前編
京太郎は感激した。
有名な太宰治の著書、走れメロスの冒頭は『メロスは激怒した』で始まる。俺がこの物語を読んだ感想を走れメロスにならって書くならば、冒頭はこうなるだろう。
ピンク色の大学ノートに紡がれた物語は、それほどまでに俺の心を強く打っていた。
「身近に、こんなのを書ける奴がいたなんて……」
このノートを拾ったのは偶然だ。
曲がり角でぶつかって、たまたま二人とも鞄のチャックが空いていて、中身が混ざった。家に帰ってきてからノートが一冊多いのに気がついて、中身を見てみたら小説が書いてあって、気まぐれで読んでみたら読破してしまった。
ただのクラスメイトの一人としか思っていなかった少女の顔が思い浮かぶ。俺は無性に彼女と話がしてみたくなった。この物語について、一晩中でも語り明かしたかった。
明日、声をかけよう。どっちにしろこのノートは返さないといけないし。
俺は、久々に興奮の収まらない胸を抑えつつ、ノートを閉じた。
翌日、昼休み。自分の席で弁当をかきこむ俺の前に、友人の立花宏隆がやってきた。
「よ、京太郎。一緒にいいか」
「なんだ、今日は早海と一緒じゃないのか?」
「まぁな」
空いてる俺の前の席に座って、宏隆はパンを頬張る。一緒していいかどうか訊いてきたのに俺の返事を待つ気はないらしい。早めに食べて、ノートを返しに行きたかったのだが、昼休み中は諦めた方がよさそうだ。
「京太郎、今日も部活は来ないのか?」
「……ああ、まだ書けてないからな」
「そうか」
メロンパンを咀嚼し、飲み込んでから、宏隆は続けた。
「わかってるとは思うが、来月だぞ」
「ああ、それまでにはなんとかする」
「頼むぞ、練習も始められないんだ」
それもわかってはいる。だが、こればっかりはどうしようもないのだ。書けない時は書けない。そういうものだ。その辺は、この友人には絶対にわかってもらえないだろう。
俺は、宏隆と会話をしながら、ふとあのノートの持ち主の事を考えた。彼女にも、今の俺みたいな時期があったりするのだろうか。もし、いいスランプ脱出法があるなら教えてもらおう。
「そういえば、京太郎。さっき内田さんが探してたぞ」
「……なんだって?」
「いや、用事は知らん。教室に居るとは言ったんだが、なんか恥ずかしそうな顔してどっか行ってしまった」
「宏隆、ちょっと用事、思い出した。行ってくる」
「え、おい京太郎!?」
しまった、俺はバカか。
自分の書いた小説を人に読まれて、何にも思わないわけがない。居場所を聞きながらも、会いに来れないほど恥ずかしい思いをさせているなら、できるだけ早く返してやるべきだ。
「内田、ここじゃ話しにくいから図書館行くぞ」
「え、京太郎く、きゃあっ!」
ドアの影からコッソリ俺を見ていたらしい内田を捕まえる。こんなに解かりやすく困ってる奴に気付かないなんて、俺はダメな奴だな。
というわけで、俺は内田を連れて図書館の奥の方にある専門書棚にやってきた。ここは大判の専門的書物ばかり置いてあるうえ、図書館の一番奥なので滅多に人が来ないのだ。
「結論から言う、面白かった。ありがとう」
「ふええっ!?」
かあっ……と顔を真っ赤にする内田。その胸には、さっき返したピンク色の大学ノートが抱かれている。
「え、えっと、京太郎くんはこの中身、どのくらい読んだの?」
「全部」
「ぜんぶ!?」
「おかげで寝不足」
「ご、ごごごめんなさい!」
「いや、内田が謝らなくても」
なんだか慌ただしい娘だ。小っちゃいし童顔だし、小動物みたい。
「そんなことより、その小説、本当に面白かった。もっと知りたいんだ」
「し、知りたい?」
「あのシーンの主人公の気持ちとか、世界観の設定とか」
「そんなこと知ってどうするの?」
「また読みたい、そしたらもっと楽しめるだろ」
「ふえええっ!?」
また、林檎みたいに顔を赤くさせる内田。赤面症なのか?
内田は視線を左右に泳がせた。ノートで顔を半分隠して、問いかけられる。
「あの……京太郎くん、これのどこが面白かった?」
内田の目は、真剣だった。
俺は直感した。彼女は、待っている。こう答えて欲しいという正解がある。俺はその正解か、さらに上の答えを言わなければならない。さもなくばこのさき永遠に、この娘が心を開いてくれることはないだろう。
だけど、うまい台詞が思いつかない。結局、ありのままを伝えた。
「うーん……面白かったとしか言いようがない」
「……」
「内田の小説、読んでてさ、楽しかった。わくわくした。それだけ」
難しい理由なんか無い。ただ読みたくなる。読んでいたくなる。内田の文章は、そういうものがあるんだ。そうそうできることじゃない。すごい才能だと思う。
「京太郎くん」
「なんだ?」
ぎゅっと、ノートを押し付けられる。
呆然とする俺に、内田は真っ赤な顔のまま呟くように言った。
「し、しばらく京太郎くんに貸す。それと、他のも……よむ?」
「……もちろん!」
作家少女、内田みのりと俺、桐野京太郎は、こうして出会った。
図書館の奥、専門書棚。
放課後にここでみのりと会うのが、俺の日課になっていた。
「はい、昨日貸してもらったやつ。これも面白かったよ」
「ま、また一日で読んじゃったの……?」
「ああ、だって止まらなくなるから」
「うう……」
嬉しいのか恥ずかしいのか、それとも両方か。みのりは頬を染めて俯いてしまう。こんなに小説を書いているのに、他人に見せたことはないようだった。
「京太郎くん、読むの早いよ。もうストックなくなっちゃった」
「な、なんだと……」
俺の一番の楽しみが……。
がっくりと肩を落とす俺に、みのりは慌てた様子で言った。
「ご、ごめんね京太郎くん。いままでのやつなら、また貸してあげるから」
「だから謝らなくていいって」
がさごそと自分の鞄を探るみのり。この娘、ちょっといい娘過ぎないだろうか。
「なあ、みのり」
「なんですか」
「お前、俺以外の奴に自分の小説、見せたことないのか?」
鞄を探る手が、ピタリと止まる。
「…………ありますよ」
さっきとは明らかに違う要因から、みのりは俯いていた。表情が固まるのがわかる。まずいことを訊いてしまっただろうか。
何か言ってうやむやにしようか迷っているうちに、みのりは俯いたまま、過去の苦しい思い出を話してくれた。
「小学生の時ね、私、今と同じで目立たないタイプだったからクラスでいじめられてて、ある日持ち物を隠されたの。その時、書きかけの物語をノートのはしに見つけた子がいて……」
「まさか、その子に?」
「うん。その後、机の中にあったノートも無理矢理に見られて、それで……」
どうだったのか、聞くまでもなかった。恥ずかしがったり困ったり、そういう顔ならたくさん見てきたけど、これは違う。
自分の好きなものを、作り上げたものを、自分自身を否定された人の顔だ。
「そんなことがあったのに、書くことはやめられなくて。こんなに溜まっちゃったけど」
「俺はそのおかげでみのりの小説が読めて幸せだけどな」
「も、もう、からかわないで」
みのりはまた頬を真っ赤にした。とっても嬉しそうだ。
その表情をみていると、なんだか落ち着かない気分になった。声が裏返ってしまう。
「で、でもさ。もったいないよな。こんなに面白いのに、俺しか知らないなんて」
「それでいいよ。京太郎くんが読んでくれてるなら、それでいい」
こいつは、そういう事を平気で言うんだから。しかも、本気で言っているのがわかるからたちが悪い。
火照る顔を隠したくて、顔を背ける。みのりがどうしたの? と首をかしげる。俺は誤魔化すように言った。
「俺はお前の小説、もっと沢山の人に読んでもらいたいと思うけどな」
「うう……」
今度は、みのりが赤くなって顔を背けてしまった。
「私、京太郎くんにそう言ってもらえるから……書くだけでいいって思ってたのに、そんな風にいってくれる人に会えたんだから、これ以上を望むのは贅沢だなって思うよ」
「…………」
それは、本当だろうか。
書くのが好きっていうのも、もちろんあるだろうしみのりは今でも満足しているのかもしれない。でも本当はもっと多くの人に見てもらいたいんじゃないか? 伝えたいんじゃないか?
俺だったら、見てもらいたいし伝えたい。作品を書くって、創るってそういう事だろ? 自分の中に、形にしたい何かがあって、それを外に出したくて誰かにわかってほしくて。もちろんそれが全てではないだろうけど。多かれ少なかれ、作家という人種はそういう感情を持っている。
お前も、そうなんじゃないか?
「みのりは、本当にそれでいいのか?」
「うん」
「……そっか」
結局は、俺の考えだ。押し付けるわけにはいかない。
なら、俺は知っていよう。内田みのりの物語を。その素晴らしさを。
「新作ができたら、読ませてくれよ。俺はお前のファンだからさ」
「うん!」
やっぱり嬉しそうに、みのりは笑うのだった。
これはこれでいいか。この時まで俺は、本気でそう思っていた。