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本当の幸せ

 ツアーを脱した今、雑木林に迷うただの遭難者だ。太陽の光を人間と分かち合うことをしない、ここら一帯の植物たちは生気が強く、茎は僕の腕ぐらいまで太くなり、ミネナルが傘になったような大きな葉が、鬱蒼と生い茂っていた。頼みの綱だった公道も、二キロ前ぐらいに途絶えてしまい、今は車の通った跡をなぞるように歩いていた。長く伸びた触覚のような蔓が目に掛かるたびに払い、そのたび体力は消耗した。無計画に歩いていた僕らは水分を持ってくるのを忘れ、カラカラの喉が息を吸う度にひび割れていく。干からびて死んじゃうよ、と熱に悶えながら、後ろをよちよち歩きで追ってくる仁が言った。応対する気力もなかった。


「おい、仁。なんかあったぞ」


 轍が途切れたところで、こげ茶色の小屋みたいなものが見えた。僕らは灼熱の野原にいたことも忘れて必死に歩く。


「駅みたいだな……」石段を一段上がる。途中から見えていた小屋みたいなものは、待合所となっていた。木片を三本繋げて作られたのだろう、ベンチの残骸が、中に転がっている。待合所の隣には駅名の書かれた看板が立てられていた。〈・す・て〉四文字らしい駅名はほとんど剥げていて、二文字解読するのがやっとだった。


「聡、こっちに来てみろ」


 僕が解読しているうちに何かを発見したらしい仁が、興奮気味に手招いていた。


「見ろ、自販機だ」


 仁の見つけた自販機は水のペットボトル限定で、古い型なのか見たことのない形だった。高さは腰の位置までしかなく、水のサンプルが展示されているものの、お札を入れる場所もなくて、料金すら書かれていなかった。試しに百円玉を入れてみたところ、カランと音がしただけで、赤いランプが付いたりなどしなかった。そもそもボタンすら見当たらない。僕らは終わったなと顔を見合わせた。


「仁、これは自販機じゃなくて、水のペットボトルのお地蔵さまなんじゃないか?」

「お金を取るお地蔵さまか、随分と悪性なお地蔵さまもいたもんだな。それに、水のペットボトルのお地蔵さまってなんだよ。聞いたことねーぞ」


 もはや苦笑いが精一杯だった。八つ当たりに仁が、お地蔵さまに蹴りをお見舞いすると、ガタンと音を立てて水のペットボトルが落ちた。フードのない取り出し口から水を取り出し、僕らは祝杯を挙げた。この後、仁が四回お地蔵様を蹴り、それぞれ二本づつ予備も備えた。


「いったん休憩にしよう、ここまでの事も小説に書きたいし……」


 駅と線路の段差になったところに腰を下ろし、足をぶらつかせた。僕を撫でる西から東に吹く偏西風が、滲む汗を攫って行くようでとても心地よかった。



「悪性なペットボトルのお地蔵さまは、蹴られると、動物としての生を祝福した。」



 僕らは線路の上を歩いた。今回は右に行こうだとか、左に行こうだとか考えなくて良かった。あの駅が終点だったのだ。僕らは必然的に左に向かって歩くことになった。


 夕凪で背の高い草が線路を囲むようにして生い茂り、全ての善と悪を見逃すことがなかった天象も、もわっと沸き立つ草のベールに包まれた、僕ら二人を探し出すことは不可能に思えた。


「線路って歩いたら違法じゃなかった?」


 喉の渇きから解き放たれ、全快になった仁が、レールに挟まる小石を拾い上げながら言った。拾い上げた小石は顔の前に掲げられて選定され、違うと判断された小石は草の壁に捨てられる。


「悪法もまた法なりってやつか」と僕が言う。

「いやあ、悪法ではないと思うぞ。だって死なないように、法律が守ってくれているってことだろ。いい法律じゃないか」


 僕は仁の顔の前に掲げられた十七個目の小石を奪って、草の壁に捨て、違うよとかぶりを振る。


「あれは命を守る法律じゃない。命を捨てさせない法律なんだ。命が大切だからとか、こんなところで死ぬのはかわいそうだとか、そんな他人の事を思って制定されているわけじゃない。ただ、迷惑なんだよ。散らばった肉片を回収しなきゃいけないし、車両に損傷がないか点検もしなくちゃいけない。厄介ごとを避けるための、生きている人間に迷惑が掛からないための法律なのさ……」

「捻くれ理論だな」

「事実だろ?」

「さあね、俺に言われたところでわからないよ」


 仁は両手でバランスを取り、平均台を歩くように、終わりの見えない線路の上を歩いた。きっと仁は意図して線路の上を歩いているわけじゃない、でも、誰だってそんなものだ。気が付かないだけで、あるいは見えていることさえも忘れて、顔も知らない先祖が作った、平和の線路の上で。落ちないように。そう、慎重に、この線路の上にいることが、正義だというように。この上にさえ居れば、安全な自由が与えられると思い込んでいるように。一歩枠の外に出ることを恐れている。怖いのもわかる。この一歩が死に直結しているかもしれない、何せ線路以外は暗闇なのだ、何があるかは降りた者しかわからない。未知は怖い、正しさなんてわからない、それを認めるなんてもっと怖い。けれど後悔はしないと思う。勇気を出した一歩を笑う奴は、降り立った世界に一人もいないのだから。


 夕凪が終わり、僕も仁に真似て線路の上を歩こうと足を掛けた途端、今日一番の強い風が吹いた。僕はもう、ずっと前にこの線路から落ちている。勇気を振り絞ったわではない、気が付いた時にはすでに落ちていた。地面はまだ見えない。空気抵抗もなくてひたすら落ち続けている。このままだと光の速度も越えてしまうかもしれない。ああ、それは凄い。――でも、この場所は暗すぎて、もう落ちているかどうかもわからないんだ。



「僕は弱冠十七歳にして、世界の真髄さえ見通せている気になっている。全く、愚かな話だ。何も見えちゃいないのに。」



 少し立派な駅に着いた。さっきの掘っ立て小屋みたいな駅ではなく、パッと見て駅だと認識できる程度に立派な駅だった。線路からホームに上がる。改札の上を何事もなかったかのように渡り、外に出ると、ぽつりぽつりと電灯が灯り。住宅街が広がっていた。


 とりあえず、落ち着ける場所がないかと探し回っていたところ、公園を見つけた。〈公園〉その響きは、どんなオーケストラ団体の演奏よりも、安らぎと安楽を与えてくれる。公園は暗夜の静けさが一堂に会した、空気の質量がとても小さい場所だった。


「腹減ったよなー、朝から水しか飲んでないぞ」と仁がため息を漏らす。

「これだけ家があるんだ、コンビニの一つぐらいあってもいいと思うんだけどな」

 

 僕らは丸一日、何も食べ物を口にしていなかった。旅だ、旅だと格好つけといて、これではただのサバイバル生活ではないか。


「あそこにいる人に聞いてみようぜ」


 仁はベンチに寝転ぶ人影を指さした。今は夏のど真ん中にいるので日は長く、ここまでくっきりとした夜が現れるのは、午後八時を優に通り越している証だ。そんな時間に、住宅地の狭間にある公園に居座るとは、一体どんな人なのだろうか、少し興味があった。近づいてみる。


「寝てるな」不精髭の伸びた、清潔とは言えない中年の男が、ベンチ一杯に寝転がっていた。「――杏奈(あんな)、……()香子(かこ)」魘されながら、度々人の名前を口にした。僕は男の背中を揺すって無理やり起こす。


「なんや、おめえら。冷やかしなら帰れってくれや」


 男は感情のまま、怒りを口にする。


「起こして悪かったよ、ただ、ちょっと訊きたいことがあるだけなんだ」


 男は怪訝な顔で、僕らを下から上に睨め回すようにして見た。


「言ってみ」と男が質問する許可を出したので「何でここにいるんだ」と訊いた。

「おらの体裁を見れば大体わかるやろ。それにな、人の事を知りたいんやったら、自分らがここに来た理由を喋ってからや」

「そんな急に、ここに来た理由って言われてもなあ、旅してたら着いただけだからな」

「旅? なんの?」男は食い気味に訊いてくる。

「幸せを見つけるための旅」

「なんだ、今どきの若いのはそんなことも知らんのか」


 男は酷く落胆し、つまらなそうに言った。賢しらに星を見ていた目はどこか虚ろで、僕らの見えている世界と、似たものを見ている気がした。


「知っているような体裁には見えないけどな」


 僕は苦言を呈する仁を片手で制し、


「知っているなら教えてくれ」と頭を下げた。


 男はそうだなと右手で口を覆い、考えているふりをしているようだった。数秒たって、指を三本立てた。三千円の意味だと僕はわかっていたが、あえて三万円を男の手に握らせた。男はこんなにくれるのかと驚いたようではあったが、三千円だと訂正はしなかった。


「これだけやるから本心で語ってくれないか」

「ぼったくりじゃね」と横に佇む仁。

「別にいいよ、紙切れ三枚で嫌な気分で聞かなくて済むんだから……」


 男は二度大きく頷いた。僕は頼むよと念押しする。


「わかりやしたよ。少しくせい話になるかもしれやせんが、恥も金だと思って語りやしょう」


 どうやら本当に〈幸せ〉を教えてくれるようだった。口の空いた缶ビールを片手に陽気に語りだす。かなり酔いが回っているようだった。


「幸せちゅうのは大きく分けて二つあるんですわ。一つは金で、もう一つは愛」


 息を吸う動作と共に一口、また一口とビールを啜る。


「お金が幸せじゃないっていうのは大体わかるから、もう一つの方を教えてくれ」


 男はわざとらしく大きめに驚いて見せた。


「えぇ、ダンナ。金も十分幸せにしてくれますぞ。金さえあれば玉は弾けるわ、女は抱けるわ、酒にたばこに薬、人の心までも……なんて」

「くだらないな。それにお金で人の心は買えない。あんただってわかってるから、こんな場所で一人飲んでんだろ? お金は少なからずあるみたいだし……」


 僕は地面に転がる缶ビールの空を顎で指した。握り潰された五百ミリの空缶が四本無残に転がっていた。


「おらみてぇな端金じゃねえよ。大金さ。人の高さぐらいの金がありゃ、人間は簡単に魔法にかけることができるんですわ。善にも悪にもね」


 男は少なからず嘘はついていなかった。これは本心だった。弱く小さな本心。


「お金に人を惑わす力があるのは俺もわかる。お金が人間よりも上の立場になることがあるのだって知っている。でもそれは、お金に力があるんだ。確かに自分の手で手に入れたお金は人を腐敗させるかもしれない。けど、他人が都合よく与える金にその力はない。あんたは知らないのかもしれないが、人間は魔法にかかったふりも得意なんだ」


 男は空になったビール缶をじっと見つめたまま動かなくなった。「そうかも……しれねえな」と潰れたビール缶が五本に増えた。男は深く納得したようだった。


「早く二つ目を教えてくれ」と催促すると、男は神妙な面持ちになって話し出した。

「おらには、妻と娘がいたんだ。二カ月も前にいなくなっちまったけどな……。火事だった。おらが駆け付けた時には火は収まっていて、焦げた母屋の中で、娘と妻だって会わされたのは、真っ黒な炭の塊だったよ。あんたの言う通り、金はあんだ。手持ちには二千円しかないけど、銀行には保険金がたんまりさ。そんなもん誰がいるかって話よ……。二人の後を追うのも怖くて、二カ月もここに住み着いちまった。おかげでお巡りも、野良ネコも皆友達さ。この金が尽きたら死のうと思ってたんだけどな、あんたがこんなにくれるから、またしばらく生きちまうな」


 男は悲しそうに笑って続ける。まるで、自分にも言い聞かせるように。


「つまりだ、おらと娘と嫁のような、愛し愛されの存在が〈幸せ〉そのものなんや。消えたら生きていけないだろ。おらはのらのら生きてはいるが、こんな風に生きていても、死んでいるのとそんな変わらん。お前たちはそんな存在に出会ったことはあるか? 愛に満たされたことはあるか?」


 両親の事を思い浮かべて頷こうと思った。けれど、両親から受けていたのは無償の愛なのだ。愛されていた自覚はあっても、肝心の僕が、愛していたのかはわからない。頷くのをやめて首を振った。僕は愛するという事をまだ知らない。


「そうやろな。知っていたら〈幸せ〉を探しに来たなんて言えないはずや。愛し愛されの存在は、それほど絶対的なものなんや。愛する人の皮膚に触れて、体温を感じて、拍動を感じて、嗚呼、この人は生きてるんだな。と思ったら、抱きしめて足りないほど愛おしくなって、この先もこの人が生きているなら自分も生きていこう。そう思うようになるんや。……でもな、幸せと苦しさは表裏一体で、幸せは苦しさも呼ぶ。おらの成り様を見てくれたらわかるやろうが、幸せが大きかった分だけ苦しさも大きい。大変やぞ〈幸せ〉を見つけるのは……」


 男は全て話終えると嬉しそうに微笑んだ。話す前と後では顔つきが明らかに変わっていた。なんだかすっきりしている。娘がお前たちと同じぐらいの歳なんや、こんなに話すつもりはなかったんだけどな。と恥ずかしそうに頭を掻いていた。


 男の話を聞いて、僕が人を愛したことがない理由がなんとなくわかった。きっと、愛することを恐れていたのだ。だって、愛するという事が殺すという事と同じだから。愛するという事は相手の人生を半分背負うという事で、愛されるという事は自分の人生を半分与えるという事なのだ。僕には愛する覚悟がなかった。背負っても良いと思える相手が、いなかったという事もあるかもしれない。僕はずっと、愛することが後世に子孫を残すための本能的な人間の性だと思い込んできたが、この男を見ていたらそれだけでもないような気がしていた。具体的にそれが何かと尋ねられれば、明確に答えることはできない。けれど、とても暖かくて心地の良い、讃美されるべきものな気がするのだ。


「ありがとう。一つの幸せの形として参考にさせてもらうよ。俺には夢物語が過ぎる気がするんだけど……。あっ、それと悪いんだがもう一つ質問させてくれ。二カ月ここに住んでいないと、わからない質問なんだ……。ここから一番近いコンビニはどこにある?」


 

 男に教えてもらったコンビニは、公園のすぐそばにあった。僕らは恍惚と光る建物の横で、夜の影に身を寄せ合って隠れた。「仁、いくら持って来た?」刑事の張り込み調査みたいだったので、あえて小声で訊いてみた。


「んー、封筒から持ってきたから百万ぐらいかな」と平然と答えた。額にも驚いたが、それ以上に、刑事に為りきる気のない、いつも通りの声色の方がよっぽど驚いた。仁と刑事ごっこをするには前打ち合わせが必要なのだ。僕は呆れて、行くよ、と顔を入り口に向けた。


 籠の中に弁当を二つ、缶ビール、栓抜き二つ、ワインを二本入れてレジに持って行った。惣菜コーナーの整理をしていた店員が、ゆっくりとレジの持ち場に戻ってくる。細身で色白の若い男がやる気なさそうに、品物をレジに通す。制服のサイズが合っていないので、一つの商品を持ち上げては袖を捲り、また捲りを繰り返した。


「お兄さんたち身分証明するものはある? 未成年に酒を売ると店長がうるさいんだ」


 店員はそう言うと、レジを通す手を止めた。僕は仁に目配せして財布を出すように指示する。仁は自分のポケットから財布を取り出し、僕に手渡した。


「学生証はさっき落としたんだ。代わりに五万で売ってほしいんだけど……」


 僕が財布からお金をちらつかせると、店員は電子モニターに年齢確認画面を映し出した。「二十歳以上であればタッチお願いします」そう言って、酒をレジに通し始めた。


 男にお金を渡して、品物の代金もきちんと払って、袋を受け取る。自動ドアが閉まるのを確認して「ああ、やっすい」と呟く声は、圧倒的な店の光の前では、ただの影となって震えた。



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