12 葛藤稜也の頑張る理由【3】
実行委員の仕事を始めてからというもの、ひとりで家路をたどる日は格段に減った。ほとんど毎日のように夕方五時か六時まで学校に居残り、それから家に戻って通塾の支度を済ませ、自転車に飛び乗って隣町の塾を目指す。塾のある日は時間の余裕がないし、最終的に帰宅する時間は夜九時を回る。
「お前、今日の日学研ないんだろ」
近頃は塾の休みの日を康介に見破られるようになった。「なんで分かったんだ」と問うと、たいてい康介は稜也の足元を指差した。
「歩幅」
「そんなのいつもと変えてない」
「いっつも塾ある日はせかせか歩いてんだよ、川内。自覚ないんだ?」
からっと叶子が笑う。何が面白いのか分からないが、叶子は康介や稜也を小ばかにするとき、ずいぶん明るい顔をする。本気の嫌味を感じられないのが残念なところだ。
「でも私、やっぱり川内くんって偉いなーって思う。わざわざ授業の時間変えてまでちゃんと練習に残ってくれるし」
「それは──」
「実行委員だから?」
いたずらっぽく佑珂が言葉を重ねた。図星を突かれて押し黙ると、彼女は目を戻して、ちょっぴり照れて、小さな声で続けるのだ。
「それでもいいよ。すごく助かってるんだから」
はじめのうちはまるで会話もなく、ただ同じ方角に向かって帰宅するだけだった四人の帰り道が、少しずつ賑わいを帯びるようになったのはいつのことだっただろう。たまたま出る校門が同じだったというだけで、四人で帰ることに特段の意味があるわけじゃない。それでも近頃の稜也は、この緩慢な帰宅時間がそれほど苦手ではなくなっていた。たとえ家に着くなりバタバタと支度に追われ、塾に向かって飛び出してゆくとしても。
岩戸小の周辺は北を水道通り、南を猪駒通りという市道にそれぞれ挟まれていて、おおむね水道通りの南側全域が岩戸小の学区に指定されている。南側全域といっても、すぐに市境のある広大な多摩川に出てしまうので、学区の面積はそれほど広くない。その広くない学区内を横断しているのが猪駒通りで、岩戸小に通う子供たちの大動脈だ。
校門を出て一直線の細い道を抜け、猪駒通りの交差点に出ると、まずは佑珂が「じゃあね!」と左折していなくなる。彼女の家は猪駒通り沿いのリノベーションアパートで、『駒井レジデンス』とかいうありきたりな名前がついている。佑珂の抜けた三人で右折して猪駒通りを道なりに進むと、今度は康介が「また明日な」といって道路脇の平たいビルに消える。康介の父親の勤務先、東野ケミカル株式会社の社員寮なのだそうだ。そこを過ぎると間もなく、稜也も右折して猪駒通りを離れることになる。黙って手を振りつつ、ときどき後ろを振り向きながら、叶子は猪駒通りの行く手にそびえ立つ大型マンション『GLITTER HILL』へと姿を消してゆく。
この四人で実行委員を務める羽目になるまで、クラスメートの住処など何ひとつ知らなかった。せいぜい、社長一家の室伏文李が豪邸に住んでいるらしいことと、通塾仲間の克久がどこかの賃貸マンション住まいであることを、うろ覚えで知っている程度だった。
いまさら少し、知る世界が広くなった気がする。
そうして同時に、底知れない世界の外側も広がってしまった感触がある。
ポケットに手を突っ込んで鍵を探しながら、薄暗い我が家を稜也は見上げた。実行委員四人の中で、稜也だけが一戸建てに住んでいる。購入時は新築の建売住宅だったようだから、たぶん、誰よりも家の値段は高い。それだけの経済力を川内家は持っていたということだ。一目で家族の姿や状況を推察させてしまう、家って恐ろしいものだと稜也は思う。そして、自分の家だけは例外だ、という確信を隠し持ってもいる。
ランドセルを自室に置いて宿題を取り出し、居間に下りて黙々と解いていたら、午後七時を回る頃になってチャイムが鳴った。
「お帰り、母さん」
インターホンにも出ずに玄関へ直行すると、開いたドアの先にビニール袋を抱えた母が立っていた。母──愛緒は「ありがとね」と微笑んで、食材の詰まったビニール袋を玄関先に置いた。
「遅かったね」
「ごめんね。青少対の仕事、ちょっと長引いちゃって。あと八急ストアに寄ってきたから」
「どうせ面倒なこと押し付けられたんじゃないの」
「面倒なんて言わないの、誰かがやらなきゃいけないんだし。──あ、そのビニールに冷凍食品が入ってるから、それだけ先に冷凍庫へ入れてもらってもいい?」
押し付けられたことを母は否定しなかった。稜也はそれ以上の追及を諦め、ピラフやおかずの袋を持って冷蔵庫に向かった。水気の多い袋はじっとりと重たかった。
母は狛江市役所の教育部社会教育課というところで勤務しながら、月に数度、青少対と呼ばれる地域活動に参加している。正式には「青少年対策岩戸小地区委員会」というんだそうだ。地域の行事を運営したり、広報誌を発行したり、多摩川河川敷の清掃ボランティアをやったりしている組織らしいが、その実態を稜也は深く知らない。知っているのは、母がPTAの岩戸小世話人会で青少対委員なる役目を無理やり与えられ、月に何度も無償の仕事に駆り出されていることだけ。
「お腹すいたでしょ。晩ご飯作らなくちゃね」
気苦労の欠片すら浮かべないまま、母は手を洗うのもそこそこに台所へ向かって料理を始めようとする。稜也も黙って傍らに立ち、手を洗った。すかさず母は「稜ちゃんはいいよ」といって稜也を居間へ押し戻した。
「塾のない日くらい羽を伸ばしてなさい。普段から頑張りすぎてるんだから」
「そんなこと言ったら母さんだって──」
「親が子供のために頑張るのは当たり前なの」
こうなると頑固な母はてこでも動かない。致し方なく、稜也はテレビのリモコンを手に取った。せめて台所の母が少しでも楽しめるようにと思って、適当に見繕った民放の情報番組にチャンネルを合わせた。どこかの有名棋士が大きなタイトルを制したようだ。キャスターの発言を聞きつけた母は「あら!」と声を跳ね上げたが、それっきり後は口をつぐんで、穏やかな面持ちで料理を続けた。稜也も黙々とテレビに目をやり続けた。
こうして無為な時間を過ごしている間にも、世間は動いている。国の在り方も、経済の動きも、同年代の子たちの学力や運動の記録も、みんな変わり続けている。どこかで誰かが喜びに湧き、誰かが悲しみに暮れている。その事実だけを情報番組は淡々と垂れ流してゆく。あなたが何を感じようとも自由だ、とでも言わんばかりに。
何もできない時間は怖い。
役に立てないのが、怖い。
体育座りの膝を稜也は強く抱え込んだ。テレビ台の上に置かれた父の写真と目が合って、聞き覚えの残る声が耳元に膨らんだ。
──『稜也。母さんを助けてやってくれ』
稜也は目を閉じた。
──『みんなの役に立てる人になってくれ』
見えない父が畳み掛ける。稜也は唇を噛んだ。ぞっと足元から気配が湧き上がって、稜也の身体を優しく、冷たく、包み込んだ。
稜也の父は腕の立つ弁護士だった。
けれども二年前に命を落とした。
床に伏してから二度と目を醒まさなくなるまで、わずか二ヶ月も経たなかった。経済的にも精神的にも大黒柱を失った川内家は、母の勤める市役所からの収入と、父の残した遺産を支えにして、あれから懸命に家計をやりくりしている。しかし四十代を目前にして若く亡くなった父の遺産など、十年と少しで底をつくことは目に見えていた。その前に稜也は自立し、大人にならなければならない。浪人やら留年やらフリーターやら、人生の道に迷っている時間的猶予は残されていない。
二年前、もはや声も嗄れ果ててしまった父と、稜也は指切りの約束を交わした。世の中の役に立つ大人になり、母を支え、みんなを支えるのだと、この口で確かに契った。あれから一日として忘れたことはない。稜也は父のような弁護士になろうと思っている。そのためには必死に勉強して法科大学院の門を叩き、司法試験を突破して法曹の仲間入りを果たさねばならないことも知っている。川内家の苦しい家計を鑑みれば、学費の安い国公立に通わなければならないことも、優良成績を収めて奨学金の支給を受けなければならないことも知っている。都立立国を志望校に据えているのはそのためだ。学費を安く抑えられるうえに進学実績も高く、高校受験の必要もなく、六年間をかけてゆっくり将来に備えられるからに他ならない。
すべては未来のため。
やるべきことははっきりしている。
バラエティ番組に興じている暇はない。
30人31脚だの実行委員だの、くだらない寄り道をしている暇なんて本当はない。
それなのに、こうして寄り道に甘んじてしまう自分を、ときどき稜也はたまらなく許せなくなるのだ。
「……母さん」
「うん」
問いかけたら、背中の向こうで母が返事をした。
「30人31脚の話、したでしょ」
「何度も聞いたよ。一組の参戦、青少対でも話題になってるしね」
「俺が参加やめるって言い出したら、どう思う」
母は返答をためらった。
「あれのせいで勉強できなくなって、受験に落ちたら、母さん、どう思う」
意地の悪い質問だと分かっていながら、なおも稜也は畳みかけた。
しばらく沈黙が流れた。やがて、わずかな音とともに包丁がまな板に伏せられた。
「……いいよ、それでも」
母の声は気味が悪いほど落ち着いていた。
「稜ちゃんのやりたいようにやったらいいの。あなたが何を頑張ろうとしたって、お母さんはそれを心から応援する。何を頑張るか、何を頑張らないか、それを決める権利があるのは稜ちゃん自身だよ」
稜也は目を伏せた。
母の言葉に嘘はないと思ったが、同時に優しくないとも思った。
だって、30人31脚も、弁護士も、自分自身で選び取った夢じゃない。クラスみんなが参加を叫んだから、あるいは父の死という現実に直面したから、嫌でも目指さざるを得なかった。いまも多くの人の期待に晒されて、両立の難しい夢の狭間で身動きが取れなくなりかけている。
頭では分かっている。
引き受けたからには両立を志して努力しなければならないのが、自分の責務なのだと。
ただ、ときどき、これでいいのか不安になって、誰かのお墨付きを得たくなるだけ。たったそれだけのことなのだ。
「……もうちょっと頑張ってみる」
口ごもりがちに応じたら、そっと、母が吐息を漏らした。
「これから毎日、実行委員の監視下に置かれることになるからね。覚悟して本気で走りなよ」
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