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優しい旅人たち

「どうした?」

 人通りの途絶えた道端で、電信柱の陰にうずくまって、ひとりの女が子どものように泣きじゃくっていた。

 風呂敷包みをひとつ、膝に大事そうに抱えた白髪の老女。小花模様の柄ちりめんのワンピースからのぞく、しみの浮き出た手足が木の棒のようだ。

 声をかけた若い男は、長躯を折り曲げるようにして女の顔をのぞきこんだ。

「どこか、痛いのか?」

「わからなくなって」

 老女は顔を伏したまま訴える。「早く帰らないと夜になっちゃうのに」

「うちはどこだ。送ってってやる」

「遠く」

「なんという名前の町だ」

「わからん」

「弱ったな」

 男は背を伸ばし、目を細めて、夕闇にとろりと沈む空気の向こうを見やった。

 その空気を明るい色で染めるように、ひとりの若い女が買い物籠を抱えてやってくる。

 女は彼を認めると、花の蕾が開いたような笑顔になって駆け寄った。

「ゼファ……正人さん」

 いっしょに誰かがいるのを見て、あわてて呼び方を変える。

「佐和」

「よかった。ここらへんで会えると思っていました。……その方は?」

「道に迷ったらしい」

 佐和はしゃがみこみ、首をかしげて老婆の顔をうかがった。そして、驚いたような表情をうかべた。

「カネヤのおばあちゃん」

「知っているのか?」

「はい……。私の実家の近所に住んでいるおばあちゃんです」



「カネヤのおばあちゃんは、昔うちのそばの商店街で駄菓子屋さんをしていたんです」

 ようよう泣き止んでぼんやりとした面持ちの老婆の手を引き、ふたりはそこから歩いて十分ほどの家に送り届けた。

 中年の女が出てきて、びっくりしたように佐和たちを見て、ぺこぺこ頭を下げた。

 玄関のドアが閉まったとき、中から女が老婆を叱りつける大きな声が聞こえてきた。

「とっても優しいおばあちゃんで、……もう私が子どものころからおばあちゃんだったんですよ……いつも百円玉をにぎりしめてお菓子を買いに行きました」

 佐和は歩きながら、懐かしそうに話す。

「つかみどりの飴や、くじのあたるチョコを買うんです。くじにはずれると、こっそり『佐和ちゃん、みんなに内緒だよ』って、おまけをしてくれました。本当は誰にでもそうやってくれていたみたいです」

 夫はそんな彼女を、宝物を見るような優しい目でじっと見つめている。

「とっても暗算の得意なおばあちゃんだったのに、今は私のこともわからないなんて……」

「何故、そんなふうになってしまったんだ?」

「人は歳を取ると子どもに返ると言います。いろんなことを忘れてしまって」

 ことばを途切れさせ、悲しげに唇を噛んだ。

「さっき迎えに出てきたのは、おばあちゃんの娘さんです。気をつけていないと昼でも夜でも家を抜け出して、帰れなくなってしまって、とても大変だとおっしゃってました」

「この世界に来たころの俺と同じだな」

 彼は、夢見るような瞳で空を見上げた。

「帰りたくとも、帰る道がわからない」

「ゼファーさん……」



 何日か経って、ゼファーはふたたびあの老女に会った。

 彼が近道に選ぶいつもの公園の、雨にうたれた砂場の真ん中で、ぺたんと座って鼻歌まじりに、濡れて黒々とした砂を無心に掘り返していた。まるで畑仕事に精を出している童女のように。

「また会ったな」

「おじちゃん」

「おじちゃんか、俺は」

 彼は苦笑した。

「まあしかたあるまい。俺のよわいは800歳以上。おまえよりはるかに上なのだからな」

 ぽかんとした顔の彼女の泥だらけの手を、大きな手で包み込む。

「立ってくれ。家まで送ってやろう」

「いや」

「なぜだ。迷子になったのだろう?」

「あの家は、ちがう」

「ちがう?」

「本当の家じゃない」

「本当の家とは、どこにある」

「お父ちゃんとお母ちゃんのいるところ。大きな森があって、花がいっぱい咲いていて」

 公園の入り口から、老女の娘という女がサンダル履きで走ってきた。

 彼を見て会釈したものの、母親の顔は般若のようにきっとにらみつける。

「お母さん! なんでいつも勝手に出て行ってしまうの! 夕方の忙しいときに限って。また柱に縛りつけてほしいの?」

「おまえ」

 老女の服を無理矢理つかんで引っぱろうとする娘を、ゼファーは静かに押し止めた。

「この婦人は、自分の家が別にあると言っているが、本当なのか?」

「な、何ですか?」

 うろたえた声で、彼女は答えた。

「そんなわけないじゃない。母は結婚したときからあの家に住んでいたんですよ」

「父親と母親の家があると言っている」

「バカな。田舎の家なんか、とっくになくなってます」

「ちゃんと話を聞いてやったらどうだ。もしかすると、そこに何かの心残りがあって」

「話なんて通じるもんですか!」

 彼女はヒステリックに叫んだ。

「ボケちゃったんですよ、母は。娘の……実の娘の私の顔もわからないんですよ!」

 泣きそうに顔をゆがめると、いやがる年老いた母親を引き引き、ふたりの小さな背中は薄闇の中に消えていった。



「今日、カネヤのおばあちゃんの娘さんから電話がかかってきたんです」

 佐和は、夕餉の味噌汁をよそいながら、言った。

 夫とふたりきりの食卓には、小さな魚、野菜の煮物などのつつましい器の並ぶ真ん中に、大皿にいっぱいのおにぎりが盛られている。

「ゼファーさんを怒鳴ってしまって悪かったと謝ってらっしゃいました。でも、毎日とても辛いそうなんです。おばあちゃんはごはんを食べたことを忘れてしまったり、テーブルでお金を勘定する真似を始めて、計算が合わないって怒鳴ったり。目を離すとあっという間に行方不明になってしまって、何キロも先で見つかって」

「あの人の生まれ故郷はどこにあるんだ?」

「信州です。でも、生まれた家はダムの底に沈んでしまったらしいです。もちろん、おばあちゃんのご両親もとっくに亡くなって、おばあちゃんのことを知っている人も村には誰もいないんですって。それでもおばあちゃんは、そこにまだ自分の家族が住んでると信じているんですね」

「そうか」

「私これからときどき、おばあちゃんのお世話ができたら、と思っているんです。パートが休みの日に2時間でも3時間でも手伝えれば、娘さんが息をつく暇が少しでもできるんじゃないかって。子どもの頃の話をしたり肩を叩いたり。親孝行をさせていただくみたいに、いろんなことをしてあげたいんです」

「佐和」

 ゼファーは箸を置いて、妻を見た。

「佐和は、自分の親にはあれから会ったのか」

「え、ええ。昼間ときどき、顔を見に帰ってますよ」

 悲しい嘘だった。彼と結婚したときに実家から勘当された佐和は、こんなに近所に住んでいるのに、実の両親にも兄にも会いに行けるはずがないのだ。

「すまない」

「え……?」

「人間にとって、親というのはそれほど大切なものだったのに。俺のせいでおまえは、その大切なものを奪われてしまった」

「ゼファーさん」

 佐和は、心から屈託なく微笑んだ。

「そんなこと言わないで。時間が必要なだけです。いつかゼファーさんと私の両親と、きっとみんなで仲良くできる日が来ますから。私そう信じてます」

 彼女の微笑にはいつも、不可能をも可能に変えることのできる魔力が秘められている。アラメキアの最高位の魔女でもかなわぬ魔力が。



「もう、佐和さんと結婚して2年か」

 ブラインドに手をかけて病院の庭の景色を見やる姿勢をとりながらも、眼鏡の奥からのぞく霧島医師の鋭い眼光は、診療室の椅子に腰かける患者から決して離れない。

「早いものだよ。工場にも真面目に行っていると聞くし、もうすっかりこの世界の住民だな。子どものことも、そろそろ考えてるのか」

 ゼファーは軽く肩をすくめただけだった。

 月に一度、検診を受けに来る歳月のうちに、この医師のからかい好きな性格はよくわかってきたつもりだ。

「それより、先生。聞きたいことがある」

「なんだ」

「人間は歳をとると、どこか帰る場所を捜すようになるのか?」

 若い精神科医は、わずかに眉を上げた。

「近くに住んでいる年寄りの女が、いつも迷子になっているらしい。家族と住む自分の家は本当の家ではなく、別に帰るところがあるのだ、と思っている」

「それは、空間的見当識障害だな。アルツハイマー型老年痴呆の第一期かもしれん」

「アルツハイマー?」

「海馬や大脳新皮質の神経細胞が死滅する病だ。記憶障害・失認に始まり、進行すると多動・徘徊・痙攣が認められる。徘徊している本人には、自分が徘徊しているという意識はないはずだが」

「そうか」

「気になるのか?」

「俺も帰る場所をなくした人間だからな」

「瀬峰せほうくん」

 霧島は笑みをたたえて、彼を見つめた。

「きみはやはり、自分がアラメキアから来た魔王であると思っているのかい」

「いいや」

 医師の目を真直ぐに見返して、彼も笑う。

「俺は、妄想型の統合失調症患者。魔王なんかじゃない。

……そう答えないと、あの眠くなる薬を、またしこたま飲まされるんだろう?」



 工場の事務室で、ゼファーは佐和からの電話を受け取った。

「おばあちゃんがまた、いなくなったんです」

 街なかの公衆電話かららしく、息がはずんでいるのがわかる。

「みんなで手分けして捜しているんですけど、あの公園にも行ってみたんですけれど、いないんです。昨日からのこの大雨の中、どこへ行ったのか、とても心配で。ゼファーさん、おばあちゃんと話したことの中で、何か心当たりはありませんか?」

「工場長」

 彼は工場内に急いで戻って、小柄な年配の男に話しかけた。

「私用ができた。早退させてくれ」

「何を言ってるんだ!」

 とたんに、工場長は眉を吊り上げる。

「だいたいきみは、何かにつけてたるんでる。自分が主任だという自覚があるのか。納期も迫っているのに、勝手に早退なんかされちゃ、困るんだ」

「頼む」

 彼は穏やかな漆黒の瞳で、じっと上司の目を見つめた。

「ま、まあ」

 工場長は、とたんにしどろもどろになった。

「明日その分残業するというなら、考えてもいいが」

「わかった。そうしよう」

 ゼファーが出て行ったあと、社長が何事かと近づいて行くと、

「まったくあいつの前に立つと、なぜか園遊会で天皇の前にいる招待客みたいな気分になるんだ」

 工場長がひとりでぶつぶつと、繰り言を並べていた。



 工場を飛び出すと、門のそばの紫陽花が、大粒の雨に重そうな首を揺らした。

「精霊の女王。そこにいるんだろう」

 ゼファーが呼びかけると、花のかたわらに、光のしずくをまとった紫の髪の美しい女が姿を現した。

「ばれていたか」

「この世界には二度と来ないと言っておきながら、たびたび覗いているくせに」

「人間の世界もなかなかおもしろいものだな。私もこちらに住みたくなってきた」

「よく言う。400年昔、精霊の国を治めることがどんなものよりも大事だと言ったのは、おまえだぞ。ユスティナ」

 女王は、鈴を鳴らすような声で笑った。

「それより、わたしの助けが必要ではないのか、魔王よ。あの年老いた女の行方を知りたいのであろう?」

「ああ、それにひとつ頼みがある。少しのあいだでいい、俺に魔力を返してもらえぬか」



 最初のうち、彼女は自分がどこにいるかもわからなかった。考えても何を考えたかすら忘れてしまう。

 自分が細切れになって、暗い宙に浮いているような空虚さ。

 家といって思い浮かぶのは、父や母が座っていた大きな囲炉裏のある茅ぶきの家。裏手の斜面のどっしりとした森と、花々の咲きみだれる野原を遊び場として大きくなった。いつも小川のせせらぎを聞いて眠った。

 結婚して上京したことも、夫に先立たれ、駄菓子屋を営みながら3人の子どもを育てた苦労の日々のことも、すべては消え去って、ただ自分のいるべきところが、どこか別の場所にあるような焦燥にいつも駆られていた。

 自分を呼ぶ声が遠くで聞こえた気がして、はっと目を上げると、橋のたもと、丈の高い茂みの中で彼女はうずくまっているのだった。

 足元の地面だった場所は、いつのまにか水がくるぶしのあたりまで溢れ、そばの川の濁流へと飲み込まれようとしている。

「こんなところにいたのか」

 背の高い男がひょいと、彼女の小さな体を抱き上げて、川原の真ん中に立たせた。

「びしょぬれだな。風邪をひくぞ」

 いつのまにか雨は止み、透明な真珠色の陽の光が雲間から差し込んできた。

 老女の眼の前で、男の体がこの世のものとは思われないまばゆい輝きを放った。

 雑草の生い茂る河川敷の上を、彼が発する黒い光輪がなめていったかと思うと、その軌跡の中から次々と、曼珠沙華の咲く秋の草むらが現われた。

「ああっ」

 彼女は叫んだ。

 ふるさとの懐かしい景色。近くに、姉や弟と魚をとったあの小川。遠くに、父と母が待つ萱ぶきの家の屋根。麦飯を炊くにおい。山おろしのひんやりした風が頬をなぶる。

「ここか? おまえの帰りたがっていた場所は」

「お父ちゃん、お母ちゃん!」

 手をふりほどいて駆け出そうとする彼女に、

「だめだ」

 と男は首を振った。

「これは幻だ。俺の魔力で見せている。本当に行くことはできない」

「あああ」

 彼女は顔を両手でおおった。

 何かが心を揺すぶる。

 うれしい。悲しい。ごちゃごちゃになった気持ちが渦を巻き、熱い涙があとからあとから、あふれてくる。

「おまえの本当の家に送ってやろう。家族が心配している」

 男は、ただひいひいと声もなく泣いている老女を軽々とおぶった。

「俺とおまえは似ている。ふたりとも、この世界ではないところから来た」

 土手を歩きながら、言い聞かせるように背中の彼女に話しかける。

「もしかすると俺たちは、一生のあいだ旅をしているのかもしれん。でも、この世界に愛する者を見つけて、ここで暮らすことを俺たちは望んだ。おまえはきっとそのことも忘れてしまったのだろうがな」

 答えの代わりに彼女は、男の暖かい背中にこつんと額を押し付けて、目を閉じた。

「つらくなったら、ときどきさっきの景色を見せてやる」

 川を渡ってくる風が湿気をふくみながら、旅人たちの髪を揺らした。



「ゼファーさん」

 佐和がそっと手をからませてきた。老女を家に送り届けての帰り道。

「カネヤのおばあちゃん、すごく優しい顔をしてました。昔のおばあちゃんに戻ったみたい。何かあったのですか?」

「さあな」

「ゼファーさんてやっぱり、本当に不思議な方です」

「いつか、おまえにも俺の生まれた国を見せてやりたい」

 彼はいきなり立ち止まって、妻の頬を両手ではさみこんだ。

「俺は、おまえがいたからこの世界で人間として生きてこれた。アラメキアから来たという俺のことばを、おまえは黙って信じてくれた」

「どうしたんですか、いきなり」

 彼女は恥じらって、耳たぶまで赤く染めた。

「信じるのは当たり前です。大好きな人のことなら何だって」

「ありがとう」

「それに……、実はアラメキアからもうひとり、お客様が来てくれたみたいなんです」

「え?」

「ほら、ここに」

 佐和は、大切なものを触る仕草で、自分のお腹をなでた。




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