小説を書いてみれば何かわかるだろうか
次の日の朝、教室に差し込む光は、舞い上がった埃を完璧に浮かび上がらせていた。窓側の席に座る僕と仁は埃同様に光を浴び、他のクラスメイト達は光によって本心が浮き彫りになるのを恐れたのか、光を避け、わざわざ暗闇の方で人間であり続けようと言葉を交わす。いつもの見慣れていたはずの光景だが、今日はいつも以上に馬鹿らしく思えた。
近頃、努力をしろ努力をしろと、まるで何かの合言葉のように頻繁に聞くけれど、僕から言わせてみれば皆十分に努力をしていると思う。少なくとも、ここにいるクラスメイト達は皆、人間であろうとこんなにも努力をしている。本心を悟られぬように暗闇の中に心を隠し、媚び諂った言葉を本当にそう思っているかのように偽り、話す。こんなにも頑張っているのに、さらに努力をしろと言うのだから、人間は鬼畜極まりない。
「凄いよな、人間って……」
「なんだそれ」
口に出したつもりはなかったが、無意識に出てしまっていたらしい。まだ授業も始まっていないのに、机に顔を埋めている仁が肩を震わせて笑った。
「お前に衝撃の事実を教えてあげるからよく聞けよ」
仁は顔をあげ、いつになく真面目な顔で僕の顔を覗き込んだ。
「俺もお前も人間だぞ」
「えっ」間の抜けた声が出てしまった。
「まさか、本当に人間じゃないと思っていたのか」
「違うよ、何を当たり前のことを言うのかと驚いただけ」
「そうか?」
仁は全てを見透かしたように不敵な笑みを浮かべて、また、机に顔を埋めた。
僕の自我が行き届いていないところで、本当は認めていないのかもしれない。暗闇に隠れることしかできない者たちと同じ姿形であることを……。
「皆座ってくれ」
チャイムが鳴るよりも早く担任が教室に入って来た。いつもとは違う事態にクラスメイト達は動揺を抑えきれないようで、各々が席に向かいながら不安を口にする。担任は全員が席に着くのを確認すると、わざとらしい咳払いを一つしてから話を始めた。
「えーと、このクラスでも委員長をやってくれていた佐倉だが本州の方に転校することになった」
クラスは一瞬、牛の大群が通り過ぎたみたいにざわざわしたが、それもすぐにやんだ。過ぎ去った丸裸の牛が金品でも落としたとでも言うように、クラスの奴らは目を凝らし始め、厄介者のポジションを次はだれが受け継ぐのかの、いがみ合いが静かに行われているようだった。委員長がいなくなったぐらいではクラスという牢獄の構図は変わらないようだ。
いつもならこんな状況でも、人間様はこんな無駄なことに労力を割けるなんてすごいなぐらいに思っていただろう。しかし、今回はそうもいかなかった。彼女が昨日までここにいたことをなかったかのようにする雰囲気に、辟易を抑えきれなかった。
「人一人じゃあ、なにも変わらないんだなあ」
呟いた声が微かに震えた。人間にしか持つことの許されなかった心は、人類が四足歩行の時から絶え間なく進化してきたそうだが、なんとも面白い進化を続けたようで、手に持った槍がペンに変わっても、他人を恥辱する方法を追い求めたようだった。一体人間は何のために進化してきたんだ? 人類の叡智とは生活をより良くしようとした技術だけなのか? それならばいっそ人類など滅べばいいと思う。
このまま技術の進歩と共に腐敗していく世界なら、人間が生きている意味ってなんなんだ。心は霞み言葉を生み出すためだけに作られたのか。
笑える、笑える。こんなに面白い話があるだろうか。きっと心を与えた神様は馬鹿だったのだろう。僕が神様なら心なんてあやふやなものなんて与えずに、幸せしか感じることのできないもっと別のものを与えたはずだ。
僕は担任によって繰り広げられる、生徒が一人いなくなったことの、悲しみのスピーチの中、鞄を背負って立ち上がった。どうにも笑いを抑えきれそうもなかった。椅子のギーっとなる音に生徒たちの視線が一堂に集まる。「やめておくれよ、そんなに不思議そうにこっちを見ないでくれ、僕からしてみれば、君たちの心の進化の過程の方がよっぽど不思議でならないんだから」そう笑いながら叫びたかった。
教室の後ろのドアを開いて、もう戻ることはないクラスという、形あるようで形ない牢獄を振り返ってみた。相変わらず不思議そうに見つめてくる者や、狂気の目で見てくる者など実に多種多様なものだったが、一人だけ机に伏せたまま肩を大きく上下させ、大笑いしている者がいた。
それが僕の学校生活最後の光景だった。
その日の夕方頃だろうか、身支度を整えてドアを開けると、カラスがわーわー怯えるように喚き散らし、揺れる木々に擦れる羽のばさばさ鳴る音が怖さを彷彿とさせた。じっとりとまとわりついてくる夏の空気を切り裂くように、足早にアスファルトの上を歩く。十分ほどで目的の場所には辿り着いた。
僕の家の二十倍はあろうかという仁の豪邸の前で、宵闇に擦り切れるようにして僕は立つ。インターフォンを押すという行為は少しだけ緊張した。
〈ピンポーン〉インターフォンに取り付けられているカメラに顔を近づける。
「なんだ聡か、珍しいな」と、彼が言うので「悪かったな聡で」と、僕は返した。
「いやいや、そんなことはないぞ、そもそも俺に要件があって訪ねてくる奴はお前以外にいないからな。で、肝心の要件というのは?」
先ほどの学校での一軒があったからなのか、仁の声はやけに上擦っている。
「ああ、ちょっと旅に出ようと思うからその報告に来たんだ」
「ほう、それはまた唐突だな、どこに行くんだ?」
「それはまだ決めてない」
仁が心底愉快そうに笑ったのが、黒い機械を通して聞こえてくる。
「まあ、強いて言うなら幸せがありそうな場所に行くよ、あと小説も書くことにした」
「やっぱり唐突だな」ともう一度愉快に笑った。数秒立ってから笑い声は止んだ。
「ちょっとそこで待ってろよ、俺も行くから」
「本気で言ってるのか?」
仁はすでに準備を始めているようで、僕の問いに返事は返ってこなかった。とても唐突な奴だと思う。
やがて玄関が開き、荷物を背負った仁が姿を見せる。
「どこに行くか決めたか?」
「遠くがいいな、行ったことのない場所。とは言ってもここ以外行ったことないんだけどな……」
「なら、どこでもいいか」
「うん、どこでもいい」
僕らは最寄りのバス停に向かい、次に来たバスに乗ることにした。
きっとそれがいけなかった。バスに揺られて四十分、辿り着いた先はバスターミナル。とりあえず中に入り、これから出るバスを受付嬢に聞いたところ、今日ここから出るバスはないという。僕らの旅はすぐに行き詰った。
「さすがに適当すぎたな」と仁がため息交じりに言った。そうだな、と同意する。
「明日はある程度場所を決めてから出発しようか」
僕がそういうと、仁はエントランスホールへと数歩戻った。
「じゃあ、南に行こう。これ以上北へ行っても仕方がない」
仁はエントランスホールの壁にでかでかと張り出されていた〈0泊でも行ける――バスセット〉という張り紙を指さして言った。どうやら次の目的地はそこで決まりらしい。その張り紙を詳しくは見なかったが「南」へ行くことは確からしかった。
僕らはここで一晩明かすことにし、明日の朝一番早いバスで出発できるようにチケットを手配した。もう陽は完全に沈んでいた。椅子が何個か並んでいるところに寝転び、体が痛くならないような体制を探す。これはジャングルジムの上にいるのと同じような感覚だったので、思いの他大変な作業ではなかった。バスターミナル内の電気も最低限になり、人の音もやがて消える。静寂の中で人が発する熱だけが僅かに漂った。
「あのさ仁、お前ここに来て大丈夫なのか?」
今更だな、と仁は眠そうに笑う。本当に今更だったなと僕も小さく笑った。
「まあ、そうだけど、親御さんぐらいには言っといたほうがいいのかと思って、警察に失踪届なんて出されたらたまったものじゃない」
六つしか柱のない小さなバスターミナルで、二つの柱の間を一続きになったカーテンの閉まらない窓ガラスには、横に伸びた二人の人間が映っていた。
「心配ご無用。親は常に出張続きで家にいることなんてほとんどないし、親にとって俺はいてもいなくても変わらない存在だからな。家にいてもテレビを見ることぐらいしかすることがないし、――それならこうやって旅に出ている方が、少しは有意義に過ごせそうだろ?」
「まあ、そんなものなのか?」
「そんなものさ」
仁の声は明るかった。随分と複雑な家庭事情を持っているのだと初めは思ったが、それぐらいが普通なのではないかと思い直して、鼻で少し笑ってそれっきりだった。
「そういえば、小説がなんちゃらとか言ってなかったか?」
「うん。小説を書こうと思うんだ。といってもそんなにしっかりしたものじゃないよ、自伝? 日記の延長線みたいなものさ」
隣の椅子に寝転がっていた仁はむくりと起き上がり、眠そうな目を擦り、あくびを垂れた。
「じゃあ、日記で良くないか?」
「んー。日記だって、小説だと言い張れば小説だろ?」
「じゃあ、日記だな」
「小説だよ」
こんなことで張り合うなんて珍しいなと仁は笑った。理由を聞かせてくれよと言うので僕は頷いた。
「俺ずっと小説を読んでただろ? で、その小説の中では〈幸せ〉がたくさん書かれているんだ。それもそれぞればらばらで目指す対象にならないぐらいね」
「委員長がいなくなる時にも言ってたな」
「そうそう。それでさ、俺も書いてみれば〈幸せ〉がわかるんじゃないかと思ったんだ。だから日記じゃだめ。俺は小説を書くよ……」
小説を書く中で〈幸せ〉を見つけられる可能性はどれくらいだろうか。僕は今まで読んだ小説家に比べて、経験も知識も言葉も何もかもが足りていないから〈幸せ〉を見つけるには時間が掛かりすぎてしまうかもしれない。それでも、見つけられる可能性が少しでもあるならと思うと、書かないという選択肢はなかった。
「ふーん、俺は日記でも小説でもどっちでもいいけどね……」
仁はもう話すことなどないとでも言うように、また横になってしまった。
「完成したら読んでくれよ」
「嫌だよ、小説なんて読みたくない。それに小説を読むと蕁麻疹が出てくる体質なんだ。他をあたってくれ……」
「誰に?」と真顔で仁の方を見やってから「俺に友達は二人しかいないんだ」と続けた。窓に写る仁は不格好に伸びをして、観念したようだった。
「はあ、わかったよ。ならせめて面白く書いてくれよな」
「努力はするよ」
僕は鞄の小さいチャックを開くと、中から真っ黒なノートと万年筆を取り出した。万年筆は金色の彩色が施されたものが全てであると思っていたが、それは黒を基調とし、銀色が散りばめられた仕立ての良いスーツのような筆だった。キャップの上には錨のマークまで掘られている。両親の残した唯一の形見だった。僕はそれに大きく心を魅かれた。小説を書くことを決意させた筆でもあった。
真っ黒な表紙を捲り、罫線の入っていない一ページ目を捲った。この小説には僕が生まれてから今までの、いや、これからの人生を書くつもりだ。構成なんて考えちゃいないし、着想なんてもってのほか、それでも想いを描くという行為は、僕をとても興奮させた。一度大きく息を吸い込んでから冒頭の一行目を書き始めた。
「これは愛ある家庭に産まれ、そして捨てられた男による、これまでとこれからの人生を綴った物語である。」




