甘い後味
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昔から感情がほとんど表れなかった俺。外国の友人には「Jaded(冷めたやつ)」なんてあだ名を冗談でつけられたりするほどだ。いや、今じゃそれで通っている。
怒らない、泣かない、喜ばない、哀しまない……大げさだが、まさにその通りだ。
もうどうしようもないと思って暮らしてきたが、一度、明日は大吹雪だと友達に言われるほど、感情が出たことがある。
それは、真由の歌声を聞いたときだった。
麻賀真由。今の俺の恋人で、ぶっちゃけた話、初恋の人だ。この年で初恋というとどんな冷めた奴だと驚かれたが、本当の事だからしょうがない。
彼女との出会いは一年前の大学二年の時、サークルの友人である歩美に「珍しいものがある」と誘われて行った劇場だった。傍から見ればデートの約束のようなものだが、俺は特に気にすることなく席に着く。
美人だったのがさらに美しく彩られていた真由。主役として舞台の真ん中に踊り出て、自分の役と同一化し、演じる。演技が凄く上手いとかどうかなんて正直わからない。ただ、生き生きしていた。大学では俺とは違った意味で冷めていた彼女が、空気を張り詰めていたあの彼女が。
そして物語の中。彼女の美声に、俺は心奪われてしまった。
凛として恰好良い、それでいて幼さの残る甘い声。
多重の顔を持つ、遠い舞台にいるジュリエット。確かに「初恋」を感じた。一目惚れをした。
欲しいと思ってしまった。
公演が終わって観客が帰った後、俺は歩美に連れられて楽屋に入れてもらった。
汗と香水と化粧の匂いがわずかに入り混じる独特の空気。彼女は既にジーンズとTシャツといったラフな恰好で、顔には化粧落しの為だろうか、クリームを塗りたくっていた。
ステージ衣装の黄色いドレスは壁に掛けてあり、あぁ、演技は終わったんだな、とつい思ってしまった。
「真由お疲れ!」
歩美が真由に駆け寄る。すると彼女の笑顔を初めて見た。
先言った通り彼女の大学でのイメージは、近寄りがたい、どこか尖った子だった。廊下ですれ違いざまに目が合うと、ぎんと睨み返される。実際にそんなこともあったからだ。
それが今、目の前で別人のように笑ってる。演技かなと疑いもしたが、こんなに自然に笑う彼女を見れば、これが素なんだとしか思えない。
内心ほっと安心した俺がいた。
「あの人は? 大学でたまに見かけるけど。」
「ジェーデッドだよ」
「え? 日本人じゃないの?」
くすくすっと笑う彼女。あどけない、どこかいたずらっぽい笑顔で俺に近付いてきた。
「よろしくね、ジェーデッド」
「いや、佐久間俊」
「よろしくね、ジェーデッド」
このやり取りで、歩美が吹き出すように笑った。俺をからかう当の本人は華やぐ……いや、やはり小悪魔的な笑顔だ。
思わず苦笑いを見せてしまったが、楽しい。愉快な気持ちだった。
「あたしは麻賀真由!」
くるりと振り向き、俺に背中を向け備え付けの洗面器に向かう。蛇口を捻り水を満たすと、一気に顔を突っ込み洗い始めた。しっかりと手でこすり、クリームを落としていく。水を真っ白に変え、ふうと一息つくとすぐにタオルで顔を拭く。
彼女は慣れた手つきでささっと済ませていった。
「で、歩美。この人を連れてきた理由は?」
「他の人よりマシかな、と思ったからです!」
マシ?
何を目的として連れてこられたのかよくわからなくなった。他の人、と言うことは誰でも良かったわけでなく、歩美に選ばれたと言うことか?
俺が気持ち首を傾げてると、真由はまたくすりと笑った。
「ということで。私と付き合ってもらいます!」
言葉が風なら、俺の思考をさらって行ったな。
ということで付き合う。いや、どういうことかまったくもってわからない。彼女の頭が理解できない。
歩美と真由は随分と仲良さそうだが、歩美の役割は何だ? 俺を連れてきたのはこのためでしかなかったのか? いや落ち着け。歩美は俺を連れてくるためだろう。
「あー……」
疑問疑念疑惑疑心。とにかく疑いの塊が、溜息に似た唸りに乗る。そして口から出たそれは、自分で聞いてもびっくりするほど困惑していた。
「ん? 嫌かな?」
「えっと……」
歩美は気が付けば部屋から消えてるし、素顔を見れた真由はなぜか俺を口説いてるし。
目的は何だ。目的はなんだ。目的は……
「なん……で……?」
やっとの言葉も上手く言えてない。
「彼氏欲しいの。変な奴は要らないの。あと、軽い奴」
「それで、歩美さんに選ばせたとか……?」
「うん。あの子顔広いし、人を見る目がひそかにあるし」
「考えが甘くないか? 相手が仮面を被ってたらどうするつもりだ?」
「嫌だけど、そのときはそのとき。上手く尻に敷いて、頃合を見て別れ……あ、そうか。君がその仮面を被ったってのだね?」
「え!?」
思わず声を漏らした俺に「冗談だよ」と屈託の無い笑顔。
掴み所のない人だ。人を食ったような態度。でもさっぱりとしていて、気持ちがいい。
「俺、冷めてるからつまんないかもよ?」
「今、楽しいよ!」
やられた。こんな答えが来るとは思いもしなかった。
「決定! よし決まり! おっけー!」
かなり無理やりだが、嫌な気持ちがあるわけでもない。
こうして、俺たちの関係は始まった。
彼女は変な虫が近づいてこないように、自ら大学の顔を演じていたらしい。
彼女は昔から演劇を続けていて、ここいらじゃちょっとした有名人らしい。
彼女はちょっと珍しい声帯を持っているから、あんな声が出せるらしい。
彼女は……
難なく大学を卒業し、就職して二年目。つまりは真由と付き合い始めて四年目だ。
彼女との暮らしはある意味疲れる。素直なのは変わりないが、ころっころっと変わる演技顔で遊ばれたりしてるからか。
そんな多重人格にも似た生活の中で、俺は少しづつ感情が出るようになってきた。
ぱぁーっと明るく、感情をありのままに見せてくれる真由。俺は彼女に染められて、自分でどうにもできないと思ってたものをできるようになった。俊と俺を呼ぶ声が、世界を塗り変えた。
仲間内でのジェーデッドのあだ名は残っているが。
そして最近、俺は真由と同棲を始めた。
すこしイイトコに入社できたし、真由は真由で、劇団での活躍で給料もアップしてもらっていたし。
いい感じのアパートに二人暮し。でもお互いに仕事場で活躍しており、なかなか二人の時間が取れなくなっていた。
だから月に一回だけ二人揃って休みを取り、とっておきの場所へと足を運ぶ。そこは真由が子供の頃からよく行くという森の奥だった。
幼い真由はよくここに来ては歌っていたという。
つまり彼女の歌声はここから始まった。
仰々しい岸壁と青々と茂る木々に囲まれた、少し開けたところ。
僅かな風で葉が擦れ合い、優しい音を奏でる。
名前も知らない鳥が鳴いている。
近くの沢が静かに流れている。
閑静で、美しくて、悩み事も綺麗に忘れれるような景色。
そして自然の演奏に歌声を乗せる真由。
俺は舞台で真由を見たあの日より、心を奪われていた。
演技じゃなくのびのびと自分の好きな歌を歌っている。二人だけの空間で、俺だけに微笑んでくれてる。
俺はまばたきさえしたくない。真由を一秒でも多く見ていたい。絶対に耳を塞ぎたくない。彼女の美声に泥酔していたい。この場所にいたい。でも、天にも昇る気持ち。俺がどうしようもなくヘコんでも、彼女の強気な瞳で立ち直れる。光の届かない暗黒の深淵にいようと、彼女の声を頼りに歩いていける。
今、自由にできるこの短い時間。俺の全て。彼女が全て。
なんて甘美で、幻想的で。
真由。愛しくてたまらない。
「シュン!」
鼻をくすぐるような甘い声。
「歌おうよ!」
耳に響いて残る甘い声。
「ああ!」
俺は立ち上がり彼女に歩み寄る。
そして太陽だけが沈むまで歌うんだ。日が沈む直前に帰る。例外なくもたらされている制限。だからせめて時間一杯まで楽しむんだ。
家に帰り、夜が来て、一足早く真由は眠ってしまった。静かにその寝顔を眺めながら抱き寄せ、彼女の額に俺の額を合わせる。髪からふわりとくる甘い香りに目を閉じるんだ。やがて聞こえてくる鼓動を聞きながら眠りに落ちる。
こんな日々が、ずっと続いてゆけば……
今日の休みは森に行かず、二人で指輪を買いに行った。
気に入ったものはなかなか見つからず、結局は昼を過ぎても車で走り回っていた。あっちへこっちへ足は止まらない。婚約指輪という響きだけでついにやけてしまいそうだ。そのくらいに浮かれていたから、疲れが見えてきても気にならなかった。
「ね、ちょっとのど渇いちゃった」
反対車線側にちょうどコンビニがある。信号を渡らなければいけないが、そう遠くはない。
「そこのコンビニでいい?」
「うん、いいよ!」
渡る信号を少しだけ越えたところで、俺は車を車道の脇に寄せて停止させた。
真由は完全に停まった途端に車から降り、横断歩道向けて駆けていく。彼女は信号が青だということを確認し、渡ろうとした。
俺はカーステレオのCDを替えていて、真由のことを見ていなかった。
――え?
突然のことで、思わず何が起こったか耳を澄ませてしまった。虚を突いて耳に飛び込んできたブレーキ音。ガラスが飛び散り、鉄と鉄が激しく打ちあった。後続車両が次いだのか、がりがりとどこか擦っている。最後に、車は何か柔らかそうなものにぶつかった。
――事故?
背筋に走る悪寒が尋常じゃない。俺はそれでもすぐさま車から降り、事故の方へと振り返る。
引き裂くようにつけられたブレーキ痕のその途中に、見覚えのある服。
――真由?
ふらふらと足が動く。真由へ向けて、停まることなく……
真由の傍まで来ると膝がかくと折れ、アスファルトを打った。そして俺は真由の体を抱き起こし、力の入らない手を強く握り締める。
「真由……指輪は、後にしよう。今は、今は病院に……」
震える手で呼寄せた救急車は十分ほどしてきた。
俺は担架に乗せられた真由に次ぎ車に乗り込む。救命処置を施されている青白い顔の真由を眺めつづけ……
一瞬で風景が変わった。
車内じゃない、葬儀場だ。花に囲まれて飾られているのは、真由の写真。
「真由……?」
棺を覗けば、間違いない。そこには真由が眠っていた。額をあわせて瞳を瞑る。鼓動は聞こえない。
―――駄目だ。真由。お前はこんな苦い線香の香りじゃない。
―――なぁ、目を開けろよ。この辛気臭い雰囲気を、ステージの空気に変えろよ。
―――もう一度。俺はずっと見てるよ。あの声を聞かせてくれ。
「まゆ」
愛。なんて甘い苦しみ
お前を亡くすなんて俺はいったいどうすればいい
「真由……答えろよ……」
涙も出ない。
ただ、俺の中から何もかもが溢れ、流れて消え去っていった。
救急車に乗って、気が付いたら葬儀場にいて。記憶が飛び飛びになっている。病院のことと、式場までの時間は頭にない。
どうでもいいか。
真由を失って一ヶ月が流れた。俺はジェーデッドに戻ってしまっていた。感情の欠落、これが元の俺か。同時に、一時期真由の全てを失った。
でも写真を見ればすぐ記憶が蘇った。
―――笑ってる。怒ってる。顔を変えた。演じてるな。おい、俺は本気だぞ。
―――ああ、綺麗だ……いや、その黄色はちょっと変じゃないか?
―――ここは気持ちがいいな。鳥の声も、水の、風の音も。葉の擦れる音も……
鮮明に戻ってくる思い出は苦い。苦すぎる。あんなに愛しかった時間が、憎い。俺を傷付ける。真由がいないことを痛感させる。
「……声が無い?」
微笑みながら動く真由の口からは音が出ない。
舞台で演奏された曲や、他の役者の声は思い出した。真由と歩美が並んで俺をからかってる場面も、歩美しか声が聞こえない。口は動いているんだ。なのになんで無いんだ。
真由の声が思い出せないのか。
真由の声を忘れてしまったのか。
真由の声からも覚めてしまったのか。
「真由……」
今夜も一人でベッドにうずくまり夜を越す。
鼓動は聞こえない。甘い香りも無い。
涙は、出なかった。
俺は真由を想い続けていた。取り戻すことのできない声を探しつづけていた。なんで無くしてしまったのかわからない。辛いとわかってるのに、心の中を探る。
ぽっかり開いた心の穴には、思い出の風景だけが詰まっていた。
「あ……」
これもすっかり忘れていたが、今日は会社を休む日だ。あの場所へ行く日だ。
あの二人だけの森。初めて一人で訪れた。いや、もう一人でしかこれない。
いつものように木陰に腰を下ろすと、風が吹きぬけた。そして自然の演奏が聞こえ始める。
ゆっくりと目を閉じると、心が落ち着いていく気がした。瞑想のようなものだろうか。
「……見つけた」
葉の擦れる音。風の、沢の音。鳥の声。どれも美しく聞こえる。
そして耳の奥に響いてくるのは、真由の歌声。
「お前は……ここにいたのか」
わかるんだ。
それはすうっと体に溶け込んでいく。まるで傷を包み込むように、優しく。
―――愛してるよ。
「ッ! 真由!?」
今、確かに真由の声を聞いた。聞こえたんだ。あの甘い声が。
俺は目を見開き、立ち上がった。周りを見回しても誰もいない。
―――君は?
まただ。
なあ、真由。そんなこと聞くなよ。
こうとしか答えないこと、わかってるくせに―――
家に着いて、急な脱力感に襲われた。
俺は着ていた衣服もそのままに、ベッドに倒れこむ。
頭を駆け巡るのは、真由の声。
「愛してる、か……」
目を閉じ、思いを馳せる。
聞こえるよ。お前の声。
真由の声を思い出した、あの甘い声が蘇った途端に、苦しみが消え失せた。そうだ、彼女を全て取り戻したんだから。
そして、苦いだけだと思っていた思い出たちが……こんなにも甘いものだなんて思わなかった。
「あたりまえ、か」
真由に言った言葉をもう一度。俺の顔は自然と笑っていた。