チェリー ペリッシュ
ででんこでん、ででんこでん
「ん?」
目を醒ました。
いや、おいおい、何時の間に寝たんだ、なんだ、電車が動き始めたのか、今どこの駅だ。
きょろきょろすると、「南草津」という看板が後ろへと流れていくのが見えた。
心で呟く、そんな馬鹿な、降りる駅を2つも過ごしているなんて。
ぷしー
まるで、息を吹き散らしたような音で扉は開く、
足取りはしっかりとして、酔いもほとんど醒めている。
いや、酔っているんだが、確かな足取りを踏める、妙にテンションが高い。
大阪から一時間半、ぐっすりと寝たおかげで、見事に乗り過ごした。
滋賀県は不便だ、乗り過ごすと戻る電車が無い。
「彦根まで行かなかっただけよしとしよう」
一人ごちる、そして、人もまばらなホームをあとに、
終了という赤い字のともる掲示板を伺うように見た。
小さくため息をつく、それが白む。
「少し、まだ冷えるか」
春コートを着ていてよかったとほとほと思う。
都会は暖かくても、田舎は寒い。
これは根本的に間違っているのだが、そういっても差し支えがないほどだ。
降り立った草津駅のターミナルには、倒れた酔っぱらいと、
うすぼんやりした街灯くらいしかなく、タクシーも先行した人々によって乗り散らかされた後。
「なるほど、ま、歩けないでもないか」
酔っているせいなんだろう、歩こうという選択肢を
大の大人、社会人がするものではない。
が、そんなことをしたいと思うことがままある。
30がらみで、女無く、電車を乗り過ごし、電話は鳴らない。
春の夜は寒い。
☆
居酒屋もそろそろ店をしまう時間だが、
ぱらぱら、人と明かりが見える。
ふらふらしているのは自分だけではない、夜の街はなんとなし、
そういうのが溢れていても、あまり恐怖を感じない。
一号線沿いをふらりふらりと歩いていく、車は定期的にやってきて、
人がいることなど知らないように走り抜ける。つと、足をとめた。
「こんなところに神社が、すげぇ桜だな…」
圧倒的なうすぼんやりがそこに在る。
空は暗く、夜闇を落としている、まだ空気が冷たいせいだからか、
星もちらちらといくつか散見できる。
月は朧、風は弱い、樹が鳴いている。
わずかな石段があり、大鳥居、
そこから先に、引き込むよう、引きずるよう、招き引かれそう、
朱色の柱が、等間隔で遠くなっていく。
その左右を大きな桜の樹が飾っている、夜だというのに、
おのから光る如く。
左右から包み込んできて、
なんだろうか、胎動しているように見える。
内蔵を彷彿とさせるその長い長い道は、
石畳が月明かりに揺れて、はらはらと、僅かばかりに散っていく花びらで、
真っ暗な空間に歪みを産んでいる。
手招きされたように、自然、足はそちらに向いてしまった。
石畳を踏む感触、
左右から迫りくる桜の木々、
その花を見ようと視線を上げると、
梢の向こうに闇が見える、春の闇は憂鬱でステキだ。
「もし…」
「!…な、誰だ」
唐突なそれに思わず大きな声が出る。
酔っていると音量に対する制御が鈍くなる、小用を足すと止まらなくなるのに似てる。
「あなたこそ、こんな深夜に、こんな場所に、そんな体たらくで」
「し、失礼な」
女だ。
髪が長い、その時点で残念だが好みの対象から大きく外れた。
そう思うと心にゆとりができる、探るように女を見る、
そっくりそのまま、この夜更け、場所、体たらくで、
この女は何をしているのか。
それが気になる、いや、体たらくは俺よりはずっと上等だ。
「着物?武家の女か?」
「ほほほ」
武家の女のように笑う。
物腰は柔らかそうだが、どうにもよく出来た女らしい、
なるほど、髪が長いわけだ、得心した。
「お名前は」
「あら」
「いや、失礼、私は裕、貴女は?」
「与袮」
「よね?また、随分古風な…」
「どうされました?」
「いや、少し頭痛が」
「それはいけませんね、夜風に中たったのかも、どうぞこちらへ」
朱塗りの傘の下に、朱色の座敷がある。
茶の湯の用意がある、何かの漫画で読んだ、その風景そのままだ。
しかし、酔いつぶれたサラリーマンに茶道などの教養はない。
「私は、武家ではないので、その…茶道はわかりません」
「結構です、私も我流です」
言われると、なんだか心持ちが軽くなった。
一度まわりを見る、桜と鳥居、そうだったここは神社か。
「いい、桜ですね」
「野点には一番でしょう」
「少し、寒いが」
「茶が温めますよ」
ずず、すほ、
飲み干してみる、なるほど、喉を通って心地よく体に広がる。
酔いが醒めるかとも思ったが、ますますそれは度をましている。
しったか知識にのっとって、茶碗をとりあえず眺める、
「?…いい、品ですね」
「わかりますか?」
「なんとなし、この金襴が」
「そう、新しい物だから心配したのですが」
「新しい…ですか、そうか」
自分の乏しい知識で、ここまでの金襴を懲らしたものは、
彦根城で見た湖東焼だっただろうか、しかし、あれは幕末に滅びた。
自分の目利きはアテにならない。
「たまに、貴方のような方が参られるのですよ」
「酔っ払いが?ああ、そういえば、神社の方ですか?」
「まぁ、そのような、こんな夜に酔っぱらいの変死体を出さない仕事をしております」
「はっ、面白い」
冗談を言わせるとうまいものだな。
そんなことを思う、たおやかに笑う女性、
本当に武家の風情を感じる。
「花に誘われた様子ですね」
「まぁ、そうですね、あまりゆっくりと花見ができないもので、しかし、今夜はラッキーだ」
「そんなに桜が」
「まぁ、桜もあるが、貴女のような人と見られたのが」
「上手なこと」
「本心ですよ、他人と一緒に見ると、また、格別なんだって思うのです」
「一人で見ても同じでしょう、桜は桜ですよ」
「…そう、かもしれませんね、他人など、な」
「娯楽は一人でしても楽しいものじゃありませんか」
「そうですね、時代劇なんぞ見てるとそう思います」
「それは酔狂、いまどきそんな話で盛り上がる御仁はおりませんでしょう」
そのとおりだな、馬鹿にされたというよりも、己をよく見た結果だと取る。
桜は美しく、空に真っ白な姿、
淡桃色を呈するというが、その桃色、いや、桜色は、
思い描くそれとは異なる、こと、このソメイヨシノに対しては特に、
仄白い、淡墨と呼ばれるその、真っ白とは異なる骨色が美しいと思う。
「ここは、ソメイヨシノばかりですね」
「ええ、同じようなのばかりです」
「これでは、すぐに咲いて散ってしまう、名所にしてもいいくらいなのに、惜しい」
「短いからこそ美しい、彼女達はそう思うのかも」
「なるほど、それもよろしいな、ところで、刀はありますか」
「およしになったほうが」
「男の、役目でしょう」
物騒な気配を感じた、素浪人が幾人か現れた。
一振を拝借する、なかなかの業物と見えるが、
戦国刀の一本だろう、厚いし、反りがほとんど無い。
無骨だ。
「何用か」
言ってみたが、反応があるはずもない、
ずじ、砂利に足をとられる、これはよくない。
思うがまま、スニーカーは後ろへと蹴り逃がした。
少々動きにくい、ジャケットも投げ捨てたいと思ったが、時間が足らない。
腰を落とす、斜に構える。
右脚を前に、左足に重心を、刀は左腰で、右手で柄を握る。
足の裏に砂利を掴む感触がある、踏み込む、じぎぃ、いい音だ。
「つぇいっ!!!」
左手で鞘を引きながら、右手で刀を抜いて奮う。
あってるのか?いや、そもそも、こんな剣法を練習したか?
色々と錯綜するが、ともかく、手に刀の感触を覚えつつ、
ヌキはなった、そのあとは決まっている。
左手を素早く柄頭にそえて、左右に振り、大上段で、大きく踏み出す。
右脚を大きく、体は横に開くように、
上半身を使って、大きく叩くように、
背筋は伸びている、腰を落として、腕は半ばを過ぎたあたりから意識して、
地面を斬るかというほどに、撃ち落とす。
「ぜいぁっ!!!」
さぁっ、音とあわせたように、
まだ硬いであろう桜の花が揺れた、花びらはわずかにしか飛び散らない、
はらり、それらが、斬劇を飾った、何人斬った?
どっしりと、自分がいつも思い描いてきた、その格好で立っている、
憧れた時代劇のそれだ、足の長い、腰の高い役者じゃ出ない味が出てる。
ガニマタというのか、足が短くてよかったと思う、
この格好が様になるのは、足の短い男だ。
「意外」
「よね殿、ご無事か」
「馴れておいでで」
「いや、その、初めてなのだが…」
「人を斬られたのが?それとも、女性に褒められたのが?」
女は仕方ない顔で笑った。
笑いながら、いそいそと、今斬り殺した男達に何かを施している。
不思議と、その光景に何も覚えなかった。
違う、もっとひっかかるのだ、刀を扱う自分に、この、
なるほど落ち着いて、座りがよいようにも思える、思いたい、だが。
全身を得体の知れない悪寒が襲う、手にねっとりと残る、
人を斬った、血で濡れたような、重く響く無気味な感触。
「5人もあれば十分でしょう、貴方、気に入られたようですけども」
「?」
「お行きなさい、もう、酔いも醒めたでしょう、茶を呑んでも、こんなになっても、ずっと正気だなんて、なんだか、そう」
笑顔が綺麗な人だ。
「はなから狂っていらしったのね」
「何を言って」
「速く、お逃げなさい、取り憑かれますよ、桜に、花に、この女達に」
女の位置がずっと遠くに見えた。
手の刀は知らない内に消えている。
生々しく、何か、おそらくこれが、斬殺をなした手心なんだろう、
それが生々しく、自分をからめとるように思えた。
なんでここに居たんだったか、
思い出して、もう一度空を見上げる、相変わらず蠢く白い影、
「それとも、もう、こちら側にいらしたい?」
「う、うおああああああっっ!!!!」
我に返ったというのか、むしろ、パニックになったという方が相応しい。
手にスニーカーを持って、ひたすらに走る、
境内と思われるのと逆の方向に、逃げる、逃げる、逃げる、何から、
この、桜から、桜の木々から、花びらや萼や実らずに落ちる腐りから。
桜は蠢いている、真白な体を、
うずうずと揺らせて、胎動を思わせる律動と蠕動、
飲み込まれつつある自分を自覚して、逃れるため、
ただ、走り抜ける。
脳に直接声が届いてくる、桜が、ありとあらゆる桜から、声が、誘いが、死が。
寂しい。
貴方とともに。
一緒にいたい。
なんと甘露に満ちた言葉か、甘言とはこれか、
逃れながら、じっと、まとわりついてくるその思念に、
ただ抗い続けていく、喉が焼けるように痛い、
肺も焼けつくようだ、心臓は尽きるかと白熱する、
桜は女なのだ、
あの女も桜だったのか?
じゃぁ、男は、なんだというのだ。
走っても走っても、ただ、あの大きな桜は消えない。
恐怖が取り付いてくる、本当に怖い物というのは素早く動くそれよりも、
動いているかわからないような大きなものだ。
それが、動いていると知覚できたとき、
その恐怖は、どんなものよりも大きい、
真っ暗な闇を覗いている不安感と似たそれがある。
「はぁ…はぁ…はぁ……」
さっき川を渡ったから、今、南草津は越えて、瀬田くらいか?
膳所までどんだけかかるんだ。
「まるでだらしない」
「うぁああっっ!!」
ゆっくりと、少しずつだろうか、大きな桜は近づいてきているように見える、
ずっと遠くのようにも見えるのに、目を離して、また、その時には前よりも大きく近い。
そして声が、女の、よね殿、その声が、
「でも頑張りました、瀬田川まで来てるもの、唐橋なら情緒もあったけど」
「なんだ、お前いったい、なんなんだっ」
「ソメイヨシノは女なの、石女、子供を宿せない哀れな女の樹、だから、あんなに華やかなのにすぐに散って、腐ってしまう、美しいでしょう、可愛らしいでしょう、哀れでたまらないでしょう?」
桜の大木は、じりじりと大きくなってきている。
だが、目の前に女は立っている、そして語りかけるように、
こんこんと説明を続ける。
「毎春、この短い間に、ソメイヨシノは石女だけど女なの、だから、男を求めるの、私は酔った人間の死体を片づける係、先にも説明した通り、男を欲しがる桜のために、男を与えてあげるの、根元に植えると、どう、毎年ほら、真っ白で綺麗な花を咲かせる」
「な、何者かと聞いて」
「そう、瀬田川を渡ればあなたは逃れられる、逃れて、また、いつものように、桜の花の散った5月を居きるの、また、こんな日がくるまで、あるいは、今宵が最後かもしれないのに、逃れる先の日常が、ほら、すぐそこ…」
足を止めてしまった。
怖いからだ、呼び止められたからだ、聞く耳なんてもたないのに、
そんな言い訳がいくつも浮かぶが、体は疲れたとは違う理由で歩みを止めた。
不安と澱んだ混濁した具合、
酒が抜けてきた、ぎしぎしとした頭痛、
そして、琵琶湖から流れてくる、冷たい風。
「いやだ」
「何が?」
黙ってしまう、何がいやなのか、深く考えてしまう、畏れが抱きしめてくる、
足をとめて振り返ろうとしてしまう、きっと振り返ったら、
そこに憧れていながら、ただ汗をかいてしまう、
振り返るのが怖い、そこに見える景色が化け物のそれだからじゃない、
振り返ることで楽になろうとしている自分を直視するのが怖い。
自分から、現実から、何からだ、目をそむけて、逃げるのか。
足を再び踏み出した、振り返らない。
「そう、今年はそうしなさい、貴方ならきっと。あんなに綺麗に殺せるなんて、きっと向いていないもの、こちらに憧れて仕様がないもの、ね」
瀬田川を越えた、振り返るのが怖くて石山駅方面に逃げながらも、
ずっと、後ろを振り返らなかった。
後ろ髪を引かれるというのだろうか、本当に、誰かに撫でられたように、
気を抜くと振り返ってしまいそうな恐怖があった。
桜の夜はそれで終わった。
翌日、当たり前のように目を醒まして、
風邪を引いていた。
何も変わらない毎日がまた始まった、あっと言う間に、
ほら、油断をしている間に5月がやってくる。
何度かまた、電車を乗り過ごした、その度に歩いて帰った。
でも、神社はついに見つからなかった、琵琶湖の桜はもう葉桜だ。
それでも、来春が待ち遠しくなっている、
まだ、暑い夏も、寂しい秋も、冷たい冬もきていないのに、
毎日が少しだけ桜色に見えた。
うつろいゆく景色が、花が腐る様に似て、それを見て微笑んだ。
手のひらにいまだ残る柄と、殴りつけるのとは違うあの手ごたえ。
衝動的に、突然、それは鮮やかに思い出されるようになった。
ゆるやかに、気をたがわせていく、世の中はそういう男ばかりで、
皆、桜のこやしになっていくらしい。
春猫の声が聞こえる、狂ったように泣き叫んで、これもまた、
女をめぐって諍っている、鳴いているのは女だろうか、泣かされているのは男だろうか、
生暖かくなってきた風が頬をなぶる。
猫鳴く夜 人肌に似た温き風
狂い散る花 乱れ葉桜