吾輩は異世界から来た猫である ~異世界猫とニンゲンとおいしいごはん~
吾輩は異世界から来た猫である。名前はまだない……ということはなく、前にいた世界では『クロマル』、今いる世界では「ふーちゃん」と呼ばれている。
これは、あれだ。前の世界の偉大な吟詠猫ニャツメの有名な詠い出しを借りてみただけだ。ちなみにおれはこの一節しか知らないから、これ以上ニャツメの表現をなぞることはできない。そしてこれから先、おれがニャツメの唄の続きを知る機会はおそらくない。
この世界にニャツメはいないし、前の世界に戻る方法を、おれは知らない。
この世界に来たばかりの頃は、おれはただただ戸惑うばかりだった。
見渡す限り、見たこともない景色。
なんだか硬くて土とは違うでこぼこのある地面。
極端に少ない木と草。
見上げてもまるでてっぺんの見えない巨大な建物。
どこにでもいる、二足歩行をする巨大な生き物。
嗅いだことのない空気。
どこまでも食欲をそそる、魅惑的な食べ物の匂い。
これまで食べたこともない、しっとりジューシーなごはん。
食べても食べても食べ飽きない、まるで天国のようなとろりとしたごはん。
カリカリとした食感の、食べ応えのある病みつきになるごはん。
本能に訴えかける芳醇な深い香りを漂わせる、いつまでも舐めていたくなるとろみのある液体。
……にゃんだこのおいしい世界は!!!
おれはただただ、戸惑うばかりだった。
◇ ◇ ◇
おれはいわゆる冒険者というやつだった。
おれの住む村は猫たちが寄り集まってできた村で、みんなで助け合いながら日々の生活を送っていた。労働の対価として食べ物をもらったり寝床をわけてもらったり、需要と供給で成り立っている村だ。
そこでおれは、外敵から村を守る冒険者というやつをやっていたというわけだ。
村の周りには、おれたち猫の生活を脅かす敵がたくさんいた。
食料を勝手に食い漁るネズミや、鋭いくちばしで村猫たちを傷つけるカラス、時にはもっと狂暴なイタチが集団で襲いに来ることもある。おれは村の他の若者と一緒にそいつらと戦う、勇猛果敢な冒険者だった。
その日もいつものように村を狙うカラスを追い払う仕事を引き受け、冒険者仲間とチームを組んでカラスと戦った。普段からよくチームを組んでいる仲間たちで、おれにとっては気心の知れてるやつらだ。
無事にカラスを追い払うことに成功し、さて仕事上がりの一服といこうかと思ったら、仲間の一匹と喧嘩になった。いわく、おれはいつも一匹で勝手に突っ走りすぎる、と。
突っ走って何が悪いんだ。村にとっての脅威であるカラスは一刻も早く追い払うべきだ。仲間と足並みそろえて戦うなんて待ってたら、その間にもカラスが襲ってくるかもしれない。だからおれはいつも他のやつが追いつくのを待たずに敵に攻撃をしかけているだけだ。
でもおれの理屈は仲間たちには理解できなかったらしい。口論はますますひどくなって、結局売り言葉に買い言葉で、おれはいつもの仲間たちのチームを追い出されることになった。
怒り冷めやらぬまま村に戻る気になれず、そのまま一匹で近くの丘の上で不貞寝を決め込んだ。そうしているうちに空模様が悪くなり、近くに落ちた雷にふぎゃっと目を塞いで、次に目を開けた時には見知らぬ世界になっていた。
おれは異世界にやってきてしまった。
この世界のことについては、最初に会った野良猫の長老に教えてもらった。
長老はこの辺りの野良猫を束ねるリーダーで、片方の耳が小さく欠けていた。おれも元の世界で強敵であるイタチと戦った時に負傷して片耳が少し欠けているので、お揃いだ。
異世界だけど、猫語は共通だった。おかげでとても助かった。
まず、この世界の猫は二足歩行をしないことに驚いた。
前の世界では、猫は二足歩行ができていた。子猫の頃や早く走らなくてはならない時は四足歩行もするが、生活の大半は二足歩行だ。おれも臨機応変に四足歩行もできるが、基本は二足歩行だったので、最初は四足歩行での生活にはなんとも言えない屈辱感を覚えたものだ。
でもこの世界で普通の猫の振りをする為には致し方ない。まずはこの世界で生き延びることが先決だと自分を戒め、二足歩行は一旦封印した。
そこらじゅうにいる二足歩行の巨大な生き物は『ニンゲン』というらしい。そいつらが生態系の頂点にいて、長老たち野良猫は、地域の野良猫の餌場にニンゲンたちが用意してくれるごはんを食べているそうだ。
この世界の猫は、ニンゲンと一緒に暮らすか、野良猫として外で暮らすかのどちらかだという。つまりニンゲンは敵ではないのか。……と思ったら、長老たちが利用している餌場では、新入りはニンゲンに捕獲されると去勢されてしまうという。
去勢……!! ニンゲンとはにゃんと恐ろしい生き物なんだ!!
でもニンゲンに近づかず、変なカゴの中にあるごはんにも近づかないように気を付ければ捕まって去勢されることはないというアドバイスを貰ったので、しばらくは長老たちの餌場でこっそりおいしいごはんを食べさせてもらうことにした。
ニンゲンがくれるごはんはおいしい。ものすごくおいしい。
ニンゲンたちの恐ろしさを聞いたおれは最初は警戒をしておいしそうなごはんでも食べないようにしていたが、鼻に届く匂いは全力で食欲を刺激してくる。
そんな見え透いた思惑になんて絶対負けないぞ。絶対食べたりなんか……絶対……絶対……うみゃうみゃうみゃ……。
この世界のごはんを食べないなんてもったいない!
捕まらないように気を付けながら食べればいいんだと割り切って、いろんなごはんを食べさせてもらった。ごはんおいしい。この世界は天国だ。
それでも、いつまでもこうしてはいられない。
おれは元の世界に帰る方法を探すため、長老の縄張りを出た。
元の世界に帰る方法は全く見当もつかない。雷が原因でこっちの世界に来たのだろうと予想はつくが、もう一度雷の近くに行くのは嫌だ。勇猛果敢な元冒険者とはいえ、全身にビリビリと響く雷は苦手だ。おれが臆病なのではない。猫で雷が好きなやつなんていない。できるなら他の方法を見つけたい。
野良猫としてこの世界をさまよいながら元の世界に戻る方法を探すことにしたが、そう簡単には見つからない。
長老の縄張りを出たことで、簡単にごはんにありつくことも難しくなった。放浪した先で野良猫の餌場を見つけても、よそ者がそのおこぼれにあうのは容易ではない。元々おれたち猫には縄張り意識というものがある。縄張りによそ者は入れないのが猫という生き物だ。得体のしれないおれを縄張りに受け入れてくれた長老が珍しいのだ。
日々のごはんにも困りながら、それでもおれは元の世界に戻る方法を探してさまよった。こっそり野良猫の餌場の残り物を食べたり、時にはカラスとごはんを奪い合うこともあった。もちろん、ニンゲンからは常に距離を取ることも忘れなかった。
そんな風にすっかり四足歩行と野良猫生活に慣れてしばらく経って。
――今おれは、あれだけ避けていたニンゲンと一緒に暮らしている。
「ふーちゃんお待たせー。ごはんだよー」
ニンゲンがおれ専用の皿にしっとりジューシーなごはんを入れる。
だがおれは決してすぐに駆け寄って食いついたりはしない。
一度ちらりと横目で見て、それからまるで興味がないようにそっぽを向く。おれがこのごはんに夢中になっているなんて知られたら、どんな風に悪用されるかわからない。
まだだ。まだ食べてはいけない。もう少しもったいぶって……もう少しがまん……もう少し……うみゃうみゃうみゃ。
ごはんおいしい……しあわせ……。
このニンゲンと出会ったのは、カラスとごはんの奪い合いをして怪我をした時のことだ。
前の世界では、おれは勇猛果敢な冒険者だった。カラスとだって戦ったことがある。この世界の猫たちはあまりカラスと戦うことはないようだが、毎日食べるものにも困っているおれは、時にカラスの群れに立ち向かわなければならない。
でもさすがに一匹でカラスの群れと戦うのは無謀だったのかもしれない。
お腹が空いていて力が出なかったこともあって、何度も体をつつかれて仕舞いには立っていることさえできなくなってしまった。
おれはこんなところで死んでしまうのか……。
もう痛くて目を開けていられない。
重い瞼を持ち上げるだけの力はなく、そのまま意識が遠のいていった。
意識が途切れる直前、大きな二足歩行の生き物が見えた気がした。
次に目が覚めた時には、また全然知らない場所にいた。もしかしてまたも異世界に移動してしまったのか!? と慌てたが、そうではなかった。
カラスにつけられた傷には何やら布が巻いてあって、どうやら手当されていることに気づく。
慣れない匂いと奇妙な状況に戸惑っていたら、近くにいたよぼよぼの猫が、ここは病気や怪我をニンゲンが治してくれるところだと教えてくれた。
ニンゲン……! ニンゲンに捕まってしまった! このままだと去勢される!
パニックになって暴れようとしたが、体が痛くてあんまり動けなかった。
動けないなりに周囲を警戒していたら、ニンゲンが何匹かやってきておれをひょいと入れ物に入れて、そのままどこかに連れていかれる。その中の一匹は意識を失う前に見たニンゲンだったような気もするが、よく覚えていない。そもそもおれたち猫には、ニンゲンの顔はあまり明確に判別できない。でもたぶん、こいつはおれが意識を失う前に近くにいたやつだと思う。なんとなく嗅いだことのある匂いだった。
最初は何匹かいたニンゲンだったが、結局嗅いだことのある匂いのニンゲンだけになって、おれが入れられた入れ物を運んでいるらしい。
もしこいつがおれを去勢しようとしたら引っ搔いてやる。
いつでも爪を出せる準備をしていたが、そこから更におれが連れていかれたのは、なんだかほっとする匂いのする場所だった。
もちろん警戒は怠らなかったが、おれはそこで柔らかい布の上におろされた。建物の中なのにお日様の匂いがする布はびっくりするくらい柔らかくて温かくて、つい手をにぎにぎしてしまう。
なんだかよくわからなかったけど、怪我の痛みも残っていたせいか、布にくるまって手をにぎにぎしているうちに気づけば眠りに落ちていた。
どうやらこのニンゲンは、今のところおれを去勢するつもりはないらしかった。
怪我が治って動けるようになっても、おれはそのままその建物……というか部屋の中にいた。
この部屋ではニンゲンとおれが生活している。朝おれが起きて少しするとニンゲンも動き出して、しっとりジューシーなごはんを用意してくれる。警戒しながらそれを食べ終える頃になると、ニンゲンは部屋の外に出ていく。そして夜まで戻ってこない。でも毎日じゃない。朝出て行って夜に戻ってくるのを五日繰り返して、その後二日は特に決まりのない行動をしているようだ。
なるほど。多分あのニンゲンは仕事をしているんだ。かつてのおれが冒険者をしていたように。きっと夜まで戻ってこない時は外で仕事をして、ごはんを手に入れているに違いない。つまりこのニンゲンはおれにごはんを貢ぐ為にここにいるということか。
そう考えると妙に納得がいった。
毎日用意されるしっとりジューシーなごはんやとろりとしたおいしいごはん。それに、この部屋には用を足してもあまり臭くならないトイレもある。ニンゲンは定期的におれのトイレも綺麗にしてくれていて、おれは今までの猫生の中で一番快適な生活を送っていると言っても過言ではない。
暑くも寒くもない快適な部屋。地面はつるつると滑って最初は歩きづらかったけど、すぐに慣れた。何よりこの地面は手足が汚れないので、綺麗好きなおれとしてはありがたい。
部屋の外には出られないけど、台の上にぴょんと飛び乗れば、透明な薄い板の向こうにはこの世界が広がっているのが見えた。
どうやらこの部屋は高いところにあるらしい。見下ろす世界は、ただただ広かった。
外に広がる世界に比べたら、この部屋はとても狭い。でも快適だ。
ニンゲンが外に出ていて部屋にいない間に、久しぶりに二足歩行をしてみた。いざ元の世界に戻った時に四足歩行しかできなくなっていたら目も当てられない。大丈夫、まだ体は二足歩行を覚えている。
ついでに少し体を鍛えておく。怪我をしてからこっち、快適な生活で少し体が鈍っている。
滑ってちょっと走りづらい地面を颯爽と駆け抜け、少し高さのある台の上にジャンプで飛び乗る。ついでに透明な板の近くに垂れ下がっている布を爪を使ってよじ登って、華麗に宙返りをして地面に着地。完璧だ。いつでも冒険者に戻れそうだ。
「もーこんなにぐちゃぐちゃにして……こら、ふーちゃん。部屋で暴れちゃだめでしょ」
その日、夜に戻ってきたニンゲンが長い鳴き声を上げていた。
おれにはニンゲン語はよくわからない。でも「ふーちゃん」と「ごはん」は覚えた。「ふーちゃん」はどうやらおれのことで、「ごはん」はおいしいごはんのことだ。かつて仲間から『クロマル』と呼ばれていたおれは、このニンゲンからは「ふーちゃん」と呼ばれている。
今日も用意されたしっとりジューシーなごはんを警戒しながら食べている間に、ニンゲンは昼間おれが運動をしているうちに物が散らかって歩きづらくなった地面を片づけていた。やはりこのニンゲンはおれの下僕で間違いないようだ。
ニンゲンがいない日中は部屋の中で運動をし、疲れたらお日様の匂いがする柔らかい布にくるまって眠る。お腹が空くころになると変な入れ物から勝手にカリカリのごはんが出てくるから、それを食べる。いつもしっとりジューシーなごはんばかりだと飽きるからな。豊かな食生活には変化も大切だ。ごはんを食べると眠くなるから、また布にくるまって手をにぎにぎしながらひと眠り。うん、快適だ。
でもそろそろ元の世界に戻る方法を探しに行かなくちゃいけない。
「じゃあふーちゃん、行ってくるね。今日はちゃんといい子にしててね。あんまり暴れないでね」
朝、ニンゲンが長い鳴き声を上げて外へ出て行く。
甲斐甲斐しくおれに貢ぐニンゲン。完全に警戒を解いたわけではないが、おれを去勢しようとしたり傷つけたりする気配はない。
ここへ連れてこられてすぐの頃、突然あったかい水に突っ込まれて変な匂いの液体と泡まみれにされた挙句熱風を掛けられて殺されるかと思ったことはあったが、それ以外で嫌なことはされていない。
ああでも、時々おれの爪を切るのはやめてほしい。せっかくニンゲンが用意してくれた高性能な爪とぎを使って丹念にといだ爪なのに。爪とぎをさせておきながら、当のニンゲンが爪を切ろうとするなんて理不尽だ。
この部屋から外に出ることはできないけれど、これもあのニンゲンなりのもてなしなのだということは分かっている。時々ちょっと嫌なことはあるが、おいしいごはんとあったかい寝床。まさしく天国みたいな環境だった。
台の上にぴょんと飛び乗って、透明な板越しの世界を観察する。
見下ろす高さだが、飛び降りられないほどの高さではない。日々鍛錬も欠かしていないから宙返りで優雅に着地できるだろう。
ニンゲンが部屋の出入りをする隙をついて飛び出す。あるいはこの透明な板を突き破る。そうすればここから出て、元の世界へ戻る方法を探しに行くことができる。
やろうと思えば、いつだって、できる。
「ただいまー。ふーちゃん今日はいい子にしてた?」
ニンゲンが鳴き声を上げながら部屋に入って来る。その足元を走り抜ければ外に出られれる。
でもお腹が空いたから、今日はとりあえずやめておこう。しっとりジューシーなごはん食べたい。
「ほらふーちゃん、ごはんだよー」
おれ専用の皿にしっとりジューシーなごはんが入れられる。
あ、昨日と違う匂い。今日は何味にゃんだ……いや、そんなにすぐに食いついてはいけない。下僕には低姿勢を見せてはいけないのだ。もうちょっと焦らして……いやまだ……もうちょっと……うみゃうみゃうみゃ……。
ごはんおいしい。
お腹はいっぱいになった。これでもうここを出て行く準備は万端だ。
いやでも、明日の朝もう一回しっとりジューシーなごはんを食べてからにするか?
ニンゲンがいない時に透明な板を破るべきか?
「今日はいい子にしてたみたいだから特別にご褒美だよ!」
出て行くタイミングを悩んでいると、ニンゲンが平べったい何かをおれに向けて振り振りしてきた。
……あれは! 魅惑のとろとろごはん!!
これまでも何度か食べたことのある、この世のものとは思えないほどおいしいとろりとしたごはんだ。
なぜかこのニンゲンは、このごはんだけは平べったい入れ物から直接おれに食べさせたがる。あまりニンゲンには近づかないようにしているというのに、これを出されたら近づかないわけにはいかないではないか!
すすすっと近づくと、ニンゲンが入れ物の上を少し切っておれの鼻先に差し出してくる。
あああ魅惑的なこの匂い……! 欲望に堪えられずつい前のめりに食いついてしまった。
入れ物の先端から少しずつ出てくるとろとろごはん。おれがぺちゃぺちゃ舐めるスピードに合わせて、続けて出てくる。
どうやらニンゲンがごはんが出るスピードを調整しているらしいと気づいたのはいつのことだったか。最初は遅くてもどかしく感じることもあったが、今ではこのニンゲンはおれのスピードを完全に理解したらしく、おれが望むままにとろとろごはんが出てくる。優秀な下僕だ。
あっという間になくなってしまうとろとろごはんを舐めつくし、満足して毛づくろいをする。
その間にニンゲンはあったかい水を浴びてきたのか、気が付くとしっとりほかほかになっていた。
「ふーちゃんおいでー」
ニンゲンに呼ばれる。見ると、しっとりほかほかのニンゲンが近くの布をぽんぽんと叩いている。最近気づいたが、どうやら「おいで」はこっちに来いという意味のようだ。
ふん、おれはそんなに簡単になびかないぞ。
ぷいっとそっぽを向いて、いつものお気に入りの柔らかい布にぴょんと飛び乗った。
「やっぱだめかー。まったく、ふーちゃんは本当にふてぶてしくてかわいいなぁ」
ニンゲンが何やら鳴き声を上げている。多分抗議しているんだろうが、少し高い声だから機嫌が悪いというわけではないようだ。ニンゲンというものはよくわからない生き物だ。
そろそろここは出て行かなくてはならない。隙を突けばいつだって出て行ける。おれは勇猛果敢で優秀な冒険者だから。
でもここのごはんはおいしい。寝床にしている布も、柔らかくてお日様の匂いがして気持ちいい。
ニンゲンはよく騒々しく鳴き声を上げているが、それも別に不快じゃない。優秀な下僕を手放すのは惜しいとも思う。
寝床の布をにぎにぎしながらこれからのことを考える。
元の世界に戻る方法を考えなくては……その為には外に出る必要があって……ニンゲンの足元をすり抜ける方法と透明な板を破る方法があって……布気持ちいい……明日のごはんは何味かにゃ……とろとろごはんまた食べたい……ぐぅ……。
この透明な板はどうやら動かせるらしい。この間ニンゲンがこの板を動かしているのを見た。つまりこの板を動かせば、ここから抜け出すことができるというわけだ。
ニンゲンが外へ出て行った部屋で、おれはじっと透明な板を見る。
ニンゲンが板を動かす様子は見ていたから、たぶんおれでも動かせるだろう。
いつでも、出て行きたいと思ったら出て行くことができる。
出て行けて、しまう。
出て行くタイミングを決めかねながらも数日。
いつもだったら昼間は外に出ているはずの日なのに、その日のニンゲンはなぜか朝からあまり動かなかった。おれのごはんの時間になっても、ニンゲンの寝床でもぞもぞ動いているだけだ。
「ごめんねふーちゃん……ごはんちょっとだけ待って……」
少し経つとニンゲンが動き出し、いつもより鈍い動きでしっとりジューシーなごはんを用意してくれた。
いつものように警戒しながらごはんを食べていると、ニンゲンが何やら一匹で鳴いているのが聞こえてくる。
「……あ、おはようございます。すみません今日欠勤させて頂きたくて……はい、ちょっと熱があって……いえ、ご迷惑おかけします、すみません……はい、よろしくお願いします」
なんだかいつもの鳴き声と違う。ちょっと硬い鳴き声だ。
寝床に戻ったニンゲンは、そのままもう一度眠ったらしかった。
このニンゲンと暮らすようになってからこんなことは初めてだ。さすがに気になって、すやすやと眠るニンゲンにそっと近づく。
なんとなくいつもよりあったかいニンゲンを見ていると、元の世界で村の仲間が体調を崩した時のことを思い出した。その時もたしか今のこのニンゲンのように荒い呼吸でぐったりしていたはずだ。
このニンゲン、もしかして体調が悪いのか?
どうしよう。どうしたらいいにゃ?
猫は体調が悪い時は、ただじっと体を休めて回復するのを待つ。でもニンゲンはどうするのかわからない。猫のようにじっとしていれば治るのか?
思わず二足歩行になっておろおろとニンゲンの近くをうろうろする。
いつだってここを出て行くことができる。このニンゲンとだって、おれがここを出ていけばそれきりの関係だ。その程度のニンゲンだ。
でも、今はまだこのニンゲンはおれの下僕だ。いなくなってしまったら困る。
おれにはこの世界のことはわからない。ニンゲンのことなんて、わからない。
だけど死なれたら困るんだ。
ためらいながらそっとニンゲンの傍に身を寄せ、体を丸めた。
元の世界で体調を崩した仲間がじっと体を休める時、仲間が近くにいると安心した様子を見せていた。このニンゲンにとっておれが近くにいることが安心に繋がるかどうかはわからない。でも、今のおれにできることはこれくらいしかなかった。
「……ふーちゃん?」
体を丸めていると眠ってしまうのは猫の性だ。
ニンゲンに寄り添っているうちに本能に逆らえず眠ってしまったらしいおれは、ニンゲンの鳴き声で目を覚ました。
ニンゲンを見る。ニンゲンがおれを見ている。
おれにはニンゲンの顔の区別はつかないけど、ニンゲンの寝床でニンゲンに寄り添って丸くなっているおれをじっと見ていることはわかる。
しまった! ニンゲンが起きる前にニンゲンの寝床から出ようと思っていたのに!
びっくりして思わずふぎゃっと毛を逆立ててニンゲンの寝床を飛び出した。
「ああ待ってふーちゃん! もっとここに居てくれていいんだよ? せっかく一緒に寝てくれたのにー……戻ってきてー」
下僕であるニンゲンの寝床で眠っているところを見られるなんてなんたる不覚……!
言いようのない恥ずかしさに襲われて、おれはいつものお気に入りの布に頭を突っ込んで見悶えた。
しばらくおれを呼んでいたニンゲンだったが、しばらくすると疲れたのか、もう一度眠ったらしく静かになった。
そうして日が暮れる頃に再び起き出したニンゲンは朝と比べるとだいぶすっきりしたようで、呼吸も落ち着いていた。
「ごめんねふーちゃん。今日は心配かけちゃったね。ちゃんとカリカリ食べた?」
なにやらおれに向かって鳴いているが、聞こえないふりをした。……別に恥ずかしいからじゃない。おれは気まぐれな猫だから、今日は聞こえないふりをしたい気分なだけだ。
それなのに!
「ふーちゃーん。おーい。こっち向いてよー。ほら、ふーちゃんの大好きなおやつだよー」
魅惑のとろとろごはんをちらつかせるなんて、なんとあくどいニンゲンなんだ!
でも魅惑のとろとろごはんの誘惑にはあらがえない。とろとろごはんに罪はない。
とろとろごはん、おいしい。しあわせ……。
「ふーちゃん、行ってくるね。今日もちゃんといい子にしててね。私の布団で寝ててもいいからね」
すっかり元気になったらしいニンゲンは、おれのしっとりジューシーなごはんを用意すると外へ出て行く。
おれとニンゲンの日常が戻った。
ニンゲンがいない部屋で鍛錬をし、時々透明な板から外を観察し、お腹が空いたらカリカリのごはんを食べ、お腹がいっぱいになったらお日様の匂いがする布にくるまって眠る。
時々――本当に時々だが、ニンゲンの寝床で昼寝をする。ニンゲンの寝床にある布も手触りが良くて、にぎにぎするのにちょうどいいからだ。別に、ニンゲンの寝床が安心するからとかじゃない。
ほんのりあのニンゲンの匂いが残る布にくるまり、手をにぎにぎする。
――元の世界に戻る方法を探す為に、ここは出て行かなくてはならない。
でも別に、今すぐ出て行かなきゃいけないわけでもない。
まだおれはこの世界のことをよく知らないし、おいしいごはんを堪能しきってもいない。しっとりジューシーなごはんにはいろんな味があって、まだ全部食べきれていない。
魅惑のとろとろごはんにも何種類か味があることを知ってしまったから、どうせならそれを全部食べてからでもいい。
昼間勝手に出てくるカリカリのごはんも、いろんな種類がある。せっかくこんなにおいしい世界にいるのだから、それも全部食べたい。
もしかしたら他にももっとおいしいごはんがあるのかもしれない。毎日おれに貢ぐために働いている下僕のことだ、きっとそのうち持って来てくれるに違いない。
だからまだ、もうちょっとここにいて、ニンゲンに世話されてやってもいい。
ごはん……おいしいごはん……今日のごはんはどんなおいしいごはんかにゃ……。
すっかり嗅ぎなれたほっとする匂いに包まれて、おれは食べきれないほどのおいしいごはんに囲まれる夢を見た。とてもとてもしあわせな夢だった。
ここはにゃんともおいしくて、しあわせな世界である。




