02 30人31脚
30人31脚?
なんだ、それは。
初めて耳にする単語を康介は困惑気味に咀嚼した。
「30人31脚って何?」
「二人三脚なら分かるけどさー」
みんなが口々に疑問を発した。30人31脚、とかいう耳慣れない言葉は、てんでばらばらだった一組の意識をたちまち理紗先生に集めてしまった。
「二人三脚の三十人版だよ。クラスみんなで横一列に並んで、隣の人同士で足を紐で結んで、五十メートルのコースを走ってタイムを競う競技なの」
「──あ!」
思わず康介は声を上げてしまった。
みんなが一斉に康介を見た。顰蹙を買ったことを自覚して肩を縮めながら、掴んだばかりの確信を康介は机の下で握りしめた。
今朝の夢で見た競技が、脳裏のスクリーンに何度も繰り返し再生された。何十人ものクラスメートが横一列に並んで、互いの足を結びながらコースを走っていた。そうか、きっとあれが理紗先生のいう「30人31脚」という競技だったのだ。実物をやったことも見たこともないが、疑いの余地はない。
「オレ、それ知ってる」
隣の班の大迫健児が小声でつぶやいた。「マジ?」と尋ねたら、健児は秘め事を話すみたいに康介へ向かって身を乗り出した。
「うちの母ちゃんがそれやったことあるって言ってた。詳しいことはぜんぜん聞いてないけど、なんかすっごい楽しかったってよ」
「おれらがやっても楽しいかな」
「楽しいんじゃね? 分かんないけど」
そりゃそうだ。やったことがないのに楽しいなんて決めつけられない。楽しいか楽しくないかを知るためにも、一回くらいやってみたいもんだと康介は思う。けれどもみんながみんな同じ思考回路を持つわけではないことは、みんなの顔を見回せばすぐに察しがついた。先生ラブの佑珂がワクワクと目を輝かせている一方、大半の女子はいぶかしげな眼で理紗先生を見ているし、男子の中にも難しい顔の子が散見される。漢字のテキストを読んでいたやつなんて筆頭だ。
「みんなが生まれる前、こういう企画の大会を毎年やってるテレビ局があったんだけど、色々あって番組が終了しちゃってね。その復刻版をやろうって話になったみたいなの。地方予選と全国大会があって、予選大会は十月に開かれるんだ。今から始めても練習の時間は十分に取れるよ」
理紗先生は誰が聞いているのか分からない説明を続けていた。退屈げに頬杖をついていた女子が遮るように「せんせー」と手を挙げた。クラスの女子で一番の秀才、土井桜子だ。
「動画とかないんですか。言葉でごちゃごちゃ言われたって、実物見なかったら想像つかないんだけど」
「そ、そうだったね。ごめんね。確か動画投稿サイトに公式の映像があったはず……」
先生はリモコンを手にして、教室の隅にぽつんと置かれていた電子黒板を起動した。使い方が分かっていないみたいで、かれこれ五分間、電子黒板はまるで関係のない画面を表示し続けた。ダメだこの先生、とでも言いたげに桜子が嘆息する。30人31脚などというスケールの大きな単語の印象も次第に薄れ、どことなく間延びし始めた教室の空気は、先生の「できた!」という声とともにふたたび画面へ引き寄せられた。
大画面には大会のロゴが表示された。
【小学生チーム対抗 30人31脚リバイバルカップ】
疾走感のあるBGMが鳴り響いて、そこにナレーターの元気な声が折り重なる。全国の小学生が汗と涙を流しながら互いの絆の強さを競う、かつての人気競技が十二年ぶりに復活する! ──そんな触れ込みとともに、競技の映像が流れ出した。お揃いのTシャツや鉢巻き、それに襷を身にまとった数十人の子供たちが、黒いバンドで互いの足を結び合って、ものすごい速度でスタジオ内のコースを走り抜けてゆく。力強い掛け声が画面を飛び出して、わんわんと教室の壁に反響する。
映像を見たところ、ゴールまでの距離は先生の言うとおりの五十メートル程度。小学生の感覚でも短距離に分類されるような、ほんの十秒足らずで走り切ってしまう距離だ。夢で見た時はもっともっと長く感じられた。遥か彼方の目標を力ずくで奪いに行くような、得も言われぬ焦燥感や切迫感があった。けれども差異を覚えたのはそのくらいのもので、むしろ競技風景そのものは夢で見た景色となんら変わらない。
「すげぇ」
思わず、独り言が漏れた。
一糸乱れぬ隊列を成し、汗を散らしながら猛々しい形相で疾走する小学生たち。その姿は圧巻の一言に尽きた。なんて迫力、なんて勇ましさ。BGMとナレーションに潰されて聴こえないはずの激しい足音や息遣い、見守る聴衆の声援さえもが、足元から鳴り響いて康介の身体を震えさせた。すごい。格好いい。無駄な飾り文句なんかつけなくとも、それだけの単純な言葉でこの感慨を表現できる気がした。
桜子も、健児も、席に戻った日直の貴明や万莉も、誰もが息を呑んでいた。五分間のビデオが終わるや否や、待ちわびたように理紗先生が口を開いた。
「どう?」
みんなは周囲の顔色を一斉にうかがい始めた。康介だって例外ではなかった。たまたま目が合った健児に「めっちゃ格好よくね」と水を向けたら、健児は自分でやったこともないくせに「だろ?」と得意満面な顔をした。
こんな競技があるだなんて、今朝の夢に見るまで少しも知らなかった。今からでも自分が彼らの輪の中に混じって走れたならどんなに楽しいだろう、と康介は思った。──いや、混じるんじゃない。おれたち自身が手を取り合って、同じ会場を駆け抜けることができたら。押し寄せる高波のように風も壁もすべて薙ぎ払って、誰も見たことのないスピードでゴールへ飛び込めたなら。そのときふたたび康介は今朝の興奮を取り戻せるかもしれない。今朝の夢の続きを、ゴールの先に広がる景色を、現実の世界で味わうことができるかもしれないのだ。
武者震いが止まらなかった。無数の鳥肌が立って、居ても立ってもいられなくて、康介は浅い息をいくつも机に落っことした。
「……やってみたいよな」
誰にともなくこぼした本音が健児に伝播した。「だよなだよな!」と声高に健児が答えるや、波紋を描くように賛同の輪が広がり始めた。
「ぜったい楽しそう!」
「俺もそう思う!」
「思い出になるよねー」
みんなの目はこれ以上ないほどキラキラしている。すかさず理紗先生が口を挟んだ。
「やってみたいっていう人が多かったら、この大会にエントリーしてみようと思うんだ。みんなの気持ちを聞いてみてもいい?」
投票を拒む者はいなかった。先生は顔を伏せるように指示して、やりたい、やりたくないのどちらかに手を挙げさせた。もちろん康介は「やりたい」の方に手を挙げた。健児も手を挙げていたみたいだった。物音の気配からして、賛成派の方が明らかに多かった。
「はい、いいよ。顔を上げて」
結果発表の前から理紗先生の頬は緩んでいた。
「やりたいって子が二十七人いました」
ミンシュシュギって残酷だ、と康介は思った。やりたくない方に手を挙げたのが誰なのかは、みんなの顔を見回せば瞬く間に察しがついた。けれども理紗先生の「一緒に目指してみない?」という畳み掛けに、彼らは仕方なさげにうなずいていた。
30人31脚。
みんなで同じゴールを目指し、ひとつながりの足で地面を駆け抜ける。
その大きな挑戦の入り口に立つ未来を、六年一組はみずからの手で選んだのだ。
──ただし、多数決で。
小学生チーム対抗 30人31脚リバイバルカップ。
主催は大手在京キー局の全日本テレビ。
さかのぼること二十年以上前、民放のバラエティ番組の一企画としてスタートし、30人31脚という物珍しい競技を大きく発展させた大会があった。その正統な後継として開催されるのが、この復刻競技会だ。当時の主催社とは別のテレビ局が権利関係を買い取ったことで、当時参加権のなかった一部の都道府県も含む日本全国から小学生たちのチームを集め、大会を開くことが可能になった。
大会が行われるのは十月の中旬から下旬。都道府県ごとに予選が実施され、そこで勝ち抜いた五十校だけが全国大会への進出を果たす。全国大会の模様はテレビ局によって収録され、後日放映されることになる。司会には多くの人気タレントも起用されるらしい。
もっとも、康介にとってテレビ出演や人気タレントなど、至極どうでもいいものだった。別にやってくれてもいいし、いてくれてもいい。大事なのは六年一組のクラスみんなで30人31脚という競技に挑み、ゴールラインまでの五十メートルを走破すること。よそのクラスを打ち負かして大記録を立てること。誰よりも速い足で、輝かしい舞台を駆け抜けること。
ゴールした先で果たして何を目にするのか、いまの康介には何も分からない。
何も分からないからこそ、この目で見届けてやりたかった。
それはもしかすると、会場から浴びせられる大歓声かもしれない。多額の賞金かもしれない。家族や友達からの絶賛かもしれない。あるいは──みんなで笑い合って抱き合って噛みしめる、他では決して手に入らないほどの喜びかもしれない。それらのどれが正解であっても構わない。文字通りの夢の続きがそこに転がっている限り、30人31脚という未知の競技に挑むためのモチベーションは無限に湧いてくるから。
頑張らなきゃ、おれ。
康介は机の下で何度も拳を握った。
かけがえのない挑戦の始まりを告げる高らかなファンファーレが、校内放送の鳴らすチャイムに何度も重なって聴こえた。
あんまり興奮したものだから、30人31脚に挑戦することに決まった旨はその日のうちに家族へ話してしまった。父も母も姉も話半分にしか聞いてくれなかったが、きっと本物の競技を知らないので実感が湧かなかったのだと思った。さっそく翌日の朝いちばんに理紗先生が「エントリーを済ませたよ」と報告してくれたおかげで、康介自身の実感はいよいよ高まりを極めた。明日にでも、いや今すぐにでも、足を結んで走ってみたい。きっとみんなも同じ気分のはずだと、高揚感にあふれる同級生たちの顔を見比べながら思った。
「やったこともないのに不安ばっかり並べても仕方ねーだろ。そういうのを食わず嫌いって言うんだぞ」
▶▶▶次回 『03 「みんなで走れば怖くない」』