17 葛藤稜也と未来の分岐点【1】
セミの声が甲高い季節になった。
汗だくの額を拭って空を見れば、積み上がった雲の向こうに濃い青空が広がっている。
せっかく夏休みに入って授業もなくなったのに、これではまるで一学期が延長されているみたいだ。通い慣れた猪駒街道の景色を見上げ、はたと稜也は溜め息をこぼした。冷房の効いた塾の自習室が恋しい。早く練習を終わらせて塾へ向かいたい。もちろん涼みたいのが理由じゃない。勉強しなければならないからだ。
「おっす」
背中に声が当たった。社宅の玄関を出た康介が、道の向こうから稜也に声をかけてきた。
「……朝から元気だな」
「朝の時点でも元気じゃなかったら一日じゅう生きていけねーじゃん」
横断歩道を渡った康介が稜也の隣に並ぶ。半袖シャツのふちに滲む小麦色の肌が眩しい。なぜか気後れがして、稜也は目を逸らした。こっちの方が正しい夏休みの過ごし方だぞ、とでも言わんばかりに康介はプール用のカバンも携えていた。
「今日は何人くるだろうな、練習」
カバンを振り回しながら康介が天を仰ぐ。「危ない」と口を挟んだら、大人しく康介は振り回すのをやめた。しかし空を切るような眼差しが揺らぐことはなかった。
「昨日より人が減ったらマジでやべーぞ。半分を切っちまう」
「自由参加ってことにしてたんだから仕方ないだろ。練習ができないわけじゃない」
「そりゃそうかもしれねーけど、このまま全然集まらない状態が続いたらどうするってんだよ。まだ夏休みが始まって三日しか経ってねーんだぞ。だいたいあとから始めた二組の方が集合率も高いってどういうことだよ」
漏れ出す不満を隠そうともせず、康介は道端の小石をつま先で蹴り飛ばした。今度は稜也も文句を挟まなかった。暑苦しいエンジン音を響かせながらバスが二人の横を通り過ぎる。押しのけられて弾けた朝の風が、ここ二日間の練習風景を嫌でも思い起こさせた。
月曜日から始まった小学生最後の夏休みは、さっそく30人31脚の練習に費やされた。朝の七時半に岩戸小の校庭へ集合し、各自で体操とランニング、縄跳び、もも上げなどのトレーニングメニューを実施。それから集まったメンバーの走力を加味して、二人三脚、四人五脚、六人七脚と少しずつ人数を増やし、最終的に全員でのランを行う──。事前に立てた練習計画の通り、稜也たちは昨日も、おとといも、早朝の岩戸小に出向いた。早起きが苦手だという叶子は二日ともギリギリの時間に汗だくで駆け込んできて、そのたびに康介に笑われていたが、間に合っていたのだからそれはそれでいい。目下のところ最大の問題は、著しく低いクラスメートたちの参加率をどうするか、ということだった。
放課後練と同じく自由参加にしたのがいけなかった。初日の参加者はいきなり二十五人を切り、二日目は二十人にまで減った。決めつけるべきではないとはいえ、やっぱり全体的には中学受験組の参加率が低い気がする。昨日は明日乃も実華も拓志も来なかったし、克久に至っては二日間とも姿を見せていない。初日からまったく顔を見ていないのは克久だけだ。
「参加率が高いっていうか、二組の方は用事がない限り強制参加なんだってさ。きたじーの提案じゃなくて自発的にそういうルールにしたらしい」
「へぇ……」
「なんだよ、その死ぬほど興味なさそうな返事」
「よそのクラスがどうしようが興味ない」
「そんなわけにいかねーだろ。あいつらだって同じ校庭で練習してんだぞ」
「向こうは夕方から練習やってるんだろ。向こうは向こう、こっちはこっちだ」
「そういうことが言いてーんじゃなくて……」
まだ文句を垂れている康介と二人ならんで、岩戸小の校門へ続くまっすぐな道に立った。色あせた四階建ての校舎が、彼方をただよう陽炎に重なって揺れている。道の向こうを走水が逃げてゆく。またも小石を蹴りながら「あーあ」と康介が嘆いた。
「きたじーがおれらの担任だったらよかったのにな」
どういう意味かと問いただすのも野暮に思えて、稜也は反応しなかった。北島先生のような熱血漢タイプは正直、苦手だ。けれどもこういうときに頼りになるのは、温厚で平和的な先生よりも、力強いリーダーシップでみんなを引っ張ってゆく先生なのだ。
その日も理紗先生はみんなを怒らなかった。たった十六人しか集まらなかったクラスメートを前にして、実行委員の四人が唖然と立ち尽くしていたにもかかわらず。
「みんなトレーニングは終わったね。それじゃ、走力の近い子とペアを組んで二人三脚を──」
「ちょっとちょっと! この状況になんで突っ込まないんですか先生」
大声で説明を遮った叶子が、ばらけて座る一組の集まりを一睨みした。声を潜めて雑談していた子たちは一様に黙り込んだ。
「あのさぁ、さすがに集まらなさすぎじゃない? この人数マジでどういうこと? ついに半分切ったじゃん参加率!」
まだ半分を切ってはいないと稜也は思ったが、ヒートアップした叶子の餌食になりたくないので唇を閉ざした。我慢ならなくなったように「そうだぞ」と康介が続いた。
「夏休み後半で疲れてきたってんなら分かるけどさ、まだ三日目なのに半分なのは絶対おかしいって! みんな今日来てないやつらの理由は知ってないのかよ」
「そんなの知らねーよ……」
誰かがぼそっとこぼした。叶子と康介の厳しい目が声の主を向いた。
無理もない。みんなで共同生活を送っているわけでもないのに、お互いの事情なんて分かるはずもない。分かるのはせいぜい夏期講習に通っているであろう受験組の連中だけだ。稜也は無言でみんなの顔ぶれを確認した。あんなにも練習への意欲を見せていた割には、今日も克久の姿は校庭に見当たらなかった。
「とにかくさ、みんなで声掛け合って練習参加率を上げよーぜ。このままじゃ三十人で走る練習なんかできっこねーよ」
呆れ果てた声で康介が訴える。たちまち、膝を抱えて座っていた子たちの間から反発の声が上がった。
「そんなこと言ったって、そもそも自由参加って決めたのは実行委員じゃん」
「そうだよ。実行委員から声かけていってよ」
「俺らが説得してどうにかなることでもないだろーし」
「なるよ! こんなのプールの前にちょっと走るだけだろ! たった一時間半早く来るだけだろ! だいたい本当の本当に用事があって来られないようなやつなんて、三十二人のうちほんの四、五人程度に決まってるじゃんか!」
悪手だ──。訴えを聞きながら稜也はほぞを噛んだ。康介の言うことは確かに正しい。朝の早さが難点とはいえ、これまで続けてきた放課後練に比べたら夏休み練は時間も短いし、練習終わりの時間をいくらでも自分のために使える。稜也だって練習のあとに夏期講習の授業が控えている。今日、ここに来ていない子の多くは、きっと気が向かなかったりして練習に来ていないだけなのだ。だけど、それを逃げ場のない正論で指摘してみたところで、何かが解決するわけじゃない。
みんなはうつむき、康介から視線を外した。
理紗先生も佑珂も困り顔で佇んでいる。
砂煙ひとつ立たない早朝の校庭に、嫌な臭いの沈黙が垂れ込んだ。
「まあまあ!」
手を叩いた朱美が強引に空気をぶち壊しにかかった。こういうとき一組の誰よりも頼りになるのは、先生でも児童でもなく快活な保護者だった。
「集まらないものを非難してみても何も始まらないわ。とりあえず今いる子たちで今日は頑張ろうね。みんなお得意の二人三脚から始めるよー」
威勢のいい声色にほだされたクラスメートたちが、寄り集まってペアを組みながらぞろぞろとスタート地点に向かう。重たい足をおもむろに出して「行こう」と声をかけたら、実行委員の仲間たちも稜也の後に続いた。康介の顔も、叶子の顔も、はたまた佑珂の顔も、みんな暗かった。
「なぁ。おれの言い方、やっぱまずかったかな」
しょげた口ぶりで康介が隣に並ぶ。すかさず追いついた叶子が「まずくないでしょ」と反駁した。
「あのくらい言ってやらなきゃ変わんないよ。放課後練の時だってサボるやつはサボってたんだ。本番まで二か月と少ししかないってこと、もっとみんなに分かってもらわないと困る」
「でも、今日来てる子はみんな、サボらないでちゃんと来てくれた子ってことだよね……。それなのに頭ごなしに怒られたら気分悪くなっちゃうかも」
佑珂が細い声で続ける。だったらどうすればよかったんだよ、とでも言いたげに康介は佑珂を一瞥したが、結局なにも切り出さないまま、ふたたび唇を閉ざした。
たぶん康介も自覚はしているのだ。説得するべき相手は集まったメンバーではなく、自由参加のルールを隠れ蓑にして練習を休んでいるメンバーであることを。言い方がまずかったと反省の片鱗を見せたのも、きっと、そのため。
思い通りにならない仲間をうまく制御して練習に向かわせられるほど、この四人はカリスマじゃない。
北島先生が担任だったらよかったのに。
いつかの康介の嘆きが実感を伴って胸に染みる。
稜也は理紗先生の姿を探した。先生は相変わらず、30人31脚への参加提案をした時と同じ穏やかな面持ちのまま、二人の監督とともに練習記録ノートを読み交わしている。どんな時にも頑なに笑顔を手放そうとしない理紗先生のありさまが、こういうときはいやに気味悪く心に映った。
「僕、大会にすら出させてもらえないかもしれない」
▶▶▶次回 『18 葛藤稜也と未来の分岐点【2】』




