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孤独な道化師

 朝日が昇ってもまだ書き続けた。朝だと気が付いたのは僕の十七年の人生を書き終えた時。おそらく十時間足らずでこれまでの半生を書き切ってしまった。十七年なんて十時間筆を動かし続けるだけで終わりなのだ。つまらないじんせいさ。


 定刻通りにバスは出発し、僕らは二台続きになったバスの二号車目に乗り込んだ。三列シートの一番後ろの席で、侘し気に流れる景色を目で追った。


 ちょっとした街に差し掛かると、レンガ造りの古民家が閉鎖的に立ち並んでおり、邪気を纏った不穏な空気が、バスの中にまで舞い込んできた。まだ、二時間足らずしか走っていないのに、〈幸せ〉しの字も感じさせないこんな場所に降ろされてしまうのだろうか。そう不安に思ったのが伝わったのだろう「あと二時間は掛かるぞ」と目を瞑ったままの仁が囁いた。「良かった」と思わず感嘆の息が漏れるほど安堵した。


 そこからまた一時間ほど走り、閑散とした景色は、馬と牛、あと僅かばかりの家々に変わった。たったの一時間でこれほど変わるものなのかと驚く。窓の外で流れる景色は、悠久で喉かな、淡白で濃密な、何もないようでいて味わい深い、青黒い草が目の行き届く限り広がった、不思議な場所だった。先ほどまでの不穏な空気とは裏腹に、バスの中にはあまりに動物的な、牧場の独特の匂いが立ち込めた。


 人間もある意味、これぐらい独特な匂いを放った方が、動物であるという自覚を忘れずにいられるのではないだろうか。人間だって一、動物に過ぎないのだから。


 いつの時代もこの広大な大地に産まれ、そして死んでいく。それは壮大なようで、とても小さなことにも思える。今窓から点々と見える家の中でも、命が生まれて、死んでいるのだろう。これだけ生死が循環する世界で、それが小さなことだとすれば、人間にとって一番激動な事象とは何だろうか。僕には奇しくも産まれた時の記憶がなく、想像できる一番の激動が死ぬ事なのだ。他に思い描ける事がない。


「あのさ、死ぬことよりも強烈な事ってなんかある?」


 通路を挟んで隣に座る仁に訊く。


「女子風呂を覗いてるのがばれたとき」


 前三列ぐらいに座る老若男女は競って僕らの方に振り向いた。


「仁、あんまり大きな声でそういうことを言うなよ」

「お前がまた、死がなんちゃらとかって言い出すからだろ……」


 僕とは反対の方を向いて拗ねてしまった。今日は機嫌が悪いようだ。僕は一つため息をついて、鞄からノートを取り出し、茫然たるこの状況を綴った。



「隣で不貞腐れている友人は、女子風呂を覗いたと公言した。これは決して冗談ではないよ。決して、けっしてね……。」



 四時間揺られ続けて、やっと降り立った場所は、憮然というのか希望というのか、そういった事を考えるには、あまりにアスファルトが足りていなかった。というのも、住宅地にふと現れる「売地」と書かれた看板が良く似合う場所に似て、無作為に草が刈り取られ、気持ちばかりの砂利が撒かれている。終点と呼ぶには閑静すぎる、ただの原っぱだった。


 バスを降りる際「お疲れさまでした」と乗客一人一人にお辞儀をしていたガイドさんに、チケットを渡した。というより押し付けた。「僕たち帰り乗らないので。あと、ツアーもまわらないので」帰りの分のチケット代がもったいない気がしたが、損するのがお金だけなら、大して構わなかった。ガイドのお姉さんは「わ、わかりました」とたじろいでから「行ってらっしゃいませ」と送り出してくれた。お姉さんの声で僕らの旅はやっと、始まった。


「仁、ここどこだ?」周りを見渡してみて、バスの停留所? の他には右にも左にも道路が一本伸びているだけだった。大型のバスが二台も連なってくるほどの、価値があるようには思えなかった。とりあえず道路の真ん中まで歩いてみた。「昨日より南の場所」と仁の時間差の返答。彼は僕と同じく道路の真ん中に立ち、白線の上を歩く蟻の行列を、木の棒で突いていた。


「あんまり蟻を殺すなよ。蟻の人生背負って生きたくはないだろ」


 僕の提案に仁は小さく顔を歪めた。


「まあ、そうだな。人生を背負うってのはわからんけど、重そうな響きだからな」


 そう言って、突いていた棒を後ろに放り投げ、しゃがみ込み、今度は列を乱す蟻がいないか監視し始めた。時々外れてしまった蟻を、指で障害物を作って、元の場所に戻したりもしている。


「何で人は蟻を殺すに、人は人を殺さないと思う?」


 僕は蟻を凝視する仁を眺めながら訊いてみた。炎天下の元、蝉の音で飽和していた大気がすんと静まった。仁は滴る汗を気にする素振りもなく、蟻の気持ちになって考えているようだった。


「んー、難しい質問だな。どうだろう、人に殺すほどの価値がないからとか」


 あっけらかんとした顔で、神妙に蟻たちを眺めながら、僕の予想に反してとてつもない毒を吐いたので、思わず吹き出してしまった。


「それはいいな。人が人を殺さない理由はそういう事にしておこう」


 実に愉快な理論だった。本当に愉快な理論。仁は僕のつぼを良く抑えている。


「聡は? お前の考えも教えろよ」と蟻と戯れながら言った。


 俺も仁の考え方でいいけどな、と断りを入れてから、


「人と蟻では人生の重みが違うと思うんだ。蟻に心はないから、生涯どれだけ働けるかでその価値は決まる。けど人間は、他人の人生に不要に干渉して、他人の心に居座ってしまう。蟻みたいに役割が分かれていれば個々として成立できるけど、人間独りでは生きていけないようで、良くも悪くも、その人の心の中で生き続けてしまうんだ。怖いんだよ、その人がこれから受けるはずだった喜怒哀楽とか、その人が他人に与える幸、不幸を自分が成り代わって与え、受けなければいけない。命を奪うという行為はそれを全て背負うという事だと思うんだ」


 仁の首から汗が滴り、それを吸収した真っ白のTシャツが、背中にぺたりと張り付いていた。蝉の合唱に合わせて徐に口を開く。


「簡単に言えば、蟻を一匹殺したらそいつの巣の前に、ショートケーキを一個落としてあげればいいけど、人間の場合は…………。無理じゃね?」


 僕は頷いた。


「うん、そんなことは不可能さ。だから誰も殺さないし、殺そうとも思わない。自分のためにね。それなのに日々殺人は絶えないだろ? 俺には理解できないよ、他人の人生だけは背負いきれないんだ。相手の人生をめちゃくちゃに壊してしまいたいと願うなら、そのくそみたいな人生を背負う覚悟がなくちゃいけない。全く馬鹿な話だろ? 殺したいほど憎んで殺した結果、殺されるほど憎まれる人生を全うしなくちゃいけないんだから。この世の全ての殺人犯に告ぎたいね、そんなに殺したいなら殺せばいい、でも、他人の心臓を止めるなら、同時に自分の心臓も止めろよ。相手より一拍でも多く鼓動するな。鼓動するごとに募る罪を、贖罪する事なんかできやしないんだ。ってね」


 白昼の元に晒されて、へんてこな理屈で自己を満足させる。これはただの道化だ。百四十文字の正論で、相手を負かそうするくだらない現状と変わらない。もっと言ってやれ、とへんてこな理屈にご満悦の彼と僕とを楽しませるだけの、道化なのだ。


「また、つまらない話に花を咲かせてしまったな」

「面白かったらそれでいいのさ」


 僕らは客も舞台もない、暗幕も上らない中で踊る、孤独な道化師なのだ。


「さあ、どっちに行く?」と僕は言った。「どっちでもいいな、何も見えないし」

「なら、いい考えがある。この万年筆が倒れた方に進もう」


 僕は万年筆の安定しない方を地面に立てた。数秒待って、やがて吹いた風によって右に倒れたので、左に向かって歩くことにした。三歩右に向かって歩いた仁が「最初から決めてるなら訊くなよ」と笑って、小走りで、二歩左に歩いた僕の横に並んだ。「軽い道化だよ」と僕も笑った。



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