11 葛藤稜也の頑張る理由【2】
岩戸小学校には数多くの学校行事がある。とりわけユニークなのが六月末に開催される校内文化祭『いわどまつり』で、中学や高校の文化祭よろしく、各クラスが趣向を凝らしたブースやイベントを用意して、校内の児童や教師でそれらを楽しんで回る、丸一日がかりの大きな行事だ。開催当日は各クラスの子供たちを二つのチームに分け、片方が午前中、もう片方が午後に自由時間を与えられて校内を回り、残ったチームがクラスの出し物を運営する。スライム作りやゲームセンター、お菓子屋さん、教室いっぱいを使った巨大迷路などが定番の出し物で、中には教室内にステージを設置して演劇を披露するところまである。
六年一組はお化け屋敷を作ることになった。これまた定番の出し物で、例年、学年が上がるほど本格度が増してゆくことに定評がある。
「どうせならとことん怖くしようぜ」
「一年のガキを本気で泣かせてやる」
という一部男子たちの旗振りのもと、周到な準備が進められた。いらなくなったマネキンをもらってきて破壊し、死体よろしく赤い絵の具を塗りたくって床に置いたり。段ボールで作ったトンネルの両側に白いゴム手袋をはめた子を配置して、通過する客の足元に手を伸ばすようにしたり──。
この「お化けハンド」担当に、稜也は設楽敏仁とともに任じられた。
「やだな、ちっちゃい子の足つかむのなんて……。ぜったい蹴られたりするし……」
小柄な敏仁は最初から最後まで引っ込み思案だった。もっともお化けハンド担当に限らず、敏仁が何事かに意欲的になっているところを稜也はあまり見たことがない。五月半ばに30人31脚の参戦を提案された時、わずか四人しかいなかった不賛成派のうちのひとりが敏仁だった。足にしたってクラスの男子では断トツで遅い。いつも暇な時間は独りで絵を描いているが、その絵を誰にも見せようとしない。
「やるしかないだろ。低学年の子は触らないでおけばいいよ」
「そんなのどうやって見分けるの」
「適当に。足がちっちゃいとか」
「……やってみる」
しぶしぶ敏仁はうなずいていた。
すったもんだの末、一組特製のお化け屋敷は開園を迎えた。午前中組が担当した三時間もの間、お化けトンネルを通過してゆく無数の子どもたちを、敏仁と手分けして懸命に脅かして回った。蹴られまいとする決意のほどは尋常ではなかったらしく、敏仁の控えるトンネル入り口付近で悲鳴を上げた下級生は皆無だった。反対に四年生や五年生は「うわぁ!」「舐められた!」「なんか這い回ってる!」などと悲鳴を上げ、稜也が触る間もなくトンネルを駆け抜けていってしまった。舐めても這い回ってもいないはずの敏仁が果たして何をしたのか、稜也には知るべくもない。足元へ手を伸ばしただけで一年生の子たちに何度も泣かれ、良心をシクシクと痛めながら、この地獄が一刻も早く終わることを稜也はひたむきに願った。
本物の死体の冷たさを知っている子が、果たして一組の中に何人いることか。きっと幾ばくもいまい。こんな嘘っぱちの企画、この世からなくなってしまえばいいのにと思った。
『いわどまつり』が閉幕する頃、30人31脚の練習はいよいよ本格的なものに移行しつつあった。地道な練習の結果、ほとんどの子が二人三脚で走れるようになりつつあった。ペアごとに一歩あたりの歩幅や走るテンポを調整した結果、ついには目標の二十メートルや三十メートルを超え、本番と同じ五十メートルを走破できるようになったユニットも出現した。
「人数を増やしてみようか」という朱美の音頭で、練習は二人三脚から四人五脚に変更された。これもじきに歩けるようになると、次は十人十一脚での練習指示が出た。さすがに最初は歩くこともままならず、稜也たちは何度も転倒した。初めて三十二人での歩行に挑戦した日のことが遠く思い返された。
練習の量はともかく、メニューの種類は朱美や理紗先生の提案によって次第に増えていった。たとえば、スタート時の体勢を確認するための倒れ込み走。校庭に引かれた一本の線上を歩いて「まっすぐ走る」感覚をつかむ直線歩行。体重移動のトレーニングを積むとともに、隣の子と足を縛っている不自由な状態でのスタートに慣れるための片足スタートダッシュ。もちろんランニングや縄跳びの実施は今まで通りだ。
スタート時と走行中の掛け声もクラス内で統一することに決まった。「位置について」の指示が出たら、「やー!」と唱和して片足を引き、スタンディングスタートの姿勢を作る。スタート指示で駆け出したら、一歩目から順に「1、2、3、4、5、6、7、8、1、2、1、2、1、2、1、2、1、1、1、1……」と声を揃え、足並みを合わせる。最初の八歩は1から8の数字で、次の八歩が1と2の繰り返し。十七歩目からは奇数歩目の時だけ「1」と叫び、これがゴールに飛び込む瞬間まで続く。
最初のうちはルールを覚えるだけでも大変だった。特に十人でのランを始めてからというもの、最初の一歩目をどちらの足から出すのか、歩幅をどうするのか、並び順をどうするのか、それまで以上に大掛かりな人数で決めなければならなかった。おまけに放課後練習は自由参加なので、毎回、十人のメンバーが変わる。すると呼吸のタイミングや足を上げる角度までもが毎度のように変化する。各チームに必ず一人ずつ含まれている実行委員は、この話し合いの陣頭指揮を取らなければならなかった。
「ねー、あたし毎回右足から出してるからさ、今度も右足からがいい」
と言い出す子もいれば、
「左端に配置されるの十回目だよ。そろそろ俺じゃないやつにしてよ」
と言い出す子もいる。
みんなの意見を平等に聞いているときりがない。康介や叶子はともかく、人前で強く出られない佑珂はずいぶん苦戦していた。稜也自身も心を鬼にして、文句を言うクラスメートたちに指示を与えた。正式な指導者の朱美はともかく、同級生の稜也に指示を出されて動くことを、みんなそれほど快くは思っていない様子だった。
それでも数を繰り返してゆけば、おのずと走れるようにはなる。
気づけば十人でも走れる力が身に付き始めた。
早歩きと大差のない速度とはいえ、なんとか三十メートルや五十メートルの距離も走破できるようになってきた。
「──そろそろ三十二人で走ることも考えなきゃなって思うんだ」
放課後練習終わりのミーティングの場で、理紗先生がおもむろに切り出した。
「十人で練習してる時とは違って、ちゃんと固定の並び順を作りたいの。本番にも耐えるような配置にしたいから、この四人にも相談に乗ってほしくて」
「いま考えるんですか。うちらクタクタなんだけど……」
車座になって汗だくの体育着をあおりながら、叶子がへろへろと抗議の声を上げた。さすがに夏前になると、夕方を迎えて陽が落ちてきても屋外は暑い。十人で身体を密着させて走ることを繰り返していればなおさらだ。
「でもなんか、ついにここまで来たんだって感じがするね」
声色だけは元気な様子で佑珂が言う。「おれも」と康介が続いた。
「二人三脚も走れなかった時期が嘘みたいだよな。五十メートルくらい余裕だもん」
「みんなが真剣に練習したからだよ。こういうのは頑張ったら頑張った分だけ結果はついてくるの」
理紗先生の顔は隅々まで晴れやかだった。こういうのは、という意味深な言葉の意味を稜也は悟りかねたが、そのまま先生が一組の名簿を取り出して広げてしまったので、ほかの三人と一緒に名簿を覗き込んだ。名簿には各人の五十メートル走の直近最速記録が記載されている。相変わらず男子最速は駿、女子最速は万莉。男子最遅は敏仁で、女子最遅は志穂のまま。「あとちょっと速かったら駿を抜けたのになー」と、康介が悔しげにぼやいた。
「三十二人を並べ替えるっていっても、そもそもどんな風に並べたらいいんだか」
「なんか名案ないの、先生」
「私も悩んでるんだ。色々とセオリーはあるみたいなんだけどね。なるべく両隣の子と身長を揃えるようにするとか、スピード順に三つのブロックに分けて中央、右翼、左翼にバランスよく配置するとか、真ん中に低い子が集まるようにして身長順に並べるとか……」
「身長順にしたら小さいやつほど遅くなっちゃうよ。おれ、その案はよくないと思う」
「武井だってチビだけど速いじゃん」
「何を! 今おれのことチビ呼ばわりしただろ」
「チビはチビでしょ。大人しく現実を受け入れろよ」
「ねー叶子ちゃん、そんな言い方しなくたって! 私なんか武井くんより背低いんだけど」
「どうでもいいけど福島、こないだから五十メートル走のタイム上がってなくね?」
「あっそれは、その……こないだまで足首痛めてたから」
「ちゃんと治したの?」
「うん。叶子ちゃんに教えてもらった整骨院に通ったから」
「それ知ってる、駅前のヨロイ整骨院だろ。あそこの先生おっかねぇよな。笑顔で死ぬほど痛く揉んでくるもん」
「そんなの武井がガキだから適当に押さえつけたんでしょ。うちの時は普通だったし」
「てめぇ、言わせておけば!」
みるみる話が脱線してゆく。ひとり黙って耳を傾けながら、稜也はほこり混じりの溜め息を足元に落とした。練習とミーティングが終われば塾に行かねばならないのに、この四人はおかまいなしだ。稜也の事情など誰も知らないのだから無理もないが。
今日の放課後練には二十人しか集まらなかった。都立立国の文化祭の翌日、宣言通りに「塾あるんで」といって明日乃や実華が練習を抜けて以来、放課後練を休むというタブーはみんなの中で解禁が進んだようだ。理紗先生の言う通り、練習の成果は着実なものとなりつつあるのに、そのぶん一組のみんなからは初期の頃のような意欲が着実に薄れている。練習が惰性になり、なるべく苦労しないで練習を終わらせようと手を抜いている子の姿も見当たる。
自由参加なのだから嫌なら休めばいい。
そう桜子たちに憤ったのは稜也自身のはずなのに、なんだか釈然としない。
「……そろそろ真面目に考えませんか」
頃合いを見計らって理紗先生の顔を覗き込むと、先生は泡を食って「ごめんね」と改まった。一緒に盛り上がってしまっていた自覚はあったらしい。呆れ果てた勢いのまま、稜也は名簿を取り上げた。
「まだ走れたこともないのに、あんまり細かいこと考えても仕方ないだろ。基本的に男子の方が女子より速いんだから、とりあえず男女交互に並べよう。そんで、特にタイムの速い十人を選び抜いて、横一列に並んだとき一方に偏らないように分散させる。山縣や武井が速いなら、その二人は絶対に近くへ配置しないで、なるべく左右均等に配置するみたいな」
目をしばたいた佑珂が「おおー」と感嘆の声を上げた。それほど特異な考えを披露したつもりはなかったが、喜ばれることに不思議と悪い気持ちはしなかった。ちょうど理紗先生の手元にシャープペンシルが一本あったので、名簿の脇の空欄を使い、足の速い順に十までの番号を振ってみる。次に、上位十人の位置を考慮しつつ、男女交互になるようにして適当にメンバーを並べてゆく。十分と経たずに、それらしい一覧が稜也の手元に出来上がった。
「こんな感じでどうですか」
ずいと理紗先生に突き出したら、先生はいたく感激した目で一覧を受け取った。
「いいと思う! すごいね、一瞬で作っちゃった」
「ようやくやる気を出す気になったか?」
不敵に口元を歪めながら康介が笑う。稜也は「別に」と鼻息を強めた。
「黙ってたら何も解決しないと思っただけ」
「だったら黙ってないでもっと早く口出せよなー。このままだとおれたち何もアイデア浮かばずに徹夜するところだったんだぞ」
「だから口を出しただろ。だいたい徹夜なんてする気もないくせに……」
「でもおれ、嬉しいよ。川内のおかげで助かったもんな」
思わず稜也は返答に詰まった。閉ざされた唇を見上げた康介が、さも不思議そうに首をかしげた。
実行委員を始めて以来、初めて誰かに感謝された気がした。やる気もなく、そもそも参戦に肯定的でもなかった稜也に、たったこれだけのことで感謝される謂れがあるとは思えない。それなのに不愉快な気持ちにならなかったのは、心のどこかに実行委員の仕事をやり通そうという意思が眠っているからなのか。あるいは、そうではないのか。
──『笑っちゃうよね。反対してた二人が実行委員やってるとか』
いつか誰かの口走った嗤い文句が、耳の裏側で暗く反響する。
違う。稜也は彼らの背中に唾を吐いた。お前らとは違う。無責任に賛成だけしてダラダラ練習するようなクラスメートじゃない。たとえクジに選ばれようとも、やると決めたからにはやり通すのが実行委員の責任だ。時には真剣にだってならなくちゃいけない。気楽に笑っていられるお前らとは違うんだ──。
一瞬ばかり怒らせた肩が、理紗先生や佑珂の浮かべた笑みを前にして、しゅんと委縮する。
「役に立てたなら……よかったけどさ」
仕方なく同意したら、「おう」と康介も白い歯を見せた。叶子も変な顔で笑っていた。真似をしなければならない気がして、稜也も口角を上げてみた。内に秘めた心の色は違っていても、今は少なくとも五人がみんな、同じ心持ちで互いと向き合っているように見える。その感覚がなんだかくすぐったくて、かえって少し、居心地が悪かった。
「俺が参加やめるって言い出したら、どう思う」
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