14 辛口叶子の頑張る理由【2】
七月二十六日から始まる一ヶ月超の夏休みを、どう過ごすか。例年みんなの頭を悩ませる馴染みの議題が、今年はとりわけ重い意味を持って叶子たち実行委員の肩へのしかかる。この一か月半で実力をどこまで伸ばせられるかが今後を大きく左右するはずだと、誰に言われなくとも叶子たちは理解していた。
康介や理紗先生の主導で、練習計画の話し合いが持たれた。
「夏休み中は毎日プール開放があるだろ。あれに合わせて練習もやろうぜ」
「プール開放って何時から何時ですか、先生」
「九時から十二時だったと思うよ」
「十二時かぁ。それよりあとに練習始めたら、一番暑い時間帯にぶつかってキツそう……」
「だいたいプール上がりに練習なんてダルいよ」
「参加率も下がるだろうな」
「朝早く集まる方が俺はありがたいな。塾の夏期講習、午後からだから」
「そっか、みんな夏期講習とか行くのかな。それなら朝早い方がいいかも」
「七時半くらいからやるか?」
「それなら大丈夫。起きる時間、今とあんまり変わらないし」
「うちらはいいかもしれないけどカントクとか大丈夫なの?」
「大迫さん方には先生の方で訊いてみる。そのへんの交渉とかは私がやるから安心して」
「そしたら次は練習メニューをどうするかだけど……」
いつも通り練習の振り返りを済ませてから、さらに居残って話し合うこと三十分。脱線まみれの末にようやく夏休みの練習計画を立て、叶子たちは岩戸小から解放された。走ることよりも怠けがちな仲間を急き立てることよりも、こういう話し合いの時間の方が叶子は苦手だった。頭を使うのは面倒だし、得意じゃない。そういうのは康介や稜也に任せておけばいいのにと思う。
眠る準備を終えてベッドにもぐり込むと、瞬く間に睡魔が壁をすり抜けてきて叶子の頬にキスを落とす。近頃はずっとこんな調子だ。身体も心も消耗していないのに、ひとたび栓を外すと際限なく力が抜けてゆく。あくび一つをする間もなく、叶子はベッドの奥深くへ溺れた。明日は日曜日、学校は休み。30人31脚の練習もない。少しはいい日になりますように──なんて、誰にともなく願ってみた。
その願いは、どうやら誰かしらが天に届けてくれたらしい。
「……めちゃめちゃ晴れてんじゃん」
全身にかいた汗の不快感で目を覚まし、叶子は呻いた。あふれんばかりの白色光がカーテンの隙間で躍っていた。部屋の冷房はつけていない。どうりで汗だくになるはずだった。どうも神様は叶子のささやかな願いを、かなり捻じ曲げて拡大解釈してくれたようだった。
叶子は日曜日が嫌いだった。
なぜなら学校に行けないから。
もっと言えば、家を出る理由がないから。
居間に出て、用意されていた朝食を食べた。両親の姿は見当たらなかったが、多分、休日出勤しているのだろう。不必要な警戒を解き、居間の真ん中に鎮座するソファへ横たわると、昨晩の疲れの残り香が全身の関節をこわばらせて、叶子はふたたび眠りに落ちかけた。いけない、寝るな。寝るなら自分の部屋に行け。必死に呼びかけて理性を保ちつつ、午前九時を指しつつある壁掛け時計の針を見上げた。
夏休み練は午前七時半から始まる。叶子は昔から朝の弱い子だ。こんな有様では、夏休み練でも遅刻しない自信がない。
「はぁ……」
深々と溜め息をこぼした叶子は、不意に居間のドアが開くのを見つけ、居住まいをただした。
「おはよう」
言葉少なに入ってきたのは妹だった。有森千秋、十歳。小脇に大きな本を抱えている。
「何それ」
「夏休みの宿題」
「なに言ってんの、夏休みまでまだ二週間あるじゃん」
「読書感想文を出されるって聞いたの。だから先に読もうと思って」
「先に読むも何も、そいつあんたの愛読書でしょ」
叶子は唇をひくつかせた。分厚い本の表紙には【夏目漱石全集】の文字がある。首を垂れて同意したっきり、千秋は無言で食卓について、朝食を食べながら本を読み漁り始めた。食事中くらい本を読むな、そいつをしまえと毒づきたくなったが、叶子は何も言わなかった。行儀の悪さを指摘し始めたら、より手厳しい指摘を受ける羽目になるのは自分の方だと分かっていた。
千秋は叶子とまるっきり対照的な文学少女だ。明治文学とやらが好きなようで、言葉も分からないのに小難しい本を読みたがる。とりわけお気に召しているのが夏目漱石とかいう作家だ。「漱」の字も書けないくせして何を偉そうに、などと叶子はいつも思うのだけれど、瞳を揺らしながら夢中になって読み進める妹を前にすると面罵する気も大義も失って、いつもすごすごソファに収まってしまうのだった。
両親の帰りが遅ければ叶子が家事を済ませ、夕食を作り、千秋に出す。幼い千秋が手伝ってくれるのはせいぜい食器洗いだけ。暇な時間はたいてい叶子の理解できない文学の世界に浸っていて、話しかけてもろくに応じない。
今度は千秋に聴かれないよう、叶子は息をひそめて嘆息した。
それからずるずるとソファに沈み込んだ。
もっと千秋が幼くて、文字なんてろくすっぽ読めなかった頃に戻れたなら、自分の日常はもっと楽しかっただろうかといつも妄想する。あの夏目漱石とかいうやつを殺してやれば、妹は自分たちの世界に戻ってきただろうかと想像する。夏目漱石が百年前に死んだ偉人であることなど、もちろん折り込み済みだ。この世はどうにもならない事象であふれている。
楽しくない。
幸せじゃない。
誰々が嫌い。何々が不快。
うちの心はマイナスの言葉だらけだ。
暗いことばかり考えていたら、カメラのピントがぼやけるみたいに意識が遠のいていった。気づいた時には時計の針が十三時を回っていて、叶子はだらしのない格好でソファに倒れていて、両親の顔が目の前にあった。
「……相変わらず寝てばかりいて」
母の低い声に叶子は飛び起きた。
「か、帰ってたんだ。いつの間に」
「さっきだよ。午前中だけ院内会議があるって話しただろう」
不機嫌極まりない父の言葉が、昨夜の会話を壊れたカセットテープみたいに逆再生する。夕食の場でそんなことを言われたような気もしたが、たぶん叶子は聞いていなかった。だって、クタクタだったから。
「ほんと人の話を聞いてない子ね。だいたい千秋はああやって真面目に本を読んでるのに、こうやって昼間っから時間を無駄にするばっかり」
「せめて勉強くらいしたらどうだ。もう中学生になるってのに」
ぶつくさ文句を吐いたきり、二人とも叶子から興味を失ったみたいにソファのもとを離れ、自分の部屋に消えてゆく。一部始終を見ていた千秋はふたたび本に目を戻した。しんと静寂の満ちた居間に、しばらく叶子はうずくまるみたいにして座り込んでいた。
また、これだ。
言葉にならない憤りが鼻を抜けて目尻に詰まる。
叶子の両親は医師と看護師だ。エリート様は怠惰な娘の姿を見かけると我慢ならなくなるようで、妹の目の前であろうが平気で説教をする。千秋はそれを見て、いっそう叶子に興味をなくす。もしくは叶子を軽蔑する。叶子にとって休日とは、そういう日だ。
着替えが済めば両親が居間に戻ってくる。
叶子も身体を起こし、自室に飛び込んだ。急いで着替え、財布と小さなカバンだけを持って居間に戻った。まだ両親の姿はなかった。
「出かけてくる」
いちおうの義理のつもりで千秋に話しかけたら、彼女は本から目も離さずに「わかった」とだけ応じた。
仲良しごっこなんてクソ食らえ。
それが叶子の人生訓だ。
けれども同時に叶子には、まさにその仲良しごっこを一緒にやる仲間がいる。
マンションを出たところで連絡を取ってみたら、いつもの友達は公園に集まって遊んでいるようだった。なんなら叶子にも誘いの電話がかかっていた。当の叶子が寝落ちていて、着信に気づかなかっただけ。
お目当ての供養塚児童公園は、猪駒通りを一本入ったところにある、小さいけれども岩戸小から一番近い公園のひとつだ。自転車を飛ばして公園に乗り付けると、見慣れた顔の女の子が「叶子が来た!」と叫んで寄ってきた。
「何してたのさ叶子、連絡したのに」
「ごめん。サイレントモードにしてて気づかなかった」
叶子は大嘘をついた。サイレントだったのは叶子の方であって携帯ではない。「あるあるだわー」と笑った彼女──上原夏海に手を引かれ、公園の真ん中へ向かう。何をするでもなく突っ立って話をしていた一団のなかに、叶子は無事に合流した。
「やることなくて困ってたんだよね」
開口一番、夏海は大あくびをかましながら伸びをした。ほかの子たちも「そうそう」と言い出した。なんとなく集まったはいいものの、小一時間ずっと駄弁ってばかりいたようだ。遊ぼうにも身体がクタクタで動かないと言われ、叶子はなんとなく身体を固めた。実行委員の自分が非難されているわけではないと理解しているのは、叶子の理性の部分だけだった。
この集団のボスは夏海だ。何事をするにも仕切りたがるし、みんなのことをやたらと気にかけるし、夏海が「阿」と言えばみんなは「吽」とは言わない。一組の女子にはこんな具合の派閥がもう一つあって、あちらはクラス一の才女、桜子が仕切っている。いつも教室の隅に集まって漫画やイラストを描いている集団をそこへ加えれば、一組の女子の勢力図はおおむね完成だ。──もっとも、流浪の民である佑珂を除けばの話だが。
「あたし、叶子、祥子、彩音、そんで夕那の五人か」
夏海が順繰りにメンバーを数えた。
「もう一人いたら三人制バスケがやれるね」
「二対二はちょっとなーって感じだもんね」
「誰か呼ぶ?」
寺田彩音が問いかけると、すかさず祥子が「佑ちゃん呼ぼうよ」と申し出た。祥子が言い出さなければ叶子自身が言い出すつもりだった。このクラスの女子をひとりだけ追加するとしたら、ひとりだけ派閥に所属していない佑珂が選ばれる。なぜ佑珂がどこにも属していないのかといえば、それは去年の夏まで佑珂が独りぼっちの転校生だったからだ。運動会でチアリーディングの練習を一緒にするまでは、叶子ですら佑珂と距離を取っていた。ひたむきに苦手なダンスと向き合う彼女の真摯な眼差しを知って、魅入ることがなければ、きっと今でも友達じゃなかった。
「そうしよっかー。祥子、ちょっと福島さんのこと呼んでよ」
「待っててね、いま電話するから」
「福島さん供養塚公園の近所だったよね。すぐ駆け付けてくれそう」
「ついでにバスケットボール持って来てくんないかなー」
「誰もボール持ってきてないのに三人制バスケなんて提案したのかよ……」
こらえきれなかった突っ込みを口にしながら、叶子はスマートフォンを手にする祥子の横顔に目をやった。この五人のなかで佑珂を下の名前で呼ぶのは、叶子と祥子の二人だけ。しょっちゅう遊びに佑珂を召喚する夏海たちですら、いまだに佑珂を苗字と敬称で呼ぶ。
夏海たちにとって、佑珂は今もよそ者だ。
その事実を佑珂本人がどこまで承知しているかは分からない。
できれば自覚してほしくないし、しないで済むならさせたくないと叶子は思う。知れば最後、きっと佑珂は傷ついて悲しむ。いつもニコニコ笑ってはいるが、佑珂は心根の弱い子だ。去年の担任だった小原先生が一組を黙って去った時など、ホームルームの間じゅう泣き続けてクラスの顰蹙を買っていた。
この集まりを佑珂の居場所にしたい。
佑珂が安心して居着ける場所にしたい。
居場所のない人間は、みじめだ。
むろん──叶子自身だって。
「佑ちゃん来るってよ!」
祥子が弾んだ声を上げた。「よっしゃ」と夏海がガッツポーズを決める。どこまで本気で喜んでいるのか疑わしいものだと思いつつ、ひとまず佑珂の存在が受け入れられたことを叶子も素直に喜ぶことにした。仲良しごっこはまだまだやめられないな、と思った。
「もっと優しい言い方しろよな」
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