やりきれない思い
次の日の昼頃、金属探知のゲートを通り抜けると、すぐに飛行機に乗ることが出来た。朝公園を出る際に、ビールのお礼にと、男に飛行場の行き方を教えてもらったのだ。僕らが空港の受付で、二席空いている飛行機がないかを尋ねたところ、東京に向かう飛行機がちょうど空いているという事だったので、それに乗せてもらうことになった。
そうして乗った飛行機の中は、狭くて居心地のいい場所ではなかったが、行きつく先に新たな〈幸せ〉があるかもしれないと思うだけで、窮屈なんて感じなくなった。飛行機が離陸する瞬間の浮遊感は、いつかの仁に吹き飛ばされ、雪に吸い込まれた時と同じ感覚だった。あの頃の朝は元気だったなあと、今となっては思い出話である。
教室の窓から眺めるだけだった飛行機に、自分が乗り込む日が来るとは思っていなかった。僕には空を駆ける縁はないだろうと思っていたが、思いのほかあっさりと空を駆けることができた。もっと早くからこうしていれば良かったと、小さくなっていく景色を眺めながらつくづくそう思った。この旅路に正解や終わりはないかもしれないが、未経験を経験することは、なんだか爽快な気分にさせてくれる。
東京に着いてまず、人の多さに驚いた。絶え間なく鳴り響くアナウンスの声を肴に、忙しい自分に酔いしびれた大人たちが、顔をしかめ、右往左往している。忙しいと楽しいの感覚の境が、なくなっているようだった。
このように人間は、――をしている自分という像に成りきったふりをして、陶酔する。想像した像に限りなく近づいても、完璧に成りきれはしない。それでも、人間は何者かになろうとしている。きっと、演じている事は無意識で、気が付いてもいない。そんなに、わざわざニヒリズムを否定しようと抗わなくてもいいじゃないか、今の自分で思うがままに生きていいんだよと、そう言ってくれる世界でないことが、より精度の高い人間を生み出そうする現世になっているのだろう。高等な人間が作り上げた社会は、高等な人間を好むのだ。
僕らは空港を出て、すぐの所に止まっているバスに乗り込んだ。さあ、このバスはどこに行くのだろうか、幸せの場所まで運んでくれるのだろうか。体は高等な人間に、養分を全て吸い取られてしまった。からからに飢えた体をどうにかして満したい。砂漠の中のオアシスのように、誰もがうらやむ両手から溢れるほどの幸せを願っているわけではない。ただ、一滴その幸せを味わいたいのだ。
つり革に体を持たせて、流れる草木や人を目で追った。薄々勘付いていたことだったが、幸せがあるだなんて淡い期待はすぐに打ち砕かれることになった。なんとなくでバスを降りると、熱いアスファルトから立ち上る、思わず顔をしかめてしまうような空気が、瞬時に僕を覆った。汗と涙と埃と排気ガスを、水と一緒にじっくり煮込んで蒸発させたような空気で、舌をぺろりと出して、巻き取るようにして舐めてみると、水あめみたいにベトベトしていて、中々気管を通っていかない。初めて空気に味があるのだと知った。鞄からハンカチを取り出して口に当てる。
「うっ、これはきついな」バスを降りた仁も、空気の気持ち悪さを感じたようだった。この場所は、檻のようなビルに囲まれていて、大きな空っぽに小さな空っぽを詰め込んでいる、空虚な場所に思えた。理由はわからないけど、直感的にそう思ったのだ。とりあえず歩いてみようと仁に指で合図を出す。
僕ら二人が、人ごみを掻き分け、というより人というごみを掻き分けて直進していたところ、どこかで見たことのある場所に出た。対面にそれぞれ人の大群が待ち構え、信号が青に変わるのを息を潜めて、今か今かと待ち侘びている。ここはスクランブル交差点と呼ばれる場所だった。
僕と仁は人ごみの最前に立ち、他の人間と同じように青になるのを待った。外柔内剛の赤色から、狂乱の青色に灯る。だが、僕は戦が始まる直前に怖気づいた兵士のように、足が竦んで動けなかった。青になって四方から人が迫ってくる。前に進まないと、そう思っても足は一向に前に踏み出せない。僕の後ろから舌打ち交じりに人が追い抜いていく。他の場所からスタートを切った者たちが続々と到着し始め、目の前で交錯している。雑踏が振りかざす朦朧とした刃は、例え目に見えなくとも空を切って、僕の中の何かをも切り裂いた。切り口から滴る雫は恐怖の色に染まる。僕に人生があるように、目の前で行き交う一人一人にも人生がある。そう思うと、人が歩いているというよりは、人生が独り歩きしているみたいだった。僕一人だけの人生でも不安で仕方がないのに、道行く人全てにも人生があるのだと思うとなぜだか無性に怖くなってしまったのだ。この火の玉みたいに小さく燃えている一つ一つの人生の中に、愛する相手の人生も、半分含まれているのかもしれない。その事実が、僕を恐怖の波に引きずり込んだ。僕は羨ましいのだろうか、悔しいのだろうか、苦しいのだろうか。ああ、わからない。わからないことが多すぎる……。
人間は比翼の鳥なんかじゃない。二人合わさって空を飛べるなんて幻想で、それを人間も熟知している。それでも番いになろうと愛し愛されを繰り返し、やがて空を飛んでいる気になって幸せだと叫ぶ。混沌の幸せに狂喜で踊り狂い、不確かの現在を正常に生きていると戒めているだけに感じてしまう。やはり、不明瞭な人間が不明瞭なまま存在していることが、人間であるということなのかもしれない。それを解き明かそうとしていること自体が間違っていたのだ。
幸せを見つけに来たはずの旅は、人間に向いていないとつくづく思い知らされただけで、〈幸せ〉は確かに存在していたが、それを得るには、常に鈍感で高等な人間であり続けなければならないようだった。
気が付くと胸の奥から込み上げてくるものを零れないように、必死に目の奥に力を込めていた。やりきれない想いが、気を抜くと一瞬で溢れてしまいそうだった。
辛くはないのだ、まともに呼吸が出来なくて、見ず知らずの人間に舌打ちをされて煙たがられても、人間でありたいなどと思っていないから辛くなどない。
悲しい訳でもないのだ、一人で生きていく人生が悪いとも思っていない。
悔しくもないのだ、教室に浮かぶ霞み言葉が時々羨ましいと思うことだってあるけれど、それに溶け込むことができないからと言って悔しいと思ってなどいない、むしろ誇らしいとすら思っている。
寂しくもないのだ、一人ぼっちで暗いおんぼろな家に塞ぎ込んでいても、父と母がこの世界からいなくなってしまったとしても、忘れられない美しさが今も胸の中にしっかり息づいているから何も寂しくなんてない。
それなのにどうしてなのだろうか、この昏く拙い世界に格別順応なんてしなくとも、問題なんてないはずなのに、涙が零れそうになってしまうのだ。
もう、どうすることもできない気がしていた。人間溢れは人間ではない、仁は僕のことを人間だと言ったが、やっぱり僕は人間でありたいとは思えない。人間でないなら〈幸せ〉なんて見つかる訳もなかった。
「もう、帰ろう」隣に佇む仁に言う。
「そうだな……」仁は心底疲れたように同意した。
僕らはその日のうちに北海道へと戻って来た。帰りの飛行機は僕らの街に降りる飛行機が満席で、代わりに北海道の東の方へ降りる飛行機に乗った。とにかく一刻も早くこの場所を去りたかった。




