猫にコーヒー
世の中はなんてつまらないんだ、といつも私に愚痴る若者がいた。
彼は借金があり、恋人に捨てられ、天涯孤独で私以外の友人はおそらくいなかった。性格は根暗で、酒に溺れるのに時間はかからず、元々隅っこで大人しくしているタイプであったが、最後には道ゆく人々に恨みもなく唾を吐きかけるような男になった。
それでも彼は必死で生きていた。しかし、ある時ぷっつりと糸が切れたのか、あっさりと首をつって自殺してしまった。ぷっつりあっさりの死である。
死体の第一発見者は私だった。死ぬ直前は見るに耐えない、樹海に目鼻口をつけたような崩れた苦悶の表情をしていたのに、死んだ途端に彼はのっぺりと呆けた顔になった。
私はそれを見て、ひどくつまらないと思った。
彼の空回りしている姿、見っともなく足掻いている姿、絶望しているのに何処か希望を映している姿、そうしたものをなかなかに面白く感じていた。愛していたといっても過言ではない。
天井に引っかけた縄を首に巻きつけ、だらしなく全身を弛緩させた彼が、もう動くことはないのだとわかった時、欠伸のどころか反吐が出るような退屈さが私を襲った。退屈さに襲われるなどという珍妙な経験は初めてだった。信じるものがいなくとも私は主張し続けるが、本当に『退屈』という看板が手足を生やし、のこぎりを持って下駄をカコカコカコカコと鳴らしながら私に向かって突進してきたのである。退屈でありながら恐怖であった。合わせて表現するなら最悪という言葉に落ち着くだろう。
突進をかろうじて回避し、私は尻尾を巻いて逃げ出した。
彼の愚痴が私を襲ったものに対してだったのなら、世の中は最悪である。
私は彼と違い、この世を決してつまらないと断じてはいない。けれども、つまらなくなるのは人の死のように簡単なのだ、と悟った。
世の中とは面白くてなんぼである。
だから私は少し手助けしよう、と思った。私は長い間彼と接するうちに、彼だけではなく人そのものを愛してしまっていたし、つまらなくなってしまうのはもったいなかった。
それでも人間に失望することは多い。失望すると、放っておけばいい、ただの傍観者として笑っていよう、などという安易な楽観が私の頭にふっと現れる。
しかし、どうにも彼のつまらない姿を思い出すと、どうにかせねばなるまいという気がしてくるのだった。どうにもどうにかの気持ちである。
そんなわけで私は今、人の社会の中にいる。
現在、私が主な住処としているのは北国の湯空という都市である。北国では比較的温暖な気候で、降雪量も少なく過ごしやすい。寒いのは苦手だが、雪が全く降らないというのも風情がないような気がしてしまう私としては、ちょうど良い地域だと気に入っている。
季節は春。慌ただしい雰囲気で、辺りの騒がしさが増している。それなりに栄えている湯空市も、引っ越しやら新生活やら何やらで、人の出入りが激しくなっているようだった。
私の行動は春だろうが冬だろうがさして変わらない。今日も同じである。
人通りの少ない小道を歩いていると黒猫が現れた。雌だ、とすぐわかる。野良とは思えない見事な毛並みで、私はつい触れたくなった。「やあ」と挨拶して手を伸ばすが、ビャッと吠えられ、爪で威嚇されてしまった。私は好みではないのか、と落ち込む。
小道を進んだ先、公共交通手段が近くにあるわけでもなく、住宅もまばらなような場所に、私の行きつけの喫茶店『ウララカ』はあった。
入ってすぐに、カウンターの向こうから陽子が「いらっしゃい」と声をかけてくれ、にっこうりと笑顔を見せてくれる。
「今日は混んでいるな」私は四つあるカウンター席の奥から二番目、いつもの定席に座りながら声をかけた。「この時間にしては」
「おかげさまで」
時刻は朝の九時半。モーニングのピークはいったん過ぎているはずだが、席の半分は埋まっていた。とはいっても『ウララカ』の規模は小さく、席数は十二、客は私を含めて六人だ。それでもここの立地を考えると、非常に多いと言える。
店内は素朴な木目柄を基調として穏やかな空間が演出されており、全体的にゆったりとした時間が流れていて、くつろげる店だった。陽子の接客とともに、そのあたりがリピーターの多い理由だろう。
一番手前のカウンター席に座っていた顔なじみの中年女性に「どうも」と頭を下げる。
席に着く直後には、私の前にコーヒーが注がれたカップが用意されていた。
喫茶店でまずはコーヒーを頼むというのは、私だけでなく多くの人々にとって無難な選択であろう。私はその無難な選択を続けてきた。そしてこの時間に私がくることを陽子は知っている。素晴らしきかな習慣。効率を高め円滑な関係を持つためには、こうしてスケジュールを理解してもらうことが必要なのだ。
もし急にカフェ・オレを飲みたくなっても、牛乳を加える手間を惜しみ私はこう言うべきなのである。
「ありがとう、朝は君の入れてくれるコーヒーに限る」
この台詞は、覚えているものの中で一番気障だった。
「どういたしまして」
彼女の笑顔は、その名の如く太陽に匹敵する温かさと眩しさを放っている。私は彼女に命名した人物に祝福を与えたくなった。
東条陽子は二〇代半ばという若さにもかかわらず、一人でこの喫茶店をやりくりしている苦労人だ。何故そのようなことになっているのか私は多少知っているが、この喫茶店をやる前の彼女のことは大して知らない。つまり、今のところ彼女と私の仲はその程度である。
私は猫舌であったけれど、出されたコーヒーに対し冷めるのを待つという手は使わない。付属されるスプーンで少量すくい上げ、軽くフーフーと息を吹きかけてからすする。若干全体の温度が下がったところで、スプーンを受け皿に置き、カップから飲む。マナーとして正しい飲み方があるのかもしれないが、陽子に怒られたことはなかった。
「最近、嫌なニュースが多いわね」
カウンター席とテーブル席の中間にあたる、店内の角に設置されたテレビを見ながら陽子が言った。
振り返って画面を見てみると、近頃春の雰囲気以外で巷を騒がせている、連続通り魔事件の特番が流れていた。湯空市内において六人の重軽傷者を出している大きな事件で、犯人は身長が一七〇センチメートルほど、中肉中背の三〇代くらいの男で、黒いパーカーにジーンズ姿だった、と目撃者の証言が報告されている。しかし未だ足取りが掴めず、視聴者に情報を寄せてくれるよう訴えていた。
「まったく物騒だ」私はありきたりの感想に留める。
確かに嫌なニュースである。もし人を殺しでもしたら問題だ。それだけ面白の可能性が減ってしまう。死んでしまった誰かが、私に痛快無比な経験をさせてくれるかもしれなかったのに、その確率が一切ゼロになる。寿命や病などは私のあきらめているところではあるが、こうした個々のちょっとした気分で左右されてしまう領分は、出来れば控えて欲しかった。
「狙われてるのは、若い娘さんばっかりらしいよ。陽子ちゃんも気をつけなくっちゃ」
二つ隣の席に座っている小原さんが険しい顔で言う。彼女は私と同じく『ウララカ』の常連で、お節介に過ぎる部分もあるが基本的には私や陽子に親切にしてくれる気の良いおばさんだ。
「大丈夫ですよ。わたし、夜中に人気のない場所へ行くことはありませんから」
「日中襲われた被害者もいるらしい。注意するに越したことはないだろう」私も忠告する。
「平気ですって」陽子は意に介さない。「ほとんどお店にいますし」
「買い物はどうする。そうやって油断している者が一番危ない。ああいうニュースは、自分に起こるものとして考えさせるためにやっているのだから」
それはこれまでの人生において私が学んだことの一つだった。意識しなくてはいけない情報は色々な形で発信されている。我々がすべきはアンテナを広げ、受信した情報の取捨選択を行い、生かすことだ。
「あんまり脅さないで、錬さん」陽子が困ったように眉尻を下げた。
錬さん、とは私のことである。一応、福山錬一郎という名を名乗っていた。こちらの名前が偽というわけではないのだが、本名はまた別にある。
客の一人が会計を済まそうと陽子を呼んだ。はい、と返事をして陽子がそちらへ向かう。
「そうだ」ぽんっと小原さんが手を打った。「錬ちゃん、しばらく陽子ちゃんのそばにいてあげたら?」
「ふむ?」私は腕を組み、首を傾げる。注意は促したものの、そこまでする必要があるだろうか。「さすがに心配し過ぎでは。陽子が特別狙われているわけでもないのに」
「あたしは心配性なの。色んなことにやきもきしてるんだから」
小原さんが良くいえば子供の世話を焼く母のような、悪くいえば嫁に掃除の手際の悪さを指摘する姑のような顔をした。やれやれとため息をつきそうというか、ほらほらと意地悪く急かすというか。やれやれほらほらの顔である。
「たとえばどんな」
おそらくきいて欲しいのだろうな、と私は拙いながら察知した。空気を読むという奴だ。この技術の習得はなかなか難しく、まだ熟練には程遠かった。
「たとえば、陽子ちゃんにイイ男がいないかなあ、とか」
うふふ、と笑いを漏らす彼女は、実におばさんらしい。おばさんとは人間の中でも異質な存在感を示す属性を持っていると、私は思う。
「イイ男か」彼女の意図がわからず、オウム返しに答える。
状況に合わせた決まりごと的な対応は得意だったが、小原さんはそうしたものに関係なく、私の知識外の方面から話題を振ってくる。それが悩ましくもあり、楽しくもあった。
「錬ちゃんはつき合っている人とかいないの?」
「恋人のことか」ふと、くる時に見かけた黒猫を思い浮かべる。少しでいいから毛に触りたかった。「今はいないな」
「あんたも身体はひょろっちいけど、顔はなかなかなんだからさ。陽子ちゃんと並んでも絵になるよ」
「絵になるか」
絵になってどうするのだろう。鑑賞されるのか、だんだん色あせていくのか。
「ここだけの話」小原さんはそう言って声を潜めたが、ここだけの話にするにはやや大きすぎた。「陽子ちゃんはさ、あんたのこと憎からず思ってるよ」
「憎からずか」
あたしにはわかる、と彼女は根拠のない自信を漲らせていた。「ここはバシッとさ、『俺が通り魔から守ってやる!』って決めればイチコロだよ」
「イチコロか」
「小原さん、余計なことを言わないでください」陽子がカウンターの真ん中に戻ってきた。変わらずにこやかな表情であるが、少し焦っているようでもあった。「錬さん、ごめんね」
「陽子、私はイイ男か?」素朴な疑問として私は尋ねた。
「え?」陽子が顔を少し赤らめる。
その反応を見て、どうやらこれは照れるような質問だったらしいと理解する。陽子に出会ったばかりの頃、「君は乳房が大きいが、邪魔にならないのか?」という問いをぶつけた時にも似た反応があった。彼女に初めて叱られたのはその時だ。それからというもの、人の赤面に対して私は敏感なのである。
まだまだ言語のコミュニケーションには学ぶべきものが多いなと、私は反省した。
「いやすまない、変な質問をしたようだ」
「謝ることじゃないわよ」陽子は胸の前で小さく手を振る。気にしないで、の合図だ。「うん、そうね、錬さんはイイ男だと思う」
「ほら、見なさい」小原さんが私にウィンクした。
もう、そういうんじゃないですよ、と陽子が小原さんの肩を軽く叩く。
「どこを見ればいいのだ?」と私は呟いた。
小原さんは注文したパンケーキを食べ終わり、一通りお喋りを楽しんでから私に「錬ちゃん、いつも思うんだけど、あんたここにくるとコーヒーしか頼んでないよね。しかも一杯だけ」と指摘した。
「喫茶店とはそういう場所ではないのか」責めるような小原さんの眼差しに私は気圧される。
「そんなわけないでしょ。周りのみんなを見てないの?」呆れた、と彼女はこぼす。「陽子ちゃんも困るわよねえ」
「わたしは、満席でないときならかまわないですけど」
「陽子ちゃんは錬ちゃんには甘いんだから。駄目だよ錬ちゃん、ヒモになったら」
「ヒモ?」
自分がヒモになる姿を想像してみた。風にのってどこまでも飛ばされていく。木の枝に引っかかり、やがて鳥の巣の材料になって、最後は火事に巻き込まれて焼けてしまった。悲しい結末だ。想像なのに意外と自由にならない。
「小原さんっ!」陽子が口を尖らせた。「いい加減怒りますからね」
「怒るとシワが増えちゃうよ」小原さんは的外れな答えを返した。そのくらいは私にもわかる。「とにかく錬ちゃん、甲斐性なしの男はモテないからね」
私は陽子に怒られるのがこの世で三番目に怖いので、平然としている小原さんに敬服した。ちなみに一番はもちろん退屈で、二番は死ぬことだ。一番と二番はほぼ一緒とも言える。
「甲斐性とはどうすれば手に入る?」
「そりゃ、お金を持たなくっちゃ。経済力よ。錬ちゃんは何の仕事してるの」
「ふむ、無職だ」
社会に順応しようという努力はしていたが、労働にはこれっぽっちもやる気が出なかった。
「ええっ!」小原さんが信じられない、とばかりに首を振る。頬肉が小刻みにプルプルと揺れて、つい反射的に手を伸ばしそうになる。「そんな男に陽子ちゃんはやれないよ!」
いつの間にか陽子の後見人気取りである。実際、陽子は親が二人とも亡くなっており、親戚も近くにいないので、小原さんを代表とする中年の常連たちが後見人のようなものであるのだが。
別に欲しいとは言っていない、と反論するのもおかしい気がして私は黙る。
「……いや、逆にありかもね」小原さんの目が光った。四番目に怖いかもしれない。「どうだい、この際陽子ちゃんの経営を手伝うっていうのは。陽子ちゃんも忙しくなってきたみたいだし、人手は必要なんじゃないかい?」
「小原さん、本当にやめてくださいって」陽子がほとほと弱った様子で口をはさむ。「確かに人手は足りないんですけど、アルバイトを雇うつもりなんです」
「アルバイト」不思議な響きだ、と私は口にする。柔らかさの中に、あらゆるものを削り取ってしまうかのような荒々しさが秘められているな、と感じた。
「そうなのかい」小原さんの興味は私から移ったようだ。「どんな子なの?」
「さあ、電話の声では、可愛らしい女の子だと思いましたけど。今日の夕方頃面接にくる予定です」
「声で外見はわからないでしょ」
「わたしにはわかりますよ」陽子は目を閉じた。その女の子の声を記憶から再生しているのだろう。「目がくりっと大きくて、身長は小柄、明るくて、気丈で、ちょっと抜けてるところもあるかな」ゆっくりと目を開ける。「きっと可愛い子です」
「もし当たっていたら、超能力だ」
私は半笑いだったが、陽子の言葉を信じていた。おそらく、そんな子だろうと。陽子には人を信じさせる、謎めいた力がある。むしろそれこそが超能力かもしれない。
私と小原さんは、人間の中ではかなり時間に余裕のある部類に入るので、席が空いているうちは入り浸っていたが、さすがに時計の短い針が天辺をさす頃には客が増えてきたため、お暇することにした。
コーヒー代を支払う時に、「今日のお代はいいよ」とこっそり陽子が言ってくれた。とてもありがたいが同時に申し訳なくもある。甲斐性というものを手に入れる時期が来たのかもしれない。
『ウララカ』を出た後、とりあえずは昼ごはんを食べようとファストフード店へ入る。財布を一度覗き込んでため息をついてから、ご一緒にポテトはいかがですか、の誘惑を跳ね除け、ハンバーガーを一つだけ頼む。以前はつい「はい」と答えてしまい、出費を増やしてしまった。気軽なイエスは不幸の元である。
ハンバーガーを半分平らげた私は、残り半分を持って路地裏へ向かった。
そこには猫のたまり場がある。私が入り込むと、どこから湧いてくるのかうじゃうじゃと大小色とりどりの様々な猫が現れた。そのほとんどが私の馴染みだ。
「すまない、今日はこれしかないんだ」
私はハンバーガーを細かく千切っては投げた。喜んでご飯にあずかり、私に擦り寄ってくる猫もいるのだが、中にはあからさまに「ちっ、シケてやがんな」と何処かに行ってしまう猫もいる。
投げ終えると、年老いた一匹が何かをくわえてフラフラやって来た。よくよく見ると、それは五〇〇円玉である。
「素晴らしい」私は思わず喝采を上げた。
老猫に感謝の意を評し、深く平伏す。老猫はふぉふぉふぉ、とでも笑いそうに口を動かした。
「今度はキャットフードを買おう」いや、もっと安くてお腹が膨れるものがいいかもしれない、と私は考え始める。
「相変わらず貧しいことをやっているの、ミケ」
老人の声がきこえ、私は顔を上げた。
「先生、お久しぶり」
私が先生と呼ぶのは一人しかいない。人間としての名は福山勝頼という、私と同じ存在の老人である。私の福山姓は彼からもらったものだ。杖をつき、腰は曲がっているが肌艶は良く、健康そうだった。齢七〇はいっているだろうか。深いシワが経験の多さを物語っている。
私に五〇〇円玉をくれた老猫も、去ったはずの猫たちも、先生の周囲にずらりと並んだ。歓迎しているらしい。先生はじゃれつく猫たちをいちいち相手にする。
「いくら神といえども、我々は飢えれば死ぬからの。食い扶持を稼ぐ手段は持っておかんと」
先生が腹を撫でた一匹が、うにゃんと気持ちよさげに身をよじった。
「私は自分が神だなんて思っていない」肩をすくめて答える。「神だとしても、ありがたみはない。腹が減れば死ぬなんて」
ある時眠りから覚めると、私はこの身体になっていた。起こった出来事が理解できず、さ迷っていた私を先生が拾ってくれなければ、今頃どうなっていたかわからない。
どうしてこんなことになったのか、その時先生に尋ねた。返って来た答えを今でも覚えている。「イッツ・マジック」ただそれだけだ。それで私は、もうなってしまったものは仕方ないのだな、と諦めた。
「便宜上じゃよ、便宜上。呼び名がないと不便じゃろう」先生は懐からいくつかパンを取り出し、ぽいっと投げる。先生の登場によって再び集まった猫たちがパンに群がった。「他に呼び方があるなら好きにせい」
「特に案はないが、大した力もないのに神というのはな」
「多少の力はあるじゃろ。お前の通っている店、繁盛しているようじゃないか」
「あれは」陽子の顔を思い浮かべる。「私の力ではない」
「意識できていないだけかもしれんぞ」
「今はそんなことはどうでもいい。それより、私は甲斐性を手に入れたい」あまり追求されたくなくて、話題を逸らす。
もし私に力があるとして、それが勝手に陽子に干渉しているとしたら、コーヒーをご馳走になるなど及びもつかないほど申し訳ない。あくまで店の繁盛は、彼女の力によるものであるべきだ、と思う。
「甲斐性?」
「経済力がどうとか。どうやら必要なものらしい」
「そりゃ、私に頼ってはいかん。自分で見つけにゃあいけんことだ」
「わかっているが、ヒントくらいはくれないか」
「仕事をしろ」
「嫌だ」
毒が回ったヤギのような目をされた。実際にそんな状態のヤギを見たことはないが、きっとこんな感じだろう。私はさすがに即答するのはまずかったかと、珍しく背中に汗をかいた。
「まあせっかく会ったのに、何もないというのも人情がないのう」こほん、と先生は咳払いする。「一つ教えてやろう」
「あまり良い情報ではない気がする」
「通り魔事件があったろう。あれの犯人、次は殺すぞ」
先生の瞳を見返す。賢者の光が宿っていた。神かどうかは知らないが、彼は間違いなく猫も人も超越している。
「そうか」私は淡々と頷く。「甲斐性は関係ないな」
「どうする、行くのか」
「知ってしまったからには。教えられなければ、行かなかった」
アンテナに引っかかり、私の決めた勝手な基準のラインを過ぎると、行動せずにはいられなくなる。
そのたびに首をつった彼の幻覚が、発作のように空中に現れた。「世の中は、つまらないか?」と問いかけてくる。
わからない。しかし、人間は好きだ。
「この子が案内する」先生が杖をトンと一突きする。
私の足元に若い雄猫がちょこんと座った。青々しい毛並みで、無邪気な動作が昔を思い出させる。しなやかな筋肉に少し嫉妬もした。「よろしく」と私が頭を下げると、まかせろとばかりに軽く跳ね、すぐさまにでも若猫は走り出そうとする。
「元気が良い」
「元気だけじゃよ」先生がふっと息をついた。「それじゃ、わしはまたここを空けるからの」
「忙しないな」
「我々も老いるということがわかってからは、時間を有効に使いたくなったんじゃ」
「腹が減れば、老いもする」半端な存在だ、と私は皮肉げに口の端を上げる。
「絶対に死なないというのも、それはそれで辛かろう」
確かに、と同意する。それもつまらないことなのだ。
先生と別れ、若猫の後について歩き回る。彼はびょこびょこと落ち着きのない動きが多く、車に轢かれそうになったりして冷や冷やしっぱなしだった。何度も同じ道を行き来し、本当に信頼できるのかも怪しい。
周囲の建物に見覚えのある、というかいつも『ウララカ』から猫の溜まり場まで移動する時に通る場所に着くと、私の胸に不安が過ぎった。
「ここか?」と若猫に尋ねる。
若猫はぐるぐるぐるぐる私の周りを走り回り、にゃあにゃあと騒いでから何処かへ行ってしまった。おいおい、と痛みを抑えるように私は頭に手を置く。それはないのではないか。
私はふと、前方からやってくる男に視線を向けた。思うところがあり、観察する。
身長が一七〇センチメートルほど、中肉中背の三〇代くらいの男で、黒いパーカーにジーンズ姿――
私はすれ違いざま、彼に話しかけた。「もしかして通り魔さんか?」
「はあ?」
ピクリと眉を上げて振り返り、男は肩を大げさに揺らしながら、がに股の歩みで近寄ってくる。どうしてそんなに空間を使うような歩き方をするのだろう。
「通り魔さんか、と言った」
彼は私を睨みつけ、「ふざけるな」と唾を飛ばした。気色ばみ、顔が紅潮している。「オレを犯罪者扱いする気か」
「申し訳ない。ニュースで言われていた服装と同じだったもので」
「服装が同じだけで通り魔にされちゃたまったもんじゃない」
確かにその通りだ、と私は頷く。「失礼した」
ふん、と鼻息を荒くし、男は去っていく。
ある程度距離が離れたところで私は彼の後を追った。
彼が通り魔だ。
何故かと問われれば、説明しても大抵理解されないので単純に勘と答えるが、間違いないと私は確信している。不思議なもので、いくら隠してもそうした信号は本人から出ているものなのだ。彼の顔にも「私が通り魔です」と書いてあった。人間は空気が読めるのに、そうした信号は見逃す。まだまだアンテナの受信感度が悪いのだろう。ヒゲがなくとも、私は人間よりはまだ鋭い。
せめて服装を変えるべきだったな、と私は忠告したくなる。服装が同じだけで通り魔だと断定はしないが、取っ掛かりには充分である。もしかして彼はニュースを見てないのかもしれなかった。アンテナの張りが甘い。
男が路地に入ったところで、私は走り出した。
夕方の五時を少しばかり回り、太陽が自己主張を大分弱めていた。湯空市がいくら都市といえども、都心でもなく大規模な施設もないこの辺りでは、大きな通りを離れると驚くほど道に人がいない。ぽつぽつと並んでいる住居にも、人が住んでいるか怪しいものだ。たまたま迷い込まない限り、くることはないだろう。ぽつぽつたまたまの道である。
その道に十七、八歳くらいの年齢と思わしき少女が一人歩いていた。
私としては通り魔事件が騒がれている中、こんな道に女性一人で歩いているなど油断以外の何ものでもないのだが、人間でなくても無防備になってしまう時はあるので、あまり責めるべきではないだろう。油断、無防備責めるべからず。死んでも文句は言えないけれども。
そして通り魔は照準を定めたようだった。
さきほどから私は、ここが『ウララカ』に近い場所であることに気づいていた。二つほど隣の通りである。この何もないところまでくる用事があるとは思えないが、陽子に注意しておいて良かった。私の憩いの場に迷惑がかからないよう、すぐさま対処すべきだろうと判断する。
が、通り魔の行動のほうがわずかに早かった。少女の前に現れ、ナイフをチラつかせる。
「う、え?」少女は何が起きているか理解できないようで、母音の発音を繰り返していたが、ややあって悲鳴を上げた。持っていた鞄がぼとりと落ちる。
私は少女にじりじりと近づく男の前に急いで立ちふさがり、「おい、やめてくれないか」と我ながら状況にそぐわない、ファストフードの店員に勧められるままポテトを注文してしまうような声で、男に制止をかけた。
「何だよ、さっきの奴か」男は唇を歪め、ナイフを私に向けた。「邪魔すんじゃねえ」
「そうはいかない」
「正義の味方気取りかよ。むかつくな、殺してやろうか」男はナイフで自分の喉を掻っ切る仕草をした。
この男がどうしてすぐ少女に切りかからず、私にも間を取っているのか現状の彼の様子を見てわかった。彼は、相手の恐怖を観察して楽しむタイプの輩である。苛立ちの中に愉悦を含ませた表情が不快だった。
「一つききたい」答えをおおよそ予測しながらも、私は尋ねずにはいられなかった。「何故人を切る。それも女ばかり」
「理由なんかねえよ。楽しいからだよ。面白いからだよ。若い女を切るのが、たまらねえからだよ」男は一言一言を地面に叩きつけるかのようだった。
「なるほど」
確かに、理由もなく退屈は私を追いかけてくるし、私が人間の姿になったのも理由はない。それと同じなのかもしれない。理由など元からなく、全ての行動は感情というものに付属して、ただあるだけなのだろうか。あるいは、感情が付属品なのか。
理由退屈是非もなし。
「だが、つまらん」私は一歩ぐいっと前に出た。
男は私の挙動に驚いたらしく、ナイフを私に突き出した。「動くんじゃねえ。怖くねえのかよ」
「刃物より退屈のほうがよっぽど怖い」構わず私は男に掴みかかろうとする。
「この野郎!」男が叫び、腕を振った。
私の胸に、ナイフが刺さる。
少女の悲鳴が響き渡った。これでも誰も来ないなら、道のり一〇〇メートル、半径なら五〇メートル以内に人はいないだろう。あるいはもっと狭いかもしれない。よほど確かでないと、ゲームか何かの音と勘違いしてしまうものだ。
「へ、へへ」男が薄く笑った。「殺す最初が男だとはよ、気分悪いぜ」
ナイフが身体から抜かれ、血が噴き出した。抜けてしまったか。
「私も良い気分ではない」
のどの奥からせり上がってくる粘り気のある液体を地面に吐き捨て、私は答えた。強引すぎたな、と反省する。
「な」男は驚愕した。「なんで生きてる」
「人間だって、一回刺されたくらいじゃ死なないだろう」
そう言いはしたが、自分でも妙だとは思っている。腹は減るくせに、刺されても平気。奇妙な身体だ。
男は意外に冷静で、私から遠ざかるように回り込み、「動くんじゃねえぞ」とナイフを少女の首に突きつけ、後ずさった。ひっ、と少女が引きつった声を漏らす。
さて困ったな、と私は頭を掻く。「彼女を解放してくれないか」
「従う馬鹿がどこにいる!」
じゃあ人類初の従う馬鹿になってくれないか、と私は言いたかったが、下手に刺激するのはまずかろうとやめた。人間は馬でも鹿でもないのに、馬鹿という言葉に敏感なのは私の知るところでもある。
どうすべきかと考えていると、男のすぐ後ろに、朝『ウララカ』にくる時に触ろうとして拒否された、あの黒猫が歩いているのが見えた。良い毛並みだ。忘れようはずもない。
あの子に助けてもらおう、と思いつく。猫だって人と同じで、困っている仲間を手伝ってくれる。私は「元」であるが、この状況ならわかってくれるだろう。
私は合図のつもりでウィンクをした。黒猫とは何のサインの取り決めもないが、彼女は即座に理解してくれる自信があった。ほら、見なさい。
「何を泣きそうになってやがる。俺を見逃せば、まあ許してやらんこともないぞ?」
勘違いした男が下卑た笑みを浮かべた。別に私は泣きそうになっていたわけではなく、ウィンクが上手くできなくて両目をパチパチと動かしてしまっていただけだ。それより、私の胸から流れる血液に多少気後れしてくれてもいいのではないか、と思う。男は脳からの快楽物質に酔っているのかもしれない。
黒猫が不思議そうに私を見上げてから、前足で顔を撫でた。どうやら了解してくれたらしい。好みの雄でなくても助けてくれるとは、さすがネコ目皆兄弟姉妹である。
「あっ!」私は突如素っ頓狂な声を出した。男が驚いてこちらへナイフを向ける。
瞬間、「いてえっ!」男のふくらはぎを黒猫が噛み、爪を立てた。
私はその隙に男へ駆けて近づき、ナイフを持つ手の首を持って腕を捻り上げた。男が苦悶の声でわめき散らす。
少女が「きゃっ」と尻もちをつき、呆然と私を見上げる。黒猫は「どんなもんよ」といった感じでニャアと一鳴きし、彼女のお腹に乗っかった。
「この!」男が抵抗しようとしたので私は力を込める。いてて、やめろやめろと男は嘆き、大人しくなった。
私は満足げに頷き、少女に声をかける。「大丈夫か」
少女は私の言葉をきいているのかいないのか、焦点の合わない瞳をしていた。きいているなら耳を抜けて溶け去っているのだろうし、いないなら見えない蓋で反射しているのだろう。どちらにせよ私の言葉は空気に消えたようだった。空気は書物にもなるし消しゴムにもなる。全く万能の存在だ。生きとし生けるものは空気に敬礼。
しかし少女はどちらでもなかったようで、やがてハッとしたように「は、はい」と返事をし、「あの、血」と心配と恐怖を足して二で割った面持ちで言った。
「ふむ?」私の胸からの血はもう止まっていたが、血みどろのシャツではどう説明しても説得力がないだろう。私は片手で男を抑えつつ、もう片手で自分の胸をぽんぽんと叩き、「イッツ・マジック」と適当に誤魔化した。
「はあ」マジックですか、と彼女は納得しているのかいないのか、曖昧に相槌を打った。
立てるか、と私がきくと、彼女は慌てて立ち上がろうとしたが、「あ、あれ」と戸惑ったように上半身をバタバタ動かした。
「どうした?」
「腰が抜けちゃったみたいで……」少女の潤んでいた瞳から涙がこぼれそうだった。
「生イカでも食べたのか?」
「え?」
「いや、無理しなくてもいい。こいつを警察に引き渡してくるから待っていろ」
「あの、わたしケータイ持ってます」少女がわずかに震えながら、幸いにしてすぐそばに転がっていた鞄に手を伸ばす。
おお、と私は感心した。携帯電話。略してケータイ。素晴らしきかな文明の利器。必要な時すぐさま誰かを呼べるなんて、人類はテレパシー能力に近いものを手に入れたといっても過言ではないだろう。猫と対話できる日もすぐのはずだ。
私も欲しかったが、しかしお金がない。仕事もしたくない。そもそもお金があったらケータイを買う前に『ウララカ』でコーヒー以上の食事をするべきだろう。
少女が警察に電話している間、私はあるアイデアを閃いた。うなだれる男の耳元で囁く。
「君、私にお金をくれないか」
何だと、と男の顔が引きつった。かまわず彼の身体を探る。
少女が警察に連絡をし終わる頃には、私はお金をポケットに滑り込ませることに成功していた。最初からこういう方法を使えば良かったのだと、私は今までのひもじさを後悔する。
よくよく考えてみると、私は警察に事情をきかれると大変に面倒であるので、仲間を黒猫に集めてもらい通り魔の男を任せることにした。
私がいなくなるとわかった途端、男は目をぎらつかせて逃げ出すタイミングを図っていたようだが、猫の数が二〇匹を超えると呆気に取られ、最後には諦めたようでぐったりと脱力した。
私は脚を蹴飛ばして男を地面に倒す。猫が彼の上にどんどん積み重なっていった。爪を立てたり噛みついたりして各猫それぞれ男を拘束する。丸々と太った一匹が、彼の真ん中にでんっ、と腰を下ろす。痛いより重いが強いのか、おえ、と男が嗚咽をもらした。猫だらけの男はまるで今ここに誕生した新生物のようで、不気味さと愉快さを兼ね備えている。
少女には、警察に事の顛末をきかれたら猫と謎のイイ男に助けられたとでも答えろ、と言い含めた。まあ彼女も通り魔も私のことは容姿くらいしかわからないだろうし、仮に私のもとに誰かが現れてもその時はその時だろう。
少女は猫だけでは、というか猫が大勢集まって来たのが余計不安だったようで、私を引き止めた。彼女の意を汲み、警察が間違いなくくるとわかるまではそばにいた。
サイレンの音がきこえて私が去る時に、少女は「本当にありがとうございました」と頭を下げた。
「どういたしまして」
この言葉を自分で使ったのは初めてだな、と私は嬉しくなる。
「あの、名前を教えていただけますか」不安と期待のある眼差しで彼女が言った。
何かが変化しようとしていることに気づいたものの目だ。通り魔に襲われた割には、アンテナの感度が良さそうだった。人間は単純ではないな、と考えさせられる。
私は彼の容姿を確かめた。目がくりっと大きくて、身長は小柄。明るさは不明。あれだけのことがあって気絶しなかったのは気丈だからか。ちょっと抜けてるところ、襲われたのは抜けているせいなのだろうか。可愛いかどうかは、陽子とまた違うので判断できない。
確信はない。しかし私は口の端を上げ、「すぐに会える。その時に教えよう」と伝えた。きっと超能力のせいだ。
次の日の朝も私は『ウララカ』に行く。黒猫には会えなかった。
今日は挑戦したいことがあったので、若干緊張している。
昨日より客がいなかった、というか席には小原さんが座っているだけだったので、今日は土曜日か、と思い出す。『ウララカ』にくる客はほぼ近隣住人で、土曜の朝は何故か誰も来ない。寝過ごしているのだろう、と私は思っている。昼には昨日より混むかもしれないが、陽子の手が空いているとたくさん話ができて、私は喜ばしい。
「今日はカフェ・オレ……」
言いかけて席に着くが、着いた時にはもうコーヒーが出ていたので私は黙る。
「え?」陽子はにこにこと笑っていた。私は彼女の笑顔が好きだ。
「いや、ありがとう」素晴らしきかな習慣。高まり続ける効率。習慣効率絶好調である。私はスプーンで一口すすった。「朝は君の入れてくれるコーヒーに限る」
「どういたしまして」
そう言う時の陽子は、とても幸せそうだ。私はその気持ちが少しはわかるようになった。
ふと、私は決してありえない「もしも」を想像した。もしも、三毛猫でもない私のことをミケと呼ぶ彼が生きていて、ここで私と陽子の笑顔を眺め、コーヒーを飲んでいたら、と。
コーヒーのおかわりを頼む彼に陽子が話しかけるところで首を振り、感傷に浸りそうになった自分に心で喝を入れた。想像と言うより妄想だ。
私はだんだん人間に近づいているのかもしれない。それは良いことなのかどうなのか、まだ決められなかった。
「あの通り魔事件、何だかすごいことになってるね」
今日も私の二つ隣の席に座って、テレビを見ていた小原さんが陽子に話しかける。フォークでつついている食べかけのアップルパイが、私の食欲を刺激した。
「ホント、不思議なこともあるんですね」陽子が答える。
私もテレビを見ると、『通り魔事件、電撃解決! 鍵を握るのは猫を操るイケメン?』とテロップに書いてあった。いささかエンターテイメント色の強い番組のようだ。娯楽性が高いのは良いが、味つけが濃すぎると飽きてしまう。
だいたいイケメンとは何だろう。私は「イイ男」と言っておいたのに。マスコミという奴はいい加減だ、と路傍に転がっている石ころのような批判まで湧き出した。
「そうそう、アルバイトの面接にくる予定だった子が来れなくなった、って昨日の夜に電話があったんですけど」陽子が頬に手を当てて言った。
「あら、どうしたの」小原さんの反応は俊敏だ。
「今日の朝改めて、ということになって」
「じゃあ、今すぐくるかもしれないってことね。私たちが品定めしてあげる」
「いや、それはやめてください」陽子が苦笑する。
と、そこで店のドアが開け放たれた。我々は一斉にそちらを向く。視線を集めた来訪者が戸惑ったように身をよじらせた。
「あの、バイトの面接に来たんですけど」
「ああ、はい。どうぞこちらに来てください」
陽子の導きに従って、来訪者は店に入る。姿をよく見ると昨日の少女だった。彼女は私の姿を認めると、表情を驚きに染める。
陽子には本当に超能力があるのかもしれない、と私はとても愉快な気持ちになった。この世はやはり面白い。おそらく、少女はあの時『ウララカ』の面接に向かう途中だったのだろう。
しかし面接のせいで襲われたとすると、たとえ偶然性に満ちたことだったとしても、陽子の心が痛むには充分だ。私としては、昨日の出来事については黙っていて欲しかった。
「本当にすぐ会えるなんて」彼女は興奮した様子で私に話しかけてくる。
「知り合い?」
陽子と小原さんは不思議そうに私と少女を見比べた。
「いや」唇に人差し指を当てる。この合図には黙っていろ、という意味があったはずだ。少女が首を傾げながらも頷くのを見て、「私は福山錬一郎という」と名乗った。
面接は時々小原さんが横槍を入れる以外は、非常に簡単なものだった。名前は荒川果歩。私は彼女を高校生くらいかと思っていたが、実際には大学生だったらしい。
「じゃあ朝に来れるのね」
「はい、講義は木曜日以外午後にしか入れていないので」
「良かった」陽子がいつものように笑顔を作る。彼女にとっては、それが習慣なのかもしれない。「果歩さん、今日はこれから大丈夫? 仕事を覚えてもらいたいんだけど」
「すいません、午後から警察のほうに行かなくちゃいけなくて」
「警察?」
「ちょっとわけがありまして」果歩は恐縮するように身を小さくし、私のほうをうかがった。それでいい、と私は頷く。
「そうなの。それなら仕方ないわね」小原さんは話をきく気満々だったようだが、陽子は詳しく追求しようとはしなかった。今はきくべきでないと判断しただけかもしれない。「じゃあ、明日の九時からだったら大丈夫?」
陽子が面接と通り魔事件との関連性に気づかなくて、私はホッとした。
「はい、それなら」
「うん、オッケー。それじゃ、明日からよろしくね」
「よろしくお願いします」果歩は深々とお辞儀をした。
「終わったか?」では、と私は切り出した。「これを頼む」
メニューを見て、指でアップルパイを示す。
この決断にはかなりの勇気を必要とした。私にとってちゃんとした料理を頼むことは未知の領域であり、まるで深い深い沼に飛び込み、底にある一粒の石のかけらを掴んで戻ってくるかのような無謀な行為に思えた。
「えっ」小原さんが、一〇階建てのビルから落ちる赤子を見るような目で私を見た。
「錬さん、お金あるの?」陽子も笑顔に狼狽を滲ませている。
「ふむ」
私は躊躇いながらも自信を持って、ポケットから一万円札を取り出した。
おおー、と陽子と小原さんから歓声が上がる。果歩は何が何だかわからないようで、キョロキョロと私たちを見回した。
「どうしたの、このお金」と小原さんが私に尋ねた。
これはだな、と私は相手が通り魔ということを伏せて話し始める。お金を稼ぐアイデアを思いつき、甲斐性なしから脱出するはずだということを知らせたかった。まさか、「それはかつあげって言うのよ」と陽子が怒り出すとは、考えが及んでいない。