[第一章]
物語を続けましょう。
生後11ヶ月で脊髄疾患によって生死を彷徨い、命を拾われ、寝たきりを宣告されてからのその続き。
その後は、依然麻痺はあるもののひとまずは寛解状態として自宅に帰ることになります。この時の私はまだ自分で動くことが出来ない状態でした。発病からここに至るまで、約3ヶ月。
この頃、4歳離れた姉が“ハイハイ”の仕方を教えてくれていたそうです。「こうやるんだよ」と自分でやって見せていたのだとか。勿論リハビリテーションにも通っていましたが、私が動けるようになったのはこのお陰でもあるのかもしれません。
そう。自力で動くことが出来るようになったのです。
始まりの時から1年ほど経ってようやくハイハイ歩きが出来る程度にまで麻痺が回復し、それ以前まで通っていた保育園に復帰することになりました。1年後ですから2歳前の時、ということになるでしょうか。
保育園で私は、両脚に装具を着けて過ごしていました。朧げではありますが自分自身で記憶があるのはこの頃くらいからになります。
病院で装具をつくることを提案された時は嬉しかったのだと、のちに母が話していました。
「再び歩ける見込みがある」ということだと感じたそうです。
確かにそれはそうかもしれません。実際、私は今こうして歩けるようになっているのですから。
しかし当時の私はこれが大嫌いでした。理由は簡単。可愛くないから、です。くだらないでしょうか?
身体の為なら仕方がない。病気なんだから仕方がない。我慢するべきだ。そう思うでしょうか?
我慢するしかありません。そうです。我慢するしか、ないのです。
私の人生は、きっと人より少しだけ我慢が多いものでした。
それでも、グッと飲み込んで気持ちを殺すことと納得して受け入れることとは違います。
着け外しのたびにバリバリ鳴るマジックテープが嫌いだった。
靴も履いていないのに床でコンコン鳴る音が嫌いだった。
触ると硬い手触りが嫌いだった。
少しでも可愛くしようとしたピンク色が惨めで嫌いだった。
人と違う見た目が、嫌いだった。
保育園にいる間にいつしか私は歩けるまでに回復していましたが、同時にハッキリとした自我も芽生え出し、気付くのです。
周りにいる人たちとの差異に。出来ないことが多すぎる身体に。身に着けた装具の無骨さや自分の動きの歪さに。
自分が“身体障害者”であることに、この頃ようやく気が付いたのです。
そうして私は胸の裡に鬱屈した何かを抱えたまま保育園時代を過ごし、そのまま小学校へ入学しました。
このくらいの年齢にはもう、今とほぼ変わりない病状だったように思います。歩いて、走って…。
実は、小学校入学に際してちょっとした出来事がありました。私自身は知らされていなかったのか忘れてしまったのか、とにかく記憶には全くありません。
前述したように身体はもうほとんど寛解していて、ある程度自分のことは自分で出来るようになっていました。
その為、小学校は学区内の公立小学校へ通おうとしていたのです。
とはいえ手助けや設備は必要です。そこで両親は、時間を設けて事前に学校長と相談をすることにしました。
おそらくは簡単に経緯を説明し、病気の話もして、現在の状態を説明したのだと思います。
そんな相談の場で学校長が放った言葉が、要約するとこうでした。
「入学するのは構わない。けれど受け持つ担任の立場からしたら、クラスみんなが元気な方が扱いやすいのではないか」。
これを受けて、両親はそこへ入学させることをやめました。怒った、そうです。
私は執筆に際して初めてこの話を聞きましたが、自分のことと分かっていても、怒りを覚えることはできませんでした。
まぁそうだろうなとしか思えませんでした。誰だって面倒ごとは避けたいものですから。
こういった経緯があって結局、車で30分ほどかかる養護学校へ入学することになります。
現在は「特別支援学校」と呼び名が変わっているらしく、執筆にあたって母校を検索したところ校名も変わっていました。ですが本作では、自分にとって馴染み深い呼称で表記したいと思います。
結果から言えば、実は私は小学4年生までしかここへは通っていません。そしてそれは楽しいものではありませんでした。
虐めなどを受けていたわけではありません。いえ、むしろ逆だったのかも。
知っている人も多いかと思いますが、養護学校に在籍しているのは身体や知的・精神など、障害をもった子供たちばかりです。私は幸いにして知能や脳の発達に障害はなく、ある程度は思うように身体も動かせていましたので、校内では限りなく“軽度”でした。
そんな私は、障害の程度が同じくらいな「他学年の児童」と共に通常通りの学習要領で授業を受けていたのです。通っていた学校には、小学部から高等部まで揃っていましたから。
それが寂しかったわけではありません。芽生えた感情がそんなものだったら良かったのに、とも思います。
ここからは、不快に感じる人もいることでしょう。しかしこの場で脚色をしても仕方がありません。ありのままのことを書いていきたいのです。嫌な思いをさせてしまったら、ごめんなさい。
同級生たちはみんな知的障害があったり身体障害の程度が重かったりと、私と一緒に授業を受ける児童はほとんどいませんでした。
自分のクラスの教室で朝礼を終えてから私は移動し、別教室で黒板に向かって授業を受けます。同級生たちはそのまま教室で、レクリエーションのような授業を受けます。給食の時間には食事の介助をしてもらわなくてはならない子供が大勢いました。
その環境で、私が何を思い始めたか。
同級生たちを、ひいては中等部以上の先輩たちを、障害者というもの全体を、見下すようになったのです。
なんて哀れで惨めなのだろうと感じたのです。
そうした感情はどんどん膨れ上がり、今では“嫌悪感”とも呼べるものに変わってしまいました。
何も出来ないくせに何にも成れないくせに、人の助けを借りてばかりで生きている意味がどこにあるのかと。おまえが生きているメリットはなんなのだと。
その思いを胸の中に仕舞って、見下しながら友人たちと接していたのです。
不愉快に感じますか。そうだろうと思います。そしてきっと、それが正しいのです。
自分を友人だと慕ってくれていた同級生たちを、私は友人だなんて思っていませんでした。
酷いことでしょう。許されていいことではありません。
けれどこれが事実です。私は周りを見下し蔑みながら、養護学校での生活を送っていました。
自分のことを棚に上げているなんて、この時は気付いていなかったのです。
先に、養護学校にいたのは小学4年生まで、と書きました。それはつまり転校したということなのですが、これには養護学校の教諭による助言が関わっています。
当時私たちの学年を担当してくれていた方が、「彼女は普通の学校の方が伸びると思う」と母に話してくれたのです。
これはまだ入学してからさほど経っていない頃のことで、実はゆっくり時間をかけて、私の“公立小学校への転校”が進められていました。
3年生になった時から、時折地元の公立小学校へ行くようになりました。最初に入学しようとした、例の小学校です。
1ヶ月に1日行くことを続け、慣れてくれば1週間に1日にしてまたしばらく慣らして…というように、1年をかけて少しずつ普通小学校へ馴染めるようにしていきました。
そちらの学校で友人もできるようになり、みんなと同じ教室で同じ授業が受けられる。その頃はそれが単純に嬉しかったものです。
この時にはもう以前とは学校長も変わっており、新しい校長は障害者である私を快く迎えてくれていました。
学校自体もスロープの設置やトイレの拡大などの工事を行ない、こうして小学4年生になった年から、公立小学校へ通い始めることになるのです。
これがひとつの、人生に於ける転換期だったことは確かです。
私は現在でも分からないのです。この時こうやって養護学校から離れたことが、正しかったのかどうか。
その後の私に与えた影響が、良いものだったのか悪いものだったのか。
今でも時々考えますが答えは出ません。きっと良いことも悪いことも、あったのでしょう。
“慣らし”の期間、そして転校した直後。その時期は私にとって楽しい日々でした。
一学年にひとクラスしかない同級生たちはみんな優しく接してくれていましたし、私の身体を気遣ってくれてもいました。
友人だってできました。正式に転校した時には待ち侘びていたように迎えてくれました。
担任の先生も熱心で良い方でした。極端に周りと分け隔てることはなく、なるべく平等にするよう努めてくれていたと思います。
けれどしばらく経って私は気付いたのです。自分が、ここでは何も出来ないことに。
体育の授業はみんなと同じことが出来ません。移動教室の時には私だけひと足遅れてしまいます。
休み時間になって急いで校庭へ飛び出していく同級生たちの後ろで、バリバリと装具の上履きを履き替えます。時間がかかります。準備ができた頃、私と、待ってくれていた一部の女の子たち以外に土間には誰もいません。
やがてその女の子たちは言います。
「待っていると早く遊びに行けないから、ゆっくり履き替えて後でおいでよ」。
子供は素直です。思ったことはすぐに口にしてしまう。
それを咎めるつもりはありませんし、当時の私も、責めるべきではないと思っていました。
そうだよね、ごめんね。じゃあ私は一人で大丈夫だから、明日からは先に行っていいよ。
そんなはずが、ありません。寂しかった。もどかしかった。つらかった。大丈夫なはずがありませんでした。
私だって早く外に出たい。早くみんなと遊びたい。待たせるなんて嫌。置いていかれるなんて嫌。そのくらい待っててくれたっていいじゃない。
その全部を飲み込みました。
10年以上前の記憶なのに、その他のことは朧げなのに、不思議と、小学校の下駄箱の様子はありありと脳内に残っているのです。
チャイムが鳴る。みんな一斉に教室から飛び出して、バタバタと靴を履き替える。
私は脇に置かれた台に腰掛けてマジックテープを剥がしだす。
数秒でみんな走り去っていく。腰掛けた目の前に出入口。走っていく背中。遊び始めた声。訝しげにこちらを見る他学年の生徒たち。
少しだけ砂埃が舞って、喧騒の後で際立つ静けさの中にバリバリという音だけが響く。その音が妙に反響して耳に届く。いつまでも鳴っている気さえする。
ようやく外履きに履き替えて立ち上がる。装具がキィと鳴る。聞こえないフリをして外に出る。私はひとり。
今になってみれば、そんなこと、です。大した問題ではないように感じます。
けれど私だって子供でした。その疎外感はあまりにも大きくて重かった。
逆転した。そう感じました。
養護学校にいた頃、私は自分より何も出来ない人たちばかりを見ていました。そして彼らを哀れみ、見下していた。
それが逆転したのだと思いました。
ここでは私が“何も出来ない”。みんなに迷惑をかけて、惨めで、哀れで。しかもそんな立場にあるのは私ひとりだけです。
バチがあったのかもしれません。友人たちを心の中でコケにしていたバチが。
それでも、ここでの友人たちは、私を煩わしく思うことはあっても、それ以外の部分では友人と思ってくれているはずだと信じていました。
何故無条件に信じられたのでしょう。過去の自分は、そうではなかったのに。
当時、仲の良い女の子が3人いました。私は常に彼女たちと一緒にいました。
理解できる人もいるかもしれませんが、“友達グループ”がとてもハッキリしていたのです。
私の周囲の女の子たちはそれが特に顕著で、誰しも“他のグループ”の子たちとはあまり深く親しくなることがありませんでした。
誰が言ったわけでもないのに自然とそうなっていて、そうすることが当たり前でした。
小学6年生の、卒業式をあと数ヶ月後に控えた頃。私以外の3人が、
「他の子たちとも遊びたい」と口にしました。
私は「もちろんそうしたらいい」と言いました。本当にそう思っていました。
“グループ”にわざわざ疑問を感じてはいませんでしたが、我慢してまで守らなくてはいけないとも考えていませんでしたから。
それに、私と行動を共にすると面倒なことも多いだろうと感じていたのです。
だから好きにしたらいい、私に縛られる必要なんてない、と思っていました。
その後、彼女たち3人が、彼女たち3人以外で、或いは彼女たち3人以外の子といるところを、私は見たことがありません。
ずうっと3人で楽しそうにしていました。授業の組み分けも、班分けも、休み時間も、いつだって3人で一緒にいました。
彼女たちが一緒に学校から帰っていくのを、私はひとり、送迎ヘルパーに車椅子を押されながら見ていたこともあります。この間までは車椅子の横で並んで歩いてくれていたのに。
どうしてとは思わなかった。切り捨てられたのだなと知りました。疎外感ではなく、しっかりと疎外されたのだと。
やっぱり面倒だったんだ。煩わしいと思っていたんだ。もしかして影では馬鹿にされていたのかも。
そんな風に考えました。
改めて考えてみれば、何も身体のせいではなかったかもしれません。単純に、私の人格的な部分に何か欠陥があっただけなのかも。だから彼女たちは、私を嫌いになったのかも。
けれどその時の私は「この身体のせいで」という考えを棄てることができませんでした。
結局、私はその後他の誰とも深く関わることができず、ひとりぼっちの卒業式を迎えました。
勿論本当にひとりだったわけではありません。普通に学校の卒業式に出席しました。
問題は、式が終わった後のことです。
誰もが仲の良い友達や部活のメンバーと、校内のあらゆるところで写真を撮っていました。「一緒に写真撮ろう」の声が飛び交っていました。
私は誰も誘えず、誰からも誘われませんでした。
友人はいない。運動部ばかりの学校で入れる部活動なんてなかった。取り残されるのは当たり前です。
惨めでした。
歓声を上げながら、時折涙しながら、わいわいと写真を撮る同級生たちを、友人だった3人を、違う世界のことのように見ていました。
卒業式用の綺麗なブレザーを着て車椅子に座っている自分が哀れだった。
服装に似合わない無骨な脚元が憎らしかった。
私が一番最初に、
こんな身体要らない。こんな人生要らない。
と思ったのは、この時かもしれません。
ハッキリと、しっかりと、強く強く自分を嫌いはじめた頃。
この頃から私は、一番嫌いなものの一番近くで生きていくことになるのです。