アイデンティティの慟哭
公園に戻ってきて、行く前と変わらない体制で横になっていた男に、缶ビールを差し入れた。自分の分のワイン諸々を取って、残りを袋ごと仁に渡す。仁は男の近くのベンチで弁当を広げ、僕は砂場の枠でワインの栓を開けた。初めてのお酒は、大きな好奇心と少しの背徳感と共に、口いっぱいに流れ込んだ。
瓶の半分近くまで一気に飲み干す。喉に焼けるような痛みが走り、空腹な胃がきりきり電気を帯びる。視界ががくりと落ちて、砂場枠から落ち、地面に尻もちを搗くと、目が回って立ち上がることができなかった。一つ葉が止水に落ちて、波紋が何重にも打つように、緩やかな時を味合う。
ああ、こりゃあいい。脳で言葉を作るよりも先に、思考回路がショートして、言葉が濁って見えなくなる。意識が薄らいで、心の暴走を抑え込んでいた膜が、一つ剥けるのがわかる。何も考えることをせず、歪む視界に体を預けるだけで、僕は生きていてくれる。ああ、心地良い。今なら、鈍感であれる今ならば、能天気さらさらで、大木に噛り付くように愛に貪欲になれる。心が躍った。濁世に紛れることができると思った。――だが、吐いてしまった。この厳しい御時世で、これほど簡単に、終幕を見せてもらえるわけがなかった。緊張と興奮が一気に解け、ぽかぽかと安心した体は、そのまま少し眠りについた。
一時間ほどで目が覚め、吐いてしまって気分もそれなりに回復し、アルコールも少しは飛んで、僕はほろ酔い気分のまま小説を書くことにした。今なら仁の願いだった面白い小説を書ける気がしていた。特に冗談がうまく書けそう。
僕は足元がぐらつく中、ノートを取り、滑り台やらトンネルやらがごっちゃになった遊具を登った。幸運にもトンネルが僕の体に丁度良くて、気を抜けば、またすぐにでも眠ってしまいそうだった。
〈カツン。カタン。カツン。カタン。〉仁が手すりにワイン瓶をぶつけながら、ゆっくりと階段を登って来た。さっきまでおじさんが寝ている近くのベンチで、大きく口を開けて寝ていたのに、いつの間に起きたのだろう。朝までは目覚めないだろうなと、確信めいたものがあったのだけど、予想は外れてしまったようだ。
「おお、今日は何を書くんだ?」
僕の隣に座り、トンネルの曲線に体を合わせた。今までめんどうくさい酔っ払いというものに絡まれる機会がなかったが、初めて巡り合うことが出来た。
「悪い友達の話さ……」
「それは心外だな」
「そうか?」
「そうだとも」やれやれと首を左右に曲げた。
「ちょっと見せてみろよ」
仁の手が本に伸びて、僕は軽く振り払った。
「蕁麻疹はいいのか?」
「今日は出ない日なのさ」
「俺の小説はそんなに都合のいい話じゃないから、まだ、読むのはやめた方がいい。完成したら嫌でも読むんだ、今から読んだら楽しさが半減になってしまうよ」
「そうなのか?」
「もちろん」
仁は渋々といった感じに頷いた。僕の人生は二度読むほど、楽しくはないだろう。
「その小説、聡の伝記? みたいなものなんだろ。全部本当のことしか書かれていないのか?」
「んー、そうだなあ。七割本当で、三割冗談かな。だって、ノンフィクションで書かれた俺の人生を読んでいたら、いつまでも蕁麻疹が引かなさそうだろ?」
「そうだな」
僕は仁の脇腹を小突く。やられた――とアニメの悪役が倒れるように、彼も横に倒れた。「題名は何にするんだ?」横になったまま訊いてくる。
「そういえば、何も決めてなかったな」
「題名のない小説は読む気にならないぞ」
「題名があったら読む気になるのか?」
「えー、たぶん……」
「とても今の言葉に本意は感じないけど、題名は絶対に付けるよ。この物語の結末が見えた時に、思い浮かびそうな気がするんだ」
「そんなものなのか?」
「さあ、そんなものじゃないか」
仁はトンネルの形になって眠ってしまった。
僕はなんだか一人になりたくなって、砂場に置き去りにした飲みかけのワインを片手に、すぐ近くの交差点に出た。太陽は出ていなかったが、東の空が徐々に青色に染まっていく。湾曲したガードレールに座って、明日の青色に、僕の存在を問うてみた。約七十億の人間の中で、僕という存在を肯定することはできるのだろうか。
変わることのないアイデンティティを恨んでみても、見惚れるほどの未来を思い描けることはなくて。ただ、沈鬱とした想いだけが、藍色の夜明けと共に押し寄せてくるばかりである。
この日の公園で書いた小説の一節で、主人公が言ったセリフ。
「理屈でなんか語りたくないし、苦しさなんて欲しい訳がない。こんな辺鄙な地でも、陸橋渡れば、タスケテー、と地面愛する者がたくさんいる。お前たちがどんな人生を歩んできたのかなんて聞きたくない。言い訳を立派な理屈で塗り替えるような奴が、いくらタスケテー、と艇底から叫んだって僕に届くことなんて何一つない。永続性のない空気を吸って吐くことに、罪の意識がない汚泥の処理なら任せてくれ。いや、僕も汚泥の仲間に入れてくれ。さあ、上辺の言葉で、理屈で、変わることのない現実を語り合おうじゃないか。腐敗した世界の元凶だと立候補するんだ。最高だと思わないか? いや、間違いなく最高だね。空になった缶ビールに舌を付けて、一滴残らず飲み干そう。そしたらだんだん醜くなって、誤って発注しすぎた人間を、クーリングオフ制度で、生まれる前の状態に返却してやろう。見えているようで見えていない、相手の腹の中を切り裂いて、出て来た腸で縄跳びでもしよう。生きていることに不満を感じたのなら、誰かのせいにして、親のせいにして、アダルトチルドレン名乗って生きていこうじゃないか……」
お酒を飲んでいたというのも少なからずあったが、小説を書いている間だけは感受性が爆発した。小説は良い。どれだけ自由本坊に書き綴っても、怒られることはない。ただ一方で、小説を書くことによって、自分自身の心の淵まで浮き彫りになっていくようで、怖くもある。
朝になって読み返してみて、さすがにフィクションが過ぎたなと反省し、一言一句残らず消した。――残念、おもしろい文章だったのに。




