09 直向佑珂の頑張る理由【3】
昼休み練をやりたいという康介主導の申し出を、理紗先生は「やってみようか」と受け入れてくれた。とはいえ、昼休み練には朱美や春菜が参加できないので、校長たちとの約束通り、三十人で足を結んで走るような本格的な練習は行えない。やるとしてもせいぜい五十メートル走や縄跳びなどの基礎トレーニングと、二人三脚程度の人数の少ないランが中心になる。
六月に入ってさっそく、昼休み練が開始された。下級生の子たちが遊ぶのを邪魔するわけにもいかないので、給食を食べ終えた子から順次、屋上に出て体操を始めた。初めのうちこそ、めったに立ち入ることのない校舎の屋上からの景色にみんなは興奮していたが、いざ練習を始めるとたちまち顔色を悪くした。
「お腹痛い……」
「食べたばっかで激しい運動なんて無理だろ」
「昼休みくらい普通に休んでもよくない?」
ぶつくさ文句を言うクラスメートたちをなだめるのは大変だった。ほかでもない佑珂自身が腹痛に顔を歪めながら走っていたのだから、いくらなだめたところで説得力がないのは当たり前だった。苦しくないはずがない。けれども苦しまなければ走る力は身につかないし、力をつけるための時間は手に入らない。
「佑ちゃん、大丈夫?」
へとへとになって金網にもたれかかっていたら、叶子と並んで走っていた子に不安げな声をかけられた。数少ない佑珂の友達、新谷祥子だった。長い髪に隠れた彼女のうなじが汗に濡れているのを眺めながら、佑珂は「ううん」と首を振って身体を起こした。
「へっちゃら。ちょっと疲れただけ」
「だといいけど……」
眉をひそめながら祥子は背後を振りあおいだ。ひゅう、と湿気の多い風が屋上を吹き抜けてゆく。楽しげに歓談しながら走っている子たちの姿が、五十メートル彼方でかげろうみたいに揺れて見えた。ひとりぼっちで五十メートル走を繰り返している佑珂とは大違いだ。もちろん五十メートル走は基礎トレーニングの一環なので、大勢で走ろうがひとりぼっちだろうが効果が変わるわけじゃない。
ふっ、と叶子が冷笑した。
「あいつら絶対いま手抜いてるよな。あんなスピードで走ってたってトレーニングの意味ないよ」
「ねー。あの佑ちゃんがこんなに真剣に走ってるのに」
「あのって何!」
「だって佑ちゃん、いままで運動とかあんまりしてなかったじゃん。身体だって細いし、体育の授業でもあんまり活躍する方じゃないし。わたしらはクラブでバドやってるからまだいいとしても」
岩戸小には毎週一度のクラブ活動がある。バドミントンクラブで汗を流している祥子や叶子と違って、佑珂が属しているのは読書クラブだった。クラブといえどもみんなで集まって本を読むだけのことで、普段やっていることと何が違うのかと問われたら、佑珂には返す言葉がない。
だからこそだよ、と佑珂は言い張った。
「運動してない私こそ誰よりも頑張って、みんなのお手本にならなきゃだもん。実行委員なんだから」
たとえ誰もが佑珂の頑張りを見てくれないとしても、ほかでもない自分自身の信念を裏切らないために、佑珂は頑張り続けなければならない。やすやすと安易な方へ流れてしまいたくはないのだ。決意の片鱗を匂わせたつもりで小さな胸を張ったら、祥子は怪訝な顔で隣を見た。
「……叶子、佑ちゃんのこと支えてあげてよね」
「言われなくともそのつもりだってば」
「ひどい! 二人とも私のことぜんぜん信頼してくれてない」
「いやー、なんていうか、佑ちゃんって頼りになる子っていうより、守ってあげたい子だなーって思う」
「悪いけど、うちもそっち派」
たった二人の親友ですらこの有様なのに、他のクラスメートから当てにされないのは無理もない。むくれながら佑珂はふたたび五十メートルのスタートラインを目指した。ふざけながら走っていた男子たちが理紗先生に途中で止められて注意され、スタート地点まで戻されている。なんだかんだで最後に頼りになるのは先生だと佑珂は思った。じっと見つめていたら先生がこちらを振り返った。佑珂の大好きな先生は、暑苦しい六月の風の中で困りげに苦笑していた。
たとえ誰もが佑珂の努力を見てくれなくたって、理紗先生が佑珂を見ている。
それだけで勇気が湧いてくる。次の一歩を踏み出す決意が生まれる。
「よし」
頬を叩いて、スタートラインに立った。多摩川を流れ下ってきた風に背中を押されて、佑珂はふたたび五十メートルの道のりを駆け出した。
佑珂の生まれ故郷は本州ではない。
八丈島という、太平洋に浮かぶ絶海の島で育った。
中学校の教員を務める父の転勤で、去年の春に狛江の町へ移り住んだ。島といっても八丈島には七千人もの人が住んでいるし、いちおう狛江市と同じく東京都に属しているのだが、初めて暮らすことになった本州の広さと人の多さにはめまいを覚えた。少し自転車にまたがれば、大概のものは近所で手に入る。最寄りの和泉多摩川駅まで行けば、都心に向かう小田急電鉄の長い電車が高頻度でやってくる。隣の自治体と陸続きなのは当たり前。狛江市の東に隣接する世田谷区など、単体で八十万人もの膨大な人口を抱えていると聞く。
カルチャーショック、などという生易しいものではなかった。世界のすべてがカタチを変えてしまった。友達はおろか、家族以外に見知ったものが何一つない町の中で、初めのうちはどう振る舞ったらいいのかも分からず、毎日ひとりで肩を縮めながら暮らしていた。運動会でチアダンスをやることになるまでは、叶子や祥子とさえ交流を持てていなかった。何も知らない島育ちの自分がみんなに受け入れてもらえるのか、みんなの輪の中に入ってゆけるのか──。底知れない不安を抱えるばかりの佑珂へ真っ先に手を差し伸べてくれたのは、クラスメートではなかった。当時の担任だった小原先生だ。彼女は佑珂に何度も輝くチャンスを与えてくれた。叶子たちと友達になれたのも、前より勉強が得意になったのも、にこにこ笑えるようになったのも、みんな小原先生のおかげだった。
ひるがえって今、一組の担任には理紗先生が就いている。
「私は先生一年生です。分からないこともいっぱいあります。だけど、そのぶん精一杯に頑張ろうと思うので、みんなもどうか私を精一杯に頼ってください」
六年一組として迎えた最初の日。理紗先生のあいさつは、声がちょっぴり震えていた。その震えに佑珂は自分と同じ波長を感じ取った。──そっか、私と同じなんだ。分からないことだらけで不安で、でも頑張らなきゃって気持ちだけはあって、その狭間で立ち止まりながら必死に声を出してるんだ──。そう悟った瞬間、親近感が生まれた。この先生と仲良くなりたい、いつか自分を導いてくれた小原先生のような存在になりたいと思った。
理紗先生が笑っていると佑珂も嬉しくなる。
先生にはのびのびと笑っていてほしい。
先生の夢見る世界を、私も一緒に見てみたい。
30人31脚への参戦提案に真っ先に乗ったのも、思えば、たったそれだけの理由だった気がする。
「──運動前にちゃんとストレッチはしたんだろうね?」
真実を見定めるみたいに佑珂の顔をうかがいながら、柔道整復師の先生は足首に親指を押し当てた。たちまち激痛が走り、佑珂は「痛い痛い痛いっ」と身をよじった。
「そうかそうか。痛いってことは凝ってるってことだ」
「……もっと優しくしてください」
「そうはいかないな。なにごとも凝り固まったものをほぐすには力が要る。ほら、緊張しないでリラックスして」
「先生の意地悪……っ」
「準備体操や整理体操をおろそかにしているとこういう目に遭うんだぞ。いい勉強になったじゃないか」
靴下越しに足首を揉まれ、えぐられるような痛みに佑珂は唇を噛んだ。待合室の長椅子に座る老婆たちが、こちらを見ながらクスクス笑っている。駅前の雑居ビルの一階に店を構える『和泉ヨロイ整骨院』は、遅い夕刻になっても近所の人でいっぱいだ。叶子や祥子から評判の良さを聞いていただけのことはあった。
鎧坂温史とかいう怖いんだか優しいんだか分からない名前の先生は、その名の通り、陽気なノリで患者の身体を痛めつける恐ろしい人物だった。手荒な治療に顔を歪めるたび、ちょっと足首を痛めたくらいで整骨院を頼ったことを佑珂は心底後悔した。
「足首を痛める原因は色々ある。アキレス腱炎とか足関節捻挫とか、シンスプリントなんかもそうだ。こうやって痛い思いをしたくなかったら、正しいストレッチと一緒に正しいフォームも覚えておいた方がいいな」
言いながら鎧坂は保冷剤入りの袋を足首に当てた。佑珂は「ひっ」と肩を跳ね上げた。
「は、走り方ってことですか」
「そう、走り方。着地の仕方ひとつ取っても、正しいやり方をしないと足を痛める原因になる。走るってのは意外に奥の深い世界なんだぞ。舐めちゃいけない」
「それって二人三脚やってても同じなのかな……。私、一緒に走ってる子がけっこう速い子で、歩幅とかも違うんですけど」
「そりゃそうだ。二人三脚であっても、君らのやろうとしてる30人31脚であっても、走り方の基本は変わらない。歩幅に関しては速い子が遅い子に合わせるのが原則だな」
ぜんぜん知らなかった。足の速いペアの雪歩が佑珂に歩調を合わせるのは、二人三脚の方策としては正しいことだったのだ。もっとも、本人がそのような意図を持っているかはともかく──。内心ちょっぴり苦笑しつつ、ようやく痛みの薄れてきた足首を佑珂は見下ろした。
「しかし本当、懐かしい競技を始めたもんだ。むかしはよくテレビで観てたなぁ」
しゃがんでいた鎧坂が向かいの椅子に腰を下ろした。
「近々リバイバル大会をやるってのは聞いてたが、まさか近所の岩戸小が参戦することになるとはね。しかもクラスみんな大賛成だったんだろ?」
「誰が言ってたんですか、それ」
「知樹とか明宏とかだな。佑珂以外にも何人かウチに通院してくれてて、そっちでも話を色々と聞いてるんだ」
金丸知樹はクラス一のお調子者、朝原明宏はクラス男子のボスみたいな存在だ。彼らの属するグループの中には康介も含まれる。理紗先生が30人31脚の話を持ってきたとき、ノリノリで「やりたいやりたい!」と叫んでいた彼らの姿を、佑珂はやけに遠く思い返した。あれから早くも数週間が過ぎようとしている。みんなの意欲が果たしてどれほど維持されているのか、佑珂には分からない。
「佑珂も賛成だったんだ?」
鎧坂が問いかける。誰よりも声高に賛成したとは言いづらくて、佑珂は鎧坂から目を背けた。
「……先生の提案、断るのが嫌だったから」
30人31脚という競技にそれほど惹かれたわけじゃない。それこそ運動は苦手だし、みんなに迷惑をかけてしまうかもしれない。それでも大好きな理紗先生の提案だったから、佑珂は乗った。この挑戦が理紗先生の、そして佑珂自身の未来を大きく変えてくれるはずだと信じて、今も実行委員としての役目を果たすことに躍起になっている。
担任に就いてから二ヶ月が経ってもなお、理紗先生が一組に定着している気配はない。みんな先生の前ではよそよそしく振る舞っている。そんな現状を佑珂は変えたかった。大好きな先生のことをみんなに受け入れてほしかった。30人31脚への挑戦を成功裏に収めれば、その先頭に立った理紗先生の活躍をみんなが認めてくれると思った。
──そしてあわよくば、佑珂自身のことも。
「色々と思うところがありそうじゃないか」
うつむく佑珂を見て鎧坂は微笑した。
「楽しんだらいいよ。青春は一回しか来ないぞ。俺の青春はもう終わった。いま青春を楽しんでる子たちの足を痛めつけることにしか悦びを見出せねぇ」
「ひどい! やっぱり分かってて!」
「なんとでも言え。俺は君らのことが羨ましいんだからな。たとえ転んで足をくじいたって、子供のうちは何度でも立ち上がれる。未来はいくらでも変えられるもんだ」
その声色があまりにも温かかったものだから、佑珂は切るべき啖呵を失って黙り込んだ。
果たして佑珂は未来を変えられるだろうか。
もう、ひとりぼっちの切ない日々に逆戻りしなくても済むだろうか。
中学校への進学まで、残された猶予は十か月。正攻法ではどうにもならなかったが、いまは30人31脚という逆転のチャンスがある。転んだって、足をくじいたって、絶対に立ち止まってやらない。佑珂の未来は30人31脚の成功に懸かっている。
「……頑張ります」
佑珂は小声でつぶやいた。「そうすることだ」と笑った鎧坂が、湿布の匂いのする大きな手で頭を撫でた。
「そういうの忘れられるんだ。走ってる間はさ」
▶▶▶次回 『10 葛藤稜也の頑張る理由【1】』




