13 辛口叶子の頑張る理由【1】
──これはチキンレースだ。
誰が最初に音を上げて「もう30人31脚なんてやりたくない」と言い出すか。
その不名誉な一番手になりたくなくて、しばらくは誰もが必死に頑張るだろう。けれどもそんな後ろ向きの理由で、昼休みや放課後のプライベートを延々と犠牲にし続けられるわけがない。そうなったら真っ先に投げ出すのは誰か──。体育着に着替えて練習へ臨むたび、有森叶子はクラスメートたちの顔を伺いながら予想を立てていた。
事あるごとに「疲れた」といって道端へ座り込もうとする、桜子たちのグループか。
厳しく檄を飛ばす朱美のことを避けがちな、敏仁や雪歩のように地味な一群か。
転ぶたびに責任のなすり付けを始めたがる、明宏たちの集団か。
あるいは気苦労の多い実行委員の誰かか──。
決して人に知られてはならない。知られたら最後、軽蔑されるだけでは済まされない。そうと分かっていたから、危うい場面に遭遇しても叶子は納得のそぶりなんて見せず、ただ無心でフォローに徹した。大事な模試とやらを数日後に控えた明日乃が苛立ち気味に体育着を羽織ろうとしていた時には「無理しないで休んで勉強すれば?」と進言したし、朱美にこってり走り方の粗を指摘された雪歩が泣きそうな顔で走っていた時には「無理して急に直す必要ないから」とアドバイスしたし、男子たちのいさかいを止めようと佑珂が進み出た時には「無理に介入しない方がいいよ」と諭して自然解決を待った。
無理をしたって出来ることはたかが知れている。だから無理をしないことが大事。それで手が届かなければ、そのときは正々堂々と諦めればいいのだ。才能がなかった、タイミングが悪かったんだと思えば、諦めたからといって不必要に自分を貶める必要もない。
三十人で足を結んで走るなんて、それこそ常識に考えれば無理と無茶の塊だ。正直なところ、一組はもっと早い段階で30人31脚への情熱を失い、失速し、投げ出すと叶子は思っていた。心のどこかでそれを望んでいる自分がいた。そうこうしているうちに半月が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、いわとまつりの記憶も遠くなり、夏休みの初日が見えてくるような日付に差し掛かった。一組はいまだに走り続けていた。気づけば十人で走ることさえ可能になった。
惰性で走り続けたにしては、一組はあまりにも遠くまで来すぎてしまったみたいだ。
「それじゃ、今日からは三十二人で走ってみようか」
集まったクラスメートを前に、朱美は満足げな声を張り上げた。目の合った子たちは誰しも不安げな面持ちをしていた。無理からぬことだと叶子は思った。練習を始めた直後、ほとんど歩くこともできずに数歩で崩れ去った思い出が、叶子の網膜には今もなお濃厚に焼き付いている。そしてそれは叶子だけではあるまい。
「大丈夫大丈夫! あの頃とは訳が違うんだから。そんな顔しなくたって走れる走れる」
「そーだよ。とりあえずやるだけやってみようぜ」
「簡単に言ってくれちゃって……。顔から転んだりしたらどーすんの」
「あんだけ十人十一脚やってりゃ転び方にも慣れてるだろ。心配ねーよ」
勇ましく言い切った康介が、朱美とともにみんなの背中を押す。名簿を手にした理紗先生が配置を指示して回る。言われるままに隣同士の子を探しながら、そういえばこの並び順は稜也が作ったものだったと今更のように思い返した。叶子以上に意欲が低く、誰よりも早く音を上げるだろうと思っていた稜也が、こんなにも実用的な成果を出してクラスに貢献していることに、叶子はどこか釈然としないものを隠し切れない。
理紗先生の口から名前が読み上げられる。左から順に文李、雪歩、駿、侑里、貴明、万莉、高彦、叶子、穣、佑珂、明宏。
「げ。有森が隣かよ」
呼ばれた服部高彦が嫌な顔をした。
「何が『げ』なわけ? 言ってみなよ」
「いや……何でもないです、すいません」
「縮こまってんなよ。どうせ女子らしくもないキッツい声で怒鳴られると思ったんでしょ」
「そこまで言ってねーじゃん……」
「これから毎日、実行委員の監視下に置かれることになるからね。覚悟して本気で走りなよ」
分かってるよ、と高彦は観念したように呻いた。高彦はクラス男子きってのいじられキャラだ。黙っていれば可愛い顔をしているのに、からかわれるような隙をポロポロ出すからちっともモテない。まぁ、今のはちょっぴり本気だったけどね──。思いっきり舌を出してやりたい気持ちに駆られつつ、おとなしく叶子は高彦の腰に手を回した。
右隣の男子は藤原穣。その向こうには佑珂の姿がある。腰と肩に回した腕で身体を固定した佑珂は、落ち着いた眼差しで校庭の彼方を見つめている。その横顔が妙に綺麗で澄んでいたものだから、叶子は一瞬、意味もなく見とれてしまった。
たぶん、他のクラス全員が30人31脚を投げ出しても、佑珂だけは投げ出さない。そんな気迫が、佑珂の瞳を薄く濡らしている。
「どっちから足出すの、実行委員」
誰かが言った。すかさず康介が「右端の拓志が右足!」と返した。みんなは一斉に自分の一歩目を確認し始めた。叶子の位置は左端から八人目、最初に出すのは右足だ。
「人数が多くてもやることは同じだからね。最初だし、まずは三十二人で一緒に歩く感覚を掴んでいこう。焦らなくていいんだよ」
朱美が声を張り上げる。横並びの三十二人にも届くほどの大声に、校庭の隅で遊んでいた下級生たちがこちらを振り向いた。一組の実施する30人31脚の練習は、このところすっかり岩戸小の子供たちの見世物と化している。一組に校庭を占領された二組は、代わりに狭い体育館を無理やり使って練習しているという。だから見世物にはならない。晒しものになるのはいつだって叶子たちの方だ。その事実が叶子にはたまらなく気に食わない。ああ、これだから30人31脚なんて嫌だったんだ──。
「位置について!」
号令がかかる。「やー!」と応じたみんながスタート姿勢を作る。考え事をしていた叶子は一瞬ばかり出遅れた。うまく腰の落ち着きどころが見つからないでいるうちに「用意」の声がかかる。焦りのあまり、叶子は息を止めた。
「どん!」
スタート合図とともに右足が上がった。二人、四人、十人と組み人数を増やす過程で染みついた身体の動きが、隣の穣や高彦の身体に馴染んで自然と身体を前へ運ぶ。いける。これならなんとか歩いてゆける。脆い自信が深まった瞬間、無理をして保っていた背筋のバランスが崩れたのを叶子は自覚した。
ホイッスルの鋭い一声が空気を震わせた。
理紗先生の発した停止指示だ。
しかし停止する間もなく、足をもつれさせた叶子は地面に突っ伏した。巻き添えを食った高彦も穣も、その両隣も、たちまち「うわわっ」と間抜けな声で倒れ込んできた。
「叶子ちゃん!?」
視界の外側で佑珂が叫ぶ。痛みをこらえて顔を拭い、なんとか足紐を引きちぎって姿勢を起こすと、ちょうど起き上がった佑珂と目が合った。彼女の顔も砂まみれだった。叶子を見るなり佑珂は「血が……」と呻いたが、叶子が平気なふりをして「大丈夫」と言い切ったら、大粒の吐息を漏らして地べたに座り込んだ
駆け寄ってきたクラス一同が叶子たちを取り囲む。
「大丈夫かよ高彦」
「万莉、痛くなかった?」
口々にかけられる言葉へ、高彦も万莉もそれぞれに応じている。不甲斐なさでまともにみんなの目を見られず、叶子は無言で立ち上がった。散発的に飛び交う心配の声は叶子にも向けられていたが、真剣に身を案じてくれたのは真っ先に声を上げた佑珂だけだと思った。
立ち上がった勢いで叶子は高彦と穣に頭を下げた。
「……ごめん。偉そうなこと言ったうちが転んで」
「別にいいよ。誰だって転ぶときは転ぶじゃん」
「そうだよ。誰も怒ってないって」
二人の口ぶりは確かに棘を欠いていた。そうだろうなと、頭を上げながら叶子は冷笑した。二人が腹を立てていないことは顔つきから予想できていたし、別段想定外なことでもなかった。
高彦も、穣も、安心したのだ。
真っ先に転んだ戦犯が自分でなかったことに。
先陣を切って転んだのが実行委員だったことに。
そうでしょ、二人とも。それともここにいる全員、同じ気持ちかもね。
仕切り直しを叫ぶ理紗先生や朱美の言葉に従い、みんなはぞろぞろとスタート地点に向かって動き出す。不安げに寄ってきた佑珂の手に誘われ、叶子も足紐を持って後を追った。狭い校庭をうっすら覆う砂煙の向こうで、下級生たちは相変わらず一組の奇行じみた挑戦を「理解できない」と言わんばかりに見つめていた。
このところ保健室は大忙しだった。ただでさえ下級生の怪我が多いうえ、六年生の二学級が同時に30人31脚の練習に取り組み、毎日のように怪我人を量産するのだから当然だった。哀れ、もうじき引退間近という養護教諭の松本雪江先生はすっかりノイローゼ気味で、叶子が保健室のドアを開くや否や「今度は何!」と叫んですっ飛んできた。
「絆創膏ください。顔すりむいたんで」
「あー、すりむいただけね……。ちゃんと消毒はしたのかしら」
「まだ洗ってないですけど」
「なら洗うのが先決よ。洗ってからいらっしゃい。それとも先生に消毒液とガーゼで拭かれたい?」
「やめときます」
叶子は松本の手を抜けて洗面所に走った。高齢だからか疲れているのか、松本に患部の消毒を任せると非常に痛い。ゴシゴシと力任せに雑菌を払おうとする。
手洗い場の鏡にはふやけた顔の自分が映っている。いや、たぶん映っているはずだが、眼鏡を外しているので何も見えない。この眼鏡と、眼鏡の底で光るキツい目つきと、粗雑な言葉遣いと、並の男子より大きな体格のおかげで、なにかと叶子は周囲から恐れられている。誰に恐れられようが知ったことではない、と叶子は思う。向こうが叶子に好感を持たないのと同じように、叶子だって周囲に好感を抱いていないのだから平等だ。一方的に嫌われるより何倍も始末がいい。
仲良しごっこなんてクソ食らえ。
それが叶子の人生訓でもある。
まだ、誰にも明かしたことはない。
「洗ってきました」
保健室に戻ると、松本は真新しい絆創膏を用意して待っていた。「擦過傷で済んでよかったわ」などと独り言みたいにつぶやきながら、松本は叶子の額に大判の絆創膏を押し付けた。
「これからは怪我したらすぐに患部を洗って、なるべく早く保健室へ来てちょうだい。それと、あんまり無茶しすぎないことだよ」
「あんなことしてたら無茶しなくたって怪我しますよ」
「そうだろうね。頑張っている姿勢は理解するけど、保健室の先生としてはあまりいい気持ちがしないね。あの30人31脚とかいうスポーツは……」
松本の視線が窓の外に向いた。校庭では一組の仲間たちが思い思いの姿で休憩を取っていた。叶子は「十分間、休憩取ってるだけなんで」と付け加えた。
「じゃ、もう戻るのね」
「だって戻らないと邪魔でしょ」
「そんなこと言わないわよ、失礼だね。これでも先生なんだから」
「顔がすっごいそう言いたげ」
松本は「まぁ」と目くじらを立てた。自分が松本の立場だったら、こんな反抗的で面倒な子供をいつまでも保健室に入れておきたくない。先生だってそうじゃないの──。叶子が無言で問いかけると、松本は溜め息をついて、また窓の外を見た。
「……ここに来る六年生の子は、けっこうみんな色んな話をしていくもんだけどねぇ」
「色んな話って?」
「練習がきついとか、怒られてつらいとか、コーチの人の指示通りに身体が動かないとかね。あなたもそういうのを溜め込んでるんじゃないかと思ったんだけど」
「うちは別に、そういうのないです」
何事もないふりをして答えながら、叶子も窓の外に目を細めた。住宅街に囲まれた岩戸小の敷地は狭い。猫の額ほどの広さしかない校庭の真ん中で、みんなは仲良し同士のコロニーをいくつも作って何事かを話し、盛り上がっている。どこにも混ざれない子は黙って疲れを取っている。理紗先生や朱美や春菜のもとに近寄っているのは、実行委員の三人きりだ。
30人31脚を始めても、このクラスは変わらなかった。
不満があっても保健室や仲間内で愚痴って、見えないところで処理するだけ。
表面上は平和が保たれている。それを平和という名前で呼んでいいのか、国語の苦手な叶子には分からない。
「……そんなもんだよな」
小声でぼやくと、松本が「何が?」と訊き返してきた。
「なんでもないです。練習戻りまーす」
叶子は用のなくなった保健室を飛び出した。昇降口で靴を履き替え、重たい足で校庭に出る。いつしか金色に輝きだした夕空の上を、鼻から抜けるような声で叶子をバカにしながらカラスたちが飛び去った。
「うちの心はマイナスの言葉だらけだ」
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