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雪の贈り物

 都会の小さな駅の人気のないコインロッカー。

 一匹の小さな黒猫がひたひたと忍び寄る。

 首輪からぶらさがっている鍵がちりりと鳴った。慎重にあたりを見回すと猫は前脚をうんと踏ん張って、毛を逆立てた。

 みるみるうちに、その毛はなめらかな皮膚に変わり、四肢がしなやかに伸び、猫は20歳くらいの裸の男の姿になっていた。

「さあてと」

 男は喜々として鍵を手に取ると、コインロッカーを開け、中から服を取り出した。

「シュニンの家に行って、おいしい昼ごはんを食べさせてもらうんニャ!」



「奥方さま。失礼しまぁす!」

 元気な声と冷気とともに、ドアが開く。

「ヴァルさん、いらっしゃい。うわっ。さむーい」

 瀬峰せほう佐和は、夫が弟のように可愛がっている青年を部屋に迎えた。

「ニャんだか、空から白いものがいっぱい降ってきましたよ」

「雪だわ。道理で寒いと思った。アラメキアにも冬はあるの?」

「いえ、あそこは、一年中春みたいにあたたかいところですから」

 と答えながら、彼はこたつにもぐりこむと、背中を丸めて幸せそうな吐息をついた。

 佐和は目を細めて微笑む。

 夫の正人は彼のことをヴァルデミールと呼ぶ。確かに浅黒い肌もつややかな黒髪も黒い首輪も、彼が抱いていたあの黒猫とそっくりだった。

 夫がかつて異世界アラメキアで魔王ゼファーと呼ばれていたころ仕えていた魔族の若者で、変身する魔力があり、猫と人間の姿を自由に行き来できるという。

 普通ならば、とても受けいれがたい話。

 何年ものあいだ精神病院に妄想型の統合失調症患者として入院していた正人のことを、今でもときどき信じられなくなりそうなときがある。この若者にしても、ただのお人よしで彼に話を合わせてくれているだけではないかと。

 でも佐和は夫を信じたいと思う。信じると決めている。



「ゼファーさんはまだ工場なのよ。今日は土曜日だから、昼までのはずなんだけど」

「あ、忘れてました。私、シュニンからのご伝言を持って来たんです。どうしてもノーキのせまった仕事があるので、今日は夜まで残業にニャるそうです」

「まあ、そうだったの」

「奥方さまにおかれましてはごシュッサンも間近ニャので、くれぐれも気をつけているようにとの、おことばでございました。

お世継ぎさまのご様子はいかがですか?」

「ありがとう、ヴァルさん。予定日は五日も先だし、まだ平気よ」

 佐和は、いとおしげに自分のお腹をさすった。

「今日は不思議に、朝からおとなしいんだけど」

「奥方さまのお腹の中に、シュニンのお世継ぎがいらっしゃるのですね。ニャんだか不思議です」

「アラメキアでは、子どもはお母さんのお腹から生まれないの?」

「はい、人間も魔族も種族によってちがいますが、卵やサナギから孵るのです」

「ゼファーさんも?」

「シュニンはもともと気高き精霊の騎士でいらしたので、精霊の森の花のつぼみから誕生あそばされたはずです」

「すてきなところなんでしょうね。アラメキアって」

「もちろんです。一度でいいから、奥方さまとお世継ぎさまを連れて行ってさしあげたかった」

 ヴァルデミールは、とたんに悲しそうにうなだれる。

「転移装置が壊されてしまったために、もう私も二度と戻ることができニャくなってしまいました。シュニンをお連れ申し上げるという役目も果たすことができず……」

「ヴァルさん、そ、そうだ」

 がっくりと気落ちしている様子に、あわてて佐和はばたばたと食器棚と流し台を往復しはじめた。

「お昼、いっしょに食べてかない? ゼファーさんが帰ってこないから、おにぎりに入れる予定だった塩鮭が一切れあまっているのよ」

「はい、私もそれが目当て……、い、いえ。それは望外の幸せに存じます」

「よかった。お味噌汁も飲める?」

「はい。うんとぬるくしてくださいね。ニャにせ私、猫舌なもので」

 塗りの汁椀がそのとき佐和の手を離れて、からからところがった。

「あ、大丈夫ですか?」

「あ……っ」

 彼女は台所のリノリウムの床に、崩れるようにうずくまった。

「いた……い」

「奥方さま! どうされたのです?」

 ヴァルデミールはあわてて駆け寄り、佐和を抱き起こそうとする。

「ヴァルさん……、あ、赤ちゃんが」

「い、今生まれるのですか」

「違うの、最初の陣痛が来ただけ。まだ平気よ」

 しかし、その苦痛にゆがんだ表情を見て、彼はすっかりパニックに陥った。

「お、奥方さま、いったいどういたしましょう。そ、そうだ。薬師くすしと、祈祷のための魔女を呼んで来ニャければ」

「落ち着いて、ヴァルさん。だいじょうぶ、病院は近くなの。タクシーを呼べばすぐ行けるわ。それにあわてなくても、陣痛は当分まだ10分おきのはずよ」

「で、でも……」

「私はここを片付けてから病院に行きます。ヴァルさんはゼファーさんに陣痛が始まったことを知らせてくれる? 電話口に呼び出したりしては、工場のみなさんに迷惑をかけるから」

「は、はい。承知しました! すぐにシュニンにお伝えしてきます」

「あわてないで、ゆっくり。気をつけてね」

 佐和の声に送られ、浅黒い肌をすっかり蒼白にして、ヴァルデミールは一目散に外に飛び出した。



 北からの強風にあおられ、粉雪が狂ったように舞う。

 ヴァルデミールは、工場への道をひた走りに走った。

「だいじょうぶ。あわてないでゆっくりね」

 何度も佐和にそう言われたのに、彼の耳には入っていなかった。

 うずくまって苦しむ佐和の姿。卵を産むだけのアラメキアの出産とは全然違っている。

 ヴァルデミールには、彼女の身に異常なことが起こっているとしか思えなかった。

「シュニン、シュニン」

 彼の仕える魔王の尊称を呼びながら、ただ急ぐ。

 あっと思ったときには、街角を曲がって歩いてきた三人連れをよけきれず、衝突していた。

 あわてて起き上がって振り向くと、尻餅をついたままのひとりが「いたた……」と呻いている。

「ごめんニャさい、大丈夫ですか?」

「大丈夫なわけないだろ、このボケがっ」

「本当にかたじけニャい。悪いが私は火急の用件にて主のもとに馳せ参じるところ。この非礼はあとで幾重にも詫びるので、今は失礼させてください」

「なにを寝ぼけたこと言ってんだよ、こいつ」

 三人はぐるりとヴァルデミールを取り囲む。どうもタチの悪いヤツらのようだ。

「おまえのせいで、むち打ち症になっちまったじゃねえか。どう落とし前つけてくれるんだ」

「だ、だからあとで詫びると……」

「うまいこと言ってそのまま、トンズラこくつもりだろーが!」

「私は、魔王閣下の栄誉ある従臣だ。トンズラこくつもりなどニャい!」

「ふざけるな! やっちまえ!」

 三人は一斉に、殴りかかってきた。よけきれず、腹や腕あちこちに火で焼いたような痛みを覚えた。

「おのれ! あくまでわが使命を邪魔する気か」

 ヴァルデミールは牙をむき出した。姿勢を低くして四つんばいになると、背中まである髪の毛が風をはらみ、三人の眼の前でみるみる異形の獣と化していく。

「うわああっ」

 悲鳴をあげてその場に腰をぬかしたひとりの襟に噛み付くと、ぶんと振り回して電柱に叩きつけた。逃げ惑う残りのふたりも、追いかけて同様に気絶させた。

 付近の住民が集まり大騒ぎになる前に、あわてて物陰に隠れて人間の姿に戻ろうとした。

 が、戻れない。

 アラメキアから遠く離れて過ごしているうちに魔力が弱まってしまったのだろうか。今日何回も変身して、力を使い果たしたらしい。苦労してやっとのことで一番小さな猫に変わると、今まで着ていたシャツの下から這い出て、ニャオンと鳴いた。

 奥方さまの身に危険が及んでいるというのに、とんだ横槍が入った。早くシュニンのもとに急がなければ。

 だが小さな体しか持たぬ身には、工場までの道のりはなんと遠いことだろう。小さな生垣すら巨大な森に見え、道路のガードレールでさえ、国と国とを隔てる壁に見える。

 ヴァルデミールは、知らずに赤信号の交差点に飛び出した。

 キキキと車がブレーキを踏む甲高い音に気絶しそうになったが、堪えた。

 シュニンのもとに。

 ただただ一刻もはやく、奥方さまのごシュッサンを知らせるんだ。目にうっすらと涙さえ浮かべながら、ふたたび走り出した。

 凍えた地面を踏みしめる脚には、もはや感覚がない。

「にゃっ!」

 水たまりに薄い氷が張っていたのだろう。後ろ脚が他愛もなく滑ってころび、ヴァルデミールは道路わきの溝に落ちてしまった。

 こんなことになるなんて。

 懸命に中から這い上がろうとするが這い上がれない。足の裏も切れて血がにじんでいる。

「みゃああっ」

 自分があまりにみじめで、役立たずなのが悲しくて、彼はあらんかぎりの鳴き声をあげた。



 そのとき、誰かの大きな手がひょいと溝に落ちた黒猫を拾い上げた。

「ヴァルデミール」

 彼の慕う、なつかしい声。ヴァルデミールは驚きと安堵のあまりヒゲを震わせながら、彼を助け上げた男の顔を見上げた。

『シュニン。来てくださったのですね。奥方さまが、大変ニャのです……』

『わかっている』

 彼は皆まで言わせず、微笑んだ。

『精霊の女王が知らせてくれたのだ。佐和はたった今病院に着いて、分娩室に入った。だから心配しなくともよい』

『よかった、ご無事ニャのですね』

 ヴァルデミールのつぶらな両眼から、堰を切ったように涙があふれる。

『私はてっきり、奥方さまとお世継ぎさまに万一のことがあったのだと』

『心配を、させたな』

 ゼファーは自分のコートのボタンをはずすと、従者の冷え切った体を暖かい胸元に入れて、しっかりと抱きしめた。



『あれが、お世継ぎさま……』

 黒猫は、主のコートから頭だけ覗かせると、新生児室のガラス越しにうっとりと中を見ていた。

『ニャんて可愛くて、ニャんて色が白いのでしょう。まるで今日、空から降っていた雪のようです』

『女の子だそうだ。女は魔王の世継ぎにはなれぬぞ』

『それでもいいのです。シュニンの御子であることに変わりはありません。それに……』

 小さな肉球で、ぐしぐしとまた涙をふく。

『あんニャに何時間も奥方さまが苦しまれて、誕生あそばされたお子さまです。それだけでもうよいのです。

新しい命を産み出すということは、人間にとってほんとうに美しくて、ほんとうに尊いことニャのですね』

『ああ。400年ものあいだ、魔王としてずっと破壊ばかり為してきた俺が、新しい生命を預かり、自分の手で守る者となるとは』

 ゼファーは、ぽつりとつぶやいた。

『……この喜びこそ、精霊の女王がこの世界で本当に俺に伝えたいことだったのだな』



 部屋には朝の光が満ちていた。

 甘い香り。窓辺に柔らかい色のたおやかな花々が咲き乱れる。そして、そのかたわらで小さな黒猫を抱いた夫がじっとこちらを見つめている。

 ここがきっとアラメキアなのね。佐和はそう思った。光あふれる幸せの国。

「この花はさっき、社長と工場長が置いていったものだ」

 夫が目を開けた彼女に気づいて、語りかける。

「まあ、わざわざ社長さんたちがお見舞いに? 眠っていて失礼なことをしてしまいました」

「玄関まで見送るついでに、また赤ん坊を見てきた」

「あの子、どうしていましたか?」

「元気に手足を動かしていた。やはり、おまえに似ているよ」

「そんなことないです。ゼファーさんにそっくりの美人だわ」

 佐和はくすくすと笑った。

「どうしましょう。男の子とばかり思い込んでて、女の子の名前を考えていませんでした」

「今はまだいい。ゆっくりと休め」

 そう言いながら、サイドテーブルのビニール袋に手を伸ばし、アルミホイルの包みをとりだす。

「腹が減ってないか? きのうからずっと、食べていないんだろう」

「ええ、もうすぐ病院の食事があるから。……でも、それは何?」

「俺が握ったおにぎりだ。ゆうべ家に帰って、冷蔵庫に入っていた塩鮭を見つけて作ってみた」

 照れくさげに夫は顔をしかめた。

 包みから現われたのは、でこぼこの形をした、半分割れかけたおにぎりだった。皮や骨のついたままの鮭の切れ端が中からのぞいている。それを見た佐和は、思わず微笑んだ。

「難しいものだな。おまえが握るようにはいかない。ごはん粒が半分以上、手にくっついて取れなくなったぞ」

「手を先に水で湿らすんですよ。でもうれしいわ。いただきます」

 佐和は両手で受け取ると、一口頬張った。

 おにぎりに塩はまったく入っていなかったが、その必要はなかった。佐和の口の中はすでにもう、涙の塩味でいっぱいだったから。

「とても美味しい。ありがとう……ゼファーさん」



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