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16 辛口叶子の頑張る理由【4】

 



 DVDを受け取ったはいいものの、視聴中に両親からあれこれ言われ出してはたまらない。さいわい、今日は両親が勤め先の病院の仕事に追われ、帰宅が遅くなるようだ。【勝手に食べなさい】と書き散らかされたメモを破って捨て、夕食を電子レンジにかけながら、叶子は居間に鎮座する大型テレビの電源を入れた。

 番組は三時間以上もあった。ふだん叶子が慣れ親しんでいるオンライン動画の数倍以上もある尺だ。こりゃ、途中で見飽きるだろうな──。投げやりな気持ちで夕食を適当に掻き込みつつ、ときどき画面を見た。番組は全国大会の模様を収録し、編集を加えたもので、一堂に会した十数ものチームが一対一のトーナメント形式で大会を勝ち抜き、一位の座を目指すシステムになっていた。前に理紗先生から聞いた話では、実際の30人31脚の大会は毎年のように出場校数が変わり、地域ごとの偏りも大きかったので、大会の形式は毎年のように変更されていたらしい。最後の大会が一対一のトーナメント形式を選んだからといって、今回の大会が同じ形式を選ぶとは限らないことになる。

 だったら参考になんてならないじゃん。

 こんなの見たって時間の無駄じゃないの?

 拭いきれない疑問を抱えながらも、いつしか目線は画面へ釘付けになっていった。食器を片付け、いらない照明を落として、叶子はソファに沈み込んだ。水を含んだ真綿のように疲労が重みを増す。それでもナレーターが言葉を発し、画面の中の小学生たちがインタビューに答え、そしてスタジオ内のコースを疾走するたび、意識が嫌でも画面を向いた。気に入らない子の姿をついつい観察してしまう時の感覚に似ていると叶子は思った。

 一列に揃った小学生の軍団が、次々に番組側の紹介を受けてスタート地点に立ち、発走してゆく。「六年三組、行くぞー!」「今日のために全力で練習してきたんです!」「勝っても負けても笑顔で帰ろう!」──素面(しらふ)で発したら死にたくなるような恥ずかしい言葉を堂々と発して、叫んで、全力で駆け抜けてゆく子供たちの姿はあまりにも鮮やかだった。大差で敗北を喫したにもかかわらず、「楽しかった」と笑って会場を立ち去るクラスもあれば、あと一歩のところで勝利に手が届かず、泣き崩れるクラスの姿もあった。

 こんなもの演技でしょと、耳元で自分の声が嗤う。演技でここまで豊かな表情を描けるだろうかと、叶子は頬を揉んでみる。ここ何年か、全力で笑ったことなんてほとんどなかった。馬の合わない友達に囲まれれば作り笑いを浮かべたし、面倒な親の前では表情を消したし、大嫌いな妹の前では顔が強張った。誰かに心を許すことが叶子は苦手だ。心を許すことはつまり、誰かに弱点をさらけ出すことと同義であって、そんなことをすればたちまち手痛い攻撃を食らう。誰もがみんな、笑顔の裏で叶子をバカにしている。叶子がみんなをバカにしているように。

 いつだって、うちはひとりだ。

 ワイワイうるさい仲間に囲まれてるだけ。

 そんなやつらと走って楽しいわけがない──。

 そう思ったから、30人31脚の参戦に賛成しなかった。競技そのものが嫌いなわけでも、走ることが嫌いなわけでもなかった。バラバラでまとまりもなくて、自分勝手な子ばかりの集まる六年一組に、活躍できる可能性を見出せなかっただけだ。たったひとり信頼に足る存在がいるとすれば佑珂と、それからせいぜい祥子くらいのものだった。


 ──『はじめは団結力もなかったんです。練習を重ねるうちに少しずつチームワークも磨かれてきて、ようやくここまで来られました』

 ──『もっと早く音を上げるかなって思ったよね。でもふたを開けてみたら、みんなびっくりするほど負けず嫌いで、厳しい練習にも必死で食らいついてきて』

 ──『この子たちなら頂点を取れるって信じています。乗り越えてきたものの大きさが違いますからね。私がその証人ですよ』


 司会のタレントにマイクを向けられた指導者や担任教師たちの真摯な言葉が、叶子の心を不器用に揺さぶる。やめてよ、と叫ぶ代わりに叶子はクッションを抱きしめた。綺麗事なんか言わないでよ。無理なものは無理なんだ。夏休み前の時点で十メートルも走れず、転ぶたびに互いを非難し合うようなクラスが、上位に食い込むことなんてできっこない。うちらの挑戦はきっと無駄に終わる。そんな軽い言葉で夢を見せないでよ──。ひとしきり胸の中で叫び散らかして、また少し、実行委員を引き受けてしまったことを後悔したそのとき。

 背後でドアの開く音がした。


「何見てるの」


 妹の言葉に叶子は肩を跳ね上げた。先に夕食を食べて自室にこもっていたはずの千秋が、ドアの隙間から顔を覗かせていた。


「うっさい。あんたには関係ないから」

「いつも練習してるやつ?」


 千秋の目はしっかりテレビを捉えていた。同じ小学校に通っている千秋は、当然、毎日のように校庭の隅で行われる一組の放課後練を目の当たりにしている。羞恥心で顔を染めながら「そうだよ」と吐き捨てつつ、叶子はリモコンを取って画面を消した。


「けど、もう見終わったから。テレビ見たいなら好きに見れば」

「見たいなんて言ってないよ」

「なんでもいいけどうちに構わないで」


 妹は悲しい目つきで姉を見た。その眼差しがいっそう癪に触るから叶子には困りものだった。乱暴にDVDを取り出し、ケースに入れる間も、千秋は叶子から目を離さなかった。視線を感じ続けることに耐えられなくなった叶子は千秋を睨みつけた。


「何?」

「なんでもない」


 千秋はきまりが悪そうに目を逸らした。


「ただ、かっこいいなーって思ったの。私のクラスはああいうことやってないし、やれないし」


 四年生の千秋たちに同じことを真似されてたまるものか。なけなしのプライドを削って、集めて、叶子は冷笑した。


「あんたたちには無理だよ。六年生のうちらにとっても無謀な挑戦だってのに」

「なら、なんでやろうと思ったの」

「そんなの知らないし。参戦するのを決めたのは他の子たち」

「でもお姉ちゃんも今、頑張ってるじゃん」

「あんたがうちの何を知ってんの」

「知ってるよ。お姉ちゃん、いつもみんなのこと率いてるもん。わたしの友達もみんなそう言ってるし、わたしだっていつも見てるもん」


 何気ない千秋の言葉が脳天を撃ち抜いた。

 ソファの前に突っ立ったまま、叶子は固まった。否定のための言葉を必死に探したが、それらはどれも疲労の前では声にならず、ソファの上に転がり落ちて弾け、消えていった。

 頑張ってる、なんて意識したことがなかった。

 だって頑張るのは当たり前じゃないか。

 大会への参戦を受け入れ、実行委員への任命を受け入れ、文句のひとつも申し立てなかったのだから。

 すべては自分のためじゃない。みずから進んで参戦を望み、張り切って実行委員の任に当たる、たったひとりの信頼に足る友達の背中を押すため。結果を残して喝采を浴びたいのでも、両親に認められたいのでもない。けれどもそんなことを長々と説明したところで、目の前の妹に理解されるはずもない。

 ぐっとつばを飲み込んで、唇を噛んで、やっと叶子は言い返した。


「頑張りたくなくたって、頑張らなきゃいけない時ってのがあるんだよ。……あんたにはまだ分かんないよ」


 千秋からの反論を待たず、DVDを持って自室へ閉じこもった。この世でいちばん安心できるのは、外界から隔絶した自分の部屋だけ。本という揺るぎのない居場所を持つ千秋のことが、こういうとき切実に羨ましくなる。忌々しいほど高級な手触りの布団に身を横たえ、漆黒の闇を頭からかぶった叶子は、頑なに目を閉じた。この世のすべてから目を背けたい気分だった。けれども時間が経てばたつほど、記憶に焼き付いた大会の映像が賑やかな音声とともに頭の中をぐるぐる回り始める。悔し涙に暮れながら会場を後にする小学生たちの後ろ姿、けたたましい大迫力の応援、リポーターたちの笑顔、出走前に最後の言葉を送る先生の大きな背中……。


「……分かってるよ」


 布団の中で叶子は(うめ)いた。


「頑張ればいいんでしょ」


 あんなクラスでも、ニセモノの絆でも、いつか彼らのように輝かしいゴールを決められる日が来るかもしれない。そのほんのわずかな希望を捨てきれなかったから、叶子たちは実行委員として今日まで頑張ってきたのだ。そして、これからも頑張り続ける。自分が役目を全うすることで、みんなが走ってくれる限り。理紗先生が笑ってくれる限り。佑珂が涙を流さないでくれる限り──。

 疲労が高じて、あっという間に意識がとろけた。風呂に入っていないことを今頃になって思い出したが、もう振り絞るだけの気力も残っておらず、叶子は布団の海に黙って浸かった。明日は誰にも檄を飛ばさないで済むといいな、なんて、些細な願い事をもてあそびながら。







『17 葛藤稜也と未来の分岐点【1】』に続きます。




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