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凡事徹底

作者: 即位田 多聞

 むかしむかし、ある所に凡小路ぼんのこうじという男が住んでいました。

 来る日も来る日も同じ仕事に励み、日々の雑事もきちんとこなしていました。日課表どおりに毎日を送り、眠る前、その日の予定すべてにチェックをつけるのが、秘かな楽しみでした。小路さんは、心穏やかな日々が続く事を神様に感謝しました。


 ある日の事、公園で蟻を踏み付けて遊んでいる子供がいたので、むごい事はするなと叱って、蟻を救ってあげました。子供が悪態をつきながら逃げて行くと公園には、もう他に誰もいないようです。小路さんはがらんとした公園を見渡しました。

 すると何処からか声が聞こえてきました。雑踏の中なら聞き逃しそうなかすかな声です。小路さんは、まさかと足元の地面を見やりました。その声は聞こえるというよりも、心の底に押し込められた思いが、気まぐれに意識を混乱させ、生じた幻覚なのかも知れません。


 ―― どうして私を助けたのですか。

 私は毎日毎日、同じことの繰り返しでもう生きる気力が無いのです。

この前も自販機の上から飛び降りたのですが、この頑丈な体です、ビクともしないのです。きっと東京タワーからでも死ねないと思います。

 これでやっと終われると思って、子供の前にとびだしたのに、

 ひどい人です、あなたは。


 思いも寄らない所にアリが居て、驚いた事があなたにもあるでしょ。

 あれは自ら危険な場所に赴いた私たちの仲間です。鬱陶しい日常を離れ、最初で最後の命をかけた冒険なのです。初めて生というものを実感していることでしょう。その顔は仮面のように黒く固いけれど、きっと穏やかに笑っているはずです。

 後生ですから、そっと押し潰してやって下さい。


 それから、あなた達が女王蟻などと呼ぶ、あの方ほど哀れな存在はありません。

 毎日毎日つらい陣痛に耐え、卵を産み続けているのです。しかも、暗い巣の中から一生出ることはありません。私の唯一の楽しみである陽の光を浴びることさえ、あの方には叶わないのです。自ら死を欲しながら、悲しき生を産み続ける、罪深き我々のルーツなのです。


 それでもあなたは、きっとこう言うでしょうね。

 人生の9割はルーティンワークだ。凡事を徹底すれば、

 日々が充実し心の平安が訪れ、魂が開放されると。


 本当ですか? それは、石になる事ではないですか。

 今日の午後、あなたは何をしていましたか。会社の机で仕事ですか。

 では二十四時間後、何をしていますか。同じ机で、同じように仕事でしょ。

 石と同じじゃないですか。ずっと同じ場所にある石と。

 生も死も無い、ただの石ころと。

 私たちアリの体が硬いのは石に近づいているからなのです。


 あなたの人生の大切な思い出は、凡事の中にありましたか?

 日常の記憶をいくら積み重ねても、思い出にはなりません。

 あなたの求めるものは、何なんですか?

 空疎な充実ですか。

 無駄な時間を省くことですか。

 省いた時間を、さらに凡事で埋めるんですか。


 私は何か言い返そうとしましたが、言った言葉のすべてが自分に跳ね返ってきそうで、怖くなりました。


 …… わかりました。あの方にお会い下さい。

 幾千の生を産み、生の何たるかを一番知っているあの御方に。

 さあ、私の背中にお乗り下さい。


 すると米粒ほどの蟻の姿が、見る見る大型バイクくらいになりました。

 私は言われるままに、大きな蟻の背に乗りました。


 ―― ありがとう。ダマすような事をして、お赦し下さい。さようなら。


 たちまち蟻は元の大きさに戻り、私の足の裏で何かが潰れるような感触がしました。私は足元を見つめ、おーい、おーいと大声で呼びかけました。しかし、いくら待っても返事はありませんでした。私は両手で顔をたたき、目を覚ますような仕草を何度も何度も繰り返しました。そして頬を伝う涙に気が付きました。一体いつ以来の涙でしょうか。

 ふと見上げると、いつの間に時間が過ぎたのでしょう、公園の西の空は夕焼けで、私の周りの遊具を赤く赤く染めています。遠くに見える山並みは、赤く縁どられて鮮やかさを増していました。私の影は公園の地面に長く伸びきり、今日の予定はもう取り戻せそうにありません。

 私は踏ん切るように、ため息を一つつき、重い足を引きずり公園を後にしました。


「今度の日曜、東京タワーにでも行こうか」

 夕食後、洗い物をしている妻に言いました。

「どうしたの、急に」妻は驚いて、こちらを向きます。

「気分転換。ちょっとした冒険さ」

 私はアリに言われた事が気になっていました。

「まさか、飛び降りるんじゃないでしょうね」おどけて妻がきます。

「バカ言うな。そんな事するか。オレは幸せだ」

 私は、妻の軽口に居たたまれず、むきになって否定しました。

「冗談ですよ。でも予定があったわよね、大丈夫?」

「大した予定じゃないし、ある人から言われたんだ。このままじゃ石になるって」

 妻は怪訝な顔つきをしましたが、ぐずり始めた息子をあやし、

「東京タワー行きまちゅよ、楽しみでちゅねー」

 そして、

「きっと人が、アリみたいに小さく見えるわね、あなた」


                      完

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