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陽だまりの異邦人(エトランゼ)

 秋の夕暮れの公園。花壇の甘くひんやりとした香り。

「魔王よ」

「精霊の女王」

 咲き乱れる花々の薄い花弁が風もないのにゆらいだ。

 紫の髪をベールのように全身にまとった、真珠色の顔かんばせの女が花の中に立つ。

「元気そうだな」

「ああ」

「人間の暮らしは慣れたか。佐和とはうまくやっているのか?」

「まあな」



 買い物袋を手に下げた佐和は、公園に入ろうとして足をとめた。

 愛する夫がベンチに坐って、宙を見つめながらひとりごとを言っている。

 夢見るような瞳で。

 さきほどの会話を思い出して、佐和は唇を噛む。



「佐和ちゃん。あんたのご主人はうちで働くのに、むいてないよ」

「……え? どうしたんですか」

「朝の挨拶もしない。上司や先輩に対しても横柄な物言いをして、敬語を使おうともしない。気に入らなきゃ、持ち場を離れて勝手にあたりをほっつき歩く」

「……そんなことを」

「みんな困ってんだよね。工場はチームワークだろう? ……佐和ちゃんにこんなこと言いたくないけど、 前科があって、長いこと精神病院に入ってたなんてのを雇ってくれる会社なんか、うちくらいしかないよ?  それも、佐和ちゃんのおじいちゃんの代からの長い付き合いがあってのことだ。うちだって、この不景気のご時世、今の状態がいつまでも続くようなら、 考えさせてもらうよ」

「すみません、社長さん。正人さんにもよく言って聞かせますから」

 佐和は、電話に向かって深々とお辞儀をした。



 彼女が瀬峰せほう正人とめぐりあったのは、2年前。公園でレイプされかけていたところを救ってくれたのが、彼だった。

 その日のうちに、恋に落ちた。

 彼はゼファーと名乗った。だがそれ以外には自分のことを何も語らない。

 麻薬取引や不正な株売買に関わっていたと知ったのは、ずっと後だった。

 挙句に、東京都に対してすべての電力の供給をストップしろと脅迫したと聞いた。いったい彼が何のためにそんなことを要求したのかは、いまだにわかっていない。

 彼は逮捕され、精神病院に措置入院の処分を受けた。

 自分を異世界の魔王だと思い込む、妄想型の統合失調症。それが彼の病名だった。

 一年半の入院。3ヶ月前に退院して、ふたりは正式に結婚した。披露宴も祝福してくれる人もない、ふたりだけの結婚式。

 下町に小さなアパートを借りて、住み始めた。

 新婚生活は決して甘いものではなかった。職のない夫との生活は苦しく、前の会社を辞めてしまっていた佐和が近所のスーパーにパートに出て、かろうじて家計を支えていた。

 ようやく古い知人の伝手で彼の就職を頼み込み、二週間前から働き始めたばかりだった。

「ゼファーさん」

「佐和」

「お仕事はどうでしたか?」

「まあまあだ。……今晩は何だ?」

「少し寒くなったので、湯豆腐にしました。それと、ゼファーさんの大好きな、鮭のおにぎり」

 彼は、わずかに顔をほころばせた。

 歩きながら夫の長い腕が、無言で肩を引き寄せる。その暖かさの中に身をゆだねながら、佐和は言おうとしていたことばを飲み込んだ。



 彼はそれからも、ときどき仕事をさぼっては、昼間から公園のベンチに坐っているらしかった。

 そのまわりにはいつの間にか、放課後遊びに来た小学生たちがたむろするようになった。

 愛想などかけらもない男なのに、不思議と彼は子どもたちに慕われ、精霊の国の話や、魔王の頃の冒険譚をせがまれた。

「ゼファーさん。お仕事はちゃんと行っているのですか?」

 気をつけていないと、飲まなくてはならない薬をこっそり捨ててしまう彼の手のひらに、佐和はいつも毎食後、山盛りの薬を乗せてやっていた。

「ああ」

「がんばってくださいね。ゼファーさんなら、きっとできます」

 そう言いながら、自分を魔王だと思い込んでいる夫には、人から命令されることも、工場のラインの単調な作業も耐え難い苦痛であることを佐和は知っている。

 抗精神病薬の副作用で、いつもまぶしそうに目を細め、気だるく椅子の背にもたれている。集中力の必要な細かい仕事もむずかしいだろう。

 佐和は、地の底からはらわたをつかまれるような不安に襲われて、自分の両腕にそっと爪を立てた。



 彼女の不安は的中した。

「佐和ちゃん、もう正人くんは明日から来なくていいよ」

 パートの休憩時間に、勤め先の社長から電話があったのだ。

「……また、何かあったんですか?」

「今日は、こともあろうに、工場長に作業の手順を変えろと文句を言ったんだ。それも、自分のラインだけじゃなく、工場全体のラインを変えろと。

工場長も、これにはブチきれてね。ほかの従業員からも苦情が出てる。もう私にも手のうちようがない。佐和ちゃんには気の毒だけど、もうどうしようもないよ」

 電話を切ると、その場にへたへたと座り込んだ。

 仕事を早退して、ともかくも夫を捜すためにアパートに戻ったとき、入り口で、こわい顔をした数人の女性が待ちかまえていた。

「あの、公園にいつもいる男の奥さんね」

 母親たちは、彼が自分の子どもをたぶらかしていると抗議に来たのだ。

「きのう、うちの子は、塾にも行かず公園でずっと遊んでたんですよ。叱りつけると、おたくのご主人が行くなと言ったと」

「いつも、ぼうっと坐って、ぶつぶつひとりごとを言ってるし。目つきが怖くてたまらないわ」

「とにかく、子どもにはもう絶対近づかせないでちょうだい。いいですね」

 憎しみと嘲りの視線の中、佐和は何も考えられないまま、ただ頭を下げるだけだった。



「どうして、真っ暗なんだ?」

 部屋をおおう濃い夕闇に、夫は不思議そうな声を出して、明かりをつけた。部屋の真ん中に、佐和は膝をぎゅっとつかんで坐っていた。

「ゼファーさん。今日、子どもたちのお母さんから苦情が来ました」

「え?」

「公園で子どもたちが帰ろうとするのに、帰るなとおどかしたって……。もう子どもたちのそばに近づかないでくださいって言われたんです」

「俺は、そんなこと言っていない」

「嘘をつかないで!」

 佐和は、大声を上げた。長い間がまんしていた涙が、堰を切ったようにあふれでる。

「工場だって、いつも行っているって嘘をついて、さぼっていたでしょう。あなたは、本当は魔王なんかじゃないんです。瀬峰正人という人間なんです。

精霊の国なんか、この世に存在しないんです。なぜ、夢ばかり見るんですか? なぜ、今いる現実を見ようとしないんですか?

夢だけでは誰も生きられないんです。私は、私は……もう、あなたといっしょの夢は見られません!」



「ゼファーよ」

 精霊の女王の透き通った衣の裳裾が、まばゆい白い光を放ち、早朝の公園に坐る彼の脚にふわりとかかる。

「ゼファーよ。生きることは辛いか?」

 彼にそそがれる黄金色のまなざしは、悲しいほど高貴で優しい。

 彼は、静かに首を振った。

「俺の選んだ道だ」

「佐和が死んだとき、呪術をもてそなたは誓った。佐和が生き返るならば、自分は蛆虫になってもよいと」

「ああ。そしておまえは佐和の命を救ってくれた」

「引き換えに、そなたの得たものは、周囲の者に誤解され、愛する者にさえ信じてもらえぬ人生。……本当にそれでよかったのか?」

「後悔はしておらん。俺には、佐和を失うより惨めな人生はない」

「……変わったな。魔王よ」

「それでもなお、俺は昔の己にこだわりすぎていたのかもしれんな」

 彼は自嘲するように、かすかに笑った。

「アラメキアのことは、忘れよう。もう俺は魔王ゼファーではない。これからはひとりの人間、瀬峰正人として生きる。精霊の女王、おまえにももう会うまい」

「わかった。私ももはや、この世界を訪れることもなかろう」

「最後にひとつだけ、教えてくれ」

「なんだ?」

「俺がおまえの近衛隊長だったころ、おまえは俺のことを愛していたか?」

 精霊の女王は、紫の髪を朝露のごとくきらめかせて、微笑んだ。

「400年前、最も美しい精霊とうたわれたそなたが、私の目の前で悪しき思いに身をゆだね、魔王と化したとき、……どれだけ私が嘆いたか、そなたは知るまい。

だが、私はひとりの女として、そなたの胸に飛び込むことはできなかった」

「それだけ聞けばじゅうぶんだ。……さらばだ、ユスティナ。精霊の女王」



「霧島先生。私はどうすればいいのでしょう」

 佐和は、夫の主治医の精神科医・霧島の診察室にいた。

「あなたは魔王なんかじゃない、と私が言ったときの、哀しそうな顔。私はなんと酷いことを言ってしまったのかと気づきました。

あれから彼は私のほうを見ようともしません。もう私は、いっしょに暮らす自信がありません。いったい、どうすれば……」

「佐和さん」

 霧島医師は、デスクの前から立ち上がると、窓から外を見つめた。

「このことは、あなたに言うべきかどうか迷っていましたが、言うことにしましょう」

「なんですか?」

「私は、彼がここに入院したとき、彼の病歴を調べるため、あちこちの病院に問い合わせました。当時のカルテはすぐに見つかりました。しかし、彼のことを覚えている担当医師は ひとりもいなかったのです」

「……」

「よくあることではあります。私たちは何千人もの患者を診ているのですからね。しかし、それからも私は個人的な興味で、彼の住んでいたという家や彼の通ったという学校を調べてみました。 だが、誰ひとりとして、瀬峰正人とその家族のことを覚えている人はいなかった。あたかも、誰かが書類だけで瀬峰正人という架空の存在を作り上げたように」

 霧島医師は黒縁の眼鏡越しに怜悧な視線を彼女に送った。

「佐和さん。真実とはいったい何でしょう? 私たち人間の数だけ真実はある。彼には精霊の国で魔王であったという真実があり、あなたにはあなたの真実がある。どちらの真実のほうが重いのでしょう?」

「先生……」

「もちろん、私は彼が本当に魔王だったというつもりはありません。瀬峰正人は妄想癖を持つ統合失調症患者。これが精神科医としての私にとっての真実です。でも、あなたたちふたりには、あなたたちの真実があってよいのではないでしょうか?」



 彼は公園から、工場に向かういつもの道を選んだ。

 社長に頭を下げて、もう一度雇ってもらう。そう決心していた。

 途中で、小学校の裏手を通る。もう昼近く、中はしずかだ。

 かさかさと枯葉を踏みながら長い直線の壁に沿って歩くと、3人の男たちが裏の校門を乗り越え、校舎に向かって走っていくのが見えた。

 手に何か黒いものを握っている。

「ゼファー!」

 ポプラ並木の黄色く色づく葉陰から、突然精霊の女王が現れた。

「大変だ、ゼファー」

「こんなところで何をしている。さっきもう二度と会わぬと言っただろう」

「緊急事態なのだ。今走って行った男たちは、悪しき者ども。偶然私の目に映ったのだ。奴らが武器を用いて、子どもたちを害そうとしておるところが」

「何だと……?」

「このままだと、子どもの中に犠牲者が出る。ゼファー、止めてくれ。そなたにいっときだけ魔王の力を返そう。悪しき者の手をくじいてくれ」

 彼の体が、黒い光輪を帯びて、光った。



「社長さん、お願いします」

 佐和は、霧島医師のもとから戻るとすぐ、夫の働いていた工場に赴き、社長の前で膝をついた。

「正人さんを雇ってあげてください。もう一度だけチャンスをください」

「佐和ちゃん……」

「私、彼を信じることにしたんです。妻である私が信じきれていなかった。でも、もう迷いません。時間はかかるかもしれないけれど、 彼はきっとやれます。私の命を賭けてお約束しますから」

「佐和ちゃん、ちょっと待ってくれ。実は……」

 社長は、罰が悪そうに禿げ上がった頭頂をなでた。

「おととい工場長とも相談して、一度正人くんの提案したラインの変更を試しにやってみたんだ。そしたら、生産効率が3%もアップしたんだよ。 20年この仕事をやってきて、こんな簡単なことに気づかなかった。彼はたった3週間で全部の工程を把握して、改善点を指摘してくれたんだ」

「……」

「こちらからお願いしたい。ぜひご主人に戻ってもらいたい。今度は主任待遇で迎えるから」

 佐和がことの性急さに考え込んでいると、ひとりの古参の従業員がばたばたと事務室に走りこんできた。

「大変だっ、奥さん。あんたの旦那が小学校で……!」



 急いで学校に駆けつけると、校庭は、避難した子どもたちがクラスごとに、あわただしく整列させられていた。

「あ、ゼファーさんのお嫁さんだ」

 低学年の子どもたちが彼女を見て、騒ぎ出す。

「すごかったんだよ。ゼファーさん」

「体育館で、体育の授業中だったんだ。そしたら、鉄砲を持った男たちがとびこんできて、大声でわめいたの」

「『ぼーりょくだんのこーそー』の後、逃げてきたんだって」

「そこに、ゼファーさんが来て、3人をあっというまに殴り倒したの」

「男のひとりが何発も撃ったんだよ。でも、ちっとも当たらなかった」

「まるで、身体がシュンカンイドウしてるみたいに見えたんだよ。カッコよかったよ」

 興奮した子どもたちは、支離滅裂なことをまくしたてている。

「で、ゼファーさんは?」

「まだ体育館にいるよ。警察が来て、いっぱい質問してるから」

 佐和は、靴が脱げるのも気づかず、走った。

 体育館の暗がりの中、大勢の制服の警官が忙しく動いている只中に、彼女の愛する男が立っていた。

 屋根の天窓から洩れ入る午後の光が、彼のまわりを七重の天使の翼のように取り巻いている。

「ゼファーさん!」

「佐和?」

 夫はびっくりしたように振り向いた。

 彼女は、彼の胸に勢いよく飛び込み、とりすがって泣いた。

「どうした? なぜ泣く」

「お願いだから、心配させないでください。もう、無茶なことはしないで!」

「……すまない、佐和」

「私こそ。ごめんなさい。……ひどいことを言ってごめんなさい、ゼファーさん」

「もういい。それにもう俺をゼファーと呼ぶな。今日から正人でいい」

「いいえ。私にとって、あなたはゼファーさんです。ずっと永遠に」

 涙でくしゃくしゃになった顔をあげて、夫の目を見つめた。

 はじめて出会ったときからわかっていたのだ。その深い色の瞳にひそむ不思議な魔力を。

「大好きです。ゼファーさん」

 体育館を出たとき、彼は秋の透明な青空を仰いで、何かにじっと目を凝らして黙って立っていたが、やがてぽつりとつぶやいた。

「ああ。腹がへったな」

 暢気な声に佐和はくすりと笑って、彼の手をそっと取った。

「家に帰ったら、おにぎりを、たくさんこしらえますからね」


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