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召喚前夜

 がたんごとん、がたんごとん、がたんごとん。

 電車は規則正しく、走っていく。

 みっしりと詰まった人々は、ひどく静かだ。

 座席に座った人達は、よほど大事な事が書かれているのか、スマホに目を落としたまま。

 ブタ箱の方が過ごしやすいであろう電車の中、上から引っ張り上げられるわけでもないつり革にしがみつく僕達。

 スーツの背中に感じる生温い重さがひどく厚かましかった。

 周りに嫌な顔をされながら揺すってはみたものの、生温い重さはぴくりともせず規則正しい寝息すら感じる。

 これがまだ愛らしい女性の香りなら救いはあるが、酒と混ざりあったおっさんの体臭なものだから本当にどうしようもない。

 流れていく景色は、嫌になるくらいに天気がよかった。

 こんな日にぼんやりと散歩でも出来ればな、とは思ったけれど今日がもし休みだったのなら、僕はきっと寝て過ごすだろう。

 昔、学生だった頃、二つ上の先輩に社会人になればゲームも本も触らなくなる、と言われた事があったけれど、僕はそんなはずはないと笑っていた。

 動かない活字を少しなぞれば、頭の中には登場人物達が生き生きと動き回って生きていたのだから。

 読まないという事は、彼らの人生を止めるという事だ。

 今では、生き生きと動き回るキャラクター達がひどく辛い。

 三十路まであと五年、四捨五入すればもうアラサーのお仲間だ。

 それでもまだたったの二十五歳、定年まで四十年。

 あまりに愕然とする先の長さだった。

 あと四十年、こうやって電車に運ばれ続けるのか。

 いや、我が愛するブラック弊社が四十年生き残るとは、これっぽっちも信じられないし、ある日いきなり潰れて路頭に放り出される方が早いだろう。

 どうせ今日も終電で帰れればマシで、下手をしなくても三枚重ねのダンボールが僕の寝床だ。

 昔は冗談だと笑っていたあれこれが、こうして現実に堕ちていく光景は、いっそ愉快ですらあった。

 初めてダンボールに横になった時は疲れ過ぎてて、キャンプみたいだ、なんて変な笑いが出たくらいで。

 今では笑い合った同期は、もう一人もいない。

 かといって何となく逃げるタイミングを逃してしまったせいで、今さら辞められもしなかった。

 実際、辞めてもいいとは思う。

 どうせ誰かが辞めた所で、すぐに代わりの生け贄が入ってくる。

 僕に仕事を教えてくれた課長が倒れた時も、その席はあっという間に埋まってしまった。

 それなりに長く勤めていた僕が抜けた所で、大して困りはしないだろう。

 世界に一つだけの花だろうと、似たような物は何とでもなる。

 代替不可能な物なんて、僕は知らない。

 作っている物だって、うちの会社が潰れた所で別な会社がすぐに取って代わるだろう。

 それでも、辞めた所で僕に何かしたい事があるわけでもなかった。

 僕の未来は真っ白なキャンパスと言うには、少しばかり薄汚れている。

 それでもまだ描けないわけじゃないはずだけれど、一体何を描けばいいのかさっぱりわからない。

 今の現状は嫌だけど、何も見えない所に飛び込んでいくのは、ひどく怖かった。


「いっそ何もわからないくらいに、遠くへ行きたい」


 そう呟いたのは深い考えがあるわけでもなく、ただの逃避でしかなくて。











 



 ここではないどこかへ行きたい。

 そう思うのは、きっと俺だけじゃないはずだ。

 例えばテストで悪い点を取った時、好きな子に告白してフラれた時などなど。

 健全な高校生なら誰でも当たり前のように、遠くへ行きたいと思う事はあるだろう。

 誰だってそうに決まってるさ、今の俺のように。


「ドバババババ!降りしきる雨のように迫る弾丸のすべてを俺は華麗に避ける!」


 スーツ姿の中年の男が、銃を持つような手付きで熱演する。


「あの」


「ズバン!ドバン!ガシャーン!俺の一子相伝の古武術が火を吹き、テロリスト達はどさどさと倒れる!」


「あの、本当にやめてください。お願いします」


 男の、先生の表情はあくまで真顔だった。


「国語の教師としてアドバイスするなら、擬音が多すぎる。あと擬音と、その後の結果が繋がってない。ガシャーンなのに、どさどさと倒れるっておかしいだろ」


「はい、本当にすみませんでした。勘弁してください」


 疲れたようにぎぃと音を立てたパイプ椅子と同じような表情を浮かべた先生は、一転して真面目な声音で、


「どうする?二ヶ月くらい休むか?」


「そこまでですか!?……七十五日で噂消えますかねえ」


「……無理かな。いや、からかわれてお前が耐えきれるならいいけどさ」


 俺の高校生生活は、どうしようもないくらいに詰んでいた。

 陽気に誘われて、つい授業中に寝てしまうのは健全な高校生なら、むしろ当たり前と言ってもいいはずだ。

 その時、つい寝言を漏らす事だって、滅多にはないが、あるだろう。


「……俺も長年、教師やってきて色々あったけど、寝言で自作小説読み上げた奴は初めてだよ」


「ですよねえ!」


 それも学校にテロリストが来たら、というお約束だよ!

 一子相伝の古武術どころか、通信教育の空手すらやったことないよ!

 

「その、なんだ……早めに止められなくてマジでごめんな」


「先生は悪くないです……」


 どうやら俺は三十分くらい延々と寝言を言っていたらしい、それも真面目な委員長が朗読するような大きな声で。

 あまりに堂々とした俺の寝言は、教室に沈黙をもたらしていた、らしい。

 寝てて記憶にないが。物凄いぐっすり寝てた。

 誰か止めろよ、と思わなくもないが、いきなり寝てると思っていたクラスメイトが大声で自作小説を読み上げ出したらリアクションに困るだろう。

 チャイムの音で目を覚ました俺が見たのは、何とも言えない表情を浮かべたクラスメイト達だった。


「どこか……遠くへ行きたい」


 誰も俺を知らないような、遠い所へ。

 またはいっそ殺してくれ。










 月は見えなかった。

 無味乾燥の灰色が暗闇で塗り潰されたビルの林は、影絵のようで可愛らしい。

 なのに、ここに月がないのは、どうしようもなく足りていなかった。

 もう少しだけ時間がズレていたら月が見えていただろうに、何とも言えない物足りなさを感じてしまう。


「あっ」


 抜き差しすれば、声が漏れた。

 それは反射的な声だ。

 淫靡な音を立てる液体は私のお腹をきゅんとさせ、おじさまのぽっこりと出たお腹に愛しさすら感じてしまう。

 煙草と酒の入り交じる体臭すら、今なら丸ごと愛してしまえそうだ。

 おじさまの腹に、舌を落とした。

 鼻を抜ける鉄の香りと、舌先を痺れさせる僅かな塩味は長ったらしい名前をしたコーヒーショップの飲み物よりも、判子みたいに男が連れて行きたがるフレンチなんかよりも遥かに美味しい。

 ぺろぺろと動かす舌は、まるで性器になったみたいに敏感で、抜き差しするナイフはまるで……ってさすがに処女の身としては照れがあるね、うん。

 肉を貫く感覚が、安っぽいナイフの柄を通じて私の全身にビンビンと伝わってくる。

 これはもう実質セックスだと思う。

 処女だけど、セックスしてる。

 セックス、めっちゃヤバい。


 だからこそ、この光景に月が欲しかった。

 影絵の街に浮かぶ真っ青な月光が、この真っ暗な路地裏を霧雨のようにそっと湿らす。

 それはどうしようもなく、綺麗な光景に違いない。

 影絵の街は嫌いではないけれど、ソースが皿のど真ん中に居座っているのに、お肉がどこにもないような気分になってしまう。

 おっさんの懐から写真が零れ落ちた。

 多分、家族の写真だろうか。

 ごめんね、娘さん。私、あなたのパパも実質上セックスしちゃったの。

 でも、あなたもきっとこの光景を見れば、許してくれると思うわ。

 

「いやまぁさすがにそれはないけどさ」


 自分のやっている事は、私は自覚出来ている。

 私は頭のおかしいイカれたサイコで、殺人犯だ。

 まだ一人目で、この名前も知らないおじさまに初めてを捧げたわけだけれど、この光景を見て他人がどう思うかくらいは想像出来る。

 何やら暗い過去があるわけでも、イタズラされたわけでもなく、ただなーんとなく私は狂っていた。

 血と臓物の臭いなんて腐った生ゴミよりもひどい臭い、なのに私にすればちょっとお高いブランド物の香水よりも好ましい。

 ただ単純に、私はそういう物が好きで、最初からぶっ壊れていて、今日決壊してしまった。

 これまで結構頑張って我慢してきたんだけどなー。

 これでも頑張って、落ちている軍手に舌を這わせるような気分でふつーの生活って物を頑張ってやってきたわけなんだけどね。

 決壊した私は肉にナイフを抜き差しする。

 その感触は、それこそ触らないままどこまでもイってしまいそう。

 今の私はどんなにひどい顔をしているのだろう、と気になったから自撮り自撮り。

 いえーい、ピース!

 ……口の端からヨダレ垂れてて、いっそ冷めたわ。

 いやでも、初めての記念だから、あとでパソコンに保存しておこう。


「……あー」


 少し冷めた頭で空を見上げれば、そこには何もなかった。

 キラキラ光る星なんて、都会生まれ都会育ちの私は見た事もない。

 落ちてきそうな大きな月どころか、かすかに見える小さな月しか私は知らない。

 それはどうにも寂しくて、


「遠くへ行ってみたいなあ」


 大きな大きな月が見える所へ。












 男は、星を見ていた。

 それは閉じられた天蓋の空ではなく、地面を走る星だ。

 色とりどりの、だが一つとして鮮やかな色の無い、ひどく濁った星々だった。

 連なる星々は、どこへ向かうわけでもなく、ぐるぐると回り続ける。

 男は、太陽を見ようとはしなかった。






 その日、何人かの願いは、どうようもない形で叶えられた。

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