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夜明けの足音


 夜明けの訪れを、ヴァルデミールはヒゲで感じる。

 濃紫の空から降りてくる冷たく湿った空気があたりを包むと、ヒゲがふるふると揺れるのだ。

 とたんに目が覚める。遊具の下から這い出て「にゃおん」と鳴く。その黒い体をしなやかに伸ばし、噴水の水で四本足と顔をちょんと洗い、コインロッカーに一目散に走る。

 ロッカーから出てきたのは、もはや黒猫ではなく、普通の服を着た、ごく当たり前のひとりの男だ。

 駅前の時計は、もうすぐ朝の四時。ヴァルデミールは、長い髪をなびかせて駆け出した。



 まだ闇の中で眠りをむさぼる町で、その一角だけが煌々と明かりを灯し、暖くて良い匂いの湯気をもくもくと吐き出している。自転車や単車に乗った人々が、続々と集まってくる。

「おはよう」

「おはよう」

「おはようございます!」

 ヴァルデミールも、彼らといっしょに元気よく扉の中に吸い込まれようとした。

 そこに突如、障害物が立ちはだかる。

「何度言ったら、わかるの!」

 赤い眼鏡を光らせた最高位の魔女、もとい、この『相模屋弁当株式会社』の社長、相模理子さがみのりこだ。その見幕に、ヴァルデミールはあえなく弾き飛ばされて、尻餅をついた。

「清潔がモットーのこの工場に、そんな汚らしい長髪で出入りしないでって、あれほど注意したでしょう。なんで切ってこないの!」

「お、お、おことばですが、このタテガミはわたくしの一族にニャくてはニャらないシンボルでして」

 両手で頭を抱えながらも、むなしく反論を試みる。

「なにが、ニャくてはニャらない、よ。いいかげんに、まともな日本語覚えろ!」

「ご、ごめんニャさい!」

「あんたは、もう工場に入らなくていいわ。会長がまだ自宅にいるから、さっさと迎えに行ってきて!」

「は、はい!」

 ヴァルデミールはあわてて立ち上がり、脱兎のごとく、工場の敷地をぐるりと裏に回った。

 裏手に隣接して、『相模屋弁当』の創業者・相模四郎と、その末娘の理子の家がある。

 地面にころげて埃だらけだった服を丁寧にはたき、息を整えると、ヴァルデミールは家のチャイムを鳴らした。

「おはようございます。相模会長。お迎えにまいりました!」

 しばらくして、インターホンから返事が聞こえてきた。

『入れ。開いておるぞ』

 彼は扉を開けると、家にあがりこみ、相模会長のいる居間へと向かった。

「お支度は、もうお済みですか」

「うむ。おまえを待っておった。このポロシャツのボタンが厄介でな。嵌めてくれんか」

 相模会長は数年前に脳梗塞をわずらい、右手と右足が不自由だ。箸を使ったり、字を書いたり、ボタンを嵌めたりするのが苦手で、ヴァルデミールはいつのまにか彼の身の回りの世話をまかされることが多くなった。

 会社の創業者であり、人生のあらゆる知恵を修めた賢人でもある老会長に付き従うのは、ちょっぴり誇らしい気分だ。

 ボタンを嵌め終えると、

「それでは、まいりましょう」

 ヴァルデミールは、彼の上着とステッキを持ち、玄関で靴を履くのを手伝った。

 ようやく東が白み始めた空を、相模会長は長い間じっと見上げていた。

「今日は、よく晴れそうだな」

「はい。快晴です」

「弁当屋は、いつも空模様をにらんでおらねばならん。雨になれば行楽用の弁当がさっぱり売れず、反対にビジネス街では、雨のほうがよく売れる。誰しも、雨の日に外出はしたくないからな」

「人間も猫もおニャじですね。猫も雨の日はどこへも出かけずに、できるだけ濡れないように軒下でじっとしてます。寒い日は車の下やエアコンの室外機なんかが暖かくて、ちょうど具合がいいんです」

「ヴァル、おまえの言うことはいちいち含蓄があるのう。それで、仕事のほうはどうだ。そろそろ慣れたかな」

「それニャんですよね」

 ヴァルデミールは、がっくりと首を垂れた。

「わたくし、社長のおことばだと、どうしようもニャく、トロいらしいです。月曜日は、弁当の蓋にシールを貼る作業を任されたんですが、ひとつ貼るのに一分以上かかってしまいまして」

「ほうほう」

「仕上がりがピッタリそろうようにと、定規で計りニャがら貼っていたんです。そしたら、社長にその定規を取り上げられて、角で頭をはたかれました」

「理子のやつ、相変わらず、することが荒っぽい」

「火曜日は、注文係さんたちのそばについて伝票を集めて回ったんですが、九時を過ぎると、いっせいにたくさんの電話が鳴り出して、頭が真っ白にニャってしまいました」

「ふむ。それは驚いただろう。近所の工場や会社の総務が、社内の注文を取りまとめて電話してくる時間は、どこもだいたい九時過ぎと決まっておるのだ」

「水曜日は、にんじんのカット作業をさせていただいたんですが、乱切りというのがまた、めちゃくちゃ難しくて、見本と同じ形にしようと削っていたら、また社長に頭をはたかれて」

「わはは」

「社長がおっしゃるには、弁当工場というのは、とにかく時間との戦いニャんだそうです。わたくしのように何をさせてもトロい従業員は、工場には要らニャいと言われました」

「そんなことはないぞ」

 相模会長はよたよたと歩きながら、ステッキをトンと地面に突いた。

「確かに、熟練の従業員は何をするにも正確で手早い。だが、おまえのような新人は、ひとつひとつの仕事に丁寧に心をこめることが、まず基本なのだ」

「そうでしょうか」

「心をこめず、手早いばかりの料理が美味いはずはない。時には、にんじん一本をいとおしむように調理することも、学ばねばならんぞ」

「はい、わかりました」

「理子の言うことなんぞ、男らしく堂々と無視しておればよいのだ」

「えへへ」

 ヴァルデミールは、ようやく笑顔を取り戻した。老人はそんな彼を息子のように、ニコニコと見つめている。

 だが工場に着いたとたんに、ヴァルデミールはポケットから輪ゴムを取り出して、あわてて髪の毛を縛った。

 やはり理子が怖いのだった。



「こんにちはっ。相模弁当です」

 ヴァルデミールは昼前になると、ゼファーの働く『坂井エレクトロニクス』を訪れる。

 工場内での仕事が失敗ばかりなので、この頃は町に出て、弁当を売ってくるように社長に命じられているのだ。

「おいしい弁当はいかがですかぁ」

「あ、ヴァル」

 旋盤のそばで働いていた樋池が、彼を見つけて駆け寄ってきた。

「今日のおかずは?」

「焼きさばと白和えと卵焼きと筑前煮です。500円」

「高いなあ、もう五十円まけてくれたら、買うよ」

「だめ。絶対にまけませんよ。うちの弁当は最高の素材を使ってるんですから」

「しかたないや。買うよ。矢口さんも弁当いります?」

「ああ」

 タオルで首筋をぬぐいながら、老工員も近寄ってきた。

 ヴァルデミールは、それぞれから500円玉を受け取ると、キャリアケースから弁当の包みをふたつ取り出し、油がしみて黒くなった二つの手に渡した。

「毎度ありがとうございます。樋口さん、お仕事はいかがですか」

「まだまだダメだよ。今日は回転シャフトの加工の練習をしてるんだけどね」

「ふーん、回転かぁ。乱切りも、手で野菜をくるくる回しニャがら切るんです。野菜の乱切りが機械で出来たらいいのにニャあ」

「野菜の自動カット機械だったら、もうとっくに発売されてるだろう?」

「でも、太さのそろったキュウリとかはいいんですが、根元が太くて先の細いニンジンの乱切りは、あんまりうまくいかニャいみたいです。うちは何百本というニンジンを、全部手作業ニャんですよね」

 そんな話をしている間に、他の工員たちも集まってきて、弁当を買っていく。

 最初はゼファーの知り合いということで珍しがって買ってくれた彼らも、今ではすっかりヴァルデミールと顔なじみだ。

 業績が振るわず、倒産寸前の会社だが、工員たちの顔は明るい。社長やゼファーたちトップに立つ者たちが、希望を失っていないからだろう。そして工員たちにも失わせないように懸命に努力しているからだろう。

「あ、シュニン!」

 二階から降りてきたゼファーを見ると、ヴァルデミールは喜びに顔を輝かせた。

「シュニンもお弁当買ってください。ちょうど最後の一個です」

「俺はいらない」

 ゼファーはにべもなく答えた。「佐和が作ってくれたおにぎりがある」

「それじゃ、奥方さまのおにぎりは、代わりにわたくしがいただきますから」

「佐和のおにぎりを、そんな弁当と交換できるか!」

「そんニャとは、ニャんですか。『相模屋』のお弁当をバカにしてますね」

「比べるまでもない。おまえこそ、『奥方さまの焼いた鮭は、相模屋の「しゃけ弁」よりずっと美味しいです』と、いつも佐和におもねっているくせに」

「そ、それとこれとは、話が別です!」

 ふたりの言い争いを見ながら、研磨工程の水橋ひとみは、うっとりと同僚に言った。

「奥様のおにぎりのことで、あんなにムキになれる瀬峰主任って、すてきだわ~」



「どうしよう、一個だけ余っちゃった」

 ヴァルデミールは、ほとんど空のキャリアケースを抱えて、とぼとぼと歩いていた。

「最後の一個っていうのは、なぜか売れにくいんだよね」

 弁当工場の近くの公園まで差しかかると、ひとりの路上生活者が疲れた顔でベンチに座っているのに気づいた。いつもあちこちの公園で寝泊りしているヴァルデミールは、その男の顔に見覚えがあった。

 拾ってきたアルミ缶や雑誌をたくさん抱えている。売って、わずかな金に換えて、今日の食事代にするのだろうか。

 ヴァルデミールは、ポケットの小銭をごそごそと探った。

 ベンチのそばを通り過ぎるふりをして、大きな声で「あっ」と叫んだ。

「おじさん、こんニャところに五百円落ちてました。これ、おじさんのでしょう?」

 ひょいとベンチのそばの地面に屈みこんで、硬貨を拾う真似をする。

 男は、戸惑ったように彼を見上げた。

「い、いや、この金は俺のじゃ……」

「いいえ、ここには他に誰もいませんし、やっぱり、おじさんのですよ。わたくしが拾ってさしあげたのですから、お礼にこのお弁当を買ってくれませんか?」

「え?」

「おいしいですよ。『相模屋』、『相模屋』のお弁当です。みんニャで朝の四時から、がんばって作っています。ボリュームも栄養もたっぷりですよ」

 ぽかんとしている男に弁当を押しつけると、「毎度ありがとうございます」とお辞儀して、ヴァルデミールは風のように走り去った。



 少し行くと、

「ちょっと、あんた!」

 路地から、社長の相模理子が般若のような顔で飛び出してきた。

「見てたわよ。あんた、ホームレスにうちの弁当を渡したでしょう」

「え。ど、どこから見てらしたんですか?」

 公園の上をホウキで飛んでいたのだろうか、と空を見上げる。

「垣根の裏からよ。丹精こめて作ったうちの弁当を、ただでくれてやるなんて、まったく呆れたわ」

「ただニャんかじゃありません。ちゃんと御代はいただきました」

「うそ。じゃあ、弁当二十個売った売上金、見せてみなさい」

 ヴァルデミールはおずおずと集金用の巾着袋を差し出す。釣り銭分を別にしても、確かに一万円の売り上げはそっくり残っていた。

「じゃあ、あんたまさか、自腹切って、あのホームレスに弁当を恵んでやったわけ?」

「恵んでやったニャんて。もらっていただいただけです」

「なんでそんな勿体無いことするの。あんたの給料なんて、ほんのすずめの涙しか渡してないわよ」

「だって、せっかくのお弁当を、ひとりでも多くの人に食べてもらいたいじゃニャいですか」

 ヴァルデミールはビクビクと身をすくませながら、言い訳した。

「あの方だって、今は公園で暮らしていらっしゃいますが、将来は社長に出世ニャさるかもしれません。そしたら、『相模屋弁当』の味を思い出して、社員全員分のお弁当を毎日注文してくださるようにニャるかもしれニャいんですよ」

「あんた……本気でそんニャこと考えてるの?」

 理子は唖然とするあまり、ヴァルデミールのことばが自分に移ってしまったことにも気づかなかった。

「そりゃあ、生き物は生きているかぎり、どんニャことにだって可能性があります」

「あんたって、頭が弱いの? 底抜けのバカなの? ……それとも」

 理子は口をつぐんで、じっと彼のことを見つめたかと思うと、プイと背中を向けて行ってしまった。



 朝の四時。

 いつものとおり、ヴァルデミールは工場に出勤した。

 今日は社長に締め出されないように、あらかじめゴムで幾重にも髪を結わえて、万全の装備を整えている。

 お仕着せの服と帽子に着替え、手をよく洗ってから、分厚い透明フィルムのカーテンをくぐった。

 朝礼では、社長がきびきびと指示を出した。

「紅葉がそろそろ見ごろの時期です。今日は金曜日だけど天気が良いから、たくさんの行楽客が出るはず。駅前に出す行楽用の弁当は、百個増産します。みんな頑張りましょう」

「はい!」

 五十人以上の従業員たちが、一斉に返事をした。

「ま、待ってください!」

 ヴァルデミールは、大きな声を張り上げた。「でも、今日は雨が降ります」

 社員たちは、「え」と一斉に彼のほうを振り返った。

「天気予報では、降水確率は10%だと言ってるわ」

 理子は、きっと彼をにらみつけた。「空を見てごらん。雲なんて全然ないじゃない」

「でも、降ります。九時ごろには、たくさん雨が降ってしまいます」

 ヴァルデミールは両の拳をぎゅっと握りしめ、力説した。

「わたくしのヒゲが、そうビンビンと感じてるんです!」

「あんたの顔のどこに、ヒゲなんて生えてるの!」

「心のヒゲです!」

「バカなこと言わないで。今日は晴れよ」

「雨です。だから行楽用の弁当は控えて、その代わりに、ビジネス弁当を増やさニャければいけません」

「晴れだってば!」

「理子!」

 ステッキをついた相模老人が、よたよたと事務室から出てきた。

「ヴァルの言うとおりにしなさい」

「お父さん、このバカに付き合って、会社をつぶすつもり?」

「もし損害が出たら、わしが全責任を負う!」

「会長、そ、そんニャ……」

 不安げに老人を見やるヴァルデミールに、相模四郎は満面の笑みで答えた。

「よい。それよりわしは嬉しいのだ。おまえがわしの教えたことを、忘れずに覚えていてくれたことがな」

「わかったわ!」

 理子は、叫んだ。「こうなりゃ、ヤケよ。行楽弁当を50個減らして、ビジネスランチを50個追加! もし雨が降らなかったら、地獄の果てまでも売りに行ってもらうからね!」



 そして、その日の朝九時前。

 突風とともに、バラバラと大粒の雨が叩きつけるように降ってきた。



 午後になると、空は元通りの秋晴れに戻った。

 勤務時間が終わり、工場の庭で大きな伸びをしていたヴァルデミールは、ふと背後に人の気配を感じた。

「社長」

 小太りの女性に向き直ると、彼は丁寧にお辞儀をした。

「今日はありがとうございました。わたくしの言うことを信じてくださって」

「あんたに礼を言われる筋合いはない」

 理子はしかめ面で、ぷいとそっぽを向いた。

「あれは、会長が大啖呵を切ったからよ。あそこで私があの提案を拒否したら、会長の面目は丸つぶれ。それは、会社の経営体制にとって決して得なことではない。それだけよ」

 彼女はしばらく何ごとか思案していたが、いつものダミ声とはまったく違う、か細い声で言った。

「あんたが来てから、父が別人のように変わったわ。お母さんが死んでからというもの、私には一度もあんな笑顔見せたことなかった。脳梗塞で体が利かなくなってからは、毎日『死にたい、死にたい』と、そればかり……」

 唇を噛みしめて、うなだれた。

「お父さんを喜ばせたくて、会社もせいいっぱい大きくしたのに。昔のお父さんに戻ってほしくて、わざと厳しく突き放すようなことも言ったのに。なぜ私にはできなくて、あんたにそれができるの……」

「社長は、本当は気持のやさしい方だったのですね」

「……そんなわけないじゃない。バカ」

「以前、シュニンが教えてくれたことがあります」

 ヴァルデミールは目をしばたいて、微笑んだ。

「誰でも、みんニャ、ホコリというものを持っていると。どんニャにお金があっても、着る服や食べるものがたくさんあっても、ホコリがニャくては誰も生きられニャいのだと」

「……」

「社長のお父上はあれほどの賢者でいらっしゃるのに、お年を召して、手足が不自由にニャられて、そのホコリをニャくしておられたのだと思います」

「……誇り」

「そうです。家がニャくて公園で暮らしているわたくしたちにだって、ホコリはあります。猫にヒゲがあるように」

「心の、ヒゲ?」

 彼女は、クスッと笑った。

「はい、そうです」

「あんたって不思議ね。浮世ばなれしてると思ってたけど、やっぱり普通の人間じゃない」

「そりゃもう。夜は猫ですから」

「……そう言えば、さっき変なこと言わなかった? 『家がニャくて公園で暮らしてる』って……」

「はい。言いました」

「それって本当のことなの?」

「はい」

「まさか、本当に公園で寝てるの?」

「すべり台の下を少し掘って、砂に潜りこむと、暖かくて、ニャかニャか快適ですよ」

 理子が小刻みに震え始めたのに、ヴァルデミールは気づかなかった。

「……お風呂は?」

「噴水で、ときたま水浴びします。このごろ寒いからあんまりしませんけど」

「よ、よくそれで、清潔第一のうちの工場へ……」

 ヴァルデミールは、得意げに胸をそらせた。

「ぜんぜん汚くニャいです。だって毎日、全身を綺麗に舐めてますから」

 相模社長はヴァルデミールの手首をひっつかむと、弾道ミサイルのような勢いで工場の裏手に回り、自分の家に駆け込んで、彼を頭からバスタブにつっこんだ。

       




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