雨の歌
歳月とは星をも見通す望遠鏡を持ってしても目には見えないもので、特に惰性で過ごす僕なんかには、雲が形を変えるのと同じぐらい肌で感じることはできない。そうやって今日も何となく黒板に向かって座り、先生という生物から発せられる言葉に悪寒を伴えながらも、本の世界に逃げ込もうと必死に文字列を追っていた。
肌を焦がす強烈な日差しが今日も図々しく僕らを見張り、気が付けば制服の中のTシャツは汗でぐっしょり濡れて、額を伝う汗を袖で拭っている。少し酸っぱいつんとした匂いが鼻孔をくすぐり、夏なのだなあと思う。
季節は巡り八月、夏休みが明けて二週間が経った。相変わらず靄のかかった教室で鉛のように重い空気を啜りながら、なんとなく空を駆ける三角形を目で追う。
「君たちは受験生です。皆さんはそれぞれの目指す幸せな未来に向かって努力をしている最中だと思います。試験はすぐそこです、一緒に頑張りましょう」
その言葉が聞こえたのは太陽が一番高いときだったから、四時限目の国語の先生だっただろうか、白髪頭の腰の曲がったおじいちゃんが、毎年言っている決まり文句みたいに言った。先生という立場上、表立っては生徒を気にかける言葉を並べているけれど、その真意は「無」だ。何かを想って言葉にしているわけでもなければ、何かを変えたくて発したわけでも、一緒に頑張りたくて発したわけでもない。そんな給料をもらうために発した言葉が、僕の胸に突っかかってしまったのは、物語の世界に逃げ遅れた心が、直感的に違和感を覚えたからだった。
先生はこのクラスにいる全員がそれぞれ目指す未来があるように言ったが、そんな人間が一人でもいたのだろうか。それに、試験というのは大学の入学試験の事を言っているのだろうが、僕はそれをいつ受けると決めたのだろうか。どこの大学に行きたいと願ったのだろうか。自分ですらわからない将来の事を、白髪頭のおじいちゃんは見切ったように言った。それがたとえ決まり文句だったとしても、こうして僕という人間が分かったかのように言われるのは、気持ちが悪くて全身の毛が総毛立つ。僕がどれだけ僕という人間を探したのかも知らずに、その答えが未だ見つかってもいないというのに、なぜ、名前も知らない白髪頭のおじいちゃんが、僕のことを知っているのだろうか。
いつからか社会は、このおじいちゃんのように上辺だけの言葉を愛し、一般的な幸せの形というもの定型化し、それにそぐわない者は社会不適合者として虫けらを見る目で見るようになった。ある程度歳のとった未婚者の事を陰でかわいそうだと笑い、高校を中退した者をこれから大変だろうなと他人事に不幸を押し付ける。未婚者のどこが不幸なのか、中退した者のどこが不幸なのか、そんなことはその本人にしかわからないはずなのに社会は勝手に不幸だと決めつける。このおじいちゃんの決まり文句には、確立された幸せを皆が渇望していることになっているが、本当にそうなのだろうか。
僕は、今すぐ白髪頭のおじいちゃんに聞き正したいと思った。「このまま大学受験をし、頭がいいと言われる学校に入学して一流企業に就いて、たくさんのお金をもらって、結婚して子供もできて……、そうやって一般的に幸せだと言われる生活を送るのは本当に幸せなのですか? 絶対にそうなのだと一心の迷いもなく、僕の目を見て宣言できますか」そんなことを聞いてみたかった。
果たして僕は一般的に幸せだと言われるものを手にしたときどう思うのだろう。僕はそれを手にして幸せだと、命の終わるその瞬間にこれまでの人生を振り返ったとき、幸せだったと死にゆけるのだろうか。もし、……もしも、一般的に言う幸せの形が間違いのない幸せの形であり、確立された幸せが皆、絶対に陶酔できるものだとしたのなら、僕の心はどれほど軽くなれるだろう。
僕には目指すものがないのだ。幸せになりたいと願うのに幸せを信じ切れていない。生きる目標になる幸せの形がわからない。学力、権力、恋愛、名声、お金、どれか一つでも僕の中に存在していたら、他人は僕の事を幸せだというのだろうが、どうしても確立された幸せの形が、幸せに直結しているとは思えなくて、努力をすることができない。今は仁や委員長の存在が辛うじて僕の生に匹敵しているが、もし、来年の春に仁や委員長と離れ離れになったとしたら、僕の生きる理由はなくなってしまうのではないか。荒波のように押し寄せてくる将来への漠然とした不安が、いつまでも続く惰性での日々の恐怖が、突如として僕を飲み込む。暗い暗幕の張られた部屋で一人閉じ込められた感覚になる。僕は何も見えない不気味さに悶えながら、いつ消え行くのかわからない小さな小さな命を、ギュッと優しく抱きしめた。
これから生きていくには、自分で幸せの形を見つけ出すか、一般的な幸せの形に溶け込んでいくしかない。僕だって真っすぐに普通の人間として幸せの道を歩みたいけれど、そうできないほど心がへんてこりんな方向に曲がってしまっている。アスファルトの隙間に咲く凛花のように人間社会に同調するのを嫌ってしまう。僕も幸せを疑いたくない、間違っていることすら気が付かずに、のほほんと幸せというものを感じてみたい。そう願っても、僕の純粋無垢な心は簡単には変調してくれないようだった。一体どうすればいいのだろう、幸せの形が見えなければどうすることもできない。
空を駆けていた轟音がすぐ近くまで迫ってきていて、昼休みに突入するチャイムはその大っぴらな音にかき消された。隣の席に伏せていた仁を起こして屋上へと向かう。
一歩後ろを歩く仁は朝からずっと寝ているにも関わらず、ふぁーとあくびを繰り返している。轟音のせいで自由を告げるチャイムを聞き逃したため、いつもより開放感がそれほどなかった。廊下に出ても、どんよりと腹の底にしっかり溜まる空気が、追い打ちをかけるように心を平伏させた。
未だにおじいちゃんの言った、幸せな将来を煽る言葉が、絶対に外れない南京錠のように脳に括られて抜けてはいかない。後ろを歩く、何も考えてなさそうな仁も、将来の事を考えていたりするのだろうか。僕は歩を止めぬまま、顔も前を向いたままでそれとなく聞いてみた。
「仁の幸せな将来ってなんだ?」
「……しらん」
相変わらずあくびを垂らしながら、興味ないを装った返事をしたつもりだったのだろうが思いのほか語気は強く、この男もまた、幸せの形を自分で見つけ出そうと必死にもがいているように感じた。あくまで僕の推測の話だが、僕らみたいな半人間みたいなやつらは皆、生き方に苦悩しているのかもしれない。
「じゃあ、大学には行くの?」
「行かない。……この話、昨日も一昨日もしてる」
仁は一つため息をついて足を止めた。
「またまた冗談を」僕は片方の口の蓮だけ上げて振り向く。
「それはこっちのセリフだ、ずっと前から思っていたことだけど、最近のお前は特に生きている感じがしない……」
仁は時々独特な表現をする。彼はそれ以上何も言わず、僕の横をするりと抜けて屋上へと続く階段を登って行った。「生きている感じがしない」とはどういう意味なのか聞こうと思ったが、少し猫背の丸まった背中に、その言葉を投げかけるのはなぜだかできなかった。
手持無沙汰で仁の言葉に翻弄されてしまった僕は、しばらくの間、廊下のど真ん中で立ち竦んでいた。周りを通り過ぎていく生徒たちが「何あれこわい」「死ねや」などと小声でつぶやきながら僕を睨みつけて消えていく。僕はただ他人事に、皆人間なのだなあとだけ思っていた。
「何やってるの、話があるから早く行くよ」
廊下の中心でかかしみたいに立っていた僕の腕を取り、委員長が物凄い力で引っ張っていく。彼女に強引に手を引かれるまま、よたよたと転ばないようにバランスを取り、いつもの屋上へと向かう。いつになく忙しない様子の委員長は甘いシャンプーの香りを後ろに靡かせ、それを直に受ける僕は、どきりと緊張した。掴まれた手からも彼女の熱を感じ、背中に一筋冷ややかな汗が伝う。ほのかに高鳴る心臓はなんだか自分のものでない気がした。
思えばこんな風に緊張したのはあの日以来だ。今も初めて三人で屋上に集まった日を鮮明に覚えている。仁と僕の二人だけで築き上げたぬるま湯の中の冷水の空気、取り留めのない場所。恐れていた他人の干渉を委員長は土足で踏み越えて来た。日常から非日常へと変わり、すぐに日常に戻ったあの時。確かに僕らは緊張していた。歌う彼女に心をくゆらせ、息を詰まらせ、僕と仁の二人以外にもまだ、人間溢れがいた。どうしようもない生きづらさを謳いたい奴がいたのだと思うと嬉しくて、触れれば壊れてしまいそうな儚さを帯びていて、それが生きづらさから来ているものなのだろうかと思うと、あまりに可憐で美しかった。
初めて三人が集まった日から一日たりとも昼休みに集まらなかった日はない。数年に一度の台風が来た時だって、屋上のドアの前でいそいそとお昼ご飯を食べたし、サウナの中に居るような、湿度が高い猛暑日だって、汗だくになりながら屋上のど真ん中で彼女の歌を共有した。この昼休みという時間だけは、現実にいる気がしなくて、生きているのだという実感があった。できることならこの時間が永遠に続いてほしい、そう願っていた。
――だからこそ、屋上に来て委員長が言った一言には稲妻に撃たれたみたいな裂傷が全身を駆け巡った。今まで受けたどんな傷よりもその言葉は痛烈な痛みを伴っていて、腕を切り落とされ足を切り落とされ、首と胴体も分けられて、血しぶきがちょっとした噴水ぐらいに噴出す状況になっても、この痛さには到底及ばないと思った。霞み言葉とは対照的な言葉で、他人の人生に直接影響してしまう、そんな言葉をなんというのだろう……。彼女の言った言葉はそういった言葉だった。
「転校することになったから、ここで二人と会えるのは今日で最後なんだ……」
三人だけが息を交わす場所で彼女は、雲一つない晴天に隠れるようにしてそう言った。か細くて弱々しくて悲しくて、糸が揺れたような声だった。立ち上がって見た、彼女の顔は相変わらず反射材が塗られ、太陽の光を受け流していた。太陽の光を借りなければ自分がいることを証明できないのだろう、日に日に顔に塗る反射材の量が多くなっていった気がする。あまりの衝撃で思考回路が停止した僕は、そのどうでもいいことぐらいしか考えることができなかった。
「もう、君の歌が聞けなくなるってこと?」
どうにか絞り出した言葉だった。声として成立していたのか、糸が揺れる音よりも、さらに小さな蚊の羽音程度の音だったように思う。
「うん。ごめんね……」
彼女は前を向いていて、振り返ることはしなかった。
「謝ることはないさ、時間は過ぎるものだから……」
「どういう意味?」
「そのまんまだよ。どんなに心地良い時間も過ぎゆく、終わらない時間はないってこと……」
「確かにね、この時間だっていつまでも続かないんだよね……」
彼女は僕らの方に振り返った。髪が風に靡いて目は赤く腫れている。
「なら、歌うよ。きっと今すぐ歌わなければ声が出なくなっちゃう」
そう言って彼女ははにかんだ。
「相変わらず、君の考え方はよくわからない。……けど、僕も君の歌を最後にもう一度聞きたい」
彼女はもう一度、僕らとは反対の方向に向き直った。群像色の空を仰ぐ。それにつられて僕も空を見上げた。雲の一片も見当たらなくて地球の丸さがよくわかる。彼女がこの場所からいなくなった後でも、地球はまだ、まあるくあり続けるのだろうか。
「ちょっと待てよ」
それまで座っていた仁が、鉄の柵を伝ってゆっくりと腰を上げた。
「どうして……、どうしてそんなに突然……」
立ち上がってはみたものの考えはまとまっていないようだった。それでも頼り無い言葉を紡ぎ、何とか自分の想いを伝えようと話を続けた。
「期待していたんだ……、なんとなくだった日常が、君の歌にかかれば、楽しいものに変わるんじゃないかって……。結局その通りだった、三人でこの場所に居る間は本当に楽しかった。だからこそ、どうしようって……、胸に突っかかるこの感じが、水に鉛を沈めるように、すぅーと沈み込んではくれないんだ。……こんなこと口にしたところで何も変わることはないとわかってはいるけど、言わずにはいられないよ……」
仁ははにかむでもなく微笑むでもない複雑な表情で、僕らとは違う遠くの空を見つめていた。いや、それよりももっと遠くの空の、さらに向こう側を見つめているようでもあった。
仁という人間はこんなににも綺麗な存在だったのだと初めて知った瞬間だった。心や言葉が現実を変えることなどないとわかっていながら、それでも、一生懸命口にした。誰かに干渉しようとした言葉ではなかった。意味なんてなかった。独りよがりで、自分よがりで、空の青さを語っただけのような、空虚な言葉。それでも仁の言葉は綺麗だった。見えない心なんて通り越して、僕の心臓を打ったのだ。さよならを告げる者に花束を添える、彼なりの言葉だったのだ。
「羨ましいな、仁は自分の言葉をちゃんと持てていて。僕は自分の気持ちすらはっきりしていないみたいだよ。どこにも行ってほしくないとも思っているし、まだまだ歌を聴きたいとも思っている。でも、それだけじゃ、この気持ちを伝えられている気がしないんだ……」
「俺だってそうさ、この漠然とした苦しい感じを伝えられない」
「二人とも大丈夫。私も同じ気持ちだから、よくわかるから……」
委員長は顔だけ少し振り向き、その言葉と共に唇が少し震えた。きっとそれが彼女の精一杯の誠意だった。僕は底の見えない深海に潜った気になって、この苦しい感情を表す言葉を探した。底へ行くほど暗くて、水をひっかくたびに言葉は溢れ出て、でも、この感情を表せれる言葉なんて何一つなかった。
「……ありがとう」
小さく呟いた。彼女の誠意に対する僕の精一杯の誠意だった。聞こえただろうか、聞こえなかったのだろうか。僕には彼女が少しだけ笑ったように見えた。それだけだった――。
「じゃあ、歌うね……」
いつも楽しみだったその言葉は、今日だけは苦しかった。それこそ、茨の荊棘が中から縛り付けてくるみたいで、これから先も一生、この体から棘が抜かれることはないのだろうという、憂い確信があった。
一呼吸おいて彼女の息を吸う音がいつも以上に鮮明に聞こえた。これが最後の歌だと思うと、全身の感覚器官が、彼女から発せられる音を一音たりとも聞き逃さないようにとビンビンに研ぎ澄まされた。瞬きするたび移り行く景色に音を感じ、心臓が高鳴る音が鼓膜をぶち壊すほど大きな音で、不規則にリズムを刻む。あまりに敏感に卓越された体は、少しでも動かすと、その動かした風圧で脳漿は揺れ、意識が飛びそうになる。それを何とかこらえ、目玉だけをにゅっと横に動かして仁を見た。
そこにはいつもの面倒くさそうな仁の姿はなく、水の清らかさが人に憑依したみたく、滑らかに、流動的に、その全てを受け入れる覚悟を持った人間が立っていた。
それからは雨が一粒降りてきた。雲なんてなかったが、濁りなく光を透通す涙雨が、ぽつりぽつりと確かに地面を踊る。僕を触れることも、濡らすこともない雨は、幻なのだろうか。そうだと言われてしまえば否定することはできない。
けれど、これが僕だけが見ている幻想だったとしても目の前で起こっている光景を疑うことはしなかった。お伽話の中にいるみたいに誰も聴いたことのない音で調律された世界。ありふれた音などなく、洗礼された音のみが、その時々の美しい光景となって現れる世界。そんな夢の中にいる感覚だった。
つまり彼女の声は雨そのものなのだ。どんなに醜い心も雨が洗い流すことがあるように、彼女の潤う声は濁り切った世界の隅々まで洗い流す。表面で平和を謳う者の影。自愛の中に消えた涙の輪郭。優劣を付けるのが大好きな人間社会。深夜に電灯が蔓延るビル群の夜景。誰かが死んで誰かが笑うこの一瞬の時間。自分を演じなくてはできない努力。腐るほど沸いた、人の不幸を心の奥底で笑う者。愛に溺れ、酒に溺れ、薬に溺れ、心の目を閉ざした者。人類の起源と共に空中を埋め尽くした霞み言葉。
そしてなにより、人間溢れの僕らと人間として生きているその他大勢の人類。その二つの勢力のわだかまりさえ彼女の歌には洗い流せる力があった。この歌を世界に届けたい、そうすればメリーゴーランドみたいに、皆が前を向いて笑い合える世界になるはずなのだ。
水晶玉よりも透明で聡明で、晴天から降る涙雨はやがて翠雨へと変わる。誰もが渇望した恵みの雨は、その他大勢の人間と等しく、僕らも渇望していた。雨粒の一粒一粒が僕の真ん中を射抜いて空欄を作っていく。どんな大手術をしたってこの穴は塞がらなさそうだった。それでも徐々にまあるく穴が開いてくのに、そこに差し込む太陽の光が温かくて、どんどん満たされていく。彼女の声に包まれて、群青色の空にすら手を伸ばせば届くような気になっている。歌は佳境に差し掛かり、雨はさらに勢いを増した。
彼女の声は綺麗で美しい、触れれば壊れてしまうガラスみたいに繊細で、他人を魅了するスパイスも備わっている。ひたすらに美しく、ひたすらに満たされていくこの寵愛なる歌声をどう表したらいいのだろう。
僕はたったそれだけの彼女の歌声を、白昼に沈みゆく事象を、伝えられるだけの言葉を持ち合わせていないのだ。誰か教えてはくれないか、晴天に注す雨粒を、土砂降りの晴天を表す完美たる言葉を…………。
歌い終えた彼女はもう振り返ることはなかった。アスファルトの隙間に咲く凛花は世界と同調することを嫌ったが、彼女は同じようようにたった一人でお伽話の世界を構築した。仁王立ちで硬く握りしめられた拳には一体何を願ったのか、黒く伸びた長い髪が右から左に揺らいで、それがどうしようもなく儚く見えた。彼女は空を仰いでいた。一体、そんなに上ばかり見て何を思うの? 口は糸で縫い付けられたみたいに開くことはなかった。
「二人とも、ばいばい」
彼女は最後まで振り返ることはしなかったが、靡く髪の後ろで肩が上がり、少しだけ笑ったようだった。僕は大きく息を吸いこみそして吐き出す。
「幸せってなに?」
この言葉が出てきたのは唐突なんかじゃない。静寂の海を月が照らすように、心を満たす物語を描ける彼女なら、本当の幸せというものを知っているのではないかと思ったのだ。
「そんなの、わからないよ……。でも、それこそ君がいつも読んでいる小説にたくさん書いてあるんじゃない?」
「確かにそう書かれている小説もあるけど、所詮小説なんて小説家の独り言だし、どれも形はばらばらで、目指す対象になんてならない」
「じゃあさ、人それぞれ違うのかもね……」
彼女は最後の最後まで振り向くことなく答えた。
結局、彼女と交わした言葉はそれが最後だった。ゆっくりとドアに向かって歩く彼女の顔は、風に靡く髪に隠れてよく見えなかった。
ドアノブに手をかけて引いた瞬間、風向きがほんの少しだけ変わった。
きらりと光った頬は雨に打たれたからだろうか、それとも化粧が光に反射したからだろうか。目から溢れた一筋の光は、運命に逆らえない屈辱を写したようであり、また、この先の未来に不安する淑女の姿でもあった。
「これから、どうしようか……」
仁は苦虫を噛み潰した顔で、茫然自失となった心を空気に燻らせた。




