01 あのゴールに憧れて
その晩、武井康介は不思議な夢を見た。
夢の中で康介は緑色の舞台に立っていた。あふれんばかりの声援や拍手喝采がごった返す視界の彼方に、赤い横長のクッションがいくつも並べられている。両隣には同じ年頃の子供たちの顔があった。同じ色の服を着て、同じ色の襷を締めた彼らの眼差しは、見惚れるほどに精悍だった。あんまり精悍だったものだから、それが自分のクラスメートであることに康介は一瞬、気づくのが遅れた。
誰に言われるでもなく、走らなければいけない気がした。
足を一歩下げて、スターティングスタートの姿勢を作る。ピストル音の炸裂とともに足が地面を蹴った。無我夢中で康介は駆け出した。刻一刻と迫り来る横一列の赤いクッションは、そこがゴールであることをあからさまに主張していた。誰より速く、あの中へ飛び込んでやりたい。しかし足が思うように動かない。見ると、隣を走る子と康介の足は、黒いバンド状の足紐で頑丈に固定されている。左手は隣の子の襷を、右手は腰をしっかりと握りしめていて、どんなにもがいても離せない。
邪魔だよ!
もっと速く走らせろよ!
あのゴールに一番乗りを決めるのはおれだぞ!
懸命に振り上げた足が、隣の子をぐいと引き上げた。いつしか康介はみんなとぴったり並走していた。歩幅と速度の調和の取れた足は次第に軽くなった。互いに背中を支え、背中を押し合うたび、得も言われぬ爽快感が足の疲れを吹き飛ばした。猛々しく煮えたぎっていたはずの闘争心は、激しい呼吸に散らかされて千切れ、彼方へ消えていった。
このままどこまでも行ける気がした。一歩、一歩、揺らぐ地面を踏みしめるたび、速度が上がってゆく感触があった。ひとりで走るのもいいけれど、たまにはみんなで走るのも悪くない。ゴールを目前にして康介は魂を震わせた。今まで味わったことのない感慨が全身に満ち溢れて、どう処理していいのかも分からなかった。
あと五歩。
あと三歩。
あと、一歩──!
飛び込んだゴールのクッションはいやに硬かった。
鈍い音とともに頭に星が飛んで、あまりの痛みに康介は目を醒ました。
「……なんだよ」
上下さかさまの視界を両腕で立て直しながら康介は嘆息した。なんのことはない、ベッドから落ちただけのことだった。カーテンの隙間からスズメの鳴き声がささやかに舞い込んできている。割れんばかりの応援も、喝采も、実況の絶叫も、すべては康介の夢想の産物だったらしい。
起き上がって、カーテンを開く。
まばゆい朝の陽ざしが東の空を彩っている。
目覚まし時計が鳴るまで三分を切っていた。アラームの設定を解除してベッドに寝転び、康介は黙って目を閉じた。うずくような痛みが胃の底に響いていた。ワクワクする夢なんか何度も見てきたのに、今度の夢は違った。確かな感覚が今も身体のなかを蠢いて、いっこうに立ち去る気配がない。
おれは何をしようとしてたんだろう。
どうして今も気持ちが収まらないんだろう。
あの夢、もっと見ていたかったな──。
深呼吸をひとつして、静かな寂しさを食んだ。
空は一面の晴れ模様だった。
いつものように朝食をかき込んで、ランドセルを背負って登校した。
康介は小学六年生だ。あと一年もすればランドセルを手放し、制服を羽織って中学校に通うことになるなんて、なんだか実感が湧かない。だって、中学生ってとてつもない大人だ。卒業証書を手に学校を巣立っていった歴代の先輩たちも、ひとり残らず大人びていた。あの憧れた上級生みたいに、お兄さんお姉さんと年下に慕われるような存在になれているかと問われたら、とても康介は首を縦に触れない。昇降口で靴を脱いで上履きを引っかけ、教室のドアをくぐれば、自分たちが大人とは程遠い何かであることを嫌というほど実感する。
もう予鈴が鳴って、あとは先生が教室に着くのを待つばかりだというのに、三十一名のクラスメートたちは思い思いの方向を向いて奔放に過ごしている。下手くそな自作の漫画を見せ合っている子がいるかと思えば、新しく買った文房具を自慢している子もいる。最前列の班ではなぜか腕相撲をやっている。「いけいけ知樹!」「高彦を倒せ!」──盛り上がる声に康介は顔をしかめた。おれ抜きでなに楽しそうなことやってんだよ、混ぜろよって叫んで、今すぐ交じりに行きたい。でも、行けない。なぜならもうじき先生がやって来て、退屈な朝のホームルームが始まるから。
つまらない。
大あくびをして、やり場のない目を外に向けた。時刻は朝八時過ぎ。窓の外から金色の朝日がさんさんと差し込んで、教室の中はちょっぴり暖かい。もう五月なのだから当たり前だ。
このクラス──狛江市立岩戸小学校の六年一組に康介が進級して、早くも一ヶ月半が経過した。五年生から六年生への進級時にはクラス替えは行われていないから、とっくにクラス全員の顔と名前は頭に入っている。けれどもこうして教室を見回してみると、顔と名前しか知らない子の意外な多さにいつも気づかされる。去年この学校へ転校してきたばかりの、ボブカットの黒髪を揺らした小さな女子とか。その子と親しげに話している、ロングヘアのおっかない女子とか。さらにその数列後ろで、難しい漢字のテキストを難しい顔で読んでいる男子とか。
少なくとも、今朝の夢で一緒に走っていたのはこいつらじゃないな。頬杖をついた康介は、彼らの顔に脳内で黒塗りを施した。まるっきり独りよがりのペースで走ろうとしていた康介に、夢の中の彼らは心を読んだような足取りで追いついてきた。康介も自然と彼らに合わせて走ることができた。あんな芸当ができるためには相当に気心が知れてなきゃいけない。顔と名前しか分からないような連中が、彼らに当てはまる道理はない。
気心が知れているってどういうことだろう。
考えている内容が分かるほど仲良しなら、「気心が知れている」って言えるのだろうか。
好き勝手に盛り上がっているクラスメートたちの顔を、自分の両隣に並べて妄想してみる。誰を置いても夢の中の光景は再現できなくて、しまいに康介は溜め息をついた。夢は夢でしかなかったのだと改めて思った。あの酔いしれたくなるような興奮も、爽快感も、きっと二度と味わえない。やっぱりもっと長く夢を見ていればよかった。
ぼんやり物思いにふけっていたら、教室のドアが勢いよく開いた。
「遅くなってごめんね!」
ウインドブレーカーに身を包んだ先生がバタバタと駆け込んできた。高橋理紗、二十四歳。今年の四月に岩戸小へ赴任して、この六年一組の担任になった新米の先生だ。それ以上の情報を康介は知らない。なんならクラスの誰よりも正体が分からない。
「待ってないよー」
と、最前列の福島佑珂が笑った。小さな元転校生とは佑珂のことだった。他の子たちは誰も笑わなかったし、何も言わなかったし、そもそも理紗先生を見ていなかった。
「ちょっと待ってね、いま朝の会の準備をするから……」
相変わらずバタバタとした動きで、理紗先生は資料や教科書を教師用の机に広げようとして、勢い余ってぶちまけた。誰かが「だっさ」と笑ったのを康介は聞いた。普段は相手にもしないくせして、失敗の瞬間だけはしっかり見ているのが滑稽だ。もっとも康介だって見ていたのだから、同じ穴の狢ってやつかもしれない。
「今日の日直さんは誰だっけ?」
「貴明と万莉だけど」
「黒板の端っこに書いてあるじゃん」
「うわ、ごめんね。ちゃんと見てなかった」
鈍感なのか我慢したのか、理紗先生はクラスメートの嘲笑をそこそこに受け流した。
「澤野くん、青木さん。今日はちょっとみんなに話をしたいから、あいさつが終わったら席に戻ってもらっていい?」
呼ばれた二人は変な顔でうなずきつつ、教室の前に出てきた。みんなの意識が一斉に二人をめがけて集まる。「きりーつ、礼」「おはようございまーす」──間延びしたあいさつを理紗先生は落ち着かない様子で眺めていた。
今日の先生、なんか変だ。
胃の底にもたれるような違和感を康介がもてあそんでいると、引っ込んだ日直の代わりに理紗先生が出てきた。みんなの意識が先生からはずれてゆく。それもぜんぶ折り込み済みかのように、先生は三十二人の学級を穏やかな眼差しで吟味して、少し硬い声で「あのね」と切り出した。
「朝一番にアレだけど、今日はみんなにひとつ提案があります」
「提案?」
やっぱり反応したのは佑珂だけだった。オレンジ色の明るいパーカーに、ふわっと柔らかそうなボブカットの髪が跳ねている。現状、理紗先生になついているのはこのクラスで佑珂ひとりだ。おかげで彼女はいつも目立っている。もちろん、悪い意味で。
「そう、提案。みんな興味を持ってくれるといいんだけど」
先生は後ろ手に隠していた一枚のビラを見せた。
「今年の秋にテレビ局の主催で30人31脚の大会があるみたいなの。みんな、参加してみない?」
『スタンバイ!! ──岩戸小学校六年一組、30人31脚への挑戦』をお手に取っていただき、ありがとうございます。
本作『スタンバイ!!』は、二日に一度、午後7時に更新をしていきます。
全70話程度、完結は来年3月頃の予定です。
長丁場の連載にはなりますが、お付き合いいただけると嬉しいです!
■!■ この物語はフィクションです。
実在する人物・地名・施設・事件とはいっさい関係ありません。
▶▶▶次回 『02 30人31脚』