サンセット・ビーチ
いつも頑張ってお疲れのあなたに届けたい、大切な人と見る景色。
八月の中旬を過ぎた頃、珍しく仕事が早く終わった夕方六時のことだった。
『汐莉に見せたいものがあるんだ。六時半ごろ待ち合わせよう』
付き合って二年の彼氏、海渡から急な誘いの連絡があった。ちょっと前に私から『今年のお盆はどうだった? 私は今年も忙しくて実家に帰れなかったな』と連絡を送り、向こうからの返信がないと思っていた矢先だ。
待ち合わせ場所に指定されたのはいつも私が通勤で使っている駅だった。改札が一つ、出口が東と西に二つある小さな見慣れた駅。……海渡は六時半に駅で待ち合わせて、私をどこへ連れて行くつもりだろう。
本当は、今日は早く帰ってすぐ眠ってしまうつもりだった。仕事が定時に上がれることは滅多にないので、最近買った入浴剤でも入れてゆっくりお風呂に浸かろうと計画を立て始めていた。時間に追われる毎日。凝り固まりゆく肩と足。人を相手にした接客業のせいで、頬の表情筋も強ばりそう。疲れているのだから、早く帰ればよかった。海渡の急すぎる誘いなんて、断ればよかった。
でも……と私はため息をつく。疲れている体を労わろうと思うよりも、海渡からメールが来た時の『会いたい』という気持ちの方が勝って、私はついつい『わかった!』とすぐに了承してしまった。
最近はお互いに仕事が忙しく、会えていない。電話はおろか連絡もしない日が多くなってしまった。社内プロジェクトが大詰めを迎え大事な時だから仕事を優先したいという海渡の気持ちはわからなくもないが、もう少し会う時間が取れないかと思う。将来のことも考えたい。海渡のことを思い出すと少しだけ心が冷たくなる気がする。
私はスマートフォンを確認した。もう時間は過ぎている。連絡はない。駅は広くはないので歩いていたらきっとすぐ見つけられるけれど、寂しさを紛らわせるように連絡した。
『駅のどこにいけばいいの? 東? 西?』
連絡を送るとすぐ返信があった。
『金色の時計があるところ』
金色の時計? 駅にそんなものあっただろうか。電光掲示板とともに時計はあるものの、それは金ではなく年季の入ったものだ。
と、辺りを見回して西の出口を見た時だった。
「もしかして、あれのこと?」
今気がついた。あんなのあったっけ。疑問が湧く。
西出口に、自分の背より高い金色の置き時計があるなんて。どうして今まで気がつかなかったんだろう。時計自体も秒針も金色に輝いていた。……こんなものを今まで見過ごしていたなんて私はいつもの道しか見ていなかったのだろうか。
『金の時計の下で待ってるね』
連絡を打つと、返ってきた。
『見つけたなら、西の出口を出てみて』
なんか不思議な言い方だ。もしかしたらもう西出口で待っているかもしれない。
出口の扉から西日が漏れ出ている。眩しい。
「この匂い」
懐かしい匂いがする。……潮風だ。海の匂いだ。
何かがおかしいような。心のどこかで思ったのにいつのまにか私の手は扉を開けていた。
その瞬間、言葉は消え失せた。
「……わあ……!」
黄金色。目の前にそんな色に包まれた空間が現れた。目に映るもの全てが、色を変えていた。低い位置から照らす、黄金色の光。真っ直ぐ自分を照らしているのは夕方のオレンジの太陽。その光が照らしているのは。
「海」
きらきらと、水面は眩しく照り輝く。ゆらゆらと、弱い力で揺れ動く。まるで金粉をふりまいているように瞬いている。遠くに見えるはオレンジ色に染められた、空と海を分かつ地平線。一面に広がった光景はどこまでも続いている。
目を見張った。まばたきの仕方さえ忘れてしまうほどに。
「……きれい……」
ポツリと口から自然と飛び出した。ゆるやかに打ちよせる波。白色の砂を運んでくる。
「海なんていつぶりだろう」
思わずパンプスのまま砂浜に足を踏み入れたくなる。水に浸したくなる。それは小さな頃故郷の海で遊んだ衝動と同じだ。
夕日の暖かさ。昼間のような暑さは感じさせない優しさを持っている。潮風がそっと肌を撫でる。吹きつける潮風が長い黒髪を緩やかに靡かせる。サーっという波の音が私の心もさらっていく。
と、ふととある思いが心の中で湧いた。
──この景色を、海渡にも見せてあげたい。一緒に見たい。
「お待たせ」
肩を叩かれる感触がして、聞きなれた男性の声が聞こえて、私は初めてきらめきから目を離した。スーツ姿の海渡が立っていた。
「この景色を、汐莉に見せたかったんだ」
彼は私のすぐ隣に立ち、そっと呟く。真っ直ぐ夕日と海を見据える。
遅かったね、久しぶりだね、全部の言葉が光に溶けていった。
「汐莉、最近疲れているみたいだから、ぜひと思って。汐莉は子どもの頃海の近くに住んでいたって言ってたろ? 海を見たら童心に返るように一息つけるんじゃないかと思ってね」
そっと海渡は足元の砂を掬い取った。指の間からサラサラと落ちていく。
「満ち引きの音を聞いていると落ち着けるよ。裸足で砂浜を歩くと気持ちがいいだろうな」
私は真っ直ぐ見つめる。
海は子どもの頃『友達』だった。砂浜で遊んで、貝殻を拾って、時には瓶に手紙を入れて流して。友達と水をかけあって泳ぎ回って。記憶が蘇ってくる。その時、いつも夕飯前まで遊んでいた。夕日の光と海は私の中で紐づいている。
そして思い出す。
私はここを離れて頑張るから。
海に向かって誓ったのもこんな夕方だった。暖かな夕日が照らしてくれていた。
ゆっくりと記憶の紐が解かれ始めている。
「最近仕事ばかりで疲れているみたいだったから汐莉に教えてあげたかったんだ」
彼は私のすぐ隣に立ち、真っ直ぐ夕日を見据える。
弱い風が吹いてきて、さざなみがサーっと音を立て、そして、砂浜をさらっていく。そんな様子を見ていると鼓動が穏やかさを取り戻していく。
「この景色を、一緒に見れてよかった」
「私も、そう思う。私の故郷の海、こんな感じだったな」
鼓動が落ち着くのがわかる。体から力が抜けるのがわかる。
大きな深呼吸をしてみる。ゆっくり息をつくのって、いつぶりだろうか。
私は海渡の肩に頬を乗っけた。きらめく水面にうっとり見とれ、さざなみの音に聴き惚れながら、ゆっくりとまぶたを閉ざす。
こんな時間が続くといい。
「ちょっとはリラックスできた?」
「そうね。なんだか嫌なことも疲れていることも忘れちゃった」
「なら、よかった。誘った甲斐があったよ」
微笑んだのがわかった。海渡も私も。
「海渡」
「ん?」
私の横顔を見たのがわかる。
「ありがとう」
「僕は連れてきただけさ。元気になってくれたなら、それでいいよ」
初めて会った時から変わらない。最近話せていなかったけれど、海渡は変わってない。
「近々会おうよ。久しぶりに会いたいな」
海渡の声がした。
久しぶりに水族館でも行こうよ、それとも森林浴とか? 泊まりで行って温泉でもいいな。夜なら星がきれいだし。綺麗な星でも見に行こうよ。
海渡は言葉を続けていく。でも私には引っかかることがあった。
「待って、久しぶりにって? 今会えてるじゃない? ここで会えてるのに、おかしなことを言うのね」
と、海渡が私を見た。
そして、海渡はにこりと笑ってみせた。
「だってここは夢だから」
「……夢?」
海渡に言われて思い出した。
確かにそうだ。駅があるこの街に、海なんてない。あるはずがない。なんで気がつかなかったんだろう。しかもここはよく知った駅の西口を出たところだ。道が広がっているはずだ。どう考えてもおかしい。本当に海があるなんてどうして本気で思っていたんだろう……今まで気がつかなかった。
「現実じゃないって思い出させちゃったみたいだね」
その顔は少し寂しそうだった。
そっと海渡の厚い手が自分の髪を撫でる。
「また連絡するよ、汐莉」
「うん。また会いたい」
──現実でも。
朝の白い光が差し込んできて、私は目が覚めた。
「……本当に夢だったのね」
起き上がると、ここのところずっと重かった体が軽い。
ピコンとスマホが鳴った。手を伸ばして確認すると、海渡からだった。
『休みが取れたんだけど、今日会えないかな?』
答えはもちろんイエスだ。
『いいよ。もし海渡がよければ、久しぶりに私の故郷の海に行きたい』
『もちろんいいよ。それなら夕方くらいに着くかもね』
口元が緩む。
私も、あの時間の続きを、あなたと一緒に過ごしたい。
完
お読みいただきありがとうございます(^-^)
反応いただけますと嬉しいです。




