背中に都市を携えた白い鯨の話
その部屋は染み一つ無い白い壁によって閉じられていた。
それは余りにも染みの無い白だったから、部屋の中はまるで星の無い宇宙のように感じられ、僕は部屋の広さを確かめることができなかった。
それを確かめようとして目を凝らせば凝らす程、部屋はどこまでも続いていて、《本当に》、星一つ無い白い宇宙が広がっているような気がした。
僕は部屋の隅にあるドアの《ノブ》を確かめる事でなんとか自分のいる位置を把握することができた。
その部屋にはその隅のドアから大体8メートル程離れた所に椅子が三つと机が一つ置かれているだけで、それ以外には何も無かった。
その三つの椅子と一つの机は、まず二つの椅子が30センチ程距離を置いて並べられ、その前に50センチ程距離を置いて、今度は机と椅子がこちら向きに並べられている。
机のある椅子には、とても穏やかな顔立ちをした試験官風の男の人が座っている。
その前に並べられた二つの椅子の片方に僕が座り、そしてもう片方には背中を30度程も折り曲げた男の人が座っていて、その表情には薄い緊張の色が見て取れた。
この部屋がそんな部屋であるという事と、その場の静寂が気持ちの悪い空白感を感じさせ、それは僕に漠然とした不安を与えていた。
その試験官風の男の人が、手に持っている用紙を机の上で、とんとん、と軽い音を立てて揃えると、その音は僕の不安を、とんとん、とノックしてほんの少し震わせた。
試験官風の男の人は、用紙を丁寧に揃えた後こちらに感じの良い笑顔を向け、
「こんにちは」
と、その場の静寂を保ちながら言って軽く会釈をした。
僕もできるだけ感じの良い笑顔を作り、こんにちは、と言って会釈をした。
しかし隣の椅子に座っている猫背の男の人は俯いたまま何も言わなかった。
彼の表情には依然として薄い緊張の色が浮かんでいる。
試験官風の男の人はそれについて何も言わずに、
「初めまして、私は渡辺と言います。宜しくお願いします。」
と感じの良い声で言うと、その声はその場の静寂を切り裂いて空白感を埋め、僕の不安をゆっくりと消していった。
僕はそれに応え、宜しくお願いします、と言って再度会釈をした。
猫背の男の人はまた黙っていたけれど、今度は遠慮がちにほんの少しだけ頭を下げた。
渡辺さんは、
「これから一枚の絵をお二人にお見せしますので、それが何に見えるか少し考えてみて下さい。」
と言って机の上に丁寧に揃えて置かれている用紙の一枚を手に取ってこちらに見せた。
その用紙に描かれた絵は、背景が黒く塗られていて、その中心に大体十数センチ程の曖昧な形をした白い《もやもや》があって、その《もやもや》の中に黒い《染み》がたくさんあった。
それは何かを表した印象画の様にも見える。
「この絵が何に見えるか少し考えて見て下さい。そんなに深く考えなくても良いですよ。」
と渡辺さんが繰り返すとその場は再度、しん、とした静寂に包まれて、殆ど消えかかっていた不安が蘇ってきた。
その絵を暫く眺めていると、白い《もやもや》の中にあるたくさんの黒い《染み》はまるで都市を空から見下ろしている様に見え始めた。
それはとても巨大な都市で、さらにそれと同じ程巨大な静寂を携えている。
都市の地面は部屋の壁と同じ様に染み一つ無い白だったから、地面はまるでそれ自体が光っているように見える。
そんな地面が遠くまで続いていて、その白い地面の上に巨大な建物が幾つも聳えている。
それはまるで白い地面の影の様に黒い。
その巨大な都市はこの白い地面と黒い建物だけでできている。
その巨大な都市は余りにも巨大で、延々と何処までも続いている様に見えたけれど、白い地面は途中で切り取られた様に無くなっていて、その先には建物と同じ《黒》が、確かな存在感を携えて何処までも続いている。
それはまるで巨大な黒い壁の様にも見える。
地面から見上げた空は所々から《黒》が入り込んでいてまるで亀裂の様になりきれぎれになってしまっている。
何処からか風が吹いてくると風は建物の間を吹き抜け、その音は巨大な静寂を切り裂いた後、その一部になった。
風に煽られて舞う粉塵はまるで光の粉の様に輝く。
鯨、と、隣の椅子に座った猫背の男の人は言った。
「この、白いのが鯨で、その鯨が真っ黒な海を泳いでいるみたいに見えます。」
と、彼は自分の想像を確かめる様にして繰り返した。
「なるほど……、うん、そちらの方は何に見えますか。」
と、渡辺さんが言ったから僕は、
その白い鯨の背中の染みが大きな街の様に見えます。
と言うと、渡辺さんは小さな声で、ウウン、と呟いた。
白い光の表皮からは幾つもの建物がまるで影の様にして生えてきて、僕はその中で一番高い建物の上に呆然として立ち竦んでいる。
白く巨大な光の鯨は、その背中に染みの都市を携えて、吸い込まれてしまいそうな程黒い壁の海を物凄い速さで泳いでいる。
鯨の背中の上の粉塵の様な僕はその動きに気付くことができない。
幾つもの黒い建物は少しずつ上や横に膨らんでいき、一番高い建物と僕は今にも亀裂の入ったきれぎれの空に届きそうになっている。
不意に鯨は軽くその身を捩り用紙の中の黒い海から抜け出した。
部屋の壁と同じ色をした鯨は壁の色に重なって見えなくなり、鯨が背中に携えた黒い染みの都市だけが、部屋の中空をまるで生きているかの様に揺れながら浮かんでいる。
拙い文章ですが、楽しんで読んで頂けたなら、幸いです。