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それでも僕らの夏は終わらない

作者: ふかみるる

春、桜が咲き誇る季節。新学期が始まったばかりのある日、田中夏生はいつものように静かな日常を送っていた。薄く明るい光が差し込む教室の窓からは、桜の花が風に揺れながら舞い落ちていくのが見える。教室内は、まだどこか浮ついた空気が漂っている。


「田中、相変わらずおとなしいな」


隣の席の藤井大地が、興味なさそうにぼそっと言う。大地は夏生の幼馴染で、明るくてお調子者。恋愛や友達関係に関してはやけに積極的で、夏生をよくからかう。


「うるさいな、別に…」


夏生は少し顔を赤らめ、教科書に目を落とした。内心では「また今日も一日が終わるのか」と思いながら、何気なく黒板に目を向ける。その瞬間、ふと感じる気配。


「田中君だよね?文芸部の。」


突然、隣の席から声がかかる。夏生は驚いて顔を上げると、そこにはクラスの人気者、佐藤葉月が立っていた。


葉月は、長い髪を軽く束ねていて、その笑顔は教室内の空気を一気に明るくしてしまう。周囲の男子や女子も、彼女の声に一斉に注目したが、夏生は何も返せず、ただ目を丸くしている。


「え、あ、うん…」


「やっぱりそうだよね!昨日、あなたの詩を見たんだけど、すごく面白かったよ。今度、もっと教えてくれない?」


葉月の目がキラリと輝く。その一瞬で、夏生は息を呑んだ。


「う、うん…」


彼女が自分の詩を気にかけていることを知り、夏生は驚きと同時に嬉しさが込み上げてきた。けれど、その嬉しさがどうしても恥ずかしさに変わって、うまく言葉が出なかった。


すぐに言葉が出ず、なんとか返事をしたものの、その声は自分でも聞いたことのないくらい震えていた。教室の中が一瞬静まり返ったように感じる。葉月の視線が夏生に留まるその瞬間、夏生の心臓が激しく鼓動を打ち始めた。


その後、静かな空気が戻ったが、夏生の耳は葉月の声だけが残ったかのように、頭の中で何度も繰り返される。心の中で、どうしてこんなに動揺しているのか分からなかった。今まで、そんな風に意識したことなどなかったのに…。


放課後、いつも通りの帰り道。夏生はどうしても葉月の言葉が頭から離れなかった。



「おい、何か変だぞお前。最近、ぼーっとしてるよな?」


大地が急に夏生の肩を叩いてきた。夏生はびっくりして振り返ると、大地がニヤニヤしながら言う。


「いや、そんなことないし…」


「嘘つけ。お前、さっき葉月と話してただろ?なんか緊張してる顔してたぞ。恋でもしてるのか?」


夏生は顔を赤くした。「違うよ、ただ…ちょっと驚いただけだよ」


「驚くって、どんな驚きだよ?」


「それは…」


どうしてこんなに心が騒ぐのか、自分でも分からなかった。でも、確かに葉月に話しかけられたとき、心の中で何かが大きく動いた。普段はまったく気にしなかったようなことが、突然、すごく大きな意味を持ち始めている気がした。


その夜、夏生は自分の部屋でベッドに横になり、窓の外を見上げながら考えた。桜の花が風に舞う音が微かに聞こえる。


「恋…なのかな」


夏生は自分にそう問いかける。彼は内向的な性格で、これまで恋愛に関してはほとんど考えたことがなかった。しかし、今は葉月の笑顔が、言葉が、何度も頭の中で浮かんでは消えている。それがただの偶然だとは思えなかった。


春が深まり、暖かい風が教室を包み込む頃、夏生の心には少しずつ変化が生まれていた。


葉月と出会ったあの日から、彼の目の前に現れる彼女の笑顔や仕草が、次第に気になるようになっていた。それは、最初は単なる「クラスの人気者」であり、周りの男子がどうしても意識してしまう存在だった彼女が、次第に自分の中で特別な存在に変わっていく様子だった。


ある日の放課後、夏生は文芸部の部室で詩を書いていた。ひとりでいる時間が好きだった夏生にとって、静かな空間は落ち着く場所であった。しかし、その日はいつもと少し違った。部室の扉が静かに開き、葉月が顔を覗かせた。


「田中君、今日も詩を書いてるの?」


葉月の声に、夏生は驚いて顔を上げた。普段、彼女が部室に来ることは少なかったが、この日は何か特別な理由があったように見えた。


「う、うん…まあ、少しだけ。」

夏生は恥ずかしそうに返答した。彼女の目が自分を見つめると、どうしても心臓が早く鳴ってしまう。


葉月は少し笑って、部室に足を踏み入れた。窓から差し込む柔らかな日差しが、彼女の髪をほんのりと金色に輝かせていた。その姿が、夏生の胸に何かを引っかけるように響いた。


夏生は顔を赤らめながら、言葉を続けた。「でも…君に読まれるなんて、ちょっと恥ずかしい。」


葉月はその様子を見て、くすりと笑った。少し照れたような、でもどこか優しい笑顔が、夏生の心をじわりと温かくした。


「そんなふうに言ってくれるなんて、かわいいね。」

葉月は少し茶化すように言ったが、その言葉にはどこか、本当に優しさが感じられた。


その瞬間、夏生は気づいた。葉月が、ただの人気者ではなく、どこか違う魅力を持っていることに。彼女の笑顔や、話し方、そして何気ない仕草が、すべて夏生の心に強く残るようになった。



数日後、夏生は放課後に部室で詩を書いていた。その時、葉月が部室に現れた。今回は、少しだけ表情が硬かった。



「田中君、今日も詩を書いてるの?」


夏生は顔を上げた。


「うん…まあ、少しだけ。」

夏生は言葉を絞り出すように答えた。葉月の表情が硬い理由が気になったが、何も言わずに彼女を見守っていた。


葉月は少し笑って部室に足を踏み入れ、ふと彼の机に目を向けた。


「実はね、私、田中君みたいに何かを真剣に表現できる人って、素敵だと思うの。私は…そういう人には惹かれるんだ。」


その言葉が、夏生の心に強く響いた。葉月が自分に異性として興味を持ってくれているのだろうか?と、彼は内心では驚きながらも、少しずつ彼女に惹かれていく自分に気づくのだった。



その後、夏生と葉月の関係は、少しずつ深まっていった。葉月が時折部室を訪れては、夏生の詩を褒めたり、時には一緒に本を読んだりするようになった。最初は、単なる好奇心からだったのかもしれない。でも、夏生はそれでも葉月と過ごす時間が心地よく感じていた。


夏生が部室で詩を書いていると、また葉月が来た。以前来た時よりも表情が硬く、何か重要なことを話そうとしているように感じた。


「田中君、ちょっと話してもいい?」


葉月の声がいつもと少し違っていた。


「うん、もちろん。どうしたの?」


葉月は少しだけ息をついて、ゆっくりと話し始めた。


「実は…私、病気なんだ。」


夏生はその言葉に思わず息を呑んだ。葉月が笑顔を崩さずに言うその言葉は、どこか嘘のように感じたが、葉月の目は真剣そのもので、夏生は一瞬、何も言えなかった。


「去年からずっと、体調が悪くて…お医者さんに言われたんだ。今年の夏までしか生きられないって。」

葉月は、少しだけ目を伏せた。その表情に隠された痛みが、夏生の胸に重くのしかかった。


その後、葉月は続けた。

「私、名前が『葉月』でしょ?木々の葉が落ちるころを表すのがまるで自分の寿命みたいだなって…。皮肉だよね。」


その一言に、夏生は言葉を失った。葉月は微笑みながら言ったが、その笑顔はどこか痛々しく、心に深い傷を感じさせた。葉月は自分の死を受け入れているようだった。彼女の心の中には、恐れや悲しみではなく、冷静で無情な覚悟があった。

「でも…葉月、君がそんなに辛い思いをしているなんて、全然知らなかった。」


葉月はゆっくりと夏生を見つめ、その瞳にはどこか、彼に頼りたいという気持ちが浮かんでいるように見えた。


「田中君にも言わないつもりだった。でも、あなたには伝えたくて…。だって、私、あなたに恋をしてしまったから。」

葉月の言葉は、夏生の胸を締めつけた。彼は自分が何もできない無力さを感じ、葉月を守ることができないことが、痛いほどわかった。


その瞬間、夏生は自分の気持ちを確信した。彼もまた、葉月に恋をしていた。叶わぬ恋だと知りつつも、彼は心の中で必死にその気持ちを抑えようとした。しかし、叶わぬ想いはさらに深く心にしみ込んでいくのだった。


8月の終わり、秋の足音が聞こえるころ、葉月の体調は悪化の一途をたどっていた。彼女はどこか遠くを見つめることが多くなり、以前のように明るく振る舞うことができなくなっていた。夏生は、彼女が少しでも穏やかな時間を過ごせるようにと、毎日一緒にいる時間を大切にしていた。


しばらくたって葉月が入院することになった。夏生は頻繁に彼女の病室に通っていた。


ある日、葉月が病室で静かに横たわっているとき、夏生は彼女の手をそっと握った。秋風が窓から入ってきて、冷たい空気が部屋の中を包み込んだが、夏生の心は熱く、手のひらが汗ばんでいた。


「葉月、今日は少し涼しくなったね。」

夏生は、何でもないように言葉を紡いだ。しかし、その声にはどこか、いつもよりも不安が隠れていることが葉月には分かっていた。


葉月はゆっくりと目を開け、夏生を見つめた。顔色は以前に比べて青白く、目に力がなくなっていたが、それでも彼女の微笑みは、夏生の心に深く突き刺さった。


「うん、涼しくなったね…もう秋も近いね。」

葉月は少しだけ力なく笑った。どこか、彼女の言葉は平然としていて、まるでそれを受け入れているかのように聞こえた。


夏生は、葉月がそれを言うことに、どうしても耐えられなかった。彼女の命が終わりに近づいていることを、理屈では分かっていても、心が追いついていなかった。心の中で、彼女と過ごしたすべての時間を思い返し、そのすべてが一瞬で消えてしまうのだという恐ろしさを感じていた。


「でも、葉月…俺、君と一緒にいたこと、すごく幸せだったよ。」

夏生は、手をぎゅっと握りしめながら続けた。「君と過ごした時間は、今までの人生で一番、大切だった。」


葉月は静かに目を閉じた。そこには、少しの間だけど、ほんのわずかな沈黙が広がった。夏生はその静寂を怖れるように感じ、息を呑んだ。


そして、葉月がゆっくりと目を開けて、夏生に言った。


「ありがとう、夏生…あなたと過ごした夏は、私にとって最高の贈り物だった。」

その言葉は、まるで風に乗って消え去るかのように柔らかく、そして、どこか覚悟を持ったように響いた。


葉月は静かに息を吸い込み、目を閉じた。すぐに彼女の顔に、これまで見せなかった少しの苦しみが浮かぶ。夏生は心の中で必死に「まだ、まだだ」と叫びたかったが、彼女の体は、限界に近づいていた。


「葉月…!」


夏生は涙をこらえきれず、声を上げた。けれど、葉月はその声を受け止めることなく、一筋の涙と笑顔を残し、静かに目を閉じた。


最後の瞬間、「ありがと」というように口が動いたように夏生には見えた。


夏生は涙を流しながら、葉月の手をぎゅっと握りしめた。彼女の温もりが、もう感じられないことが信じられなかった。でも、これだけは、、、聞こえなくても言わなきゃならない。


「ありがとう、葉月…」


秋が深まり、夏生は文芸部で新たな詩を書き始めていた。それは、葉月のことを忘れるためではなく、彼女に感謝するための詩だった。


そしてその詩の中に、こう綴った。


「それでも僕らの夏は終わらない」

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