相死喪愛 闇の章 第一話 狂い咲き
闇の章 第一話 狂い咲き
「ねぇ、藤川先生。私が殺したんだと思う?」
杉沢茜のその挑戦的な瞳は、きっと私の狼狽する姿を滑稽なものとして映していたのだろう。しかし、かろうじて保っていた理性の糸をぴんと張り詰めたまま、私が一言、
「何も、心配することはない」
というと、彼女はその美しい強い瞳に涙をいっぱいに溜めて笑った。
高校二年生である杉沢茜に惹かれ始めたのは最近のことではない。最初は、とても綺麗で強い瞳をした生徒だと思った。意志の強そうな、そうでいて女性らしい妖艶さをかもし出すその瞳に、私はなぜか惹かれていた。私自身が、五〇を目前に控えて独身であるということも影響していたのかもしれない。しかし、私にはその当時恋人である長谷川夕子がいたし、茜はまして自分が担任をしているクラスの女子生徒だ。ただ、元気よくはしゃぐのが仕事のような生徒の中で、その落ち着いた物腰と美しい容姿に、私は彼女を普通の女子生徒ではなく「女性」という視線で見つめていたのかもしれない。下手をしたら、教育実習生の教師の卵たちよりも、茜のほうがずっと落ち着いていたのだから。
恋人である夕子は、私がまだ三十代の頃に六年勤めていた高校の生徒だ。担任を受け持っていたこともあり、四年前に催された同窓会で再会した。もちろん、私の中では茜と同様受け持ちの生徒であることは変わりなかったが、再会したときにお互いの携帯電話の番号とメールアドレスを交換したことから夕子の方からその後も頻繁に連絡してくるようになった。最初のうちは同じ同級生たちと一緒に飲みに行く場に誘われたり、ときどき会ったりしているうちに彼女のほうから告白された。卒業したとはいえ教師と生徒という関係に罪悪感を感じ、断っていたのだが彼女の気持ちは変わらず、一年という期間を経て恋人関係になった。すでに付き合い始めてから五年。そろそろ結婚を考えなくてはと思っているのだが、夕子の方は「焦らなくても私は大丈夫ですから」と妙にさばさばとしている。私よりもちょうど二十歳年下である夕子も三十は目の前である。おそらく、私がこの年まで独身でいることに何らかの信念があってのことだろうと気を使ってくれているのだろうが別段そんなことはなく、ただ仕事にかまけて彼女に甘えてしまっているところも無きにしも非ずといったところだった。美容師をしている夕子とはなかなか会う時間がとれず、二年前からはそれを気にして私のマンションで一緒に住むことになった。私の両親はすでに他界しているので、夕子の両親に挨拶は済ませている。夕子の両親も娘のさっぱりとした結婚観を心配していないわけはないだろう。それが妙に、五十を目前にした私を焦らせていた。
「ホームルームはじめるぞ」
出席簿を持って教室に入ると、二年B組の生徒たちはすでに着席していた。最近気が付いたのだが、どうやら廊下を私が歩いていくと監視役の生徒がそれを見て着席の号令を出すらしい。何のためかはわからなかったが、それでも私が教室に入ると全員がきちんと着席しているのは助かる。ひどいクラスではホームルーム中でも生徒の立ち歩きやざわつきがやまないらしい。
「きりーつ」
日直のそれに続いて生徒たちが起立し、おはようございますと一礼する。私もそれに「おはよう」と返すと、日直が着席の号令を出す。いつもと変わらない朝の光景だ。
「今日は古文の先生が風邪で休みのため、テスト対策に向けた自習になる。監督は私が来るので、時間になったらすぐに自習を始めていること。自習内容は自由。四時限目までに自習の内容を自分たちで決めておくこと。それから、五時限目の体育は男子と女子で合同になるということだったので……」
朝の職員会議で出た内容の話をかいつまんで生徒たちに説明しながら、私の意識はふと茜の様子を気にしていた。自分の連絡用手帳に目を落としながら、窓際の一番後ろに座る茜の姿を思い浮かべる。いつものように頬杖をつきながら、やや退屈そうに私の後ろの黒板を見ているのだろうか。それとも、両手を机の上で組んでぼんやりと視線をさまよわせているのか。
「以上。あとは日直からの連絡」
日誌から顔を上げ、意識しないように教室全体を見回す。日直が日直日誌に目を落としながら立ち上がるのと、私と茜の視線がぶつかるのはほぼ同時だった。彼女は珍しく、私を見ていた。射抜くような鋭い視線が、私の戸惑う視線を一瞬で弾き飛ばす。
「えーと、今日の連絡は先生の言った自習の連絡と……」
日直が声を上げる前に、私は茜から視線を外していた。だが、私の鼓動はやや早く脈打っていた。なぜなら、さきほどの茜の視線には、うっすらと挑戦的な微笑が含まれていたからだった。
「藤川先生」
ホームルームを終えて職員室へ戻ると、副担任の松山恵美子が隣から話しかけてきた。四十代半ばの化粧の濃い教師で、生徒からはあまり評判が良くない。なんでも「松山先生は男子ばっかり贔屓して女子生徒には厳しい」らしい。そんなことが直接生徒から聞けるのは「藤川先生は顔は怖いけど、ちょっと優しいし絶対贔屓したりしないもん」という評判かららしかった。たしかに私は強面なので、初対面だと生徒どころか職員も戸惑うことがあるらしい。
「あの、杉沢茜のことなんですけどね」
突然のその名前に、私は先ほどの茜の微笑と視線を思い出した。そして、また高まってきそうな鼓動をやっと抑えて、
「杉沢がどうかしましたか」
と化粧の匂いが濃い辺りを振り返ると、思ったよりも近い位置にいた松山は困ったのよ、といいながら右手を右頬に当て、眉を思い切り下げてため息をついた。
「さっき藤川先生がホームルームに行ってるときに電話があって。どうやら杉沢さんが深夜頻繁に出歩いているっていう連絡があったの。ほら、先週末から春休み対策に各学校の担当の先生方が大通りを巡回しているでしょう?」
「あぁ、そういえば」
長期の休み前になると、各学校の教師たちが何人かの班にまとまって、順番に近くの繁華街や大通りを巡回することになっている。休み前から行うのは、巡回経路の確認や巡回している担当教師同士の連絡、学校との連絡、補導が必要になった場合の警察への対処などを細かく打ち合わせする予行練習も兼ねているためだ。長期の休みに入ると、また細かく分担が割り振られてほとんど毎日、深夜に担当の教師たちは巡回をしなくてはならない。班の割り振りは学校単位によって好きなように決められているが、私たちの学校では教頭が勝手に決めているようだった。もちろん、私もその班に割り振られていたが、私の班は春休みに入ってからの担当だったのですっかり忘れていた。
「私服で大通りを歩いているのを何度か見かけられているらしいの。各生徒たちの顔写真は他の学校の先生方にも配布されているでしょう?それに、あの子は特に目立つ容姿をしてるから気が付いたんじゃないかしら」
「特に目立つ?」
松山の個人的な見解なのだろうが、私は少し引っかかりを覚えて思わず聞き返した。すると松山は嫌なものでもみるような目をして、
「あ、決して派手な格好をしていたとかそういうわけではないらしんですよ。でも、ねぇ……ほら、わかるでしょう?先生も。なんとなく」
脳裏には、はしゃぐ女子生徒の中に混じる細身の茜の制服姿が浮かんでいた。目立つ。なるほど言われてみればそうなのかもしれない。なぜなら、私が妙に目をひかれているのだから。それなら、他の教師も同じような目で彼女を見ているのかもしれない。
そう思うと、なぜか心のどこかで何かがざわつくような感触を覚えた。
「でも、電話があったということはうちの先生が見かけたわけではないんでしょう?」
「えぇ、まあ。ただ、似た生徒が出歩いているなんて連絡をもらってしまった以上、確認しないわけにはいかないでしょう?」
松山はそれにやや不満げだった。多分教頭から小言の一つか二つでも言われたのだろう。そして、本来なら藤川先生が受けるはずなのに、と心のどこかで思っているらしいことはその目から推測できた。
「……わかりました。今日の放課後にでも本人に聞いてみます」
そうしてくださる?という松山の声と同時に、一時限目の始業を知らせるチャイムが学校に響いた。
自習、と大きく書かれた黒板の前に陣取り、黙々と自習を続ける生徒たちの姿を時折確認してはまた手元の参考書に目を落とす。卒業式はすでに済んでおり、この時期になると一、二年生は四月の休み明けテストの準備に忙しい。また二年生はすでに大学受験対策や就職活動対策にも取り組んでおり、春休みは何かと忙しい生徒も多かった。とくに私のクラスは大学進学希望の生徒が多く、早い生徒は夏休みから夏期受験向け講習に参加していた。
手元の参考書は教科書では補いきれない学習要項をまとめたものだった。私は日本史の担当だ。もちろん自分の受け持つこのクラスの日本史も教えていた。日本史を自習している生徒は時折手を上げて私を呼ぶ。
「先生」
目を上げると、茜の右隣の男子生徒が手をあげていた。参考書を教壇に置いて立ち上がると、その生徒も手を下げてまたノートに視線を落とし、教科書と交互に見比べながら首をかしげている。
「どうした?」
「この問一〇の答えが教科書に見つからないんです」
「あぁ、これは教科書の後ろについてる添付資料のところだ。教科書の注記がここだから、この部分だと……」
生徒の右側に立つようにして教科書を覗いているので、生徒を通り越して左側には茜の姿がちらりと見えた。だが、気にしないように意識を生徒の教科書へと集中させる。目的の項目を見つけて、
「これがここの問の答えになる。ただ、そのまま書くと減点だぞ」
「えー」
「問が現在の文化との違いを示せだから、これをそのまま書いても答えにならないだろ。現在の文化と、この答えの文化の違いを示さないと」
男子生徒が頭をかきながら唸る横でまた教室を見渡す。皆黙々と自習を続けている。しかし、その中にこっそりと手紙をやりとりする女子の姿を見つけた。これぐらいのことはどの授業でも日常茶飯事のことだ。見てみぬ振りをきめて視線を戻すと、足元にこんと小さな衝撃があった。視線を床に落とすと、消しゴムが一つつま先の辺りに転がっていた。
「すいません」
周囲の静寂を憚る小さな声。消しゴムを拾い上げてから声のしたほうへ振り返ると、そこで茜が小さく手を上げていた。
「私の消しゴムです」
「あ、あぁ」
男子生徒の背後を回って茜へと近づく。紺色の制服の袖から細くて白い手首が覗く。手のひらは小さく、しかし指は細く長くしなやかで、私はなぜか夕子の手のひらと比べていた。
「ありがとうございます」
茜はそういって、手のひらに置いた消しゴムをまだ掴んだままの私の指ごとふわりと包んだ。驚くほどに、彼女の指は冷たかった。ほんの一瞬肌が触れ合ったそれに、私は激しく動揺していた。
「先生、これでいいですかー?」
背後で男子生徒の声が上がる。瞬間、私はほぼ無意識に茜を見つめていた。茜は優しく微笑んで、私のことを上目遣いで見つめていた。
世界が一瞬、止まったような幻想を見た。
四時限目終了のチャイムが鳴り、日直の号令のもと授業が終わると廊下に飛び出していく生徒のほか、友人たちと集まって机を囲み、早速弁当を広げる生徒もいた。教室の隅へと視線を投げると、茜の机の周りには三人ほどの女子生徒たちが弁当を持参して集まり始めていた。先ほど質問してきた右隣の男子は、リーダー格の女子生徒に片手で追い払われている。話しかけられて無邪気に笑う茜の姿は普通の高校生だ。彼女の何に惹かれるのか、自分でも不思議に思いながら教室を出る。
廊下では教師と生徒が入り混じってそれぞれの目的の場所へと移動していた。ただ廊下で話しているだけの生徒もいる。一日の時間の中で、多分一番開放された気分になるだろう昼休みは、私にとっても良い息抜きの時間だった。昼食はいつも学食か職員用の弁当を取っていた。夕子は朝が早く夜が遅いので、弁当は作らなくてもいいと言っている。今日は職員用の弁当を取ってあるため、職員室に戻ると机の上に仕出しの弁当が置いてあるはずだ。
職員室に入ろうとしたところで、
「藤川先生」
と呼び止められた。振り返ると、そこには二年B組の男子生徒、溝端周平が立っていた。どうやら、先ほど授業が終わってすぐ付いてきたのだろう。
「どうした?用があるなら教室で言えば楽だったろう」
「……」
しかし、溝端は口を横に一文字に結んだまま私を見つめるばかりだった。ほかの生徒や教師たちがいぶかしげな眼で私たちを見ながらすれ違って行く。
「ここでは話しにくいことか?」
私のその言葉に、溝端が一つ頷く。
「そうか……ちょっと待ってろ」
私は溝端を職員室の外で待たせ、職員室内の鍵ボックスから進路相談室の鍵を取った。管理をしている教師に昼休みの間使用したいと頼むと、今日は特に使用する予定がないということですぐに借りることができた。
「よし、進路相談室に行こう」
直立不動で待っていた溝端にそう言うと、
「はい」
と小さく答えて私の後ろをついてきた。進路相談室は職員室から少し離れている。その間も、溝端は無言で私の後ろを静かについてくるだけだった。
溝端周平はバスケット部の新部長で、女子生徒からの人気も高い。放課後の体育館には溝端を目当てに女子生徒が集まってくるらしい。私は弓道部の副顧問なので実際にそれを見たことはないが、ときどき噂に聞いている。たしかに彼はすらりと身長が高く、細身だが筋肉質で高校二年生とは思えぬ綺麗な顔立ちをしていた。私も身長は一八五センチあるが、それに迫るくらいの身長の高さには驚いたものだ。成績も優秀で、毎回学期末テストの結果では学年のトップ五に入るほど。性格は明るく、いうなれば「爽やか」とでもいうのだろうか。
「よし、ほら、入れ」
「はい……」
薄暗い進路相談室のカーテンを開き、ソファに座るよう勧める。時折来客用にも使われるこの部屋にはコーヒーメーカーや小さな冷蔵庫なども設置されている。もちろん、進路相談に使われているので就職情報誌や大学進学用参考書なども用意されていたが、私は冷蔵庫から麦茶のペットボトルを出し、紙コップに注いで溝端の前のローテーブルに置いた。
「あ、ありがとうございます」
溝端はしばらく迷っていたようだが、紙コップに手を伸ばした。私もその向かいに座り、同じように紙コップの麦茶を喉に流し込んだ。
「それで、どうした」
一瞬、溝端の手が止まる。そして、二口目を飲もうとした手をそのまま机へと戻した。
「あの……」
しばらくの沈黙。重い沈黙を素直に受け入れる。長くて綺麗なまつ毛が細かく震えて逡巡しているのを思わせる。まるで、女性のような顔立ちをしている。なるほど、女子生徒に人気があるのが分かる気がする。
「先生、俺、学校……やめたいんです」
突然の告白に私は一瞬言葉を飲んだ。だが、全く予想がつかなかったわけではなかった。
「どうして?何か、気になることがあったか?」
「……」
膝の上に乗せられた拳はかすかに震えていた。いつもの溝端らしからぬ姿。
「別に誰かに話すようなことはしないし、場合によってはご両親にも言わないから。何かあったから辞めたいんだろう」
溝端を覗き込むようにして私が言うと、ふと溝端は目を挙げた。その瞳にはかすかに涙がたまっている。
「本当に……誰にも言わないですか?」
「……あぁ、約束する」
深くうなずいたが、彼はまだ迷っているようだった。だが、
「先生なら……」
と言ってまた麦茶の紙コップを手に取り、ぐいと一気に飲み込んだ。
「俺、付き合ってる子がいるんです。その子が、妊娠……して……」
私の嫌な予感がじわりと現実味を帯びた。なるほど、その手の理由で学校を退学になる生徒は一年の間に何人かはいるものの、自ら辞めたいということは……。
「責任をとるつもりか」
あえて重い言葉を発した。すると、溝端はこくんと小さくうなずいた。
「でも、お前のその姿を見てるとまだ迷ってるな」
一瞬、溝端が驚いたように私を見た。私は落ち着いて紙コップを手に取った。
「相手は?その子もうちの学校の子か」
溝端はまだ驚きの表情を浮かべていたが、素直に一つ頷く。
「同じクラスの……杉沢さんです」
ひやりと背筋を何かが舐めるように冷たくなった。
「杉……沢……」
「でも、僕たち愛しあってるんです!彼女のこと、絶対幸せにできるから……だから、学校を辞めて、働いて、彼女を……彼女と子供を、養ってやりたいんです。でも……」
溝端の声はあまり私の耳には入ってこなかった。ただ、彼の言う、愛しあってるという言葉だけは、脳裏によみがえる妖艶な視線を投げる茜になぜか、合わなかった。
「でも、彼女、堕ろすって……いうんです。子供を……」
「堕胎……」
溝端は頭を抱えた。
「俺、正直迷ってます。先生の言うとおりです。彼女と結婚して、子供も一緒に育てていきたい。でも、俺……」
「まだ、親になる決心はつかないか」
かろうじて絞り出した私の言葉は震えていた。おそらく、今この段階で、動揺しているのは溝端以上に私自身だ。
「それに、まだ、やりたいことも……あるし……本当は大学受験するつもりだったし。でも、彼女が子供を産む以上、俺のわがままつきとおすわけにいかないし……」
「……」
私は正直、どう言葉をかけていいものか迷っていた。自分のクラスからこういう問題が出ることは今までなかった。だから、どこかのクラスでこのような問題で退学していった生徒がいると知っても他人事でいた。そして、私自身が結婚していないことも影響している。そして、何より……茜が、相手だと聞いて動揺が隠しきれなかった。
「溝端……」
「先生、俺……どうしたらいいですか」
その質問に、いますぐ答えてやることはできなさそうだった。
「溝端、この話を俺に相談することは……その、杉沢には話をしたのか」
「はい、一応……ただ、今日するとは言ってないですけど……親に相談する前に、先生に相談しておきたくて」
ただぼんやりと、私は今日の茜の様子を思い出していた。あの微笑みは、やはり私に対する挑戦だったのだろうか。
「杉沢からも話を聞きたい。今日の放課後、話を聞くから……お前はちょっと落ち着いてもう一度考えろ」
「……はい」
放課後が少し遠のけばと、思った。
「あぁ、杉沢。ちょっといいか」
帰りのホームルームが終わってからすぐ、散り散りに出ていく生徒の中に混じっていた茜に声をかけると、取り巻きの女子たちから怪訝な目をされた。
「進路相談室まで。ちょっと話がある」
茜は一瞬眉をひそめて首をかしげたが、ふと教室の片隅に目をやってからさびしげに微笑んだ。視線の先をみると、溝端が一瞬固まり、すぐに教室から出て行った。アイコンタクトでもとったのだろうか。そう思うと、心の中の黒い塊がぞわりと動き出そうとする。
「帰りの支度をしてからでも、いいですか?」
「ん、あぁ。じゃあ、先に行って待ってるから」
出席簿を持って教室を出ると、後ろのほうで「なんかあったの?」と女子の声が聞こえた。聞いていないふりをして、教室からそのまま進路相談室へと向かう。昼休みのうちに、進路相談の担当教師には話をつけてあった。部活に向かう生徒たちに混じって廊下を進む。
昼休みのように進路相談室へと入ってカーテンを開け、冷蔵庫から麦茶を取り出した。ソファを振り返ると、まだ落ち着かない様子の溝端がそこにいるような気がする。麦茶を注ぐ手が思わず止まってしまう。
「失礼します」
ノックの後、そんな声がして茜がドアを開けた。注ぎかけていた麦茶が紙コップを外れて机にこぼれる。
「あ!」
慌てて近くの雑巾で机の麦茶を拭きとる。すると、茜が苦笑してそばへとやってきた。
「大丈夫ですか」
「あぁ、考えごとをしていたもんだから……」
茜は少しだけ首をかしげて、それから私が机に置いた濡れ雑巾をとると流しで洗い始めた。
「いいぞ、あとで俺がやっておくから」
「でも、すぐにやっておかないとにおいが付きますよ。これ、机拭き用のふきんみたいだし」
「あ、そうか……」
ふきんを洗い終えた茜はポケットから取り出してあったハンカチで手を拭いてからソファに座った。きちんと揃えられた足は白くて細い。スカートの裾は短すぎず長すぎず、紺のハイソックスが清楚だった。思わず見つめてしまい、慌てて紙コップに麦茶を注ぎなおした。
「部活は、大丈夫か」
「はい。今日は茶道部、お休みなので。といっても、ほとんどお休みですけど」
麦茶を差し出すと、ありがとうございます、と両手でそれを受け取った。その時気がついた。右手の薬指に、銀色の指輪が光っている。安いものだろうが、目に引っかかる。
「先生が考え事なんて……なんか不思議」
麦茶を一口含んでから、そう言って茜は笑った。その表情は少し子供っぽく映る。
「いや、それは……」
「溝端君が、相談しにきたんですよね」
いきなり笑顔で核心を突かれ、私は明らかに戸惑った表情を見せたのだろう。茜はいたずらっぽく微笑んで、また麦茶を一口飲んだ。細い首が上下した。
「私が妊娠した話ですよね」
「……」
私は黙って茜の前に座った。昼休みに溝端と対峙した時と同じように、茜に向き合うことに少し困惑していた。
「先生、溝端君に、辞めないでもいいって、言ってあげてください」
「……それは?」
彼女は唇を指先で少し拭いてから、紙コップをローテーブルに置いた。そして、膝の上に両手を置いて、
「あれ、嘘なんです」
とにっこりと笑った。虚を突かれ、私は固まる。
「彼、固まっちゃって。今の先生みたいに。で、まだ結論は出てないけど、学校辞めて働こうと思う、なんて言いだしちゃって。なんだかいまさら嘘なんて言えなくて」
「……じゃあ、堕ろすっていうのは……?」
「彼のことあきらめさせるのにはちょうどいいかなって」
少し困ったように茜は笑って小さく頭を下げた。
「先生にまで迷惑かけてすいません」
混乱はしていたが、先ほどまでの胸のつかえはとれた気がした。
「本当だな?本当に、妊娠なんてないんだな?」
ともう一度確認すると、
「はい。全然」
と茜が微笑む。私は突然気が緩み、長い溜息をついた。すると、深くうなだれた私の後頭部にくすくすと笑い声が聞こえた。
「先生、なんだか今日はらしくないですね。いつもすごく怖い顔してるのに、なんだかお父さんみたい」
「お父さんとはなんだ。あぁ、でも……」
たしかに私にはこのくらいの子供がいてもおかしくはないのだ。そう思うと変な気分だった。しかし、茜の姿をまた真正面から見て、娘、という言葉に妙な違和感を覚えた。
「話って、それだけですか?」
「あ、いや……それから」
茜が小さく首をかしげる。
「ほかの学校の先生から朝電話があってな。杉沢が、深夜に大通りを徘徊してるっていう連絡があったんだ。それは、本当か?」
ふと、茜の顔に影が差す。戸惑いと、どう言訳をしたものか逡巡しているような、そんな具合の表情だ。だがすぐに、
「一回だけ。溝端くんと遊びに行って、遅くなっちゃって……」
と右手の人差し指を立てた。
「頻繁に見かけられているという話だったぞ?」
私の厳しい口調に茜が唇を尖らす。リップクリームを塗っているらしい小ぶりな唇が可愛らしい。
「でも、そんなに夜遅くは……十時くらい……」
「十時なら十分夜遅くだろう。なんでそんな時間になるんだ」
だがそれには茜は答えなかった。視線をローテーブルのあたりにさまよわせ、
「すいません……」
と小さく呟くように言った。
「いいか。そんな時間に出歩くなんて危ないだろう。深夜に出歩くようなことはしないように。わかったな」
「……」
ふっと、茜と視線がぶつかる。動悸がゆっくりと、しかし確実に早くなっていく。
「ねえ、先生……」
茜がゆっくりと近づいてくる。
「私ね、溝端君とは付き合っていないんです。向こうが、付き合ってると思ってるだけ」
茜は私と見つめあいながら、ゆっくりと指輪を抜き取って私の目の前に差し出した。
「これも、かわいそうだからつけてあげてるだけ。だって、私が好きなのは……」
世界が一瞬凍りついた。開け放った窓から、綺麗な夕陽が差しこんでくる。
耳元で囁いた茜の声が、声が。
「おかえりなさい」
自宅に戻ると夕子がエプロン姿で出迎えてくれた。中からはいい香りが漂ってくる。
「ただいま。今日はビーフシチューだな」
「正解。昨日のうちに仕込んでおいたから、今日は帰ってきてすぐ出来ましたよ」
時刻は七時半を過ぎたあたり。夕子は一緒に暮らしだしてからはいつも六時半には美容室を上がってくるようになった。店長からは許しを得ているらしい。たまに指名が入って遅くなるときには必ず連絡をしてくれる。
「やっぱり、家に帰ると飯ができてるのはいいな」
スーツを預けながら夕子に言うと、
「楽チンでしょ」
と微笑んだ。健康的に日焼けした肌によく似合う明るい笑顔だ。
しかし、今日はなんだか、その笑顔が痛々しく見えた。私の見方が、変わってしまったからだろう。
「それにしても、今日は遅かったんですね」
「あ、あぁ……生徒指導があったから」
「担任の先生は大変ですねー。あ、今日洗濯機もうまわしちゃってるから着替えはカゴに入れておいてくださいね」
スーツの上着をハンガーにかけて、夕子はそう言ってからキッチンに消えた。
着替えを済ませてリビングダイニングに入ると、テーブルにはサラダボウルとパンが二種類ほど並んでいた。対面式のカウンターキッチンを覗くと、
「もう少し早いと思ってたからパン焼いておいたんだけど冷めちゃった」
と舌を出して、皿にビーフシチューを盛っていた。
「連絡すればよかったな」
「ううん。全然。あっため直します?」
「いや、このままでいいよ。腹減った」
皿に並んだ薄切りのフランスパンをかじる。
「あ、つまみ食い!」
二つの皿を両手に持ったまま夕子が唇を尖らす。だがすぐに笑って、座った私の前にビーフシチューの盛られた皿を置いた。
「じゃ、いただきます」
「いただきます」
今日の夕食の話題は、夕子の店の客の話だった。大体は夕子が一方的に今日あったことを盛り沢山で話して夕食が終わる。はきはきとかつぜつの良い夕子。茶色のショートボブを時折揺らしながら、大きな身振り手振りで話す。そのせいか、いつも夕子は私よりも遅めに食べ終わる。今日も、私のほうがすぐに食べ終わり、夕子は「ごめんね」と言いながら慌てて夕食を食べ始めた。
「そういえば、この時期に生徒指導なんて珍しいですよね」
パンをかじりながら夕子が思い出したように言った。すでに煙草に手を伸ばしかけていた私は、
「ああ」
と曖昧に相槌を返す。
「なんかあったんですか?」
「うーん……」
一瞬、何をどう話したものか悩んだ。そして、茜との放課後の出来事を鮮明に思い出し、煙草に火をつけようとした手が震えた。
「いや、担任してる学級の女子生徒が妊娠したから、同じ学級の男子生徒が学校を辞めるとか言い出したんだよ」
「えー!それって大事件!」
パンをかじっていた夕子が驚きで目を丸くする。
「いや、妊娠は嘘だったんだけどな」
「あ、そうなんですか。じゃあ、相手の男の子は?」
「まだ知らないから、今日中に本人同士で話すとは言ってたけどな」
夕子はへー、と小さく納得したように言ってからパンをかじり、それを咀嚼しながら「でも」と付け足した。
「嘘とはいえ、ちょっと酷いですよね」
「ん?」
「だって、きっとそれってちょっとからかうつもりで言ったんでしょ。きっと、っていうか絶対。私たちぐらいの歳だと、結婚するために騙したとか、変な話お金欲しさに嘘つくとかって聞いたことあるけど。高校生じゃそんなことありませんよね。ただの冗談にしてはちょっと酷いですよ。相手の男の子がかわいそう」
「あぁ……」
なんでそんなことするんでしょうねぇ、と言う夕子に、私は少し嫌な感情を抱いていた。茜のことを責めることは、したくない。
その夜、一緒に寝よう、という夕子の誘いを断って、先に夕子を眠らせ、私は深夜まで煙草を吸いながらリビングで過ごしていた。今夜は夕子と一緒に過ごすことは考えられなかった。脳裏に、あの茜の微笑みと、強い瞳と、耳元の囁きが残っていたからだ。
「だって、私が本当に好きなのは……」
思い出してはかき消すように煙草を吸いこむ。白い煙をゆっくりと吐き出しながら、からかわれたんだと自分に言い聞かせた。あの言葉は、はっきりとこう結ばれた。
「藤川先生だもの。ずっと……」
魅惑的な声。かすかに震えるように、少女のようでも女性のようでもある、その声が私のことを好きだと。しかし、高校生の女子生徒にからかわれたのだと、冷静な自分は考えている。当り前である。年端もいかぬ子どもである茜が、五〇を目前とした私に対して恋愛感情など抱くはずがない。子供である、茜が。しかし「妊娠」という言葉が私の想像を嫌なものへと変化させる。溝端が妊娠を確信した以上、茜との間にそういったことがあったというのは事実だ。子供だと思っている反面、もうすでにそういった行為をしているこという事実が私の中の嫌な思いを掻き立てる。
ただ澱のように心の底へたまっていく感情を、押し流すように煙草の煙を吐き出した。
翌日、少し早めに職員室へ入ると、教頭が私を見つけて慌てた様子で駆け寄ってきた。何事かと首をかしげていると、来客室に保護者が二名来ているという。
「杉沢さんと、溝端くんのお母さんが二人でいらしてるから早く行ってくれないか」
その名前を聞いただけで話の内容が見えた気がして、私は少しめまいを覚えた。どういった話し合いがなされたのかはなんとなく想像が付く。そして、保護者が二人そろって学校へきたということは、当然私の名前も挙がったのだろう。
「わかりました」
私は念のため「来客中により時間までに戻らなければ朝のホームルームをお願いします。藤川」と書いたメモを隣の松山の机に置いて職員室を出た。
来客室は職員室から少し離れた校長室と隣接した場所にある。ノックをすると、中からはいと返事があったのでドアを開けた。立派な応接セットに二つの女性の顔。テーブルには口のつけられていない緑茶が二つ綺麗に並んでいた。
「おはようございます」
軽く頭を下げてそういうと、母親二人も「おはようございます」と頭を下げた。この前三者面談をしたばかりなのでどちらの顔もしっかり覚えている。ソファの左側に座る、ややふくよかな体系をしたほうが溝端の母親で、すらりとした体系をぴんと伸ばしているほうが茜の母親だ。
「朝早くからすいません」
そういって母親二人はそろって頭を下げた。私も向かいに腰掛けながら、
「いえ、こちらこそご足労いただきまして」
と頭を下げる。少しの沈黙。こちらから用件を聞こうかと思った矢先、
「実は昨日」
と、また茜の母親の方が口を開いた。
「溝端君のお母さんからお電話をいただきまして。その、溝端君とうちの茜がどうやら交際しているらしいとのことなんですが、先生はご存知ですか?」
予想外の質問に私は一瞬面食らった。もうすでに私が周知の上での質問が来ると思っていたので言葉に詰まったが、
「えぇ。私も昨日、溝端くんから聞いて初めて知りました」
と正直にありのままを話した。
「じゃあ、周平から……その、ある程度のことも?」
遠慮がちに口を開いたのは溝端の母親のほうだった。おそらく、茜の妊娠や学校を辞めると言い出したことだろう。
「えぇ、聞きました」
私の言葉に、ため息をついたのは溝端の母親のほうだった。
「できればご両親にもしばらくは内密にしてほしいとのことだったので、あえてご連絡差差し上げなかったのは私の采配です。それは申し訳ありませんでした。しかし、昨日のうちに溝端くんから話を聞いた後で、杉沢さんとも一応話をして、その……」
「妊娠した、ということでしたけど」
茜の母親は、やや困惑したように、しかしはっきりとそう言った。
「えぇ、その件ですが。私が本人から聞いた限りでは、妊娠というのは冗談だったということなんです」
私の耳元には、あの甘い囁きが蘇っていた。時間が経過するほど、それは生々しく、零れる吐息までが思い出される。茜が今ここにいるように。
だが、私がそんな余韻に浸っていたのは一瞬の出来事だった。
「冗談!」
と声を裏返したのは茜の母親だった。その横で、溝端の母親は青ざめて口をあけたまま硬直していた。
「娘がそんなことを?」
「えぇ。私が聞いたときにはたしかに。あの、杉沢さんのお母さんは本人と詳しくお話になったんですか?」
いろいろ聞くうちに出てきた齟齬を確かめるため、私が尋ねると茜の母親ははっきりと「いいえ」と答えた。
「私は昨日の夜に溝端君のお母さんからお電話をいただいて、どうやら娘が溝端君とお付き合いしていて、妊娠してしまったようだと聞いたんです。溝端くんは責任を感じて学校を辞めるといっていると聞いたので、とりあえず担任の藤川先生にも相談してみようかと」
「溝端君のお母さんは、それなりに本人とお話になったんですよね」
「……え、えぇ。本人から話したい事があるといわれて……」
おそるおそる、といったような口調で溝端の母親はそう言うとまた俯いた。本人からの相談はよほど固い決意の元だったのだろう。それを簡単に冗談だったといわれて状況をうまく飲み込めないに違いない。
「実を言うと、私も妊娠が杉沢さんの冗談だったということは溝端くんには伝えていません。杉沢さんの話では、昨日のうちに溝端君と直接会って話をするということだったので……一応、本人同士の話をさせてから、今日二人を呼んで直接話を聞くつもりだったんです。でも、お母さんがたからの話を聞くと、そんな話し合いがあったようには思えませんね」
私の言葉に母親二人は一度目を合わせてから、
「そうですね……」
とため息混じりに言った。
「二人はもう家は出られたんですか」
「えぇ、子供たちには言わずに来ようと溝端さんとも相談していたので。家を出たのを確認してからきました」
「じゃあ、そろそろ着いてる時間だな……」
腕時計を見ると生徒たちの登校ラッシュの時間帯だった。おそらく二人もこの時間帯には教室にいることだろう。
「あの……先生」
そう口を開いたのは溝端の母親のほうだった。
「はい」
「できれば、子供たちとの話し合いはまだ避けたいんです。本当に杉沢さんの妊娠が嘘ならば、うちの子もいろいろ考えると思いますし……」
できるなら今二人を呼び出して話をさせようと思ったのだが、親がわざわざ子供たちと時間をずらしてきているわけである。そこは尊重しないとならないか、と考え直して姿勢を正した。
「では、どうでしょうか。今日中に、また二人と私が話をしてみます。昨日直接会うという話もどうなったかわかりませんし、もしかしたら何らかの事情で会えなかったのかもしれないですし」
その提案に母親二人はしばらく考え込んでいたが、
「よろしくお願いします」
と揃って頭を下げた。
「では、どうしますか。今日の結果は、お電話でご連絡差し上げるという形でよろしいですか」
「そうですね。そのほうが助かります」
全ての生徒の連絡先は事務所に行けばわかるようになっている。昔は担任教師が全ての連絡先を控えていたものだが、今はプライバシーの問題で学校もうるさくなっているのだ。何時ごろに話を聞けるかわからないので、かけられたとしても夜の七時から八時の間になることを了承してもらった。
「あの、ちょっとすいません」
三人揃ってソファをたったところで、茜の母親のほうがそういって溝端の母親に耳打ちした。すると、溝端の母親のほうは、
「では、私はこれで……」
とまた一つ頭を下げてから来客室を出て行った。完全に二人きりになったところで、
「すいません、長い時間……」
と茜の母親が深々と頭を下げる。
「いえ、でも、どうなさったんですか」
ソファを勧めながらそう言うと、彼女は少し思案するように黙ってから、
「実は、茜の妊娠のことなんですけど」
と切り出した。
「えぇ、さっきの」
平静を装いながら返事をするが、かすかな手の震えがとまらない。緊張しているのだ、と認識するのと、
「本当に冗談なんでしょうか」
という茜の母親の言葉が発せられるのはほぼ同時だった。
「といいますと……?」
一拍遅れて私の言葉が来客室に響く。茜の母親の方は少し俯き加減になりながら、
「私には……いえ、まだ本人と話していないので、先生のお話を聞く限りですけど。どうも、本当は妊娠しているのにそれを隠そうとしているような気がしてならないんです」
とまっすぐ私のことを見つめた。茜にはあまり似ていない。いや、茜が似ていないのだろうが、私の脳裏にはまっさきに茜のあの姿が浮かんだ。
「今日の話し合いがどういう結果になったとしても、できれば一度、病院で本当に妊娠していないか確認しないと気が治まりそうにないんです」
昨日の放課後、夕焼けの陽気に変化しつつある日差しの中で「あれ、嘘なんです」と困ったように笑いながら言った茜を思い出す。その言葉は真実か。たしかに私はなぜ、この瞬間までそれを疑わずにいたのだろう。
「……わかりました。では、その件も話してみましょう。溝端君にも、勿論話しても大丈夫ですね?」
「……え、えぇ。そうですね」
茜の母親は一瞬逡巡するような目をしたが、すぐにそう答えた。
「では、また後ほどお電話いたします」
「よろしくお願いします」
私たちがソファを立ったのと、ホームルームの開始を知らせるチャイムが鳴るのはほぼ同時だった。茜の母親を職員用の玄関まで送りながら、今頃は松山がホームルームへ向かっているだろう姿を想像し、歩調を少しだけ緩めた。
朝の一件の他は特に変わったこともなく放課後まで時間が過ぎていた。溝端と茜の二人には、昼休みのうちに放課後進路相談室へくるように伝えてあった。昨日から進路相談室の使用が激しいので、担当の教諭からは「熱心ですね」と嫌味なのか本当にそう思われているのかわからないような言葉を頂戴していた。
帰りのホームルームが終わり、一度職員室へと戻って日誌や出席簿を元に戻してから進路相談室の鍵を借りる。
進路相談室へ行くと、すでに二人が扉の外で並んで待っていた。
「待たせてすまないな」
小走りで駆け寄って鍵を開け、二人を先に座らせてから私も向かいに腰掛けた。そして、少し沈黙してから、
「昨日の話だが」
と口火を切った。それまで俯いていた二人の顔が同時に上がる。
「溝端にはいってなかったが、昨日の放課後、杉沢とも二人で話をしたんだ。そこで、杉沢から溝端と二人で昨日のうちに直接会って話すと聞いたんだが、その話し合いはあったのか?」
ちら、と溝端が意外そうな顔をして茜を振り返った。が、茜はそれに答えず、
「いいえ、昨日は私の都合が悪くなったので直接会って話は出来ませんでした。だから溝端君は何も知りません」
とはっきりと答えた。昨日のような甘い表情は微塵も感じさせない冷たい表情。気になって膝の上に置かれた手を見ると、その指から昨日までしていた指輪がなくなっていた。
「そうか。じゃあ、私の口から昨日のことを話してもいいか?」
「はい」
迷いのない答え。私はかいつまんで、溝端に彼女の妊娠が嘘であること、冗談で言ったつもりがあまりにも溝端が本気になったためにこれまで言い出せなかったこと、昨日溝端から私に相談するという話を聞いて私には正直なところを話してくれたことを伝えた。話していくうちに、溝端の表情は困惑とも安堵とも取れぬ表情を浮かべていった。
「溝端、昨日のうちのお母さんには打ち明けたんだってな。その話」
やや青ざめていた溝端は、それを聞いて一つ頷いた。それには茜のほうが驚いた様子だった。すっと溝端を視線だけで振り返り、何も答えない彼にまた視線を私へ戻した。
「実は、そのことで溝端と杉沢のお母さんがいらした。そこで今と同じような話を私からして、溝端のお母さんの方は納得したようだった。溝端も、今後のことを少し落ち着いて考えられる気になったろう?」
「……はい」
「……それで、これは杉沢との話し合いになるが……」
「母は納得しなかったんですね」
私の言葉をきちんと聞いていたのだろう。茜は即座に答えた。その目はひどく冷たい。私はその瞳に射すくめられるように言葉を失った。
「母のことですから。多分、病院にいって確かめろといわれたんじゃないですか」
図星だった私はなおのこと言葉を見失い、どう話を続けたものか悩んだ。溝端は放心したように机に視線を落としたままだ。こういうとき、なぜ男は戸惑うのかと溝端と自分の姿を心の中で投影して思う。
しばしの沈黙の後、茜はふっとため息をついてから、
「いいですよ。病院にいってきちんと確かめます」
と寂しそうに笑った。
「元はといえば私の嘘から始まってるわけだし」
それは自分自身を納得させるような響きであった。
「……そうか」
やっと出した私の言葉が妙に空々しく、言い訳がましい気持ちになる。だが、だからといってそれを補える言葉はなく、また重い沈黙が私たちを包んだ。
「ただ、条件があります」
ひた、と冷たいものが頬に当てられたような感覚。さっと目線を茜に移すと、彼女はそれまでの冷たい表情とは一転して、悪戯を思いついたような笑顔を浮かべて私を見つめていた。
「条件?」
「はい。まず、私の嘘からこうなってしまった以上、溝端君と付き合うことは出来ません。溝端君とは別れます」
えっ、という短い声が溝端の喉の奥から上がる。端正な顔立ちが驚きと不安で引きつっていた。これを他の女子生徒が見ていたらどんな気分になるのだろうと、頭のどこかで妙に冷静なもう一人の自分が考えている。いや、冷静なのではない。その自分には、私の身に起きていることは他人事なのだ、とまた余計なことを考える。
「それから、病院の付き添いには母じゃなくて、先生に来てもらいたいんです」
「……!」
今度は私が顔を引きつらせる番だった。なるほど、先ほどの笑顔は溝端に向けられたものではなく、私に対してのものだったのだと痛感した。
「私、母とは絶対行きませんから」
その瞳に、またあの冷たい視線が混じる。
そうか、私はこの、とりどりに変化する茜の視線が、好きなんだと、思った。
約束の七時を向かえ、私は職員室の電話からまず溝端の家へ連絡を入れた。そして、まだ和解したとはいえないものの、今回の一件で茜が責任を感じて溝端との交際をやめるとの話がでたことを説明した。溝端自身はまだ整理がついていないため、落ち着かないとは思うが少しの間考えさせてやってほしいこと、本人がもし相談してくるようなことがあればそれについては話を聞いてやってほしいことなどを話すと、母親は納得したように「ありがとうございました」とくぐもった声で言った。
次に茜の家へ連絡しようと受話器を持ち上げてから、これから話すことについて考えてため息をついた。どう説明をしたものか、この時間まで正直言って悩んでいた。
「はい、杉沢でございます」
数回のコールの後、母親が直接電話口に出た。
「第一高校の藤川です。茜さんのお母さんはいらっしゃいますか」
念のため確認すると、私ですと簡単に返ってきたので、失礼しましたと前置きしてからまずは溝端の母親に説明したのと同じ内容のことを話した。茜が溝端と別れると言ったことに関してはさすがに驚きを隠せないようでいた。
「娘からそう言ったんですか?」
母親の問いに、そうですと肯定する。すると「そうですか……」と沈黙した。
「あとは、お母さんからお話があった病院のことですが」
「ええ。きちんと行くといいましたか?」
「はい。病院には行くといってくれました。元はといえば自分の嘘から始まったことだからと納得してくれたようです。ただ……」
私が曇った声を出すと、母親は「ただ?」とやはり不安げな様子だった。
「実は、病院の付き添いには私に来てほしいというんです。その、お母さんとは絶対に行きたくないと……」
「……」
電話口が急に沈黙する。言葉が継げない気持ちはよくわかる。私自身、今この瞬間までもどうしたらいいものか悩んでいるのだ。ありのままを告げるので精一杯である。
「できれば杉沢さんとお母さんで、一度お話していただけないでしょうか。私も相談を受けた以上、きちんと最後まで見届けるつもりです。ただ、こういったことに関しては男の私よりもお母さんの方がいいのではないかと思いまして……」
男尊女卑、などという古臭い言葉はしかし今でも十二分に有効だ。こういったあとで、男だ女だなどと口にしてしまったのはまずいかと思い直した。そして同時に、私は今茜のことを一人の女性としてみていることに気が付いて急に動揺した。
「あの……」
何か言い訳をしようとしたところで、電話口の向こうから、
「私からもお願いできますか」
と聞こえて一瞬頭の中が真っ白になった。その意味を捉えあぐねて、
「え?」
と非常に間の悪い、そして歯切れの悪い問いかけが無意識に口から零れていた。素になった、とでも言うのだろか。
「なにかとご面倒をおかけして、これ以上は私もどうかと思うんですけど……娘がそういっているなら、娘の意見を尊重したいと」
一瞬だったが、この親子は一体どうなっているのだろうと思った。三者面談の時にはあまり感じていなかったが、二人間には何かしらの確執があるように思える。
「あの……」
「すいませんが、よろしくお願いします。病院の手配は、私のほうからしておきますので」
どうやら、私の意見というものはないのだとそのとき思い知らされた。
その数日後、学校は春休みを迎えた。校内は進学に向けた講習を受けに来る生徒や、春の大会などが迫る部活動があったりしてそれなりに活気に満ちている。しかし、やはり三年生のいない部分は大きく欠けている。四月にはそれを真新しい制服を着た一年生たちが満たしてくれるだろう。
職員室にはまばらではあるが教師の姿も勿論見られる。大体は部活動の合間に四月からの新学期に向けた準備をしにくる教師たちだ。私も三月中に新学期早々のテストに向けた試験作りに追われていた。
「藤川先生」
松山がふと時計を見上げて私を呼ぶ。作りかけの試験から顔を上げると、
「今日はお昼どうされます?」
と尋ねられた。春休み中も弁当をとることができるので、朝の十時までに仕出屋に連絡しなくてはならないのだ。これは普段の日は女性の教師たちが持ち回りで担当しているのだが、休み中は手の空いた教師が気が付いたときにやるようにしているらしい。
「あ、今日はいいです」
「持ってきてらっしゃるの?」
「いえ、今日は午前中だけで帰ろうと思ってたので」
「あら、ご用事ですか」
「えぇ、まあ……」
言葉を濁すと何を思ったのか、松山は「そうですか」と真っ赤な唇を不自然に曲げて笑ってから他の教師のもとへと歩いていった。松山が他の教師と話す間に時折ちらりと見える愛想笑いが、私のことを笑っているように思えてならないのは偏見だろう。これ以上見ていても気分が悪くなるだけのような気がしたので、またパソコンへと視線を戻した。今は一人一台ノートパソコン支給の時代だ。使い方がわからない年配の教師向けに情報処理担当の若い教師が時々講習会を行っていた。
数回のチャイムが響いたところで、私は腕時計を見た。あと五分で十二時を回るところだった。試験もだいぶ出来上がってきているので、内容を保存してパソコンを閉じると、隣の席にいた松山が、
「お帰りですか?」
と尋ねてきた。
「えぇ、お先に失礼します」
これ以上留まると何か聞かれそうな気がしたので、休み中も皆勤賞の教頭に「私はこれで」と挨拶をしてから職員室を出る。出たところで、内ポケットで携帯電話のバイブレータが振動したので取り出すと夕子からのメールが着信していた、
『ごめんなさい!今日残業確定です。新人さんのコンテスト指導が入っちゃいました。帰れて早くてもきっと十時ごろになります』
仕事中に慌てて打ったのだろう。彼女にしては珍しく絵文字がなかった。私は絵文字を使うような柄ではないので、
『わかった。夕飯は外で済ましてくるから、あんまり遅くなるようなら連絡しろ。迎えに行くから』
とだけ打った。職員玄関から出て車に乗ろうとした直前、また夕子からメールが着信し「ありがとう」という内容を確認して愛車である黒のアウディに乗り込んだ。
普段は通勤に車は使っていない。日ごろは夕子が通勤に使っているからだ。私の高校は自宅近くの駅から電車で行けばすぐだが、夕子の美容室はもともと離れて住んでいたため、私の家からかなりの距離がある。電車でもいけるのだが駅から離れているので少し歩かなくてはならないのだ。それならば車で行ったほうが夜も夜道を歩いたりせず帰ってこれるので安心だろうと勧めたのである。
「今日はちょっと車を使いたいんだがいいか」
朝の会話を運転しながら思い出す。夕子は最初訝しげに、
「何かあったんですか?」
と尋ねてきたが、
「この前の妊娠がどうのこうのって生徒がいただろう。親と相談して病院に一度連れて行こうって話になったんだよ。もしかして、本当に妊娠してたら申し訳が立たないからって」
と正直に答えた。ニュアンスは違うにしろ、そこまでは本当の話だ。
「でも、どうして久紀さんが車出すの?その女の子のご両親だって車ぐらいあるんじゃない?」
たしかにここまでは想定のうちだった。ここで私は初めて嘘をつく。
「いや、車は持っていない家なんだ。ご両親が車の免許を持っていないらしい」
「じゃあ、バスとか電車とか……」
よほど不満なのか、夕子の口ぶりが変化してくる。
「その子のお母さんの知り合いがやってる産婦人科があるらしいんだよ。高校生だし、事情が事情だから、近い産婦人科よりもそこに行きたいそうなんだ。そこがちょっと電車やバスじゃ行きにくいところらしくてな」
「……まあ、そういうことならしょうがないけど……」
まだ口を尖らせていたが、
「今朝は駅まで送ってやろう」
と私が言うと、
「ホント?」
と目を輝かせた。
産婦人科が茜の母親の知り合いが経営していること、そこが電車やバスでは分かりにくいというのは本当だった。あの電話から少し二日ほど経ってから茜の母親から電話があり、産婦人科の知人に事情を説明して予約を入れておいたので、都合はいいかという事後確認のような内容だった。茜の予定はどうなのかと聞いてみると、それについては本人も承諾しているということだったので、ほぼ強制的に病院へ行く日取りは決まった。
学校から車を走らせ、待ち合わせ場所である茜の自宅から程近いという駅のロータリーに車を停車させた。車を知らないので分からないだろうと思い、あらかじめ聴いておいた茜の携帯電話に電話を入れる。時計を確認すると、約束の十二時半を少し回ったくらいだった。
「はい、もしもし?」
コールがぷつっと切れる音がした後、聞きなれない茜の声が耳元でざわつく。電話で聞く声と、日ごろ聞いている声はまた違って聞こえた。そして、あの耳元の囁きを思い出して耳の奥が熱くなるのを感じだ。
「ああ、先生だ。もう駅前にいるのか?」
一瞬の間のあと、何とか搾り出した言葉。
「はい。あの、今入ってきた黒い外車がそうですか?見えてるんですけど」
「ああ、じゃあ今外に出るから」
電話オ当てたまま運転席を出ると、同じように電話を耳に当てたまま歩いてくる白いコートの女が見えた。艶のある黒髪は胸の辺りまでの長さがあり、毛先はゆるくウェーブがかかっている。ピンク色の小さなバッグを肩にかけ、白くて長い脚はキャメル色の膝丈まであるブーツで隠れていた。
「先生、おはようございます」
そう話しかけられるまで、私は彼女に見惚れていたのだろう。そして、その声を聞くまで、彼女が茜だということを認識できなかった。
「あ、あぁ……おはよう」
まだぼうっとした頭で返事を返すと、茜は一度首を傾げてから微笑んだ。
「今日はよろしくお願いします」
何なのだろうか。この、込み上げて来る背徳感は。
ろくな返事も出来ずに、私は彼女を車へ乗るよう促した。
茜を助手席に乗せ、国道をそれた脇道へと入る。病院までの道のりは、茜の母親がインターネットの地図で出しておいてくれたものを使っていた。
「保険証は持ってきてるか」
「はい、大丈夫です」
念のため確認すると、茜はわざわざバッグの中から小ぶりな財布を取り出し、一度確認してからそう返事をした。財布は二つ折りのベージュ色をしたエナメル材。高校生が持つにしては少し質がいいような気がした。よく見ると、財布に付いた飾り(チャームというのだろうか)とバッグのものと同じロゴのものが付いている。ブランド物かもしれない。だが、私の知っている高級なブランドのものとは違うようだった。
「あれから、溝端とは話をしたのか」
急に核心をついたために驚いたのだろう。茜は小さく「あ」とも「え」とも取れぬ声を出して私を振り返った。そして、少し黙ってから、
「いくら話しても分かってもらえないんです。もうこれ以上付き合えないって言っても聞いてもらえなくて」
「……そうか」
「指輪も返したし、アドレスも削除したし、もう本当にやめようって言っても、そんなことは気にしなくていいから、もう少し考えてくれって……」
少し気にするように右手の薬指をさすった彼女が痛々しく映る。あのとき、私の前でするりと抜いて見せた指輪は、まだあの指に感触を残しているのだろうか。妙な想像を働かせて、動悸が早くなるのを感じた。
「ねぇ、藤川先生は、お付き合いしてる人、いるんですよね」
思わぬ質問に私は思わず彼女を振り返った。すると、
「先生、信号赤!」
と前を指差され、危うく横断歩道に突っ込む手前で急ブレーキをかけた。
「あ、あぁ……すまないな」
ブレーキを踏む足に余計なほど力をかけながら笑ってみせる。その笑顔は引きつっているに違いない。茜はそんな私を見て少し寂しそうに、
「やっぱり」
と呟いた。
「でも、そんなことを話した覚えはないが」
「はい。先生から直接聞いたことなんてありません。でも、一度職員室の外で電話をしてるのを立ち聞きしちゃいました。今日は遅めに帰るから、晩御飯は先に食べてて良いって。先生結婚してないし、ご両親もいないって話だったし、じゃあ彼女かなって」
そんなことまで一つ一つ覚えている茜に、私は少し感心していた。教師のプライベートな出来事など、生徒にとっては一時の話題にはなるがすぐに風化されていく。
「でも安心してくださいね。多分それを知ってるのは私だけだから。友達はみんないなかったし、先生も周りに人がいないと思って電話してたでしょ」
ちら、と横目で彼女を見ると、悪戯っぽい表情を浮かべて前を向いていた。なぜか私は、脅迫されているような気分になっていた。
「どんな人なんですか、彼女さん」
青信号でアウディを滑らかにスタートさせると、茜は楽しそうに尋ねてきた。一体何を考えているのか分からない。一瞬どう話そうか迷ったが、
「はつらつとして、元気な女性だよ。美容師をやってる」
というと、茜は「美容師さん」と含むように復唱した。
「何歳ぐらいの人なんですか?」
「うん?今年で三〇だよ」
「じゃあ、一九歳違うんですね」
「いや、正確には二〇だ。俺が今年で五〇だからな」
「あ、そっか。年の差ですね。今流行の」
「流行ってるのかは知らないが、まあそうだな」
誘導尋問のように茜の言葉につられて夕子のことが語られるのが不思議で仕方がなかった。だが、夕子と二人で茜の話をするときの嫌悪感はまったくない。むしろ、どこか感情というものが吹っ切れている。まるで他人事のようだ。
「もう長いんですか?」
「五年経ったからな。そこそこ長いな」
「へぇ……」
意味ありげな相槌。そして、茜は少し考えてから、
「じゃあ、私が割って入るのは難しいのかな」
と言って、ふふと小さく笑った。その意味を汲みあぐねて、一瞬私の思考がとまった。
「ねえ、先生。私、あの時言ったこと。あれは、嘘じゃないですよ」
甘い囁き。車の走る音すら聞こえなくなる。響くのは茜の、子供のような女性のような不思議な響きの声だけだ。蘇る言葉の記憶。この数日間の非日常。心の中に澱のように溜まっていく、認めたくない感情。
「杉沢……お前」
くす、と茜が小さく笑いを漏らす。
「だって、もうずっと前から、先生の中に私はいるでしょう?」
心の中を見透かされたような気がして、私は言葉を失った。
病院についてからは、私は車の中で待つことになった。
「だって、先生。待合室に居づらいでしょう?」
一応付き添いとして行こうと車から降りた私に、茜はそう言って苦笑した。すでに母親からは連絡が付いているので、それさえ受付で説明すれば診察してもらえるという手はずらしい。
「検査が終わったら呼びます。それまで車で待っててください」
そういわれて、私はエンジンを止めた車の中で待つことにした。駐車場はそれほど広くないが、私たちが入ったときには二、三台の空きスペースがあった。どうやらほとんどの患者が歩いてくるらしい。ベビーカーを引く女性や、妊婦が次々と中へと入っていくのを車の中からぼんやりと眺める。
「私、子供は二人かな」
突然、夕子の言葉を思い出して私は無性に煙草が吸いたくなった。だが、茜がこの後また乗ることを考えると憚られた。それに、窓を開けて吸うのは外の患者たちに悪い気がした。
夕子との結婚は、それは行く末の妊娠、出産につながる。夕子はそれを意識してかしないでか、ある日そういったのだった。答えあぐねていた私に、
「でも、しばらくは二人でいたいですけど」
と苦笑したのだった。それは、否応なしに、いつまでもずるずると交際を続ける私に対する何らかの意思表示なのだと思わせた。
「焦らなくても大丈夫ですから」
そんな言葉とは裏腹に、やはり彼女の中にはある程度の人生の設計図が描かれているのだろう。私のことを思っての言葉なのだろうが。
五年.五年という月日は長いようで短い。そして、きっとお互いを知ろうという気持ちは薄まり、互いを知ったような気になり、何かを見失っている。そんな気がする。
だから、惑わされるのだ。
私は病院を睨んで、そして苦笑した。結局、煙草は吸わずに何か飲もうと、駐車場脇の自動販売機でブラックコーヒーと、少し迷ったが温かいミルクティを買って車に戻った。腕時計を確認すると、ぼんやりしているうちにすでに三〇分ほどが経過していた。
それから、コーヒーを飲みつつ待つこと十五分。病院の出入り口から茜が手招きするのが見えた。慌ててコーヒーをドリンクホルダーに置いて車を出る。
「第二診察室です」
茜の先導で院内に入ると、診察を待つ患者が並ぶ受付で訝しげな目をされた。だが、私は平静を装って茜の後ろについていった。おそらく、こうしていれば父親と娘に見えるだろう。慌てる必要も、後ろめたく思う必要もない。
「失礼します」
第二診察室、とプレートの掛かった診察室へ入ると、柔和な顔立ちをした小柄な中年女性が白衣を着て座っていた。診察台と、簡単な机、患者用の椅子が二つ。
「はじめまして。羽生と申します。付き添いの先生でよろしかったですね?」
「はい。藤川と申します。はじめまして」
羽生と名乗った女医は、一度黙ってまじまじと私のことを見てから苦笑した。
「すいません。勝手に女性の先生だと思っていたものですから。杉沢からは先生の性別までは聞いてなくて。なにぶん、こういう場所ですから」
「あぁ、ええ……そう、ですね」
私はどう答えたものか迷い、結局しどろもどろになりつつそう答えた。
「まあ、おかけください。茜ちゃんも」
「はい」
その呼びなれた感じに、こういった形ではないのだろうが羽生と茜には面識があったように思えた。羽織っていたコートを脱いでから、勧められた患者用の椅子に座る。
「事情は杉沢からほぼ、聞いています。大変ですね、先生も」
どう説明されたのかは詳しく知らないので、付き添いが茜の言い出したこととは言わないでおくことにした。無難に「生徒の相談でしたから」と答えると、
「いまどき珍しいですよ、そこまでしてくれる先生は」
と保護者の顔つきで笑った。
「杉沢とは大学時代の友人で。茜ちゃんとも小さい頃は何度も顔をあわせていましたから懐かしかったですよ。茜ちゃんが幼稚園に入る前に、杉沢は引っ越しちゃったのでほとんど連絡もなかったんですけど」
そう言って茜を振り返る羽生の表情は母親のものだ。
「だからといっては、ちょっとあれですけど。今回のことはびっくりしましたね。でも、ご安心ください」
そう言って、羽生は一度茜に笑いかけてから、
「大丈夫。茜ちゃんの言うとおり、妊娠はしていませんでしたよ」
と微笑を崩さずそういった。私の中で燻っていた嫌なものが溶けていく。
「そうでしたか。じゃあ、これでちゃんと報告できるな、杉沢」
隣の茜もほっとしたように肩を落としてから微笑んだ。それは私が見てきた茜の表情の中で一番等身大とも思えた。
「ただ、先生。これは私が口を出すことではないと思うんですけど」
羽生は少し厳しい口調でそう切り出した。安心したのもつかの間、私たちの表情が同時に強張る。
「私は私立の女子高だけですが、時々高校生の性交渉についての問題について生徒たちに指導することがあるんです。今の高校生はたしかにそういったことに対して自由ですが、自由すぎて誤った妊娠、そして中絶をして子供が二度と産めないような体になってしまった子もたくさん見てきています。もちろん、実際にそういった子達を見ている我々医師が指導するのは当然です。でも、日ごろから先生方たちもそういったことに対する意識付けをされているのか、いつも思うんです」
そう言って彼女は壁のポスターを指差した。先ほどまでは目に入らなかったが、そこには「大切な将来に、大切な人の子供を」と大きな字で書かれ、避妊具を使うことや、興味本位での不特定多数との性交渉の危険などが書かれていた。
「日本では年々、エイズの発症者も増えています。学校の先生方の指導も、大切だと思いますよ」
釘をさすように、羽生にそういわれて私はポスターから視線を移す。横で茜が、ひどく不機嫌な顔をして座っていた。
病院の駐車場を出てしばらくすると、
「これ、飲んでもいいですか?」
とドリンクホルダーにそのままになっていたミルクティを指差した。もうしばらく経つのでぬるくなっているだろう。
「あったかいのを買ったんだけどな。新しいのをどこかで買うか?」
だがそれより先に茜は缶を取ると、プルを開けて両手で包むようにしてミルクティを飲んだ。
「ぬるいです」
「そうだろう」
「でも、これがいいです」
そういってまた一口飲むと、小さく「おいしい」と微笑んだ。道が悪いので車がはねるたび、白いコートにミルクティが飛ばないものかと心配になる。
「じゃあ、家まで送るから、道を教えてくれるか」
とりあえず、私は病院を出てからは待ち合わせ場所だった駅に向かって戻っていた。茜の家に近いという話だったので、駅まで戻ればあとは茜の道案内で戻る予定にしていたのだ。
しかし、私のそれに茜は黙り込んだ。ミルクティを両手に包み、それにじっと視線を落としている。私がそれに驚かなかったのは、その茜の行動をなんとなくではあるが予想していたからだった。
「先生、海が見たいです」
突然のそれには面食らったが。
「海?こんな時期に?」
「私……家に帰りたくないんです」
少し唇を尖らせてそう言ってから、茜は困ったように笑った。自分でわがままを言っているのを自覚しながら、困らせているのを楽しんでいるようだった。
「……少しだけだぞ」
私は、右の予定だったハンドルを左に切った。
この時期ともなると、日差しは暖かいが風はまだ冷たい。海風ともなればなおさらだ。だが、そんなことなど気にするでもなく、砂浜を茜がゆっくりと歩いている。革のブーツなのでさすがに波打ち際まで行くのは憚られているのか、海にそってゆっくりと散歩していた。
一方、私は駐車場から砂浜へ降りる階段の途中に腰掛け、そんな茜の姿を遠巻きに見ている。逆光でシルエットになった茜がどんな表情をしているのか分からないが、波が日差しを浴びて輝く中にゆっくりと歩く茜の姿はまるで海外のリゾート地か何かを写した写真のようだった。今日は比較的風も穏やかで波も少ない。そのせいか、日本でも指折りのサーフィンの地であるこの海でも、サーファーの姿はあまり見られなかった。
ここは、私と夕子の始まりの海でもある。始めて夕子と二人で出かけた場所もこの海だった。そこで私は一度目の告白を受け、それを断ったのだった。それから一年、夕子と何度となく会い、そしてまたここで夕子から告白を受け、私はそれを受けた。五年前、夕日の沈みかけた海辺で夕子が嬉しそうに笑った姿は今でも覚えている。
「先生」
回想の夕子と、いつの間にか戻ってきていた茜が重なって我に返った。彼女の手には、どこで買ってきたのかブラックコーヒーとカフェオレの缶。
「先生はこれでよかったですか?」
「ああ、ありがとう。払うよ」
「いいんです。診察代、あまったから」
飲み物でおなかいっぱいになっちゃいますね、と笑って茜は私の右隣に座った。駐車場には私たちの車しかない。誰も降りてはこないだろうし、誰も上がってはこないだろう。
「先生、私……」
ぽつん、と呟くように茜が言う。私が振り返ると、彼女はまっすぐ前を見つめたまま、大人びた憂いの表情をしていた。急にその表情が艶っぽく思えて、私は鼓動が早まるのを感じた。
「私、一年生の頃からずっと、先生のことが好きでした……」
突然の告白。それまでの思考が一瞬でホワイトアウトする。
「でも、先生は私のことなんて全然気にしてくれなかったですもんね。他の子たちが平気で先生に話しかけていて、とてもうらやましかった。それに……」
太陽の下で輝く海を遠い目で見つめながら、茜はそう言ってふっと笑った。魅力的な彼女の横顔に、私は目が離せないでいた。
「私は穢れた子だから、きっと先生みたいな人とは絶対無理なんだって、思うようにしていました」
「……穢れた子……?」
妙な言い回しが引っかかる。私が鸚鵡返しに尋ねると、茜は一つ首を縦に振った。
「私、母親に無理やり売春させられているんです」
背筋からつま先まで冷たいものが走る。しかし、冷静な部分ではあの母親と茜の態度の理由が分かった気がしていた。
「私が幼稚園に入る前に離婚して、母親と私と二人暮しになって、正直お金が必要だったのはわかります。ただ、私が体を売らなくてはいけない理由は一つも分かりませんでした。でも、まだ小さかった私は言われるまま売春をして、嫌がれば怒鳴られ殴られてを繰り返すうちに、もう反抗する気すらなくなったんです」
「じゃあ、夜の徘徊は……」
「それのせいです。夜、駅前でお客さんを取って、ホテル行って」
その寂しい微笑が、様子を回想しながら話しているのか自虐的なものへと変わっていく。
「今までは家で、うちの母親がお客さん呼んで、私の部屋で売春してたんですけど。うちの母親に男ができて。家で私たちがそんなことしてるのばれるとせっかくの再婚の話もなくなるとかで、学校が終わってからすぐに着替えさせられて、駅前でお客さん捕まえさせられるんです」
「今日の病院のことは……」
「たぶんそれは、私が溝端君以外の子供が出来てたらまずいと思ったんじゃないでしょうか。もしくは、他の人の子供を妊娠したことを私が溝端君のせいにしちゃったら問題になると思ったのか。推測はいくらでも」
ふわりと冷たい風が私たちの頬を撫でる。だが、もうすでに寒さは感じないほど、私の体のほうが冷たく冷え切っていた。
「だから、私は先生みたいなすごく素敵な人を好きになる資格なんてない、穢れた私を好きになってくれる人なんていない。そう思って、あきらめようとしていたんです」
でも、と小さく茜は続けようとして黙った。私はすでに、何か言葉をかけられるような思考状態ではなかった。ただひたすら、彼女の次の言葉を待っていた。
「半年前、溝端君にばったり出くわしてしまったんです。お客さんと、ホテルに入るところで」
客と二人で路地に入る茜と、それを後ろからつける溝端の姿が目に浮かぶ。ばったり、というには不適切な想像だが、私にはそうにしか思えなかった。
「彼、学校と親には黙っているから、代わりに付き合ってほしいって、言いました。私が拒否したら、そのときはこのこと学校にばらすって。ご丁寧に写メまであって」
進路相談室での言葉を思い出す。茜はたしかに「溝端君とは付き合っていない」と言った。それは、こういう意味だったのか。
「……でも、指輪は?」
ふっと思い出し、右手の薬指にはめられていた指輪を思い出す。
「契約の証、だそうです。恋人ごっこがしたかったというか……ようは、セックスをしてみたかっただけみたいでしたけど」
生々しい言葉が茜の口から出てくるごとに、私は耳をふさぎたくなった。信じたくない、という気持ちよりも、より彼女を「女」として認識してしまうことを恐れていた。彼女の肌を、それを目的として、きっと私ぐらいの年頃の男たちが触ったであろう現実が否応無しに私を襲う。
「このことは、母親には話していません。だから、正直溝端君のお母さんから電話があったときには驚いたんだと思います」
「溝端に妊娠したと嘘をついたのは?」
「そういったら、そろそろ解放してくれるんじゃないかと思って……さすがに、ちょっとひどかったかもしれないですけど、でも私は脅されて無理につき合わされているだけでしたから。早く解放してほしかった……」
小さく鼻をすする音。それがひどく可愛らしくいとおしく、だからといって何も出来ない私の不甲斐無さを浮き立たせる。そんな私をよそに、茜の独白は続く。
「そうしたら、突然今まで無理に付き合わせてすまなかった。これからは大切にするから、学校も辞めて働いて真面目に君と付き合いたいなんて言い出して。こんなに嫌な辛い目に遭わせておいて、そんなことはむしが良すぎるって、思わず彼のことをひどく罵っていました。何を言われてもしょうがないけど、もうそんな売春なんてさせないし、絶対に俺が守るから、だからお願いだから別れないでくれって」
彼女の声が徐々に涙声へと変化する。それに気づきながら、私は頭の芯が痺れたように麻痺してきていた。一体何を聞いているのだろうか。私は、茜と溝端のことなど、聞きたくない。
「私、もうこれ以上売春なんてしたくないです。溝端君とだって、もう何も考えたくない。だって、私が好きなのは……」
麻痺した感覚に、私の手に触れるぬくもりだけが伝わる。それが、私の手に重ねられた茜の手のひらのものだと理解するまでに数秒を要した。
「先生、私……帰りたくない。あの母親の家にも、溝端君のところにも」
あの鋭い強かな瞳に、今は切なくなるほど弱弱しい光と零れそうな涙。小ぶりな唇を噛み切りそうなほど強くかみ締め、何かに耐えていた。
そして、私は、耐えていた何かをおそらく、振りほどいた。
「先生……」
両腕できつく抱きしめた彼女の体は驚くほどに華奢だった。茜は最初驚いたように体を硬直させたが、
「何も言わないでくれ、何も……」
私のその言葉に、力を抜いて体を預けてきた。柔らかな髪の感触、ほのかに香るアカネの匂い、わずかに伝わる肌のぬくもり。抑えていた衝動が、今にも爆発しそうだった。
「先生……」
腕の力を少し緩めると、私に体を預けたまま茜が顔だけを上げた。頬を濡らす涙が痛々しい。切な過ぎるほどの微笑み。
「お願い……先生。ずっとこうしていて……」
波音だけが、私たちを包んでいた。見つめあい、言葉にならぬ何かを伝え合い、そして、私たちは唇を合わせ、何かを願った。
夢のような出来事から数時間後、茜を家まで送り届け、私は自宅へ戻っていた。連絡どおり、夕子はまだ帰宅していなかった。それだけが救いで、私は深くため息をついてからコートとスーツのジャケットを脱ぎ、ソファーに無造作に放って座り込んだ。煙草を吸う気力もない。唇に残る茜の感触が生々しく蘇るたび、それを煙でごまかしてしまいそうで吸う気になれないのだ。
とうとう私たちは、何かを越えてしまった。そう感じた。
夕子に合わせる顔がない。しかし、それは茜とのことを後悔しているわけではなかった。むしろ、私は夕子に対する後ろめたさよりも、茜への想いが強くなっていることに罪悪感を覚えていた。
その罪悪感とともに、私の想いを正論付けさせようと言い訳を考える。夕子と付き合いだしたのは、彼女の想いに根負けした部分もあった。たしかに、一年間いろいろな彼女を見てきて惹かれた部分もあったが、それは想いではなくいいところがあると思っただけだ。茜に抱くような複雑な想いは、はっきり言えば皆無だったといえるだろう。茜は私に好意を寄せていた。そして私も、同じように彼女に惹かれていた。お互いに惹かれあい、しかしそれはある意味で赦されないものであったから故の熱情へと変化していた。二人の思わぬうちに。
ぼんやりとしているうちに時間は容赦なく過ぎていた。夕飯を食べる気も起きない。時間が経つごとに、今夜彼女を家に帰してしまったことを後悔して始めていた。帰りたくない、といった彼女を諭し、家に帰すという仕打ちが悪魔のように感じられてきた。
携帯電話が着信を知らせたのは、十時を十分ほど回ったところだった。もう数時間も同じ姿勢でいたことになる。私は自分の時間の使い方に疲れながら、ジャケットに入れっぱなしだった携帯電話を取った。予想通り、着信は夕子からのものだった。
「あ、遅くなってごめんなさい!今駅の改札の前」
「そうか、今まだ家なんだ。これから出る」
「分かりました。じゃあ、ここで待ってます」
「あぁ」
なんともいえぬ後味の悪さを残して電話を切る。先ほど脱いだジャケットとコートをまた羽織り、家を出た。
車に乗り込み、スタートさせたところでまた着信があった。何かあったかと表示を見ると、それは夕子からではなく、茜からだった。嫌な予感がして、車を路肩に停めて通話ボタンを押す。
「もしもし?」
少しの沈黙。サーという砂嵐のような音がかすかにしている。
「もしもし?杉沢?」
すると、向こうでかすかな、
「先生……」
という声がした。その声のかすれ具合がひどく気に掛かった。
「おい、どうした?何かあったのか?今どこだ?」
自分の声がひどく狼狽している。だが、それを気にする余裕もなかった。またかすかな声で、
「学校……」
とぽつんと茜が答えた。
「学校?こんな時間になんでそんなところに!」
「……溝端君が、話を聞いてくれるって、呼び出されて……」
「溝端!」
思わず舌打ちしそうになって、私はぐっとその衝動をこらえた。
「溝端もそこにいるのか?二人でいるんだな!」
だが、その言葉に返事はなく、代わりに嗚咽が漏れてきた。何かあったには違いないだろう。とにかく、二人きりにさせておくわけにはいかなかった。
「今すぐ行くから!学校のどの辺りにいる?」
「……進路相談室から見える、大きな桜の木の下です」
「わかった」
電話を切って助手席へ放り投げる。自宅から学校までは車で飛ばせばすぐだ。私は路肩から急発進した。
学校へ着くと、職員用の駐車スペースには一台も車がなかった。この時間だ。当たり前である。私はラインを完全に無視して車を止め、進路相談室の窓へと走った。職員玄関から進路相談室までは外を走ればかなり近い。
進路相談室の窓の前まで来て、窓を背にしてまっすぐ真正面を向いた。そこから見えるのは、この学校が創立時からあるという桜の木だ。毎年三月から四月へ掛かる頃になると、一面桜色になるほど大きいものだ。今年も徐々に蕾が膨らみはじめていると聞いていた。
そこに、今夜は黒いシルエットが二つ並んでいる。一つはまっすぐ、まるで枝にぶら下がっているように見えた。そして、もう一つはその脇に、やはりまっすぐ、こちらは土から生えているかのように微動だにしていなかった。私の歩調は、意識していないのにゆっくりと、その二つのシルエットを確認するかのように歩いていく。
あと少しで二つのシルエットがはっきり見えるかという距離まで近づいたとき、雲の隙間から月の明かりが徐々に広がった。銀色のその光は、ゆっくりと、まるでそのときを楽しむかのようにシルエットへと光を与えていった。
枝にぶら下がっていたのは、太いロープで首をくくった溝端だった。
土から生えていたのは、それをぼんやりと見つめる茜だった。
私はその場に立ち尽くし、何をしていいものか悩んだ。妙に頭は冷静だった。溝端を下ろさなくてはと思ったが、その顔つきからすでに息がないことはわかったし、茜に何か声をかけなくてはと思ったが、その言葉だけが思いつかなかった。
どれくらいそうしていたのだろうか。最初に動いたのは茜だった。
「ねぇ、藤川先生。私が殺したんだと思う?」
振り返った茜は私を見て、そう言った。唐突な質問に私はひどく狼狽した。挑戦的な彼女の瞳が、私を射抜いている。
「何も、心配することはない」
声が震える。かろうじて保っている理性の糸が、頼りないものなのだとすぐに自覚する。しかし、茜のひどく寂しそうな悲しそうな微笑を見て、私は思わず彼女を抱きしめていた。
「大丈夫だ。私が何とかする」
「先生……」
茜が私の中で嗚咽を漏らす。彼女がどうして泣いているのか、私には分からなかった。溝端が死んで悲しいのか、自分のせいで死んだと思って責任を感じているのか、今の私にそれらを想像させるだけの理性はもう残っていない。
「とにかく、ここを早く離れるんだ」
私はコートで茜の体を包んでその場から離れようとした。だが、彼女は思いもよらぬ力で私を突き飛ばした。そして、目に涙をいっぱいに溜めて、
「やっぱり、ダメ……」
と笑った。
「茜!」
「私、やっぱり先生とは一緒にいられない……」
彼女の右手がコートのポケットへと入る。そこで、私は彼女が別れたときと同じ服装であることに気がついた。それまで、気が動転していたのかまったく目に入っていなかった。私は、彼女の瞳だけを見つめていたのだと、やっと冷静になってきた頭で気がつく。
ポケットから、彼女の手が引き抜かれると、そこには月の光を浴びて光るものが握られていた。それが剃刀だと気がつくまでに、時間が掛かった。
「私、今日溝端君が別れてくれなかったら、これで彼のことを殺そうと思ったんです。でも、ここにきたら彼、こうやって首をくくって、もし俺と別れるならここで目の前で死んでやるって。だから私……」
くしゃっと茜の表情が曇る。それまでの笑顔は消え去り、涙が頬を伝って首筋へと落ちていく。
「私、先生と一緒にいたいって。先生も私のこと受け入れてくれたからって。これ以上溝端君とは付き合えないって……」
溝端の足元を見やると、小さな踏み台が転がっていた。激昂した溝端が台の上から茜に掴みかかろうとする。それをかわそうとして逃げる茜をなおも追いかけようとして、怒りのあまり首にかかった縄を忘れ、踏み台を蹴る溝端。四肢をばたつかせ、やがてその動きが止まる。見たわけでもないのに、そんな光景がありありと浮かぶ。
「先生……私、本当に少しの間だったけど、先生と一緒に過ごすことができて嬉しかったです……」
その言葉が、私の耳に引っかかった。それは、彼女と言葉を交わすのが最後のような、妙な錯覚を呼び起こす。
「茜……?」
私が一歩踏み出すと、茜は持っていた剃刀を自分の首筋に当てた。
「やめろっ!」
「先生、私……先生のこと、愛していました」
「茜っ!」
月の明かりが、斜め横に切断される。生暖かい何かが私の顔や、首筋や、手に降りかかる。
それはほんの一瞬の出来事。
だが、私の世界を奪うには、十分すぎる時間だった。
「茜……」
崩れるように倒れた茜。彼女の全てを、赤いものが綺麗に染め上げていた。あの強さを秘めた瞳は閉じられ、長い睫を赤い飛沫が雫になって縁取っている。抱き上げると暖かく、だがぐにゃりと不自然に体をしならせた。顔の汚れを拭いてやると、口元が微笑んでいるような気がして、そしてまた「先生、嘘よ」と目を開けてくれるような気がして、そう思ったら初めて何かがこみ上げてきて、私は彼女の体を抱きしめながら泣いていた。みっともないほど嗚咽を洩らしながら泣いて泣いて、私の世界は完全に崩壊した。
そして最後の最後まで、茜が何故私の腕の中で泣いたのか、それだけを考えていた。
あれから、もう数年の時が過ぎていた。
私は茜の幻想に取り付かれたまま、もう何年もこの場所にいる。真実は今でも分からない。茜の口から語られた出来事が、真実だったのかですら。
進路相談室から眺める景色は、数年たった今でも変わらないのに。
茜へのこの、背徳感の色濃く漂う、しかし確実な劣情は変わらないのに。
「ねぇ、知ってる?あの桜の話」
「あ、七不思議ってやつ?」
「えー、なにそれ?」
「あのね、学校内の桜は大体四月の始めくらいに咲くのに、あの桜だけは一本だけ早く咲くんだって。三月の終わりくらいに」
「そんなの七不思議でもなんでもないじゃん」
「でも、その桜ってね、一番早く咲くのに一番遅く散るんだって。しかも、夜になると桜の木の下に、うちの学校と同じ制服を着た女の子が立って『先生、ただいま』って言うんだって!」
まことしやかに囁かれる噂。
茜に逢えるのならば、たとえそんな幻想でもいい。
今年も桜の季節がやってくる。
「茜、また……今年も帰っておいで」
私はそっと、内ポケットにジャケットの外から手を当てた。
「先生、今日からこれは、先生が持っていて」
銀色に光る小さな指輪。
「私と先生の、絆の証」
「先生、愛してる……」
毎年、どの桜よりもいち早く咲き誇り、そしてまるで春が去るのを惜しむように、遅くまで狂い咲く美しい大樹。
『先生、ただいま』
「茜……」
私の想いもまた、狂い咲く。