15 辛口叶子の頑張る理由【3】
来る日も来る日も練習は続いた。
準備体操、ランニング、縄跳び、各種トレーニング走、二人三脚、四人五脚、十人十一脚。
決まりきった練習メニューの消化に加え、七月に入ってからは五十メートル走の個人タイムも毎日のように計測し始めた。32人33脚でのタイムトライアル走も、一日の終わりに最低一度は必ず実施した。自分たちの実力を考えれば、五十メートルなど夢のまた夢。目標距離は十メートルに設定して、クリアしたら二十メートル、三十メートルと少しずつ伸ばしてゆくことにした。つまり、取った手法は二人三脚や四人五脚の時と変わっていない。
いつかは成果を結ぶ。
二人三脚でなら走れるようになったのだから。
人数が増え、多少の戦略が変わったとしても、やるべきことの根幹が変わったわけじゃない。
朱美や春菜や理紗先生は、歯を食い縛る一組をそういって叱咤した。もっとも、自分の足で走ることなく、安全な場所から指示を出すだけの監督や先生の言葉がみんなの心にどこまで響いていたのかなんて、とうてい分かったものではない。少なくとも叶子には響いていなかったし、叶子にとってはそれでよかった。別に先生の激励なんてなくとも、それで頑張る理由を見失うわけじゃない。実行委員の仕事を投げ出すつもりもなかった。
それでもやっぱり、クラッシュは怖い。
理紗先生のホイッスルが耳をつんざくたび、本能的な恐怖で足が止まる。
「ピリ──────ッ!」
またホイッスルが嘶いた。身体が強張ったが、隣とのバランスを崩さないよう慎重に減速を試みる。視界の彼方でバタバタと転倒するクラスメートたちの姿が見えた。稜也を含む右サイドのメンバー五、六人がクラッシュに巻き込まれ、砂煙におおわれて噎せていた。
大丈夫か、と康介が叫んだ。姿は見ていないが康介だとはっきり分かった。康介以外の誰も、案じる言葉を発しなかったから。
「また右側か……」
体育着の土を払った稜也が吐き捨てる。クラッシュしたメンバーは一様にうつむいていた。所定のトレーニングを終え、三十二人でのランを始めてから二十分。すでに一組は三度、稜也たち右サイドの起こしたクラッシュによってスタートに戻っていた。
理紗先生の指示でみんなは一路、スタート地点へ歩いて戻る。戻るといってもスタート地点はクラッシュ地点の数メートル後方だ。数歩下がって組み直す、と言った方がしっくりきた。ひとりで歩けば何の苦労もない、ほんのわずか十メートル未満の距離を、叶子たち一組は未だに走って越えられない。
「時間ないって分かってんのかよ、あいつら」
腹立たしげに朝原明宏が言い出した。三十二人で走る際、佑珂の右隣に配置されている男子だ。
「本番まで三か月しかないのに、こんなので本当に五十メートル走れるようになんのか?」
「こないだの練習も右からコケてばっかりだったしなー。自分たちが原因になってること本気で自覚してないんじゃね」
「それ俺も思った」
「だいいちメンバーの相性も悪そうだし。もう並び順から変えた方がいい気がするよな」
散発的に同意の声が上がる。望みの賛同を得ても面白そうな顔一つ浮かべず、明宏は列の右側を細めた目で睨みつけている。足紐を結び終えた佑珂がおろおろと立ち上がり、「やめなよ」と明宏を見上げた。
「ほんとに手を抜いてたら歩くこともできないよ。向こうの子たちだって頑張ってるんだって……」
「あいつらの顔見てから言えよ、そんなの」
明宏は太い指で右サイドを指差した。
「やる気あるメンバーに見えねぇだろ。末續も寺田も見るからにやりたくなさそうだし、高平は足おせぇし、実行委員の川内なんかもともと参戦に反対だったやつじゃんか」
「そんなこと……!」
「別にやる気ないならないでいいけどさ、俺らに迷惑かけてほしくねーんだよ。右側に固めてないで全体にばらけさせるとかさ。そういうこと仕切るのが実行委員の仕事だろ」
ぐっと喉を鳴らした佑珂が、うなだれた。大柄な明宏の隣に並んでいると、ただでさえ小さな佑珂の背中がいっそう小さく見えた。何か言わなきゃいけない。だけど言葉が浮かばない。威圧されて縮んでしまった佑珂の暗い瞳が、一瞬、叶子を見た。助けを求められたと叶子は思った。
佑珂を救わねばならない。
まだ何事かを言おうとしていた明宏を、叶子は大声で圧倒した。
「あのさぁ、やる気の有無なんて本人にしか分かんないでしょ! とやかく人のこと言ってないで自分のやることやってよ」
「はぁ? お前こそ突然なんなんだよ」
「真面目に練習してないやつに口出しされたくないって言ってんの。クラス全員の五十メートル走のタイム、うちらはちゃんと記録つけて把握してんだからな。朝原の今日のクラス内順位を教えてやろうか」
怯んだ明宏が「それは……」と視線を逃がした。みずからが一組全体で七番目に遅い鈍足であることを、多少は自覚しているようだ。
返す刀で叶子は周囲を睨み回した。
「朝原だけじゃないよ。さっき右サイドに文句言ったやつら、みんな向こうの子たちより立派な努力してんの? そんなことないでしょ? しょっちゅう手抜き練習して監督に怒られてるじゃん。文句言ってる暇があったら向こうをリードできるようになるくらい練習しろよ、そんでみんなを納得させてから愚痴りなよ! あんたたちに偉そうに振る舞う権利なんてないんだよ!」
唾を吐きながら叱りつけると、男子たちは一様に黙り込んだ。
そうだ、もっと反省しなよ。ただでさえ脆い一組のニセモノの結束は、いつかあんたたちみたいなやつから綻んでいくんだ。その自覚をもっと持てよ──。膨れ上がった公憤はもはや言葉にもならず、次々と言葉に置き換えられては叶子の脳内で弾けてゆく。しまいには制御の効かなさに気味が悪くなり、叶子は頭を振って無理やり言葉の連鎖を押しとどめた。けれども不満のガスはいまだに心の底で爆発の順番を待っていた。
だいたい右サイドが低意欲だというなら、明宏たち男子が練習に不真面目であるのも今に始まったことじゃない。思えば、ずっと前から叶子は苛立っていたのだ。たまたま爆発のタイミングが見当たらなかっただけで。
「……悪かったけどさ」
しょげた声色で明宏が佑珂に肩を回す。
「もっと優しい言い方しろよな」
どの口でそんな要求ができると考えているのかと思ったが、もう叶子は何も言わなかった。ただ、黙って肩を組み、腕を回し、結んだ両足でスタート地点に立った。気まずくなった空気を払拭せんとばかりに「さ、切り替えてくよ!」と朱美が声を張り上げた。
練習終わりのミーティングは、いつにもまして空気が重かった。
「──みんな疲れてきてるよな」
開口一番、康介が切り出した。叶子がうなずくと、佑珂も理紗先生も後に続いた。クラッシュ連発の当事者である稜也だけが、輪から少し離れたところでぐったり座り込んでいた。
「無理ないよ。ただでさえ暑くて運動どころじゃないってのに、こうも進歩がないんじゃ誰だってくたびれる」
「三十二人で走り始めたのっていつだっけ」
「自分で記録見ろよ。二週間前だよ」
稜也の言葉尻にもおおいに棘が残っていた。半分ふてくされた気持ちで、練習記録をつけているノートを叶子は手に取った。日付は七月下旬に差し掛かっていた。もう数日も経てば、夏休みが始まる。それなのに一組は未だに十メートルを歩くこともできていない。
「疲れたな……」
珍しく弱音を吐いた佑珂が、抱えた膝にぐったりと顔を埋めた。言葉に出すことはなかったけれど、たぶん康介も、稜也も、理紗先生でさえも同じ気持ちだった。無言の時間が十秒以上も続いた。汗に濡れた背中を夕暮れの風に冷やかされ、容赦ない寒気に叶子は身体を震わせた。優しくない風だと思った。
──優しくない、か。
優しいって何だろう。
あの一件以来、明宏の言葉が耳に引っかかって抜けない。
くたびれていたのは叶子も同じだ。ひとを慮る余力なんてなかった。日頃の苛立ちを勢いに乗せてまくし立てた自覚はあるし、今になってみると、もっと違う言い方を選べたような気はする。だからといって明宏たちを叱りつけたことを悔いる気持ちはない。ああいうことは誰かが言うべきなのだ。その役目を負うことができるのは、叶子たち実行委員をおいて他にはいない。不必要な優しさがその邪魔をするなら、叶子は優しい子でありたいなんて思わない。優しさをかける相手は佑珂ひとりでいい。
うちは間違ってない。
そうでしょ、みんな。
誰かのお墨付きが欲しくて、ほかの三人を順繰りに見た。三人の誰もが叶子を見ていなかった。人は疲労を溜め込めば溜め込むほど、自分を守ることに必死になって周りへ気を配れなくなる。今のみんなに共感を求めるのは酷なことかもしれない。それでも少し、胸の端がじゅくじゅくと傷んで腐ったのを叶子は覚えた。
それまで黙り込んでいた理紗先生が、口紅の乗っていない薄色の唇を開いた。
「みんな。今日はもう、帰ろっか」
「まだほとんど何も話せてないけど、いいの?」
「うん。とりあえず急いで話すようなことはないし、みんながクタクタなのは見れば分かるから。今日はしっかり休んで、また明日、昼休み練から頑張ろう」
誰も反対の声を発しなかった。クタクタなのは疑いようもない事実だった。
重たげに腰を上げた康介が「着替えるか……」と校舎を振り返る。オレンジに輝く西陽のスクリーンを切り取るように、岩戸小の校舎は暗い影を落としている。ベタついた日暮れ前の風に髪を洗われて、はたとため息をついたら、不意に「そうだ」と理紗先生が言った。先生は練習道具の入ったカゴから、ケースに封入された一枚のDVDを取り出そうとしていた。
「今回の大会、十二年前に開催されたのが最後って話したでしょ?」
「聞いたけど」
「こないだ先生の実家に帰った時ね、テレビ放送された最終回の録画を見つけたの。いつかクラスで流せないかと思ってDVDに焼いてきたんだけど、誰かこれ、興味ある?」
叶子たちは互いの顔色をうかがった。揃いも揃って、疲れていてそれどころじゃない、と言いたげに眉を曇らせている。意外に薄情なものだと叶子は思った。もちろんそれは他人事なんかじゃなかったし、叶子だって疲労困憊なのはみんなと同じだ。
それなのに、気づいたら手を挙げていた。
「うち、ちょっと興味あります」
「珍しいな。お前が真っ先に手を挙げるなんて」
驚きを隠さない康介の隣で、理紗先生の目が輝いた。大事に扱ってねと釘を刺しつつ、先生は叶子にDVDケースを手渡してくれる。表面に手書きで表題の書き込まれた、まっさらなディスクをしげしげと見つめると、夕焼け色の白い円盤にクラスメートたちの面影が重なった。
──『もっと優しい言い方しろよな』
そうとも。あいつらみたいな軽薄で冷淡な子でありたくない。だから興味もないのに理紗先生へ情けをかけようと思い立ったのだと、彼らの顔を手で払いのけながら叶子は思った。
「……あんたにはまだ分かんないよ」
▶▶▶次回 『16 辛口叶子の頑張る理由【4】』




