[序章]
嫌いな何かと出会った時、あなたはどうしますか?
逃げますか?避けますか?場合によっては壊してしまったり消してしまったりもあるでしょう。
けれど、どうしたって逃れられない嫌いな何かだって、きっとあるはずです。
あなたにそれはありますか?あなたにとってのそれはなんですか?
私にはあります。世界で一番、宇宙で一番、世の中の有象無象で一番、万物で一番嫌いなものが。
逃れる術はありません。嫌いであるという感情を棄て去るか自分の命を棄て去るか。どちらか二択でしかありません。
少しだけ長くなります。これを読んだところであなたが得することは何もないかもしれない。
ただ嫌な気持ちになるだけかもしれない。居た堪れない想いを抱えることになるかもしれません。
けれど私は書きたいのです。私が一番嫌いなものの話を。
両親は、冗談交じりによくこう言います。
「当時のことはきっと本に出来たのに」。
これは希望に満ちたサクセスストーリーではないので、実際に本に出来るかどうかは...分かりませんが。
私は今25歳です。この私小説を書き始めた時はまだ平成の世だったのに、なんだかんだとしているうちに改元がなされていました。
そろそろ本題に入りましょう。
面白いお話では、ありません。
私が産まれたのは1994年6月11日。早朝。その頃はまだ、ただの健康な女児でした。
異変が起こったのは翌年。1歳になる直前のことです。
当初単なる風邪だと思われていた私はその日、白目を剥いて意識を失い救急搬送をされ、文字通り死にかけ、輸血やホルモン剤の投与などあらゆる処置を施されたのちなんとか命を救われました。
入院から暫く経ってから判明した病名は、【横断性脊髄炎】。
身体を通る脊髄のどこかで炎症を起こしてしまう病気です。
私の場合、それは首でした。
首の部分で脊髄が機能しなくなると、さて、どうなるでしょう?
そこから下が麻痺して動かせなくなる。感覚もなくなる。そういうことが起こるのです。
搬送された当時の私にも感覚などなく、普通なら赤ん坊で起きる「反射」の現象もありませんでした。
掌に触れた母の指を握り返さないのです。注射を刺されようと肌を抓られようと泣きもしない。きっとその時なら、切り裂かれても分からなかったでしょうね。
自発呼吸をすることもできず人工呼吸器、取れてからも暫くは酸素テントの中で過ごしていたそうです。
運動機能は完全に麻痺。この時、両親は医師からある宣告を受けます。
「この先一生寝たきりである覚悟をしてください」。
こう言われた時の両親の気持ちは如何程だったでしょう。私は一生知り得ないことです。
父は「それは100パーセントなのか」と食い下がったそうです。ほんの僅かでも可能性があるならそれに賭けようと思った、と。
現在私は歩いているしこうして文字も打てていますから、この“賭け”は父の勝ちだったといえますね。
発病は5月17日の早朝。私は生後11ヶ月。人生で初めての誕生日は病室で迎えました。
両親はケーキを買ったと言います。その店で一番大きな、まぁるいケーキ。
動かない娘を前にケーキを囲んで、「ハッピーバースデー」を歌ってお祝いをしたのだと。
ちなみにこのケーキはその後、ナースステーションへ持っていったそうです。
この話を聞いた時のことはよく覚えています。
それから、「そのまた暫く後にお父さんが相談なくビデオカメラを買ってきたのだ」と知った時のことも。
10万円ほどした当時の高性能ビデオカメラを、一切の相談なしに購入した父。
理由は「現状を残しておきたかったから」。「死んでしまうかもしれなかったから」。
一番大きなケーキで、命を拾っただけの動かない娘にバースデーソングを歌った両親。
私には想像しか出来ない。いえ、もしかしたら、想像する権利さえないのかも。
でも考えてしまうのです。
当時の両親は果たしてどんな気持ちだっただろう。毎日どんな気持ちで病室にいて、どんな気持ちで仕事へ行っていたのだろう。
ビデオカメラを買う時の父も、ハッピーバースデーを歌う母も、幼くて病室には入れない姉も、どんな気持ちだっただろう。
そして...私は何故それを知らないのだろう。
1歳前後のことなんて覚えていなくて当然かもしれません。けれど私は許せないのです。
大切な家族をきっと傷付けた。傷付けたくないはずなのに傷付けた。
どうしようもないことでした。望んで病に罹ったわけではありません。恨むとしたら神を恨むのが正しいのかもしれません。
それでも自分自身を許せないのです。
その頃のことを思うたびに胸が痛むのです。涙が出るのです。自分のことであるのに、まるで他人事のように捉えているのが恨めしいのです。
決してドラマではないのに。自分の話であって、自分の家族が経験したことであるのに。
どうしたって実感がなくて、それ故に軽んじて。許せないのです。
周りを傷付けて懸命に助けられ育てられた命であるのに、何故私はこれを大切に思えないのでしょう。
ここで一度、私の病気について病状について整理したいと思います。
病名は横断性脊髄炎。その名の通り脊髄で炎症が起こる病。
現在のところ、治療法はなし。
私に出た症状は炎症範囲から下の麻痺、感覚鈍麻、体温調節機能障害、排泄障害、エトセトラ。
現状は麻痺と感覚鈍麻は殆どなく、立つことも歩くこともできます。触られている感覚も痛みもちゃんとあります。大きく残っているものは右腕の麻痺でしょうか。
右腕はほぼ上げることができません。手先も動きが鈍く握力も弱く、後天的に左利きになりました。
「これは飾りでついているだけだから」と、自分でよく言っています。
体温調節機能は比較的回復し、最近では汗をかくことも多くなりました。それでも恐らく人よりは少なく、発熱等は起こりやすいです。
排泄障害は相変わらず。これはこの後の内容にも少なくない影響を与えます。あまり綺麗な話ではありません。ごめんなさい。
酷くなっていることがひとつ。膝の歪みです。
ほぼ全てが寛解状態の中、唯一と言っていい“悪化していること”がこれです。
私はいずれ歩くことができなくなります。脚の歪みも子供の頃と比べるとかなり酷くなりました。
本当は装具を着けていれば良いのですが、幼少期の私はそれを拒絶しました。歩けなくなると知っても。
その話は追々詳しく致しましょう。
歩けなくなること、は恐怖です。今出来ていることがそのうち出来なくなるという事実はただ恐ろしい。
時々 ふ 、と思い至って怖くなることもあります。ですが、装具の装着を拒否したことを後悔はしません。
あなたは“身体障害者”と聞いて何を思い浮かべますか?
一生懸命に生きて、苦しい不便な日々の中で希望を見つけて、ある日定まった目標を胸に、真っ直ぐ前に進んでいく姿ですか?
それとも惨めで、何も出来ずに、虚空を見つめて意思の疎通もはかれない、生きているだけの人間の出来損ないですか?
恐らく、この話はそのどちらでもないでしょう。
私は希望を見ていない。この身に希望なんて抱けない。夢も未来もこの視界にはない。
けれど、生きているだけ、でもないはずなのです。
出来ないことはたくさんあります。自分の身体は不良品だと思っています。
これが嫌いで嫌いで堪らなくて、生きていくのは酷く怖い。辛い。
こんなものを一生抱えてだなんて、とてもじゃないけれど生きていけない。そう思います。
それでも今日この日まで生きてきたのです。泣きながら喘ぎながら苦しみながら生きているのです。
その話を少しだけ、させてください。もしも興味を惹かれたなら、少しだけ時間をください。
誰かに聞いてほしい。どこかに遺したい。そんな経験や想いがあるのです。
なによりも嫌いな君へ。
君のこれまでの人生と、これからの話を。