プロローグ・最後の日常
今日も、寒くなりそうだわ。
一向に朝日が差し込まない窓から空を見上げて、桂木 流衣子は思った。
空一面が灰色の重い雲に覆われ、朝の7時だというのに薄暗い。
先週末から日本列島を襲っている寒波の影響で、ここ数日はずっとこんな天気だ。
いつどこで雪が降ってもおかしくないらしい。
この空とは不釣り合いな、笑顔いっぱいのお天気お姉さんがさっき言っていた。
嫌味ではない。もう少し感情をこめるとかバリエーションがあってもいいとは思うけれど。
でも、それが彼女の仕事なのだろう。
あの笑顔と「いってらっしゃい」だけで、世の男性方は朝から頑張ろうと思えるのだとか。
羨ましい限り。
是非、お天気お兄さんも作っていただきたいわ。
そしたら私も、こんな空の日だって頑張ろうと思えるかもしれないのに。
この世の中、お天気ニュースでさえ、男社会を象徴している。
「はぁ…」
流衣子のため息で、レースのカーテンが揺れた。
憂鬱なのは、この空のせいでも寒波のせいでも、ましてやお天気お姉さんのせいでもない。
否、天気は晴れているにこしたことはないから、多少は気分に左右する。
だけどお天気お姉さんに関しては、完全な八つ当たりだ。
「ごめん、ね。」
テレビの中で笑う、明らかに自分より年下の彼女に謝った。
「いってらっしゃい!」そんな一視聴者の事など勿論知りもしない彼女は、今日も画面いっぱいの笑顔を見せる。
…うん、やっぱりお天気お兄さんもあってもいいと思うな。
ただし、イケメンに限るけど。
一つ伸びをして、流衣子はテレビの電源を落とした。
「今日も1日、頑張りますか。」
誰の為でもない、自分の為に。
*****
あの位、よくある事だ。
地下鉄のホームに立ちながら、流衣子は昨日の出来事を思い出していた。
ふわり、と風に煽られたスカートが膝をくすぐる。
今に始まった事じゃない。女が一人、男社会で生きていく上で、避けては通れない道だ。
うん、分かってるよ。今までもあった。
だけど、どうしてだろう。今回は、ひどく堪える。
後輩の笑顔が、昨日から瞼の裏に焼き付いて離れない。
目を閉じる度に浮かんで、頭がグラグラする。全身の血液が煮えたぎるようだ。
悔しくて。
今回のプロジェクトは、流衣子にとって重要なものだった。
入社して7年、女が1人でやっていくには厳しいあの会社で、このプロジェクトを成功させれば少しは胸を張れるはずだった。その為に寝る間も惜しんで休日も返上して、必死に働いた。この半年間。
その甲斐あって、プロジェクトは成功した。会社は億の利益を得た。
流衣子の努力が報われた瞬間、けれどそれは儚く散った。
2つ下の後輩に、横からかっさらわれたのだ。
元より部長のお気に入りだった彼は、流衣子が死に物狂いで働いている間、その成果を全て自分のものとして報告していた。
その上彼は、こう言ったのだ。
「冴木さん、これ以上嫁の貰い手がいなくなったら困るでしょう。」
あの、顔。
あの口を歪めて笑った後輩の、顔。
忘れたくても忘れられない。
人を心底憎いと思ったのは生まれて初めてだ。
『まもなく、2番線にー』
電車の到着を告げるアナウンスに、ハッと我に返る。
どんなに嫌な事があったって、行くしかない。それが、仕事だから。
ホームに滑り込んだ電車の、ドアが開く。その穴にゾロゾロと大勢の人が飲まれていく。
まるで、生き物のようだと流衣子は思った。
大きな大きな蛇のようなこの怪物に、飲まれては吐き出される。
そのうちに、色々な感覚が麻痺していくんだ。
きっと、今のこの感情も。今までが、そうであったように。
『ドアが閉まりまーす』
ゆっくりと、重い身体を揺さぶるように電車は動き出した。
どんなに辛い事があっても、この日常は変わらない。明日も明後日も続いていく。
流衣子は、そう信じていた。