10 葛藤稜也の頑張る理由【1】
六月十九日、土曜日。
天気はめいっぱいの快晴。
川内稜也は朝っぱらから、校門前へ現れたクラスメートの姿に呆れ返っていた。
「なんでそんなもん持ってきたんだ」
問いかけると、神野克久は「これしか思いつかなくて」と後頭部を掻いた。その背中には大きく「G」と書かれた青色のバッグが背負われている。稜也と克久の通学する進学塾、日本学力研究教室の制式カバンだ。
一目で塾生と分かる防犯上の効果があるとはいえ、いくらなんでもGバッグをハレの場で背負うのは気恥ずかしい。ファッションセンスのない稜也ですら、もう少しマシな格好をしてきたというのに。
「僕はこれでいいよ。きっと資料とか色々もらったりするだろうしさ、Gバッグなら何でも入るから」
「そりゃ実用性だけはあるだろうけど……」
深く追及するのも面倒になって、稜也は克久から目を離した。並木道の向こうに駐輪場の屋根が見える。木々におおわれて見えないが、その奥には大きな校舎が建っているはずだった。校舎へ続く道のりは色とりどりの門で彩られ、行く手にはビラを持った法被姿の中学生や高校生が呼び込みをしている。「クレープ安くなってますよ!」「柔道部の演武は十二時から体育館で!」「校内見学ツアーに参加しませんか!」──無数の誘惑に嫌でも心が引き寄せられる。ふらり、迷い込むように校門をくぐったら、カバンを背負い直した克久が慌ててあとをついてきた。
六月十九日。
今日は稜也の目指す第一志望校、東京都立立国中等教育学校の文化祭の日だ。
この日のためにわざわざ電車を乗り継いで、国立という街までやってきた。いずれ稜也が合格を果たせば、この経路はそのまま日々の通学経路になる。混んでいないか、時間はどれほどかかるか、お金は月にいくらかかるか──。目に入るすべての情報を集める覚悟で、校舎の中に足を踏み入れた。
油断していると目移りが止まらなくなる。
「どこもすっごい楽しそうだな」
すれ違う晴れ姿の中高生を眺めるたび、克久は弾んだ声を上げる。鬱陶しくなって「神野の志望校じゃないだろ」と遮ったら、「第二志望だよ」と克久は言い返してきた。
「そうだっけ」
「だいいち僕の第一志望なんて、自分で選んだ学校じゃないし」
「あぁ、閏井中か……」
「母さんが行かせたがってるだけ。あんなとこ僕の学力じゃ無理だって何度も言ってんのに、ちっとも聞く耳を持たないんだよ。だから僕にとってはこっちの方が大事」
「前回の一斉模試の順位、俺より下だったもんな」
「閏井のレベルは都立立国より上なのにさ」
ぶつくさぼやきながら、克久は稜也の先に立って廊下を進んでゆく。
都立立国中等教育学校──略して「都立立国」は、このあたりでは指折りの進学実績を誇る進学校のひとつだ。東都大学や首都工業大学、神田橋大学といったトップクラスの難関国立大学にも無数の生徒を送り出している。いきおい、受験の難易度も高めで、かなりの成績上位層でなければ狙うことができない存在だ。
パンフレットによれば、生徒会事務局が三階の一室を使用して進学相談ブースを開設しているらしい。文化祭の雰囲気を楽しむ前に、まずは情報収集を優先して終わらせなければ。意図的に視野を狭め、賑わいを目に入れないようにして急ぎ足で歩いていたら、不意に肩が固いものにぶつかった。
「痛っ!」
「げっ、ごめんね。大丈夫だった?」
声をかけてきたのは、黒い管楽器を携えた女子高生だった。凶器の正体は楽器だったようだ。
「大丈夫です。すいません」
「私は別にいいけど。怖い目して歩いてるねぇ、君たち。もしかして受験生?」
すん、と彼女は稜也たちの匂いを嗅ぐように目を細めた。「なんで分かったんですか」と克久が問うと、彼女は一も二もなく克久のカバンを指差した。たちまち克久は真っ赤になってうつむいた。言わんこっちゃないと稜也は呆れた。
「立派だなー。私なんて一度も学校見学しないで入学したよ、ここ。受験対策もあんまり真面目にやんなかったし」
「頭いいんですね」
「まぁね。弟はバカだけどね」
すごい自信だ。なんと返せばいいのか分からずに稜也が押し黙っていると、彼女は「校内案内してあげようか」と申し出てきた。ありがたい気持ちを面倒な気持ちが上回ったので、丁重にお断りさせていただいた。彼女はなおも「吹部においでよ」「十時半からコンサートやるよ」などといって大量のビラを押し付けてきた。面倒に思ったのは間違いじゃなかったと、ビラの多さに顔をしかめながら稜也は痛感した。
こんな先輩ばかりの学校なのか、都立立国は。
公立校はもっと真面目な世界かと思ってたな。
見知らぬ先輩の残していった強烈な衝撃に、まだ頭が面食らっている。だからといって見て回る意欲が消え失せたわけでもなく、気を取り直して校内の地図を手元に広げた。進学ブースのある三階へは、近場の階段を上ってゆくのが早道のようだった。
たとえ変人揃いでも、稜也が都立立国を目指す理由は十分にある。完全中高一貫制の中等教育学校では、高校受験の不安に怯えることなく勉学に励める。名前の通り公立校なので、高額な学費負担も生じない。稜也の将来にとって、あるいは川内家にとって、理想的な環境であることは揺るがないのだ。
やっぱり、この学校に入りたい。
衰えない決意をもてあそびながら、稜也は階段前の廊下に差し掛かった。
不意に克久が「あれ」と立ち止まった。
「あそこにいるのってさ……」
克久の視線を稜也は追った。見ると、行く手の廊下でたむろする一群の中に、岩戸小のクラスメートの顔がいくつもあった。一人はクラス一の才女・桜子。その隣でヘラヘラ笑い合っているのが、同じく受験組の田中明日乃と井村実華。三人とも稜也たちとは別の塾に通っているグループだ。
関わり合いになりたくない。
とっさの防衛本能が働いて、稜也は「隠れよう」と克久の耳にささやいた。おあつらえ向きなことに、すぐ左手には男子トイレの入り口がある。二人して物陰に身をひそめると、ちょうど三人の歓談する声が聞こえてきた。クレープが生焼けで美味しくなかったとか、出し物のお化け屋敷がちっとも怖くなかったとか、後ろ向きの話題を並べ立てながら三人は盛り上がっていた。
「あの三人、都立立国志望だっけ」
ひそひそと克久が問う。「さあ」と稜也は嘆息した。中学受験を志す子は他にも数人ほど知っているが、みんなの志望校など稜也は一つも知らない。知ろうと思ったこともないし、知りたくたって聞き出し方が分からない。中学受験という共有の課題を抱えてはいるが、だからといって稜也と彼らが親しいわけではないのだ。受験や学校選びは個々の問題であるのに、群れで挑むなんてそもそもおかしな話だとさえ思う。それは決して強がりではないはずだった。
「──てかさ、みんなちゃんと勉強してんの? 次の一斉模試まで時間ないじゃん」
ひときわ大きな桜子の声で、稜也は現世に意識を戻した。一斉模試、もとい「全国一斉小学生模試」といえば、中学受験界隈では著名な全国規模の模擬試験のひとつだ。そういえば受験日程も迫っている。
「うわ、その話やめてよ! あたし超ギリギリだもん」
「ね。勉強ぜんぜん足んないよ」
「30人31脚の練習で放課後みんな潰れるもんね」
「あれのせいで偏差値下がったらどうしよ。塾の先生になんて言い訳しよっかな」
「学校行事のせいです、とか言えばよくない?」
「間違っちゃいないでしょ」
30人31脚、の単語に不覚にも耳が動いた。よせばよかったのに、物陰から顔を出して三人を覗き見してみる。明日乃と実華は相変わらずヘラヘラ笑っている。桜子は擦れた面持ちで壁に寄りかかり、窓の外を眺めている。三者三様だが、どのみち人を食ったような態度に変わりはない。
「マジでさー、放課後練のあと勉強なんて無茶だよ。毎日クタクタだもん」
「土井たちがやるやる言わなきゃよかったんだよ」
「そんなこと言ったら実華だって賛成に手ぇ挙げてたでしょ」
「しょうがないじゃん。こんなに時間なくなるなんて思ってなかったし。だいたいみんな賛成してるのに自分ひとりだけ反対とか無理だし……」
「反対してたの誰だっけ?」
「川内とか有森とか、そのへん」
「笑っちゃうよね。反対してた二人が実行委員やってるとか」
「こっちはやることに追われて頭の中いっぱいいっぱいなのにな」
「そろそろ放課後練サボってもいいんじゃない? あれってそもそも自由参加でしょ?」
「だよなぁ。いい加減真面目に塾行きたいし」
そばだてる耳が腐り落ちそうになるのを稜也は自覚した。
もういい、十分だ。これ以上は聞くに堪えない。傍らの克久はまだ大人しく耳を澄ませていたが、稜也は「行こう」といって強引に克久の背中を押し、階段へ向かった。一応、後ろを振り返って安全確認を取ったが、三人が稜也たちの存在に気づく気配はなかった。桜子に至っては同行している二人さえ目に入れず、窓の外を退屈げに眺めるばかりだった。
乱暴な足音が階下の喧騒にかき消される。階段を乱暴に踏み荒らしながら、収まらない腹の虫を稜也は深呼吸で鎮めにかかった。声を上げてしまえば稜也の負けだと思ったが、それでもやるせない感情の湧出はとどまるところを知らなかった。
稜也が実行委員を引き受けているのはクジで選ばれたからだ。好きでやっているわけでも何でもない。桜子たちもそのことをちゃんと理解しているはずだ。それでもなお愚痴のダシにして消費しようとする彼女たちの根性が、稜也にはこの上なく不愉快だった。
どいつもこいつも好き勝手言いやがって。
こっちの苦労なんて何も知らないくせに。
初めから自由参加と言っているのだから、そんなに嫌なら休めばよかったじゃないか。そんなこと言ったら実行委員の俺は強制参加だってのに!
むしゃくしゃが募るあまり、階段を上るつもりでいたのに下ってきてしまった。そのまま勢いで一階の模擬店に赴き、クレープを買い食いした。焼きたてのクレープは美味な湯気に満ち溢れていた。やっぱりあいつらは大嘘つきだ、と思った。
「……みんなの本音も同じなのかな」
隣でクレープを頬張りながら、ぽつり、克久が言った。
「どうだろな。同じかも」
「川内もやりたくないの?」
「あいつらと違って俺はもともと反対派だよ」
そう、稜也は初めから賛成に否定的だった。桜子たちのように無責任に賛成へ手を挙げた連中とは違う。だからこそ行き場のない苛立ちが募るのだ。食べ終えたクレープの包装に苛立ちを込め、ぎゅうぎゅうと小さく丸めてゴミ箱へ入れたら、背後で克久が寂しげに「そっか」とつぶやいた。
「僕は楽しいけどな。練習するの」
「なんで?」
「なんでって、そりゃ……勉強から逃れられるから」
「そんな理由で賛成したのかよ」
「言ったでしょ。うち、親が勉強熱心だから。毎日のように勉強しろ勉強しろって言われてみなよ、頭おかしくなりそうになる」
克久の目は稜也を見ていなかった。
「そういうの忘れられるんだ。走ってる間はさ」
けたたましいトランペットのいななきが空気をつんざく。グラウンドの特設ステージで始まった吹奏楽部の演奏が、尾を引きかけた言葉の余韻を跡形もなく消し飛ばした。さっきの先輩はあの群衆のどこかにいるのだろうか。一瞬ばかりステージに目を向けて、それから戻すと、克久は一足遅れて食べ終えたクレープの包装紙をゴミ箱へ投函するところだった。
「でもおれ、嬉しいよ。川内のおかげで助かったもんな」
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