信長の糞 清洲編
一
その小童は小汚い身なりをして追手に掛かる橋の前をうろうろとしていた。小汚いなんてものではない、城下の百姓共でもしていないような、乞食と見間違うほどの身なりである。
しかも臭い。糞尿の匂いにまみれている。堀を渡った先にある城門の衛兵たちもさすがに困った顔をしていた。幅十間を越す堀を隔ててもなおその匂いは届いてる。しかし臭すぎて兵たちも小童の傍に行き、追い払う気にもなれない。これほど離れていても臭いのだから、傍まで行ったら卒倒しかねないだろう。もしも上役に咎められたら、門を護るお役目を放棄してまで追い払いに行くのは…と言い訳をすればいいと開き直って、半ば睨み付けるような目をして小童を見つめながらじっと立っていた。
主の命により柴田権六の屋敷まで使いに出ていた毛利新介もまた、この小童を視認するより先にそのあまりの匂いに気がついていた。 彼は乗馬を走らせ、その傍によると怒鳴った。
「童っぱ、そこで何をしておるっ」
追手の城門の方に気をとられていた小童は新介の怒声に瞬間驚いたようであったが、すぐに小綺麗な身なりをした新介に負けないような大声で怒鳴り返した。
「お侍さんはこの城の城主様かい」
新介は一瞬城門の方を見た。衛兵たちがほっとしたような、そして期待する目で新介を見ている。ここは見事に追い払ってみせるところだろう。
「儂はこの城の殿に仕える者じゃ。此所はその方のような小童の来るような場所ではないぞ、下がれ下がれ!」
毛利新介、若いとはいえさすがに戦場で鍛えた剛の者である。この小童の臭さに耐え、堂々たる気風で受け答えする。しかしこの小童も負けてはいない。
「ご城主様に仕える方か。そりゃあ都合がいいや。すんません、ご城主様に取り次いでくれろ」
「はあぁ?」
さすがの新介もこれには驚いた。この糞尿臭い小童はこともあろうか上総介様に会いたいと言っているのだ。
新介は軽蔑しきった目つきで小童を見据えると言った。
「小童っ、手討ちにされたいか。我が殿はお前のような小汚い小童になどお会いなどされぬわっ。引っ込め引っ込め!」
しかしこの小童も負けてはいない。
「小童とは非礼な。うらはこれでも家の主として、母と弟妹を養うておるわ」
小さいながらなかなかの気迫である。新介、刀を抜いて追い払おうと手を掛けたが小童の気迫に押されてそこで固まってしまった。
そのときだった。
「うるさいぞ新介。門前にて何の騒ぎじゃ」
新介よりは年嵩の声が城門のほうから響いた。大声では無い。しかし戦場で鍛えたのであろう、よく通る声だった。新介も小童も城門の方を向いた。
城門から一人の侍が出てきた。衛兵たちが挨拶をする。新介も慌てて馬を降り礼をした。 その様子に小童が声を上げた。
「お侍さん。お侍さんがご城主様か」
その侍はニコニコしながら近づいてくる。言った。
「童っぱ、殿にお会いしたいのか?我が殿に何の用じゃ」
小童は破顔すると言った。
「殿様の糞を譲り受けに来た」
柿渋色の小袖を身にまとった侍は意外そうな顔を一瞬浮かべたがすぐに笑顔に戻ると言った。
「糞をか」
「んだ。うらは糞を集めて百姓たちに売っておる。我が家はそうやって爺いの代から生きてきた」
「糞をな」
「んだ。端町の女郎屋や蔵町の商家からも買わせて貰うておる。このお侍は」
そう言って小童は新介を指さした。新介が真っ赤な顔をする。小童は意に介さない。
「このお侍はうらを物乞いか何かと勘違いされたようだが、うらのことは彼らに聞けばわかる。けして怪しい者では無いぞ」
柿渋色の侍は笑顔で答えた。
「そうか。それはこの者が失礼をした。この太田又助が詫びよう。すまぬ事をした、許してくだされ」
太田と名乗った侍は丁寧に頭を下げる。小童も慌てて土下座をすると頭をさげた。
「お、おおたさま?太田様といえば近侍衆の頭と伊賀屋さんからお聞きしておりました。困ったら太田様に相談せよと。うらは五右ェ門と申します。失礼をばいたしました」
深々と頭を下げる。年は十くらいであろうか。しかし見かけによらぬしっかりとした受け答えである。また、伊賀屋は又助が懇意にしている武具屋である。嘘にはみえなかった。
「ほほう、伊賀屋の知り合いと。では無碍にも出来ませぬな」
「しかし太田どの、相手は小童ですぞ。それも…」
新介が顔に怒気を含ませながら太田と名乗る侍に食って掛かる。
太田と名乗った侍は笑みを崩さずに返した。
「小童で悪いということはあるまい。儂も新介も元は小童じゃ」
「し、しかし…」
太田と名乗った侍は五右ェ門の方を向くと言った。
「五右ェ門どの。五右ェ門どのは商いをしに此所に来られたのだということですな」
「んだ」
五右ェ門と名乗った小童が胸を張る。糞買いという仕事に誇りを持っているようだった。
又助は言った。
「承知いたしました。五右ェ門どのの話、我が殿にはこの太田又助、責任もってお伝えいたしましょう。されど我が殿とていろいろ忙しいお方、お会いできぬ場合もあると存じるが、得心いただけますかな」
「承知」
「太田どの!」
又助は食って掛かる新介を左手で制すと続けた。と、同時に笑顔が消えやはり戦場で鍛えたのであろう冷気の漂う厳しい顔になる。言った。
「また我が殿はご気性激しきお方にて、気に合わぬと思えばその場でお手討ちにされるやも知れぬ。お覚悟はよろしいですかな」
「もとより覚悟の上」
五右ェ門と名乗る小童は真剣な面持ちで即答した。一家の主という心意気は嘘ではあるまい。又助は大きく頷くと破顔した。
「あの門番のところでお待ちくだされ。これより取り次いでまいる」
そういうと城門に向かいすたすたと歩き出した。五右ェ門と、乗ってきた馬を曳く新介が後に続く。特に新介は臭くて臭くて堪らないという面持ちで鼻を摘まみながら歩いている。不本意な思いが端正な顔立ちをふくれっ面にしていた。
一部始終を見ていた衛兵たちが救いを求めるような目で又助を見つめている。又助はすれ違いざまに小さな声で言った。
「その方たちがうまく処理出来ぬ故のこの仕儀じゃ。しばらく我慢せい」
そういうと意地悪い笑みを浮かべて奥へ進む。新介が慌てて後を追った。
「よろしくお頼み申す」
ぺこりと頭を下げると五右ェ門が彼らの足元にちょこんと座る。そして得意そうに衛兵の顔を見上げた。糞まみれのような小汚い格好と匂いをのぞけば、年相応の子供らしい五右ェ門の素顔が微笑む。その笑顔と子供特有のずる賢そうな瞳から目を逸らし、衛兵どもは自らへの罰の酷さにうんざりとした顔で頭上の青空を見上げた。鼻を摘まみながら…。
「五右ェ門どの。目通りかないましたぞ。ついてまいられませ」
四半時程経って又助が戻ってきた。新介も一緒である。相変わらず厭そうな顔をしていた。
「すまぬが御殿には上げられぬ。庭にての目通りだが許せよ」
「伊賀屋様の処でも座敷に上げて貰うたことなど一度たりとも御座いませぬ。もとより承知」
又助はニコニコしながら幾つかの木戸をくぐり抜けてゆく。五右ェ門が、続いて新介が後に続いた。
やがて小さいながらも綺麗に整えられた庭に出てきた。
「ここは…」
五右ェ門にもこの場所が城内でも特別なところだと気がついたようである。
「ここか。ここはこの城の奥座敷じゃ。我が殿が住まうておられる場所じゃ」
「近侍の儂とて滅多に入れぬ場所だ…」
新介が嘆息する。
「来たか。しかしすごい匂いじゃの、ここまで漂うてくるわ」
奥から甲高い声が聞こえてきた。又助が真顔になり今までに聞いたことも無い、低いきつい声で命じてきた。
「五右ェ門、座れ」
五右ェ門、慌ててその場に座る。その左後ろに新介が右膝を軽く浮かして座り、庭に降りる段の前に又助が片膝をたてて座った。
どかどかと足音を立てて背の高い若者が横の廊下から歩いてきた。薄汚れた半袴、右片袖のもげたぼろぼろの、使っている色だけは赤や黄色、緑などと派手な小袖。腰には傷だらけの瓢丹が三つもぶる下げられている。五右ェ門程では無いが、これもまたやはりずいぶんと汚らしい、しかしそれでいて奇抜な格好ではある。しかも廊下で歩を止めただけ、横を向いたままであるし、しかもさも臭そうに鼻を摘まんでいる…。
うつけの殿と噂には聞いていたが…。
あまりの姿に五右ェ門も呆然と眺めている。
「これ、五右ェ門、頭が高いっ」
又助に窘められた。五右ェ門あわてて頭をさげる。殿と呼ばれている男が言った。
「フンフン…、臭いぞ。又助、そちはこの儂に糞と話をせいというのか」
「糞ではないっ。糞買いだ!」
五右ェ門が怒鳴りかえす。
「こら,黙れっ五右ェ門」
背後から新介が怒鳴った。しかし五右ェ門も黙らない。
「殿は戦場にて,兵を身なりで判じられるか?」
横を向いている殿の顔が険しくなった。鋭い目がぎょろりと“糞”を睨む。
又助も脂汗を流しながら自らの主君と糞買いの子供とを替わるがわる目で追った。
主君が言った。
「糞、言ったな。その身なり、その方の戦具足というか」
相変わらず顔も身体も横を向いたままである。五右ェ門は身体を起こし、殿と呼ばれている若い、背の高い男をじっと見据えて言った。
「そうだ。これはうらの戦具足じゃ」
殿と呼ばれる若い男は首を廻し、糞買いの子供を見た。見れば見るほど小汚い身なりである。素手で汗でも拭いたのだろうか、額や髪の毛にまで糞がこびりついていた。
「戦具足…であるか」
若い男の顔に凄惨な笑いが浮かんだ。気押されぬように五右ェ門が大声でのたまう。
「そうだっ。糞買いが殿様のような…い、いや太田様や毛利様のような綺麗な着物を着て勤められるものか!」
殿と呼ばれる若者が思わず吹き出した。
「ぷははっ。又助や新介の身なりでは糞買いは出来ぬが儂の身なりであれば出来るというか、糞」
五右ェ門思わず怯む。
「い、いや…。そこまでは言っておらぬ…」
新介は口をねじ曲げて前に座る五右ェ門を睨んだ。刀に手を掛けて主君の命令を待っている。もちろん一声あればたちどころにこの小童の首を刎ねるつもりである。
殿と呼ばれる若者は身体をねじると庭の方に向き直り、ニヤニヤと舐める様に五右ェ門を見つめた。
「そうか、その成りは糞買いの戦具足か」
五右ェ門、剥きになった目つきで殿と呼ばれる若い男を見つめる。これで手討ちにされるならなってしまえで覚悟を決めた。
「そうだ。殿様には判らないだろうが、うら達糞買いには糞買いなりの戦具足があるっ」
言うだけは言った。これで首刎ねられるなら本望だ、五右ェ門はそう開き直った。
殿と呼ばれた若者が大笑した。鼻を摘まんでいた手を下ろす。
「そうか、ではもしこの城が落ちたら儂はこの格好でその方の処に弟子入りに行くが雇うてくれるか」
五右ェ門、あまりの展開に唖然とした。彼の頭の中では今頃首と胴が離れている予定だったのである。
殿と呼ばれる若い男は縁側の縁まで歩を進めるとそこに座り込んで言った。
「糞、儂がこの尾張半国の主、上総介信長じゃ。その方、名はなんと申す」
「ご、五右ェ門」
「そうか五右ェ門、よき名じゃ。近う寄れ五右ェ門」
五右ェ門は何が起きているのか飲み込めずにきょとんとする。又助が言った。
「殿のお許しが出たのじゃ。前へ出でよ」
「え?えっ」
五右ェ門が前に進む。信長が笑いながら言った。
「しかし、本当に臭いのう。五右ェ門、その方歳は幾つじゃ」
「十二」
「十二。まだ子供じゃの、父御はどうした」
「昨年の戦いで討ち死にしましたら。故にうらが父に替わって一家を食いつながせておるら」
「昨年…浮野の戦いじゃの」
信長が遠い目をする。
「で、糞買いを継いだのか」
「んだ。うらはお父が死ぬ前から手伝うておった故」
五右ェ門がやや項垂れる。信長が微笑みながら言った。
「いかさま、筋金入りの糞買いじゃな。…なるほどその姿、戦具足である。見事じゃ」
そう言って大笑した。新介が刀の柄から手を離した。どうやら手討ちにはしなくてよさそうな雰囲気になってきていた。新介自身、五右ェ門とずっと共に居たせいか、糞尿の臭いももはや気にならなくなっていた。
「で、何故に我が糞を所望する。糞を貰うて何をするのじゃ」
「百姓に売り渡し申す。殿様とて、糞が田畑の肥料となっていることくらいご存じじゃろうが」
五右ェ門、真顔で返す。
「知っておるぞ。しかし糞なら誰の者でもよかろうに、なぜ儂のが欲しい」
「高く売れるから」
「ほう?高く売れる?なんでだ」
五右ェ門、品定めするような目つきで信長を見上げる。言った。
「うらはまだ子供だ。見ての通りだ」
おう、と信長が頷く。
「お父が一日に二度も運べばよかった糞が,うらが運ぶと日に三度かかる」
信長は興味深げに聞いている。
「うらとお父と二人で運んでいた時の量を運んで売ろうとすると、うら一人では日に五回じゃ。こんな回数とてもうら一人には運べない」
又助も新介も興味深げに聞いている。このやせ細った小さな子供が大きな肥桶二つを天秤棒に担いで運ぶ姿を想像し、その労苦を思いやった。又助も新介も、同じ年齢の頃は朋輩の者たちと遊びのような修練のような棒振り(もちろん戦で手柄を立てるための修練なのだが)や武士としての手習いしかしていなかったことを思い出した。五右ェ門が続ける。
「…つまり、うらの家の儲けは少なくなってしまったわけじゃ。戦で死んだからと言ってその後の家族の暮らしのことまでお侍が考えてはくれぬからな」
「で?」
信長が問う。
「うらは考えた。糞が高く売れるなら、量が少なくてもお父がいたときと同じ銭が稼げる。ですよね、殿様」
「ふむ、よう気づいた。その通りじゃ、五右ェ門。だがしかしそれが儂の糞とどう繋がる」
「殿様の糞は高く売れますら」
「何?それはどういうことじゃ」
信長が五右ェ門の顔を覗き込むように見つめる。世にも面白い話を聞いたという顔つきである。又助もつられるように五右ェ門の方へ身体を乗り出した。
五右ェ門が言った。
「殿様は領民に好かれておりますら」
「ほう、であるか」
素っ気ない返事だったが信長、ややうれしそうな顔つきになった。
「五右ェ門、何故にそう思う」
「殿が“うつけ者”でございます故に」
新介がむっとした顔になり、再び柄に手を掛けて鯉口を切ろうとした。又助もまずいという顔で五右ェ門を見た。
「ぷっ」
信長が吹き出した。次第に笑いは大きくなり、止まらない風情である。彼は笑いながら右手を開いて延ばす。新介を制したのだ。どうやら彼はこの糞買いの小僧をえらく気に入った様だった。
「ほう、うつけは人に好かれるか」
「殿様は民百姓のお味方だと、国中みな噂しておりますら」
「面白い話じゃの。この儂がか。尾張一国すらまだ我が意のままにもならずにおるものを」
信長がうれしそうに五右ェ門を見つめる。五右ェ門が口を開いた。
「うらも仕事がら多くの人の話を聞く。もちろん他国の商人の話も多いら」
「おう」
「稲葉山のお殿様は領民思いじゃが、家臣どもが廻りを取り囲み、けして民がお会いできることが無い」
「ほう…」
稲葉山の斉藤義龍は上総介にとっては妻の兄でありながら仇でもある。いつかは倒したい相手だった。
「駿府の今川様は、御領内をよく歩かれるがご自分のことばかりで民は迷惑しておる」
駿府の今川治部太夫義元が最近領内を巡察しているのは彼も聞き知っていた。また、近々西上のための兵を挙げるのでは無いかという噂が流れていることも知っている。信長は彼が西上の軍を起こす前に尾張一国を統一しこれに抗さねばならないと感じ、策謀している処だったのだ。
「しかし、殿様はうらの様な端下の者にまで垣根無く接される。うらの様な者の話も聞いてくださる」
信長は真顔になる。言った。
「それらをかなえてやるとは言っておらんぞ」
五右ェ門はにっこりと笑って答える。
「かなえられぬとて我らの話を聞いてくださった、我らと共に在ってくださった。そう我ら領民が思うだけでも、殿を我ら領民は親しく感じるのら」
又助は頷いている。以前、主君の供で古渡の外れまで行ったとき、村総出で田植えをしている処に出会った。するとこの若い主君はいきなり馬から降りると腰の刀を道ばたに放り投げ半鞋を脱ぎ捨てて田に入り、農家の女房衆に交じって田植えを手伝い始めたのである。止める暇も無かった。馬を立木に繋ぎ、脱ぎ捨てた鞋をそろえ、主君の刀をその側に置いたとき、気になったのであろう、農民の一人が訊ねてきた。
「あの吉どのとはどなた様じゃ」
その農民の指し示す先に、他の農民どもと楽しげに語らいながら苗を植える信長の姿があった。
「ご領主、上総介様じゃ」
些かあきれ顔で又助が答える。驚いたのは訊ねた農民だった。
「ひっ、ひぇぇ」
その場にへたへたと座り込む。
「どうした」
そう訊ねた又助に初老の農民が答えた。
「あの殿様は童の頃からこの時期になると現れて我らの手伝いをされているのじゃ」
「なんと」
「吉どの、いや殿様とは恐れ多いことじゃ」
そう言うと初老の農民は田の者達に大声で伝えた。
「村衆よう聞けっ! 殿様じゃ。吉どのは我らが殿様じゃ。大変なことじゃ」
声が裏返っている。よほど動転しているようだ。おそらく巷に流布されている気分屋で乱暴者、気に入らない者をすぐに手討ちにする暴君だと聞き及んでいるのであろう。その噂はあながち嘘では無い。実際気に入らないと手討ちにされた者も多いのだ。田の中の農民達は慌ててその場に土下座する、と言っても田んぼの中だ。皆次々に泥の中に顔を突っ込むことになった。さらに慌てたのは信長本人である。
「又助ぇ!」
怒鳴った。
「この愚か者がぁ。これではこの者達に迷惑したではないか!」
そう言うと周囲の農民ひとり一人に手を掛け、起こしだした。しかし起こされた側は慌てて又再び泥の中に伏せようとする。ついに主君が切れた。
「今より土下座したる者は皆、手討ちに致す」
あまりの剣幕に次々と農民達が顔を起こす。信長は満足げにそれを見渡した。しかし、まだ突っ伏したままの者がいる。信長は苦笑いするとその傍に歩んだ。手を伸ばすと泥の中から引き上げる。まだ十に満たない子供だった。抱きかかえる。目を瞑ったまま子供はぶるぶると震えていた。
信長はその子の頬を人差し指でつつくと、その顔を覗き込んだ。子供が恐る恐る目を開く。泥撥ねが農民達と同じように顔に付いた若い笑顔がそこにあった。笑顔が悪戯っぽい目をして言った。
「その方、我が命に従わぬ故、手討ちに致す」
そう言うと信長は人差し指で子供のおでこを軽く叩き、大きく笑いながら傍らで震えていた母親らしき人物に子供を手渡した。
「成敗致した。以後このような大げさな礼は不要と致す」
周囲を見回しながら彼は言った。
「儂は今まで通り、糞ガキの吉じゃ。堅苦しいしきたりなぞ不要じゃ」