな学問に打ち込んで、結果的にそれを仕事に生かしたように、あなたにもいつか『あのときこれをやってみてよかったな』って思える瞬間が来るかもしれない。どんな経験もぜったい無駄にはならない。だからね、今の時点から最短最速の人生を目指してほしくないの。色んな物事に自然体で触れて、経験値を蓄えて、幅の広い大人になっていってほしい。多分、お父さんもそういう考えの人だったんじゃないかな」


 ずるい、と稜也は思った。死人に口なし、もはや父の本意は誰も尋ねられないのだから、どんな推定だって許されるじゃないか。少なくとも稜也の胸の中で生きる面影の父は「もっと遊びなさい」と語るような人じゃなかった。寡黙で、勤勉で、息子の運動会や学芸会にだって一度も来てくれなくて、いつも苦しげに仕事と向き合うばかりの人だった。母の記憶の中では違う顔をしているのだろうが、そんなものを説諭のネタにされたところで稜也には伝わらない。分かりたくたって分からない。

 ぶちまけられるような()()も思いつかず、かといって代わりの文句も思いつかないまま、稜也は隣の窓の雨戸を下ろしに向かった。がらがらと野蛮な音を立てて雨戸が外界を閉ざす。日暮れの街を駆け抜けるバスの音も、吹き渡る静かな風の歌も、どこかの道端ではしゃいでいる幼児たちの声も、みんな雨戸に締め切られて沈黙した。

 母が夕食の準備を始めたのを見計らって自室に戻った。ご丁寧に、畳まれた体育着の横にはプール用具の準備がしてあった。水着、ラップタオル、ゴーグルに帽子。体育の授業で水泳をやるとき以外は出番がなく、いつも戸棚の奥で眠りについている。お節介な──と思いながら、稜也は体育着を袋に入れ、それからプール用具を撤去にかかった。

 30人31脚の練習が終われば、大概の子たちはその足でプールへ向かう。時間の都合がつかなかったとか何とか言って、練習には参加せずにプールだけ入ってゆくやつもいる。稜也は一度も利用したことがない。そしてそれは実のところ受験勉強のせいではないし、はたまた30人31脚のせいでもない。その証拠に、去年だっておととしだって夏休みには一度も学校に出向かなかった。


「プールか……」


 水着を抱えてつぶやいたら、愉快げに先陣を切ってプールへ駆け込んでゆく康介の背中を思い出した。30人31脚の練習中はリーダーとメンバーの関係でも、練習時間が終わってしまえばただの友達だとばかりに、あふれんばかりの水の中で康介はクラスメートと笑い合っていた。佑珂は──いつも叶子たちのグループにばかり同行していた気がするが、いずれにせよ彼女も練習終わりのプールの皆勤賞だ。

 30人31脚の練習が始まってから、稜也の帰り道は独りぼっちではなくなっていた。それが今、ふたたび独りぼっちに戻った。そのことが悪いわけじゃない。誰と帰ろうが自由だし、誰かに強制されることじゃない。ただ、しょせんそれも()()でしかないのだろう。本当はどこかで分かっているのだ。プールで遊ぶのが決して嫌いじゃないことも。実行委員の仲間に背を向けて帰る間際、ほんの一、二本、後ろ髪を引かれている自分がいることも。

 分かっていたって心の折り合いがつくわけじゃない。

 康介のあとについてプールに入ってみるか、それともこれまで通りにプールを拒否するか。陽の匂いのする布団に身を横たえながら稜也は思案した。なぜか浮かんできたのは康介ではなく、のんびりした眼差しが独特な克久の顔だった。


「そうだ」


 思い立った稜也は布団から身を起こして、水着をそのへんに放り出した。近頃ほとんど顔を見ていないが、克久と一緒ならプールにだって入ってゆけるかもしれない。夏期講習中は学力レベルに応じて別々のクラスに割り振られているものの、克久だって同じ塾に通っている仲間だ。授業日程も同じだから、プール開放の時間帯は予定も空いているはず。それならどうして30人31脚の練習に来ないのか──という話になるが、そんなものはいずれ康介や叶子が注意すればいいことであって喫緊の課題ではない。

 探り当てたスマートフォンの画面を稜也は点灯した。

 そこにはすでに克久の名前があった。

 着信が入っている。なにか用事でもあったのか。芽生えた違和感もろともポップアップ通知を指で払いのけ、稜也はメールアプリを起動した。機能制限がありつつもメッセージアプリを使える稜也のスマートフォンと違い、克久の与えられているキッズケータイは電話やキャリアメールしか扱えない。だから連絡を試みる時はもっぱらメールを使っている。


【暇か】


 文面に迷った挙げ句、たった二文字のメールを送った。あっという間に返信が届いた。


【なんで折り返し電話してきてくれなかったのさ】

【電話するほどの用事じゃなかったから】

【こっちは用事あるんだけど】


 せせこましく肩を怒らせながら不平を言い立てる克久の顔が目に浮かぶ。それならまた電話してくればいいのに。いぶかりつつも返事を考えようとしたら、画面が着信中に切り替わった。克久は本当に電話をかけてきた。


「なんだよ」


 通話ボタンをタップして尋ねてから、「もしもし」くらい言えばよかったと思った。が、耳の向こうの克久は気にも留めなかったらしい。


──『ごめん、勝手に電話かけて。いま塾にいるんだけどさ』

「まだいるのかよ。午後八時だぞ」

──『家に帰りたくなくて』

 克久の声は切迫していた。理由を問う間もなく、たったひとりの塾仲間はすがるように切り出した。

──『頼みがあるんだ。僕の親のこと説得してさ、僕が30人31脚の練習に出られるようにしてほしいんだよ。こんなこと稜也にしか頼めないんだよ』


 稜也は眉を曇らせた。


「どういう意味だよ、それ」

──『親に夏休み練のこと話してなかったんだ。そんで夏休み最初の日、普通に起き出して練習に行こうとしたら止められて怒られた。そんなことしてる暇があったら勉強しろ、ってカンカンだった』


 スマートフォンを耳に当てたまま稜也は固まった。怒涛の勢いでなだれ込んだ思案が、克久の叫びを稜也なりの言葉に置き換えて、事の重大さを甲高く警告し始めた。

 なにか理由があるとは思っていた。

 稜也と違い、勉強から逃れられるといって30人31脚にも積極的だった克久が、生半可な理由で練習を休むはずがないとは思っていた。

 だめ押しとばかりに、克久は受話口の前で重い声を発した。


──『練習どころじゃない。このままじゃ僕、大会にすら出させてもらえないかもしれない』






「頑張りたいのか、頑張りたくないのか、自分でも分かりません」


▶▶▶次回 『19 葛藤稜也と未来の分岐点【3】』

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