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【夢視の少年】

夢視る深海魚と死んだ珊瑚

作者: 輝咲

 少年は溺れる、夢に。

 息を止めて静かに浮かぶ。

 視界に映るのは、

 マリンブルーの揺らめく分厚い壁と

 歪な形をした骨。


 少年はふと悲しくなって手を伸ばす。

 涙は零れない。

 代わりに口から大きな泡が、

 二つ三つ零れた。


 □■□


 カツンコツン、と夜の校舎に硬い足音が響く。

 昼の喧騒はまるで嘘のようで、足音以外の波紋は何一つ無い。静寂だけが校舎全体を包み込んでいた。

 僕は知っている。ここは夢の世界であると。僕の脳内で創られた夢想の世界――現実には存在しないこの異空間が僕にとって唯一の居場所だった。

 外の世界は怖い。外的なダメージならまだ耐えられるが、精神的なものにはどうしても限界がある。人間はきっとそっち方面の痛みに対する耐性が無いから、簡単に壊れて狂ってしまうのだろう。だから僕はそうなる前に逃げてきた。「僕」という人格が崩壊しないうちに。

 月明かりに照らされた(くら)い廊下を歩く。ここに居られる時間は限りなく少ない。目的のない闊歩だけど意味はある。


 ――現実逃避。


 それが、僕がここに居る理由だ。その他に何もない。ひと時の安らぎが欲しいがために、僕は自分で創った異世界に籠っている。

 同じような教室を幾つも通過して、ふと僕は顔を上げてある教室に視線を向けた。

 なぜかそこの教室だけは仄かに青白い光に包まれていた。今まで見たことのない不思議な光景に目を惹かれ、僕は吸い込まれるように歩いていき、淡い光が漏れているその教室の前に立ち止まる。そして、僕の心臓は大きく跳ね上がった。


 ――例えるなら、それは精巧に人の形を模った蝋の塊だった。


 一人の少女が窓辺に佇み、星の無い空を見上げている。遠目からでも分かるほど、少女の姿は常軌を逸していた。

 絹のように滑らかな長い白髪を靡かせ、衣裳(ドレス)のような純白のワンピースを纏っている。華奢な身体から伸びた手足は骨のように細く、透明感のある肌は酷く白い。

 全身白で統一された少女。僕の美的感覚がおかしいのか、それが美しいと僕は思ってしまった。

 まるで――そう、死んだ珊瑚みたいに真っ白だったから。

 ああ、そうか。思い出した。

 幼い頃、海中で視た白い珊瑚とそっくりだ。記憶の片隅に残っていたあの美しさがここに現れたということか。


 僕の創った世界に異質な少女が一人、(しず)かにこの教室を支配している。


 怖くはない。ただ、「素晴らしい」という単語が頭に浮かぶ。怪異的かつ魅力的な存在感が僕の心を激しく揺さぶった。

 優しい夜風が教室に吹き込む。その度に彼女の髪とワンピース、そしてカーテンがゆらゆらと不規則なリズムで音も無く揺れる。


 ――ここは水槽だ。海の底に似た、辛うじて光が届く不純物の浮かない透明な世界。


 幻想的な光景だ。木とコンクリートで造られたただの教室でしかないのに。海の中を遊泳しているような冷たさと静けさの心地良さが、廊下にいる僕の身体にも染み込んでくる。

 普段なら見ることのないその美しい景色に僕は暫く見惚れていた。

 何秒――いや、それよりももっと長い時間立ち尽くしていたかもしれない。僕はよしておけばいいのに、どこからか湧いてきた好奇心に負けて、つい声をかけてしまった。


「貴女は誰?」


 緊張のせいか少し上擦った声が教室や廊下に反響した。

 ふわりと靡く長い髪を耳にかけながら彼女は振り返る。

 彼女の瞳は深い紅色だった。向こうの世界ではまず見かけることのない珍しい色だ。見ているだけで引き摺りこまれそうになる。それと同時に奥深くにある僕の心を覗かれているような気がして少し怖い。(うなじ)の毛がぞわっと逆立つ。それには蠱惑的な美しさと危なさがあった。

 色素の薄い唇を開き、彼女は初めて声を出す。


「……君は誰?」


 質問を質問で――しかも僕と同じ問いかけを投げ返してきた。きっとこの世界が無音に近いお陰だろう。距離が離れているのにも関わらず、彼女の声は僕のところまで届いた。

 硝子のように透き通った声が僕の脳を痺れさせる。夢の中の世界なのにここまではっきりとした感覚がするのは初めてだった。頭の思考回路が麻痺したまま僕は答える。


「……僕は■■■」

「■■■? 変わった名前だね」


 僕は苦笑した。(カタチ)(オト)の無い名前。悲しいことに、この名前には何の思い入れが無い。正直どうでもいい事柄だ。

今度は僕が聞き返した。


「私? 私は……」


 そこで彼女の言葉は途切れた。いくら待っても答えが返ってこない。どうしたのだろう? 僕がそう訝しんでいると彼女は目を伏せた。


「分からない……いや、知らないのかな? 自分の名前がさ」


 僕は首を傾げた。彼女の言っていることがいまいち理解できない。名前が(わか)らない? そんなのは記憶障害でない限りあり得ない話だと思っていたが。


「記憶が、無いの?」

「違う。そっちじゃない」

「そっち?」


 どういう意味なのだろう。「そっち」でないということは記憶があると捉えていいのか?


「そう、そっち。記憶が無いんじゃなくて名前自体が元から無いの」


 いい加減頭がこんがらがってきた。彼女の言葉は少し理解しにくい。というよりも、元々僕の頭が弱いせいかもしれないが。


「……名前が無い? どうして?」

「さあ? なんでだろうね。私が聞きたいぐらい」


 彼女はそう言って小さく肩を竦めると、近くにあった机の上にちょこんと腰掛けた。依然として彼女の表情は乏しく、何を考えているのかさっぱり分からない。

 僕も小さく溜め息を零す。夢の中なのだから余計な思索はやめよう。そういうのはあっちの世界だけで十分だ。たとえ名前が無くとも会話はできる。


「――ねえ」


 一番したいことをすればいい。嫌なことは忘れて、好きなことを本能に従ってすればいい。それがこの世界での――僕が勝手に創った約束(ルール)だ。


「そっちに行ってもいい?」


 彼女の居る空間に僕も入りたくなった。同じ空気を共有したくなったのだ。

 こことあそこを大きく隔てるのは開け放たれた見えない扉。数歩前へ踏み出せば何の障害も無くそちら側へ行ける。だけどそれにはなぜか彼女の了解が必要だと思った。


「別にいいけど来ない方が身のためだと思うよ」

「どうして?」

「だって、君が居る所と私が居る所は違う世界だもの」


 いよいよ彼女の言っていることが分からなくなってきた。何を根拠にそんなことを言っているのだろう。

 ここは僕が創り上げた世界である。廊下も教室も僕の脳にある記憶を元に創られたものだ。この幻想的な風景だって、彼女の存在だって僕の創造物にすぎない。

 だけど、ある疑問はずうっと頭の片隅に引っ掛かったまま。

 彼女がそこに居る意味とは――?


 ――ズキン。


 ああ、駄目だ。深く考えようとすると頭が痛くなってきた。ついさっき、無駄に頭を使うのはやめようと心に決めたばかりではないか。学習能力の無い脳だな、と思わず心の中で自嘲してしまう。


「そっちに行ったらどうなるの?」

「さあ? どうなるのかな?」


 彼女は口角を上げて小さく笑った。外見とは裏腹の、幼げさを無くした冷たい笑みだ。それでも初めて人間らしい表情を浮かべた彼女を見て悪寒が走り抜けた。容姿だけではなく中身(せいかく)もかなり変わっているようだ。

 それにしても、彼女とはイマイチ会話の歯車が噛み合わない。どこかズレている。まあそれも夢の中なので、仕方ないことだろうが。

 彼女は寄り掛かっていた机から離れ、ゆらりゆらりと踊るように教室の入り口前まで歩いてきて立ち止まった。僕と彼女の距離は互いの手を伸ばした程度。教室と廊下の境目を中心に対峙している。

 近くで見る彼女もまた美しかった。雪のようにきめ細かい滑らかな肌の上に、血の如く黒い深紅の瞳。それに見つめられるとやはり心が騒ぐ。首も細く鎖骨がくっきりと浮き上がっており、青白く浮かび上がる素足もまるで現実感が無かった。


「試しに手を伸ばしてみたらどう? まあ、身の安全は保証しないけど」


 口端には相変わらず笑みを浮かべている。しかし瞳は冷たく僕を見据えたままだ。怖くはないが心に痛みが走る。

 好奇心というのは尽きないものらしく、僕はそうっと、ゆっくりと、手の先をあちら側へと伸ばした。指先が境界線を通り越す――。


「――ッ!?」


 肌に違和感が生じた。それは多分、「痛い」の方だ。僕は弾かれるようにして素早く手を引っ込めた。

 目の前の空間には何もない。あるとすれば、それは色も形もない透明な空気。つまり害の無いモノ。なのになぜ指先がじんじんと痺れているのだろう。特に外傷などは見当たらないのに。


「ほら、言ったとおり。君と私は棲む世界が違うもの。身体が拒絶反応を起こしてもおかしくない」


 少し呆れた様子で彼女はそう言った。まるでそうなることが最初から予測できていたかのような言い方。僕はなんだか悔しくなって言い返す。


「分かってたのなら先に言ってよ。それに何? 僕と貴女の棲む世界が違うって。僕と貴女は一緒の――」

「違う」


 彼女は首を横に振り、僕の言葉を遮って言った。紅いその瞳は先ほどよりも色褪せているように見えるのは気のせいだろうか。


「全然違う。棲む世界も居るべき場所も存在価値も何もかも君とは違うの。そろそろ君も気付いたらどう? ううん、それこそ本当の間違いかもね。

 いい加減、認めたらどうなの? ここは君の居場所じゃないってさ」


 ドクン、と心臓が大きく跳ねた気がした。彼女の言葉を反芻する。


 ――ここは君の居場所じゃない。


 どうして彼女は僕がここに居る者ではないと知っていたのだろう。確かに彼女の言ったことは間違っていない。むしろ正論だ。僕はここの住人ではないのだから。本当の棲むべき世界は別にある。だが、あそこは……。


「見てみなよ。もう君の後ろまで闇が近づいてきてる」


 僕は自分が歩いてきた廊下に視線を向けた。夢の終わりを告げる闇の襲来。闇は目を背けたくなるほど毒々しい色彩をしている。それが僕の足元の近くまで迫ってきていた。これに呑み込まれると強制的に夢から覚めてしまう。その時の目覚めの悪さと言ったらもう、思い出すだけで吐き気がする。


「……僕はここに居たい」


 身体は一刻も早くここから動きたいとウズウズしているのに、頭の中ではまだ納得がいっていなかった。

 我が儘を言うのであれば、彼女と同じ世界に棲みたい。彼女と同じ空気を共有できたのなら、それはきっと居心地の良い空間になるだろうから。

 でも身体はそこへ入ることを拒んでいる。心と身体――互いに望むことが違う。おかしい。どちらを優先すべきなのかが分からない。

 僕は――!


「――ッぁ!」


身体をあちら側に居る彼女に投げ捨てた。視界がぐにゃりと捻じ曲がる。

痛い、熱い、痒い、寒い、怖い――痺れる息と零れる泡。凶暴かつ暴力的な痛覚の洪水が僕の脳と身体を呑み込む。弾ける熱と凍える骨に重ねて呼吸までもが生きていない。眼球の裏が酷く(いた)む。

 苦しいけれども心地良い、そんな矛盾した感覚は夢の中でもはっきりと刻まれていく。

 彼女は避けることも倒れることもなく僕を優しく受け止める。

 氾濫する感覚の情報に埋もれながらも、耳元で囁かれる言葉は鮮明に聞き取れた。


「なんて愚かなの。自らこちら側へ飛び込んでくるなんて、これじゃ自殺行為となんら変わりない。君は死にたいの?」


 これが拙い頭で考え出した答え。身体の意思を無視し、自身を痛めつけてまでの行動を僕はやってみせた。お陰で否定しようにも首は動かず、声すらも出なかった。きっと筋肉が硬直しているせいだろう。

 ただ――自分が馬鹿馬鹿しいと嘆いてしまいそうになるほどに、僕は満足感と高揚感に浸っていた。息が詰まって呼吸もままならないというのに。笑いだけが込み上げてくる。


「ああ、息すらできてないの? このままだと窒息死してしまうね」


 酸素が足りてない頭で辛うじて感じ取れたのは、彼女の笑い声と唇に触れた柔らかい何か。

 朦朧としていた意識が一瞬にして覚醒する――。

 クリアになった視界にまず映し出されたのは、彼女の細い眉と瞼。僅かに開かれた瞼からは紅い光が零れており、少し潤んでいるようにも見える。呑気なことに僕はそんな彼女を見て、悲しそうだなと思ってしまった。

 唇から伝わる感触(ねつ)と全身を駆け巡る血流(ねつ)

 それらが一体どういった意味を成しているのか僕には分かった。

 彼女の唇が僕から離れる。身体を引き裂くような痛みはだいぶ和らぎ、背筋に走る寒気も無くなった。呼吸がつらいができないこともない。


「やっぱり君はここに居るべきじゃない。早くあちら側へと帰った方が良いよ」

「でも……僕は、ここに居たい」

「無理だよ。君はこの世界で生きてはいけない。必ず破滅が待ってるから」


 掠れた声で絞り出した言葉も彼女には届かなかったようだ。どうしてここまで否定され続けているのだろうか。僕にはさっぱり理解ができなかった。ここは僕の創った世界だというのに。創造主は僕だというのになぜ?


「――さようなら。もう会わないことを願ってるよ」


 両肩に添えていた手を放し、彼女は僕を突き飛ばした。ドン、と思っていた以上の力で押される。

 背後で待つのはあの闇。バランスを崩した僕はきっとこのままそれに呑み込まれるだろう。そう、独りで。あの毒気の強い闇に独りで喰われるなんて、考えるだけで涙が溢れ返ってくる。死という概念を知らない僕だが、あれは死の感覚に近いと思う。呑み込まれる寸前は怖くて、寒くて、悲しくて、何よりも孤独で――寂しい。

 しかし、その感情が生まれた頃にはそれに呑み込まれ、何もかもが無になって向こうの世界へと還る。結局は何も無かったことになるのだ。それでも記憶にはその一連の感情が残ってしまう。だからあの闇は恐ろしい。

 せめて夢から覚める瞬間だけでもいいから彼女と居たいと思ってしまった僕は、反射的に彼女の手を掴んでいた。彼女は目を大きく見開いて僕を見る。果たしてそこに僕は映っているのか、この状況では分からない。

 僕の身体が教室から放り出され、掴んだ手がその境界線を越え――僕の手は何も無い空気を握る。ふわりと、握った手からは白い粒子が逃げていく。

 つい先ほどまで僕と繋がっていた彼女の手は無い。正確に言えば、消えた。その手が教室の外に出た途端に、音も無くに(しず)かに。儚く崩れることなく、光る粉となって僕の眼前を通り過ぎていった。

 彼女は驚いた様子で生き残ったもう片方の手で扉に寄り掛かり、こちら側へ落ちることを免れた。そして、手首から少し上を失った腕を見て微笑(わら)っている。

 不思議なことに出血はしてなかった。断面図を見ても肉や骨は無く、本物の蝋燭のように真っ白だ。


「ごめんね」


 彼女がそう謝る頃には、僕は背中から闇に包み込まれ始めていた。闇のクッションに背中を支えられるようにして沈んでいる。何も感じない。只々、瞼が重たいだけ。徐々に彼女の姿を捉えられなくなる。


「私はそちら側へ行けないの。私はもう――」


 最後まで彼女の言葉を聞き取ることはできなかった。ついに聴覚も正常に働かなくなったようだ。プツン、と機能がシャットダウンする。僕自身が息をしているのかさえも曖昧だ。肉体と意識が分離し始める。

 僕の右手が勝手に動く。彼女に救いを求めるように手を伸ばす。

 届かない、彼女の元まで。届くはずもない。分かっていたけれど。それでも僕は手を彼女に手を差し伸べる。

 瞼が重い。視界がぼやける。水の中に居るような景色が広がっている。水面がゆらゆらと揺れている、そんな感じ。その中に居るせいだろう、彼女がどこに居るのか分からなくなってきた。立っているのか浮かんでいるかそれすらも。


「――――」


 僕か彼女か、どちらが言葉を紡いだのかは分からない。

 視界が泡に包まれる。身体が闇に呑まれる。

 いつしか、景色は真っ暗になって――。


 僕は、夢から(めざ)めた。



終わり


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